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2017.07.04 Tue たった一粒の涙からはじまる革命、豊能障害者労働センター35年と河野秀忠さん

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 7月1日、豊能障害者労働センターの35周年パーティーに参加しました。
 豊能障害者労働センターの35年という長い時の間で、わたしは1987年から2003年までの16年間、活動を共にしました。110人をこえる参加者の方々の中には懐かしい顔が半分、知らない顔が半分と、わたしが在職した16年と、その活動から去った14年という年月につりあうようでした。

シュプレヒコールの波通り過ぎていく 変わらない夢を流れに求めて
時の流れを止めて変わらない夢を 見たがる者たちと戦うため

 と歌う中島みゆきの名曲「世情」の歌詞さながらに、豊能障害者労働センターは時の荒野を疾走してきました。
 社会を形成・支配する権力のみならず、それに抵抗する人権運動や平和運動にもぬぐいがたく隠れている「時の流れを止めて変わらない夢を見たがる」巨大な力にあらがい、アナーキーな純情という変わらない夢を(時代の)流れに求めて35年。
 世界に一つしかないかけがえのない個性を尊敬し、助け合い、補い合い、どこまでも自由に悪戦苦闘しつづける豊能障害者労働センターはこれからも箕面のみならず、日本社会、さらには世界の声なき叫びが流す無数の涙をきらめく星座に滲ませ、輝き続けることでしょう。

 わたしが豊能障害者労働センターに足を踏み入れたのは、1982年の春でした。箕面市桜井の路地裏の突き当り、その頃で築20年の民家に入ると、現代表の小泉祥一さんと、かつて箕面の共に学ぶ教育運動の先頭にいた梶敏之さんという脳性麻痺者2人と、今は箕面市障害者の生活と労働推進協議会の理事長・武藤芳和さん、被災障害者支援ゆめ風基金事務局長・八幡隆司さんと、あとひとり女性スタッフの5人が粉せっけんを詰めていました。
 35歳のその時まで世の中の理不尽な出来事に憤り、いろいろな市民運動に参加しようと思っても、子どもの頃からの対人恐怖症で吃音のわたしはひとと話すことが苦手で打ち解けられませんでした。
 もうひとつ正直に言えばどんな小さな組織にも権力が存在し、その権力に依存することで運動が成り立っている姿を目の当たりにすることが多く、なじめないでいたのでした。
 そんなわたしがもぐもぐと自分の名前もろくに言えないでいると、小泉さんがブレイクダンスのように体を捻じ曲げ、足を挙げながら、「どっ…、どうも」と小泉語で話しかけてくれました。その瞬間、どもりで苦しみ続けた35年間の桎梏から解き放たれた思いでした。
 たったひとつの言葉が言えないためにたくさんの言葉を乱発し、言葉に翻弄されてきたわたしはこの時、言葉は口からだけ発せられるものではなく、伝えたいと思う気持ちと分かり合いたいと願う純情な心と身体によって生まれるものなのだと教えてもらいました。
 ちなみに小泉語は今も健在で、今回のパーティーでも絶妙なタイミングで間を入れる挨拶を聴きながら、「ああ、この人もまたコミュニケーションの達人だった」とあらためて感じました。
 静かでゆっくりした時間が流れていたあの頃から豊能障害者労働センターは大きく進化しました。事業の広がりもスタッフの人数もさることながら、一般企業への就労を拒まれる障害者の所得を保障するためにみんなで給料を分け合う活動を箕面市独自の障害者雇用施策にまで普遍化し、制度の成果を箕面市が国に提案するまでに育て上げた実績は高く評価されるべきだと思います。
 設立当初は年間120万円の運営資金をつくるために毎日曜日、大阪梅田でのカンパ活動で補てんしていたものが、今では地域事業と通信販売で年間1億円を売り上げるまでなっています。
 そして労働センターのすばらしいところは、これだけの進化を遂げても設立当初の理念が消えてしまうどころか、運営のありようが全く変わらない所にあります。

1.障がいのあるひともないひとも共に働き、得た収益をみんなで分け合うこと。
2.すべてのスタッフは対等で、利用者と職員というように分けないこと。
3.障がいのあるないにかかわらず、誰かの問題をそのひと抜きで決めないこと。
4.月に一度の運営会議で活動方針を決め、会議には障害者を含む全員が参加できること。

 豊能障害者労働センターの根幹をなすこれらの約束は、センターの設立以前に全国の障害者解放運動の一端を担い、けん引してきた前代表の河野秀忠さんなくしてはできませんでした。
 河野さんはさまざまな人権・平和運動や労働組合運動をしてきた経験から、豊能障害者労働センターをほんとうに民主的な運営形態にしようと夢見たのだと思います。建前と本音を使い分けず、得たお金はみんなで分けるという「財布はひとつ」も、利用者と職員という分け方をしないことも、会議には全員が参加でき、全員でセンターを担うという考えも長い間理想と言われながらも、豊能障害者労働センターの障害者スタッフがけん引する形で河野さんの夢を実現させたのでした。
 昔話だけれど、はじめてワープロを手に入れた時、小泉さんが担当したレジメの表題が「出城」となっていて、「これなーに」と聞くと「レジメ」の入力間違いとわかり大笑いしたのが昨日のようです。
 こんな笑い話をつづけながら、豊能障害者労働センターの障害者スタッフは自分の仕事を開拓し、獲得していきました。今ではお店の切り盛りから機関紙「積木」の印刷・発送まで障害者スタッフが担い、河野さんが夢見た新しい組織運営のありようが現実のものになっています。
 あの頃、月末になると河野秀忠さんがやってきて運営会議が始まるのですが、総勢6人に運営委員2、3人が参加し、障害者スタッフの生活状況から粉せっけんの販売状況、そしていつも真っ赤っ赤の会計報告と半月遅れの給料遅配など、傍から見れば楽しくないはずのこの会議が当時のわたしたちの楽しみのひとつでした。
 というのも、箕面の町からほとんど出たこともなく、月に一度やって来る河野さんが全国の障害者運動の話や、1970年代から始まる障害者解放運動の歴史、そして時には60年安保、70年安保闘争、労働組合運動からマルクス、レーニン、トロツキーのことを、まるで新作落語のような語り口で物語ってくれるのを楽しみにしていたのでした。運営委員を名乗って押しかけてたわたしは、ドイツの革命家・ローザ・ルクセンブルクを河野さんから教えてもらいました。
 どんどん仲間の団体が福祉法人やNPO法人になり、資金繰りや設備投資資金の調達が楽になっていく中でも、「豊能障害者労働センターは何者でもない集団でありたい」と話した河野さんの夢の中では、労働センターは「たった一粒の涙からはじまる革命」でした。ちょうど戦艦ポチョムキンの「たった一杯のスープ」のように…。

 その河野秀忠さんが今、病と闘っています。河野さんを友人とも恩人とも思うたくさんのひとびとの中に豊能障害者労働センターもわたしもいます。また箕面市人権宣言の採択をはじめ、河野さんは箕面市の人権・福祉施策に少なからず役割を果たしたといっても過言ではないでしょう。
 わたしたちの元に帰って来れる日はまだまだ遠いかもしれませんが、必ずや帰って来てくれるものと信じ、願っています。その時が来たら久しぶり酒を飲みかわしながら、ゲバラの話などを聞かせてください。

もし私たちが空想家のようだといわれるならば、
救いがたい理想主義者だといわれるならば、
できもしないことを考えているといわれるならば、
何千回でも答えよう。
「その通りだ」と。(チェ・ゲバラ)

中島みゆき「世情」
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2016.12.26 Mon カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」・最後のご案内

2017年カレンダー3月4月

心よ、心 ここから
いちばん遠いところ
心よ、心 世界で
いちばん小さなわたしの森
心よ、心、 世界で
いちばん小さなわたしの海
心よ、心 たとえば
あなたと手をつなぐこと
心よ、心 たとえば
あなたに手紙を書くこと

今年最後のご案内です。

2017年、あなたの出会いの記念日に
お届けします!時の花束
障害者市民事業ネットワークカレンダー series11
やさしいちきゅうものがたり
illustration(c)松井しのぶ
●カラー6枚つづり●たて62cm×よこ30cm
1,000円 全国一律送料無料
お申し込みは 豊能障害者労働センター
tel:072-724-0324 fax:072-724-2395
通信販売サイト・積木屋 http://www.tumiki.com
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2016.11.30 Wed 松井しのぶさんとシュールレアリスムとわたしの青春 採録

2017年カレンダー9月10月
2017年カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」9月10月イラスト (C)松井しのぶ

だれもが心の底に
なつかしい風景をかくしている
そこでは行方不明の夢たちが
かがやく朝を待っている

 たとえば若い頃のヒットナンバーがラジオから流れたとたん、何十年も前の出来事や住んでいた街の風景を一瞬に思い出すことがあります。その風景の些細な部分がくっきりとよみがえるのです。そんな経験はだれもがもっていることでしょう。
 友だちや好きだったひととお茶を飲んだ喫茶店の壁の色からテーブルの形、コーヒーの香りとカップの手ざわり…。そして、若いわたしはテーブルの前に座っているだれかとコーヒーを飲んでいます。何十年も前からずっとそうしていたかのように。
 松井しのぶさんのイラストをはじめて見たとき、わたしはそんな驚きとなつかしさで心がいっぱいになりましました。
 わたしは高校の時、美術部に入っていました。といっても毎年4月の2週間ほど石膏デッサンをするだけで、3年間に一枚も絵を描かなかった部員でした。小学校、中学校とまわりから絵が上手といわれていい気になり、美術部に入っただけでした。
 大阪市内の工業高校に入学したわたしは、学校に行くのがずっと苦痛でした。1年の時はまだ専門課程の建築を勉強しましたがすぐにいやになりました。いつも反抗的でありながらおどおどしていて、教師にも同級生にもけっして心を開きませんでした。
 といっても、なにも学校や同級生に問題があったのではありません。ただ単にわたしが吃りで対人恐怖症だっただけでした。他人からみればなんでもないことかも知れないのですが、背丈をこえる巨大な劣等感におしつぶされるのを必死にこらえていました。
 美術部に入ったおかげで、そんなわたしにも友だちができました。当時流行したこまどり姉妹の不幸な身の上話の歌ではありませんが、「どもりで私生児で貧乏」とくればこれ以上の不幸は誰にも負けないと思っていたのですが、わたしのともだちはそれ以上の事情をかかえていて、そのことがわたしたちの結束力を高めることになりました。
 「死のう会をつくれへんか」と声をかけてきたのは、機械科の先輩でした。わたしが「詩の会だったらいいよ」というと、どちらでもいいということになりましました。実存主義にかぶれたわたしたちはよくわかりもしないのに哲学の話をよくしました。
 それからすぐ、ふたりの生徒が死にました。ひとりはその機械科の先輩の同級生で、優等生の彼は一流企業への就職が決まってすぐのことでした。もうひとりは、わたしの同級生で、たしか喘息の発作で死んだのだと思います。彼が死ぬ1週間ほど前に「ぼく、公園で男と女が抱き合ってるのを見てしまった」と言ったのを今でもおぼえています。卒業写真の丸枠に入ってしまった彼の影の薄い顔写真を見ながら、わたしは「あいつはそれを見たから死んだんや」と、今から思えばとても残酷な納得をしました。
 そんな暗くてあぶない高校時代に、わたしをわくわくさせたものが「シュールレアリスム」でした。キリコ、デルボー、タンギー、マグリット、ブルトン、エリュアール……。
 正直言えばそれらに感動する感性を持ち合わせていなかったし、いまもよくわからないのですが、それらが放つ魔力にとりこになってしまったのでした。
 わたしはそれ以後、美術、演劇、映画、詩、音楽など、いろいろな表現行為や作品に興味を持つようになりましました。何十年もたって豊能障害者労働センター在職時にライブやイベントをプロデュースしたり、カレンダー、ポストカード、Tシャツなどの制作を手がけたのもそこから始まったのだと思います。
 松井しのぶさんのイラストは、「シュールレアリスム」と出会ったその時代にひきもどしてくれました。彼女のイラストにはどこかほの暗く、やさしい透明な光があって、そこでは過去と未来が、記憶と夢が溶け合っています。そして、だきしめたくなるノスタルジーの中に、未来への強い意志、願い、祈り、希望がかくれています。
 真っ青な空、限りない緑、暖かい赤……、小さな一枚の絵の隅から隅まで、この世界の、空の、海の、森のすべてのいのちへのいとおしさに満ちあふれています。
 わたしの心もからだも青かった1963年から1970年までの7年間、正義と裏切りと野心と希望に溢れた時代の中で、わたしは自分に腹を立てながらどうしようもない時を生きていました。すべてを「どもり」のせいにして、狭い心の地下室に閉じこもっていました。それでもいまふりかえると、その7年間がまちがいなく今のわたしをつくったのだと思うのです。それ以後今までめざましいことをなにひとつして来なかったし、先行きとても不安な人生であることはまちがいありません。
 けれどもその7年間がなければ、そのころには思いもつかなかった障害者をはじめとする多くの友だちとは出会うことはなかったでしょう。いまわたしが生きてきたすべてのことがら、すべての感じ方、すべての行動、「わたしのものがたり」はその7年間に、まだ記述されない未来としてかくされていたのだと思います。
 わたしはいま、その7年間の自分自身を抱きしめたい。「ありがとう。だいじょうぶだよ」と…。

2017年カレンダー11月12月
2017年カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」11月12月イラスト (C)松井しのぶ


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2016.11.28 Mon 宮島・厳島神社と初めての広島平和公園

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 11月26日は久しぶりの妻との慰安旅行で、広島に行きました。昨日は妻のリクエストで京都へ行き、伊藤若冲の展覧会に行きました。お目当は大きな屏風絵で、鳥の屏風と並んで、象まで描かれた色々な動物の屏風でした。この絵は細かい格子状の目盛りに合わせて絵の具をおいていくように描かれていて、タイル絵の様で銭湯の書き割りみたいでした。
 その他おびただしい数の掛け軸に主にニワトリが描かれた作品が展示されていました。暮らしの中にある様々な動物や風景を時には写実的に、ときにはひょうきんなポップアートふうに自由自在に描かれていました。江戸時代中期から後期の京都に居て、政治的な束縛から解放され、強烈な自由にあふれていました。
 ただ、残念だったのは超満員で、しかたないのですが係りのひとに立ち止まらないでくださいといわれました。美術展に行って「立ち止まらないでください」と言われたのはフェルメール展以来でした。

 26日は朝早く家を出て、新大阪から広島へ、広島から宮島まで直行しました。天気予報で雨模様となっていたからです。ところがほぼ終日なんとか天気がもち、宮島を堪能しました。実はわたしの母は香川の人でしたが、子供のころに広島に年季奉公に行き、数少ない休みに厳島神社に行った思い出を話していて、一度行こうとおもっていたのです。実際のところ、寺社仏閣は時の権力者の野望の残骸に思えて、わかいころは好きではなかったのですが、歳を重ねると反対に彼らのかなわなかった最後のゆめの儚さに思いを巡らすようになり、好んで見るようになりました。
 厳島神社は平清盛が肩入れして夢破れた後も、毛利元就や豊臣秀吉ら権力者の果てしない権力欲の表現の場とされて来ました。いく時代かが過ぎ、彼らが目もくれなかった私たち雑民がゾロゾロと押し寄せる様子をみて何を思うのかなと考えると、權力の虚しさとともに、少しはこんなふうに彼らも民に喜ばれることもあるのかなと思いました。
宮島で一日を過ごし、近くのビジネスホテルに泊まりました。

 翌日の27日は一日雨が降るなか広島平和公園に行きました。実はわたしは一度も平和公園に行ったことがなく、今回の広島旅行となったのでした。原爆ドームは大きな建物で、360度どの角度からでも見ることができ、違った表情で原爆の破壊力のすごさを今に残しています。
 1945年の8月6日の朝に人類が犯してしまった最大最悪の過ちが20万人のいのちを奪い、今も生き残った人々の心とからだを痛めつけ、この街を破壊し尽くした記録と記憶をこのドームが深い沈黙と共に静かに叫び、泣いているように感じました。原爆ドームを歴史の証言として残してくれたことに感謝しつつ、なぜ大阪市は大阪大空襲の証言として大阪砲兵工廠を残さなかったのだろうと思いました。
 誰のものかわからない7万人の骨を拾い集めた慰霊碑と、犠牲者の1割にも上る韓国・朝鮮人の犠牲者を慰霊する韓国人原爆犠牲者慰霊碑慰霊碑に手を合わせ、記念館に入りました。
 記念館は超満員で、子どもの衣類などひとつひとつの遺品を丁寧に見ることができませんでしたが、それらの遺品もまた何十年もあの朝に理不尽に奪われたいのちたちの無念を語っているようでした。
 5月にオバマさんが訪れ、慰霊碑に花をたむけ、演説したことは記憶に新しいですが、わたしはいろいろな批判があることを承知で彼の演説は素晴らしいものだと今でも思っています。しかしながらアメリカ大統領として核のボタンを持ち、いつでもそのボタンを押す用意をしながら核廃絶の演説をしなければならないことが、失望と共に世界が深い暗闇に中にあることを証明しています。
 そして被爆国でありながら核兵器禁止条約の決議に反対する日本にも絶望と怒りを禁じえません。
 毎日世界中から平和記念公園と記念館をたくさんの人々が訪れ、二度と戦争をしないと誓う心こそが、遠い道のりであっても武器を持たずに共に生きる勇気をたがやし、平和をつくる一歩であることを、世界の国々の政治家は心に深く受け止めるべきだと思います。

 まだ大阪に帰るには時間がありましたので、広島名物のお好み焼きを食べた後、広島県立美術館で開かれている「エッシャー展」に行きました。行く前はそれほど乗り気でなかった妻は足が痛くて歩きにくいにも関わらず会場を歩き回り、いままでそれほど知らなかったエッシャーの作品に触れて感動していました。
 エッシャーといえば「だまし絵の巨匠」と称されますが、初期の作品から年代順に見て回ると、だまし絵と称される作品は奇をてらったものでは全くなく、彼の追い求めた世界の帰結であったことがよくわかりました。主に木版画とリトグラフで制作された作品は彼が好んだ風景が細かく緻密に描かれているのですが、先人の画家たちが風景や動物を二次元のキャンバスに正確に写すことで空間や立体を再現するのに対して、エッシャーは細微に当たって正確に描けば描くほど「本物の風景から逸脱した風景」になっていくのでした。
 彼の関心は平面の中に立体そのもののイリュージョンをつくりだしたり、平面上の動物や人物のパターンをびっしりと描き、視点を変えると別の絵になってしまったり、紙からはい出したトカゲが書物や小さなバケツの上を通り、また紙に帰っていく作品、下から水が流れたり、上っている階段のはずがいつのまにか降りていたり、世間でだまし絵と言われる作品になっていきます。
マグリットなどにも似ていると思いましたが、エッシャーの場合はとても勤勉な職人で、その世界観は冒険的でありながら生真面目に版画をつくり続けた人だと思います。
 中には画面全体を小さな碁盤の目を張り巡らしてからその中に形を載せていく手法や動物を細密に描く作品など、京都で見た伊藤若冲と共通した画業を全うした人だと思います。かたや水墨で、かたや木版で、どちらも白黒グレーで制作されているところも共通していました。

2日間の旅を終えて、無事に帰ってきましたが、今回は大きな言い合いもなく楽しい旅になりました。妻は最近歩くことがかなり難しくなっていて、医者は「加齢のせい」としか言わず痛み止めをくれるだけで根本的な解決にはならず、整体などお金がかかる治療もできずに放置していましたが、今回の旅行でいよいよ歩きづらくなったので自分でなんとか解決しようと言っています。わたしも最近またお腹が出てしまい体重も増えているので、お互いに自力で身体をメンテナンスしなければと感じた旅でもありました。

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有名な大鳥居で一枚。写真を写した時は引き潮でしたが、夕方には満ち潮で下の方がすっぽりと水に埋まりました。
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韓国人原爆犠牲者慰霊碑。長い間さまよっていた2万人のたましいを慰霊するため、1970年につくられました。
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平和記念資料館を含め、平和公園は丹下健三グループによって設計されました。
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エッシャー展は12月25日まで開かれています。

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2016.11.18 Fri 優しい夢と手をつなぐ  松井しのぶ カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」

 カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」のイラストレーター・松井しのぶさんが、カレンダーを制作している豊能障害者労働センター機関紙「積木」に寄稿された一文を転載します。
 松井さんのイラストの裏側には青みがかった薄闇が隠れていて、それはちょうど夜がまだ気配を消さないまま、朝の光が忍び寄る寝室の窓ガラスのようです。
 とりわけ今年は、今までは絵画的だったイラストがまるで一本の映画のようです。こんなことを書くと松井さんに叱られるかも知れませんが、お父さんが同居されるようになり、日常の暮らしの中で時々起きる事件が「採用されなかった映画のエピソード」として貯金され、意味もなくささやかではありますが豊かな物語となって彼女の指先からあふれ出ているようなのです。沢木耕太郎のエッセイ集のタイトルではありませんが、世界は「使われなかった人生」であふれているのですね。


優しい夢と手をつなぐ     松井しのぶ

 小さな身の回りで起きている些細なことから世界のことまで、世の中の空気が自分の肌までピリピリとさしてくるような、そんな様々な辛いニュースばかりついつい目がいってしまう……今日この頃。先日たまたま「グレースオブモナコ」という映画をテレビで見る機会があり何気なく見るとはなしに見ていたのですが、その映画のクライマックスでモナコ王国がフランスに封鎖されて侵略の危機にあり、もう打つ手も無くなったという国の存亡がかかった場面でグレース王妃が各国の代表を招いた赤十字の晩餐会でスピーチをするという場面で、それまでただなんとなく見ていただけだったのに、そのスピーチの内容にすごく引き込まれてしまいました。今日はその言葉を機関紙を読んでいる方々にもシェアしたくて、長いスピーチなのでその中の言葉から私が選んだ言葉を抜粋したのですが紹介しますね。
※  ※  ※
子供じみていますが
私はおとぎ話を信じます
心から望めば実現するはずです
どんな努力も惜しまない覚悟があれば
世界は変えられると信じています
憎悪や衝突も消えるに違いありません
代償を払う覚悟があれば
私にとってモナコはそういう国です
私は軍隊を持っていません
誰の不幸も望みません

自分のできる範囲で
少しでも世界を変えるために
私はここにいます
でも破壊する人がいれば
現実もおとぎ話も終わりです
気に入らないから破壊する人々がいます
当然の権利とばかりに
幸福や美を破壊する権利は
誰にもありません
それは許されない事だと教わりました
そんな世の中には住みたくありません
愛があれば
解決できるはずです
なぜなら愛の力を
信じているからです
愛の力があれば
武器や攻略や恐怖や差別はなくなり
世の中が正しい道に導かれます
だから今夜は愛を賛美したいのです
私は愛を守り抜きます
皆さんも各自の方法で
努力してください自分の社会の中で
※  ※  ※
 世間をよく知っているという人たちは「愛があれば解決できる」なんて、甘いおとぎ話の演説と一笑されるかもしれません。このスピーチはグレース王妃が実際に語った言葉ではなく全くのフィクションなのだそうです。ただこの映画の監督がこの言葉を入れたかった気持ち、今の世界にどんな気持ちが必要なのか、こんなおとぎ話のような言葉をあざ笑うような人がこの世の中に確実に増えている危機感からのような気が私はするのです。
 そして私もそのおとぎ話の住人です。

 ピックとニックと旅をしながら、優しい世界に出会うために、そのおとぎ話の物語を紡いでいます。同じ気持ちの誰かと出会うために、違う気持ちの誰かと手をつなぐために、そして愛で語り合うために…ピックとニックがあなたの心の中で新しい優しい物語を紡いでくれることを祈りながら…。

 そして思うのです、一人一人がそんな気持ちで生きて行ける世の中、そういうものを心の中に育てることができる世の中はどこからか勝手にやってくるものではありません。一人一人が、自分自身が、本気でそう思って、諦めている自分を変え、そして世界を変えてゆくしかないと感じています。マイケルジャクソンが歌っている「マンオブザミラー」の歌詞ように…(世界を変えたければ、まずは鏡の中の自分を変えようという歌詞です)だからこそたくさんの人にど〜〜〜んとハートの爆弾を落としたい、殺伐とした武器ではなく世界中を暖かい愛の心でいっぱいにしたい。そんな思いを込めて2017年もカレンダーを描きました。
 明日のあなたの心にしっかりとした強い思いの愛がキラキラと輝いていますようにと♡
 そして手を取り合って未来に歩いて行けるようにと…。

*ピックとニックはカレンダーのイラストに登場するキャラクターです。

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