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2018.11.04 Sun 若松孝二もまた映画で革命を夢見たひと 映画「止められるか、俺たちを」

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 少し前になりましたが、10月24日、十三の第七芸術劇場で、映画「止められるか、俺たちを」を観ました。
 井上淳一脚本・白石和彌監督作品「止められるか、俺たちを」は、2012年に逝去した若松孝二監督が代表を務めていた若松プロダクションが、若松監督の死から6年ぶりに再始動して製作した映画です。
 1969年から71年を時代背景に、若松プロダクションの門を叩き、助監督として奔走した吉積めぐみの目を通して、若松孝二ら映画人たちの生き様を描き、激動の時代の一瞬のきらめきを現代に定着させたこの映画は、若松孝二と若松プロに縁の深い役者とスタッフたちの若松孝二への熱い思いと、映画への情熱にあふれた青春映画です。

 1969年春。21歳の吉積めぐみ(門脇麦)は、新宿のフーテン仲間のオバケ(タモト清嵐)に誘われ、若松プロダクションの扉を叩く。当時、若者たちを熱狂させるピンク映画を作り出していた若松プロダクションは、監督の若松孝二(井浦新)を中心とした新進気鋭の異才たちの巣窟であった。
 小難しい理屈を並べ立てる映画監督の足立正生(山本浩司)、冗談ばかり言いながらも全てをそつなくこなす助監督のガイラ(毎熊克哉)、飄々とした助監督で脚本家の沖島勲(岡部尚)、カメラマン志望の高間賢治(伊島空)、インテリ評論家気取りの助監督・荒井晴彦(藤原季節)など映画に魅せられた何者かの卵たちが次々と集まってきた。撮影がある時もない時も事務所に集い、タバコを吸い、酒を飲み、ネタを探し、レコードを万引きし、街で女優をスカウトする。そして撮影がはじまれば、助監督は現場で走り、怒鳴られ、時には役者もやる。その中で、めぐみは若松孝二という存在、なによりも映画作りそのものに魅了されていくのだった …。

 わたしの青春と重なる1969年の時代のにおいは、この映画の登場人物の誰彼となく吸い続けるたばこの煙そのものだったのかもしれません。何者かになれると信じて何者にもなれない自分にいら立ち、もがいた青い季節に、わたしは「世の中を変える」若者にはなれなくて、「世の中から永遠に逃走し続ける」ことを夢想していました。
 あの時代、今日よりも明日がよくなるという幸福幻想に惑わされ、押しつぶされそうになりながらも、その幸福幻想が押し付ける輝かしい未来になじめなかったわたしでしたが、国家の暴力にあらがう同年代の若者たちともまた、共にたたかうことができませんでした。
 それはひとえにわたしがどもりの対人恐怖症で、多くのひとの前で声を出すことが困難であること以上に、わたしが保守的で臆病で、「世の中を変える」と息巻いてみても結局は国家や社会の体制に異議申し立てをすることが怖かったからにすぎません。
 高校卒業後に就職した小さな建築事務所を半年でやめたわたしはビルの清掃で生活費を稼ぎ、透明人間のように他者や世の中に見つからないようにひっそりと暮らし、ただただ年老いることを願っていました。国家が期待する若者像とも国家に抗う若者像ともかけ離れ、覇気というものがまったく感じられない不健康な若者だったわたしは、いつ暴発するかわからない危険な若者でもあったのかも知れません。
 そんなわたしにも、東大安田講堂に機動隊が突入し、バリケードが解除され、立てこもっていた600人の学生が逮捕されたこと。連続射殺犯・永山則夫が逮捕されたこと。南ベトナム共和国臨時革命政府が樹立されたこと。大菩薩峠で赤軍派53人が逮捕されたこと。佐藤訪米と、それを阻止しようと武装闘争に出た新左翼各派と機動隊が激突、2500人を越える逮捕者が出たことなど、国内外の大きな出来事が押し寄せてきて、そのたびにわたしは白昼の路上で裸にされた自分の存在を知られる脅迫観に襲われました。どこにも逃げ場などない事もまた、初めからわかっていることでした。
 悶々とした日々の中で、当時のわたしはピンク映画にのめりこんでいきました。というほどたくさん観たのか今は覚えていませんが、けばけばしいポスターに劣情を掻き立てられ、知り合いなどいるはずもないのに誰かに見つからないよう、とにかく早く切符売り場を通り過ぎ、小便のにおいが鼻をつく廊下を通りぬけ、素早く会場の暗闇に溶け込むように座席に座ったものでした。
 観始めたころはまだ大蔵映画などのパートカラーはあるものの、白黒映画が中心だったように思います。その当時にすでに若松孝二の映画として観ていたひともたくさんいたでしょうが、わたしの場合はまだその認識はなく、自分の欲望を駆り立てる映画なら何でもよかったのですが、何本か見続ける中に、単に性的な欲望を満足させてくれるものではない、どちらかというとこんな映画がなぜピンク映画館でやってるのか疑問に思う映画が混じっていて、そのうちにクレジットで若松孝二と足立正夫という名前を覚えるようになりました。

 今回の映画で、若松プロをやめるオバケ(若松プロのレジェンドのひとり・秋山道男)とめぐみとの会話で…、
オバケ「『ゆけゆけ二度目の処女』ってさ、傑作だよね」
めぐみ「うん」
オバケ「もうあんな映画作れないかも知れない。でも、ピンク映画館はガラガラ」
めぐみ「でも蠍座じゃ長い間若松孝二特集やってて、男子学生だけじゃなくて若い女の子もいっぱい来てる」
オバケ「が、エロ目当てのオジサンたちには届かない」
めぐみ「それは仕方がないんじゃないのかな」
オバケ「イケてる映画ってさ、生身の人間とか政治とか世界に興味のない、エロしか興味のない人たちが観たって、
心が動いてしまうものなんじゃないのかな?」

 この頃のピンク映画は製作費300万円、撮影3日で量産でき、性的描写を入れればあとは何でもできるということで、若松孝二たちはその中で野心的な映画を作りつづけたのですが、エロだけの映画でお金をつくりだすことと、若松プロに集まる若い映画人たちが自分らしい映画をつくることとの間の切ないせめぎあいが、映画を作り続けるエネルギーになっていったのでしょう。
 わたしといえば、まさしく彼女彼たちがいう「エロ目当ての20歳前後のオジサン」だったのですが、大きく心を動かされました。1965年の「壁の中の秘め事」で若松孝二という無頼の映画人の存在を知ってもなお、ピンク映画館に若松孝二の映画を観に行くのではなく、エロ映画にしてはおかしな映画だと思ったら若松孝二の映画だったのでした。
 わたしがなぜ若松孝二と若松プロの映画にひかれていったのか、思い返してみると映画の登場人物たちが自分そのものだったからなのです。ピンク映画全体にセックスによる愛の表現とは程遠く、若松孝二の映画もまた女を一歩的に傷つける男たちというピンク映画のセオリーを守りながらも、傷つける男たちもまた孤独で「何者にもなれない」絶望の中にいて、その絶望からまた女を傷つけるという物語や、反対に女たちによる過激な反撃が男たちとその後ろにある国家へと向かったりします。
 国家と対置し、権力や体制に対する怒りを次々と映画に込めたピンク映画時代の若松プロは、「映画の中でなら何でもできる」と、ゲバ棒や火炎瓶や銃の代わりに映画を武器に70年安保闘争をたたかった若者の集団でした。
 「止められるか、俺たちを」は今の時代にドキュメンタリーでもなくフィクションでない「ほんとうの映画」として、映画でなければならなかった映画として、その切羽詰まった情熱とそれがゆえに哀しい真実を掘り起こし定着させたのでした。
 「政治的な革命というのは部分的な革命に過ぎない」、「演劇集団・天井桟敷の主目的は、政治を通さない日常の現実原則の革命である」と言ったのは寺山修司ですが、若松孝二もまた映画で革命を夢見たひとで、この映画は1969年から71年までの若松プロのやけどしそうなヒリヒリとした疾走が長い時の地下道をくぐりぬけて今、街の路石を一斉に吹き上げさせ、映画が終わった後のスクリーンからあふれ出てわたしをとらえて離さない、とても危険な(素晴らしい)映画でした。

「止められるか、俺たちを」予告編
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2018.08.21 Tue 「平和は夢に過ぎないのではありません。平和は骨の折れる努力なのです。」 映画「コスタリカの奇跡」

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 8月19日の「コスタリカの奇跡」上映会は2回上映で合計80人の方々のご参加を得ました。直近になって毎日新聞と朝日新聞で紹介していただいたこともあり、問い合わせの電話も数件ありましたので少し手ごたえはありましたが、なにぶん交通の便がよくないので心配しました。
 しかしながら今回は約半数が能勢の住民で、また隣町の豊能町からも10人ほど来ていただき、その他池田、箕面、尼崎、猪名川町、川西、大阪市など近隣の町からも、また遠くは京田辺市、芦屋市、河内長野市からもご参加いただきました。ありがとうございました。
 1948年に軍隊を解体したコスタリカの70年という年月の間、ニカラグアとの国境紛争や内乱など、危機は一度や二度ではなく、時の政権が常備軍を持つことを選ぼうとした時もありました。そのたびにコスタリカの人々はそれを否定し、政府もまた国連などの国際機関を通じて、さらにはその加盟国に直接働きかけ、武力ではなく話し合い外交によって危機を乗り越えてきたことを、そして不要になった軍事費を社会福祉や教育に注ぎ、多くの人々が豊かさを実感できる社会をつくってきたことを映画は丁寧に描いています。

 わたしたちの国もまた、「二度と戦争はしない」という切ない誓いを憲法9条で宣言した数少ない国の一つですが、戦後すぐから始まった冷戦のさ中、1950年の朝鮮戦争勃発により、アメリカはアジア地域の共産化をおそれ、日本に警察予備隊をつくらせました。後に1952年に保安隊、そして1954年に自衛隊に改組されます。
 この頃からでした。いつの間にか国(自分たち)を守る軍隊を持つことに賛成するひとびとが増えてきました。子どもだったわたしは、戦前戦中と日本軍が大陸を侵略することから悲劇がはじまったことを知りませんでしたが、学校で学ぶ民主主義や平和主義とは真逆の、アメリカの武力の傘に入り自らも武力を持つことでしか平和は保てないと教えられたのでした。「話し合いで紛争を解決するべき」とか、「憲法にも武力を持たないと書いてあるやんか」と口答えをすると、きまって「そんな甘い考えは学校だけにしとけ」とか、「お前ら戦争を知らんからそんな理想をいうんや」と、「殴られたら殴り返す。目には目を」とする武力を持つことが現実的で、憲法の平和主義と武力のダブルスタンダードが本音と建て前となっていきました。
 「軍隊がなくて、どこかの国が攻めてきたときどうするの?」という問いに対して、実はコスタリカでは国家の非常事態の際には国会議員の3分の2の賛成投票により、徴兵制実施及び軍隊の編成権限が大統領に与えられています。また、警察の武力を軍事力とみなし、コスタリカは非武装国家ではないという意見もあります。
 しかしながら、いざという時に軍事力を持つことを憲法に定めながら実際には軍事力を持たず、国際法に基づく外交努力によって紛争を解決するというのがコスタリカの国家戦略なのです。それは憲法で軍事力を持たないことを明記しながら、実際には自衛のための軍事力を強化し、いまや集団的自衛権のもとで「戦争ができる国」となった日本と対照的です。
 同じ時代にそれぞれの理由で軍隊のない国をかかげ、70年の時を歩んできたコスタリカが日本と真逆の歴史をつくりえたのはなぜなのでしょう。この映画はそのことを丁寧に描いたドキュメンタリーで、軍隊を持たないと国を守れないとアメリカの傘に入り、中国や北朝鮮と軍事的に対峙する東アジアの軍拡競争の端っこで、軍事予算を増やしてはアメリカの武器を買い求めるわたしたちの社会を見直すきっかけを用意してくれる貴重な映画だと思います。
 映画を観終わってあらためて強く感じることは、わたしたちの国では軍隊を持たないで国を守るなんて言うのは甘い夢想やユートピアとされてしまうのですが、コスタリカでは隣国ニカラグワとの国境紛争をはじめ何度か再軍備を検討されながらも非武装を選び、国際法と外交によって紛争を収める不断の努力によって平和を希求する極めて現実的な政策だということです。
 そして今、コスタリカもまた大きな危機を迎えていることもこの映画は伝えています。グローバリゼーションの嵐の中で社会保障の充実だけでは追いつかない格差の問題はわたしたちの国が直面しているもので、それはまた世界が直面している問題なのだと思います。その上にラテンアメリカ固有の麻薬取引の問題がのしかかっています。
 コスタリカに学ぶべきことはたくさんあるものの、同時にグローバリゼーションによって社会の基盤を破壊されていく世界のひとびととの海の底を渡るネットワークともいうべきつながりから、暗闇の向こうにひとすじの「希望」が見いだされるのかはこの映画は教えてくれません。それは映画を観た後の、世界市民としてのわたしたち自身にゆだねられるのだと思います。

「平和は夢に過ぎないのではありません。平和は骨の折れる努力なのです。平和はわたしたちの誰もが選択し、忍耐強く保持していかなければならない道。それはわたしたちが周囲の人々との小さな日毎のもめごとを平和的な方法で解決していくことなのです。平和はわたしたち一人ひとりから始まるのです。」
コスタリカ元大統領オスカル・アリアス・サンチェス(1987年ノーベル平和賞授与)

9月8日(土) 箕面グリーンホールで上映会があります。

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2018.08.01 Wed 映画「コスタリカの奇跡」上映会にご来場をお待ちしています。

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映画『コスタリカの奇跡 ~積極的平和国家のつくり方~』上映会
2018年8月19日(日) 能勢町淨るりシアター小ホール
11:00上映(10:30開場) 13:30上映(13:30開場)
運営協力費 800円(大学生以下無料)
主催 「コスタリカの奇跡」上映実行委員会 能勢から未来を考える会

 わたしが子どもだったころ、戦争のきずあとが町のいたるところに残されていました。焼け崩れたまま廃墟となった建物、もつれてしまった鉄条網、目的をなくしてしまった焦げたやかんとぼろ切れになった服…。近所の小高い丘に放置された戦争の足跡は子どもの心にもなまなましく忌まわしく付きまとっていました。
 さすがに墨塗の教科書の世代ではないものの、学校では「自由」と「権利」、そして「平和」がどれだけ大切かを連日教えてもらったものの、地域の大人たちはといえば戦争の自慢話に花咲かせていました。子ども心に、自慢話がほんとうなら戦争に勝ってるはずやと思いました。それでも大人たちは戦争の話の最後にいつも「戦争はこりごりや」と本音をつぶやくのでした。
 戦後すぐから始まった冷戦のさ中、1950年の朝鮮戦争勃発により、アメリカはアジア地域の共産化をおそれ、日本に警察予備隊をつくらせました。後に1952年に保安隊、そして1954年に自衛隊に改組されます。
 この頃からでした。大人たちは「ソ連が攻めてきたらどうする。家族が殺されるぞ」と、いつの間にか国(自分たち)を守る軍隊を持つことに賛成していました。子どもだったわたしは、戦前戦中と日本軍が大陸を侵略することから悲劇がはじまったことなどまだ知りませんでしたが、学校で学ぶ民主主義や平和主義とは真逆の、アメリカの武力の傘に入り自らも武力を持つことでしか平和は保てないと教えられたのでした。
 「話し合いで紛争を解決するべき」とか、「憲法にも武力を持たないと書いてあるやんか」と口答えをすると、きまって「そんな甘い考えは学校だけにしとけ」とか、「お前ら戦争を知らんからそんな理想をいうんや」と、「殴られたら殴り返す。目には目を」とする武力を持つことが現実的で、憲法の平和主義と武力のダブルスタンダードが本音と建て前となっていきました。
 わたしは大人になり、ガンジーやキング牧師の非暴力主義にシンパシーを持ちました。一方、国はソ連の次は中国、北朝鮮と次々と「仮想敵国」を変えながら、ここ数年武力の増強が加速しています。だれのための、なんのための武力なのか、子どもの心に持った疑問は解決されないままです。
 そして長い年月をかけてわたしたちは「軍隊がないと国を守れない」という共同幻想を受け入れ、執拗で大きなマインドコントロールの網に掛けられてきたのだと思います。

 アメリカの裏庭といわれるコスタリカが軍隊を持たないで国を守ってきたと知った時、そんなことができるのかと、単純に疑問を持ちました。
コスタリカも日本もほぼ同じ時に国内外に「軍事力を持たない」ことを宣言しました。
それから今までわたしたちの国では「攻めて来られる」不安が現実のものになることはありませんでしたが、コスタリカでは現実に紛争が起きたり、何度か起きそうになっても国の常備軍としての軍隊を持たないで警察力と粘り強い話し合い外交によって解決してきたことを知り、わたしたちの国の防衛力はなんのためにあるのだろうと、強く思いました。
 そして、戦後73年もの間マインドコントロールされてきた「国を守るには武力が必要」という常識を疑ってみることが大切なのだと思いました。
 わたしたちが遠い理想としてきた「軍隊を持たない平和」を現実のものとしてきたコスタリカのたどった73年を、わたしたちがこんな選択もできたはずの「もうひとつの歴史」として検証することは、今まさに憲法を変える変えないという「国の未来」を見定める岐路に立つわたしたちにとってとても大切なことだと思います。
 そしてまた、コスタリカが軍隊を廃止した背景に内乱を防ぐ目的があったことも、映画は教えてくれます。革命によって樹立した時の政権は、まずは反対勢力が握っていた軍隊を解体し、それから革命軍自体も解体したのでした
 わたしたちの国の歴史においても、軍隊が国民を守るためよりも国体を守るためにあったことをさまざまな証言が教えてくれます。そのことは今も変わらず、沖縄に対する国の仕打ちなどが証明してくれます。近い将来、自衛隊と防衛省が武力をわたしたち国民に向けることがないといえるのでしょうか。
 その意味においてもコスタリカが軍隊を廃止し、そのコストを福祉と教育、社会資源の育成に向けることはとても理にかなったことでした。振り返って日本では、軍事力を高めることで何を生み出せるというのでしょう。
 映画「コスタリカの奇跡」は、コスタリカの73年がわたしたちと全く縁がないどころか、同じ世界史を歩んできた2つの国で同時代を生きてきたわたしたちとコスタリカのひとびとの、かけ離れているように見える現実と夢が交錯する一瞬を用意し、わたしたちが立ち止まる機会を作ってくれる映画だと思います。
 ぜひ、違う世界ののぞきからくりをみるような気軽さで、映画をごらんになりませんか?

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2018.07.24 Tue 映画 『コスタリカの奇跡 ~積極的平和国家のつくり方~』上映会

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映画『コスタリカの奇跡 ~積極的平和国家のつくり方~』上映会
2018年8月19日(日) 能勢町淨るりシアター小ホール
11:00上映(10:30開場) 13:30上映(13:30開場)
運営協力費 800円(大学生以下無料)
主催 「コスタリカの奇跡」上映実行委員会 能勢から未来を考える会

 8月19日、能勢町淨るりシアター小ホールで映画『コスタリカの奇跡 ~積極的平和国家のつくり方~』上映会を開きます。
 「コスタリカの奇跡」といえば、2014年のサッカーワールドカップでベスト8になったことの方が有名かもしれません。
 しかしながら、ここでいう「奇跡」とは、軍隊を持たずに国の平和を保ち、豊かで自由な社会を築いてきたことをさしています。
 世界には軍隊を持たずに国の平和を保ってきた国々があります。そんな数少ない国の一つがコスタリカで、1948年に常備軍を解体しました。コスタリカは軍事予算をゼロにしたことで、無料の教育、無料の医療を実現し、環境のために国家予算を振り分けてきました。
 その結果、地球の健全性や人々の幸福度、そして健康を図る指標「地球幸福度指数(HPI)」2016の世界ランキングにおいて140ヶ国中で世界一に輝いています。またラテンアメリカで最も安全とされている国でもあります。
 『コスタリカの奇跡 ~積極的平和国家のつくり方~』は、1948年から1949年にかけて行われた軍隊廃止の流れを追いながら、コスタリカが教育、医療、環境にどのように投資して行ったのかを詳しく説明します。この映画は軍隊廃止を宣言したホセ・フィゲーレス・フェレールや、ノーベル平和賞を受賞したオスカル・アリアス・サンチェスなどの元大統領や、ジャーナリストや学者などが登場し、世界がモデルにすべき中米コスタリカの軍事力ではなく平和外交で国を守ってきた歴史と、壮大で意欲的な国家建設プロジェクトが語られるドキュメンタリー映画です。
 けれども、こんな疑問がすぐに浮かぶことでしょう。「軍隊がなくて、どこかの国が攻めてきたときどうするの?」。実はコスタリカでは国家の非常事態の際には国会議員の3分の2の賛成投票により、徴兵制実施及び軍隊の編成権限が大統領に与えられています。また、警察の武力を軍事力とみなし、コスタリカは非武装国家ではないという意見もあります。
 しかしながら、いざという時に軍事力を持つことを憲法に定めながら実際には軍事力を持たず、国際法に基づく外交努力によって紛争を解決するというのがコスタリカの国家戦略なのです。それは憲法で軍事力を持たないことを明記しながら、実際には自衛のための軍事力を強化し、いまや集団的自衛権のもとで「戦争ができる国」となった日本と対照的です。
 同じ時代にそれぞれの理由で軍隊のない国をかかげ、70年の時を歩んできたコスタリカが日本と真逆の歴史をつくりえたのはなぜなのでしょう。この映画はそのことを丁寧に描いたドキュメンタリーで、軍隊を持たないと国を守れないとアメリカの傘に入り、中国や北朝鮮と軍事的に対峙する東アジアの軍拡競争の端っこで、軍事予算を増やしてはアメリカの武器を買い求めるわたしたちの社会を見直すきっかけを用意してくれる貴重な映画だと思います。
 わたしたちの国では軍隊を持たないで国を守るなんて言うのは現実を見ようとしない甘い夢想とされてしまうのですが、コスタリカではまさしくそれが現実で、隣国ニカラグワとの国境紛争をはじめ何度か再軍備を検討されたりしながらも非武装を選び、国際法と外交によって紛争を収めてきたのでした。
 地政学的にも国の大きさも違うコスタリカの選択を日本と比較しても始まらないとする(いうより視野にも入らない)日本の歴代政権とそれを支持する人々が圧倒的に多いというのもまた現実でしょう。
 しかしながら、日本が長い間ソ連や中国や北朝鮮を仮想敵国としてこれらの国が「攻めてくる」ことを前提に軍事力を高めることが現実的とされてきたのに対して、何度も武力紛争の危機に瀕しながら非武装を貫き国際社会に訴え外交・話し合いの努力を続けてきたコスタリカの歴史は、非武装が理想や甘い幻想や願いではなく、わたしたちが歩まなかったもう一つの道であったことは間違いないのではないでしょうか。
 常備軍を置かない代わりに国民の健康、教育を充実し、国際法と外交で国を守るコスタリカの国家的戦略は結果として豊かな社会を実現してきましたが、それは日本でよく言われたアメリカの軍事力をたよりに経済発展してきたのではなく、自分たちの国を武力に頼らずに自分たちで守るという過酷な選択をしてきた結果で、特に教育によって平和で自由な社会を望み、それを実現し守っていく文化がコスタリカの人々に深く根付いているのだと思います。
 この映画はそのことを教えてくれるだけでなく、コスタリカが遠い国でもユートピアでもなく、新自由主義とグローバリゼーションによる貧富の格差や環境問題などといった危機はわたしたちが抱えている危機とまったく同じで、それらの問題とどう立ち向かうのか思いまどうわたしたちにとって、この映画の終わった後にも延々と続くであろう「コスタリカの奇跡」に学ぶことがいっぱいあると思います。
 憲法を変えようとするひとも憲法を守ろうとするひとも一度立ち止まり、この映画を通じてはるかな空の下の小さな国・コスタリカの奇跡をごらんなっていただければと切に願っています。

映画『コスタリカの奇跡 ~積極的平和国家のつくり方~』オフィシャルHP


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2018.07.19 Thu 戦後のバラックとともにわたしたちは大切なものを捨ててしまったのかもしれません。わたしの焼肉ドラゴン

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 映画「焼肉ドラゴン」を観に行きました。昔はよく映画を観たものですが最近は「この映画だけは」と思う映画を観に行くのがやっとで、「焼き肉ドラコン」はまさしくそういう映画でした。
 監督の鄭義信は劇団「新宿梁山泊」の旗揚げに参加し、旗揚げ当初は黒テント出身の鄭義信が台本を書き、状況劇場出身の金守珍が演出するという、とても刺激的な劇団の誕生に心を躍らせたものでした。その後新宿梁山泊を離れた鄭義信は独自の演劇活動を続けるとともに、「月はどっちに出ている」、「愛を乞うひと」、「血と骨」などの映画の脚本家として活躍しています。
 この映画は2008年に日本と韓国で上演され、絶賛された演劇「焼肉ドラゴン」(2011年、16年再演)を映画化した鄭義信の初監督作品で、万国博覧会が催された1970年をはさんだ69年から71年までの3年間の在日韓国朝鮮人の家族の物語です。
 高度経済成長に浮かれる時代の片隅。 関西の地方都市の一角で、ちいさな焼肉店「焼肉ドラゴン」を営む亭主・龍吉(キム・サンホ)と妻・英順(イ・ジョンウン)は、静花(真木よう子)、梨花(井上真央)、美花(桜庭ななみ)の三姉妹と一人息子・時生の6人暮らし。 失くした故郷、戦争で奪われた左腕…。つらい過去は決して消えないけれど、毎日懸命に働き、家族はいつも明るく、ささいなことで泣いたり笑ったり。店の中は、静花の幼馴染・哲男(大泉洋)など騒がしい常連客たちでいつも大賑わい。
 「たとえ昨日がどんなでも、明日はきっとえぇ日になる―」。それが龍吉のいつもの口癖です。そんな何が起きても強い絆で結ばれた「焼肉ドラゴン」にも、次第に時代の波が押し寄せてくるのでした。

 この物語のモデルとなったのは伊丹市中村地区で、1935年、大阪第二飛行場の建設に従事した朝鮮半島出身者の飯場がつくられ、戦後も多くの在日韓国・朝鮮人が当地に留まり、集落を形成していたそうです。ところが大阪国際空港としての拡張工事をすすめる国は「不法占拠である」として立ち退きを要求し、住民は反対運動で応じましたが、2001年より伊丹市および兵庫県、国土交通省が住民と協議を行い、近接する桑津4丁目の市営住宅へ全員が転居することで合意が成立し、2009年(平成21年)に全世帯の移転が完了しました。

 1970年はわたしが高校卒業後、悶々とした青春をさまよった末に、豊中市の空港近くの小さな町工場に就職した年でした。何度か書いてきましたが60年代後半、70年安保闘争と大学紛争で騒然とした街で、社会性や政治性に乏しいわたしは、同時代の若者にシンパシーを感じながらもどうしても運動になじめず、鬱屈した心を持て余しながらヒッピーまがいの暮らしをしていました。
 70年に入ると町は足早に政治の季節をたたみ、何事もなかったように高度経済成長へと舵を切りました。わたしもまた学生運動をしていた同世代の若者とはまた違う形で荒ぶる青い時をくぐりぬけ、やるせない心をかかえながら工場で働き始めたのでした。
 わたしは「焼肉ドラゴン」を観るまで、伊丹市の中村地区の在日韓国・朝鮮人のことを全く知りませんでした。しかしながら次々と住宅が壊され国有地になり、後に森友学園問題で日本中に知られることになった豊中の空港周辺の町工場と「焼肉ドラゴン」の舞台となった中村地区が同じ時代に共存していたことに不思議なつながりを感じました。
 それ以上にわたしは映画が映し出すバラック長屋と黒い土の路地になつかしさとせつなさが入り交じり、涙があふれてしまいました。
 というのも、子どもの頃、朝早くから深夜まで母が切り盛りしていた食堂に集うおじさんおばさん、子どもたち、そして大盛りのごはんと生卵入りのどんぶり鉢いっぱいの味噌汁だけの朝食と、夕食を当てにした寮生活の工員たち…、1947年生まれのわたしの原風景ともいえる母と兄とわたしが暮らしていたバラックの家とあまりにも似ていたからでした。わたしの家もまた、女手ひとつでわたしたちを育てなければならなかった母の窮状を見かねた田畑の地主が道沿いの小さな土地を貸してくれて、そこにバラックづくりで建てたものでした。今から思えば不法建築なので、きちんとした家を建てることはできなかったのでしょう。(もっともそんなお金が母にあったわけではありませんが…。)
 戦後闇市の名残りもすでになくなり、在日韓国・朝鮮人の集落のバラックもまた、立ち退きを迫られ姿を消していったように、わたしたちの家もまた立ち退きを迫られ、お店をたたむことになりました。
 わたしは戦前からの在日・韓国人の苦難の歴史もその個人個人の痛みや怒りや悲しみや絶望を解るわけはなく、またそんなに簡単に日本人であるわたしが解ってしまうと思うのはおごりで、とても失礼なことと思っています。わたしができることといえば信頼できる在日の友人たちと共に生き、民族の過去の歴史も個人の痛みもかなわぬまでも共有しようと努力することだけです。
 反対にいつの時代もどの社会でも、出自や民族や心身の特徴や性的選択や性的志向などによって差別されたり抑圧されたり偏見を持たれたり自由を制限されたりするひとびとがその社会や時代をもっともよくわかるように、在日韓国・朝鮮人のひとたちもまた日本人であるわたしたち以上に日本社会をよく知る人たちなのではないかと思います。 そして、よくも悪くもこの日本社会で格闘し、生きてきた在日韓国・朝鮮人ひとりひとりもまた戦後の日本社会を支えてくれたひとたちなのだと思います。
 この映画はまさしくその普遍性を持っていて、この社会のマイノリティの小さな家族の小さな物語が日本社会の大きな歴史と時代そのものを描いていて、その普遍性から「わたしの焼肉ドラゴン」というべき物語をわたしに思い出させてくれたのでした。
 そう考えると、それぞれ違う事情で姿を消した戦後のバラックは、欲望と絶望と裏切りと正義がもつれ合いながらも、戦後民主主義の中でもっともキラキラした思想といえる「助け合い」と「まじりあい」の思想が、高度経済成長によってかき消されていった象徴のようにも思えるのです。
 わたし自身も子ども時代を暗く縁取るバラック建ての家族からニューファミリーへと、高度経済成長の渦の中に呑み込まれていった1970年、「明日は今日よりきっと良くなる」と信じて60年代後半の鬱屈した心を捨てた時、実はもっとも大切なものをも捨ててきたのかも知れません。
 映画「焼肉ドラゴン」のエンドロールが終わり、スクリーンから光が消えたその暗闇の中で、龍吉が引っぱり、荷台に英順が乗るリヤカーがバラックの路地を遠ざかるのをいつまでも感じながら、「わたしの焼肉ドラゴン」もまたその大切な何かを暗示しながら終わったのでした。

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映画「焼肉ドラゴン」公式サイト



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