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2018.07.19 Thu 戦後のバラックとともにわたしたちは大切なものを捨ててしまったのかもしれません。わたしの焼肉ドラゴン

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 映画「焼肉ドラゴン」を観に行きました。昔はよく映画を観たものですが最近は「この映画だけは」と思う映画を観に行くのがやっとで、「焼き肉ドラコン」はまさしくそういう映画でした。
 監督の鄭義信は劇団「新宿梁山泊」の旗揚げに参加し、旗揚げ当初は黒テント出身の鄭義信が台本を書き、状況劇場出身の金守珍が演出するという、とても刺激的な劇団の誕生に心を躍らせたものでした。その後新宿梁山泊を離れた鄭義信は独自の演劇活動を続けるとともに、「月はどっちに出ている」、「愛を乞うひと」、「血と骨」などの映画の脚本家として活躍しています。
 この映画は2008年に日本と韓国で上演され、絶賛された演劇「焼肉ドラゴン」(2011年、16年再演)を映画化した鄭義信の初監督作品で、万国博覧会が催された1970年をはさんだ69年から71年までの3年間の在日韓国朝鮮人の家族の物語です。
 高度経済成長に浮かれる時代の片隅。 関西の地方都市の一角で、ちいさな焼肉店「焼肉ドラゴン」を営む亭主・龍吉(キム・サンホ)と妻・英順(イ・ジョンウン)は、静花(真木よう子)、梨花(井上真央)、美花(桜庭ななみ)の三姉妹と一人息子・時生の6人暮らし。 失くした故郷、戦争で奪われた左腕…。つらい過去は決して消えないけれど、毎日懸命に働き、家族はいつも明るく、ささいなことで泣いたり笑ったり。店の中は、静花の幼馴染・哲男(大泉洋)など騒がしい常連客たちでいつも大賑わい。
 「たとえ昨日がどんなでも、明日はきっとえぇ日になる―」。それが龍吉のいつもの口癖です。そんな何が起きても強い絆で結ばれた「焼肉ドラゴン」にも、次第に時代の波が押し寄せてくるのでした。

 この物語のモデルとなったのは伊丹市中村地区で、1935年、大阪第二飛行場の建設に従事した朝鮮半島出身者の飯場がつくられ、戦後も多くの在日韓国・朝鮮人が当地に留まり、集落を形成していたそうです。ところが大阪国際空港としての拡張工事をすすめる国は「不法占拠である」として立ち退きを要求し、住民は反対運動で応じましたが、2001年より伊丹市および兵庫県、国土交通省が住民と協議を行い、近接する桑津4丁目の市営住宅へ全員が転居することで合意が成立し、2009年(平成21年)に全世帯の移転が完了しました。

 1970年はわたしが高校卒業後、悶々とした青春をさまよった末に、豊中市の空港近くの小さな町工場に就職した年でした。何度か書いてきましたが60年代後半、70年安保闘争と大学紛争で騒然とした街で、社会性や政治性に乏しいわたしは、同時代の若者にシンパシーを感じながらもどうしても運動になじめず、鬱屈した心を持て余しながらヒッピーまがいの暮らしをしていました。
 70年に入ると町は足早に政治の季節をたたみ、何事もなかったように高度経済成長へと舵を切りました。わたしもまた学生運動をしていた同世代の若者とはまた違う形で荒ぶる青い時をくぐりぬけ、やるせない心をかかえながら工場で働き始めたのでした。
 わたしは「焼肉ドラゴン」を観るまで、伊丹市の中村地区の在日韓国・朝鮮人のことを全く知りませんでした。しかしながら次々と住宅が壊され国有地になり、後に森友学園問題で日本中に知られることになった豊中の空港周辺の町工場と「焼肉ドラゴン」の舞台となった中村地区が同じ時代に共存していたことに不思議なつながりを感じました。
 それ以上にわたしは映画が映し出すバラック長屋と黒い土の路地になつかしさとせつなさが入り交じり、涙があふれてしまいました。
 というのも、子どもの頃、朝早くから深夜まで母が切り盛りしていた食堂に集うおじさんおばさん、子どもたち、そして大盛りのごはんと生卵入りのどんぶり鉢いっぱいの味噌汁だけの朝食と、夕食を当てにした寮生活の工員たち…、1947年生まれのわたしの原風景ともいえる母と兄とわたしが暮らしていたバラックの家とあまりにも似ていたからでした。わたしの家もまた、女手ひとつでわたしたちを育てなければならなかった母の窮状を見かねた田畑の地主が道沿いの小さな土地を貸してくれて、そこにバラックづくりで建てたものでした。今から思えば不法建築なので、きちんとした家を建てることはできなかったのでしょう。(もっともそんなお金が母にあったわけではありませんが…。)
 戦後闇市の名残りもすでになくなり、在日韓国・朝鮮人の集落のバラックもまた、立ち退きを迫られ姿を消していったように、わたしたちの家もまた立ち退きを迫られ、お店をたたむことになりました。
 わたしは戦前からの在日・韓国人の苦難の歴史もその個人個人の痛みや怒りや悲しみや絶望を解るわけはなく、またそんなに簡単に日本人であるわたしが解ってしまうと思うのはおごりで、とても失礼なことと思っています。わたしができることといえば信頼できる在日の友人たちと共に生き、民族の過去の歴史も個人の痛みもかなわぬまでも共有しようと努力することだけです。
 反対にいつの時代もどの社会でも、出自や民族や心身の特徴や性的選択や性的志向などによって差別されたり抑圧されたり偏見を持たれたり自由を制限されたりするひとびとがその社会や時代をもっともよくわかるように、在日韓国・朝鮮人のひとたちもまた日本人であるわたしたち以上に日本社会をよく知る人たちなのではないかと思います。 そして、よくも悪くもこの日本社会で格闘し、生きてきた在日韓国・朝鮮人ひとりひとりもまた戦後の日本社会を支えてくれたひとたちなのだと思います。
 この映画はまさしくその普遍性を持っていて、この社会のマイノリティの小さな家族の小さな物語が日本社会の大きな歴史と時代そのものを描いていて、その普遍性から「わたしの焼肉ドラゴン」というべき物語をわたしに思い出させてくれたのでした。
 そう考えると、それぞれ違う事情で姿を消した戦後のバラックは、欲望と絶望と裏切りと正義がもつれ合いながらも、戦後民主主義の中でもっともキラキラした思想といえる「助け合い」と「まじりあい」の思想が、高度経済成長によってかき消されていった象徴のようにも思えるのです。
 わたし自身も子ども時代を暗く縁取るバラック建ての家族からニューファミリーへと、高度経済成長の渦の中に呑み込まれていった1970年、「明日は今日よりきっと良くなる」と信じて60年代後半の鬱屈した心を捨てた時、実はもっとも大切なものをも捨ててきたのかも知れません。
 映画「焼肉ドラゴン」のエンドロールが終わり、スクリーンから光が消えたその暗闇の中で、龍吉が引っぱり、荷台に英順が乗るリヤカーがバラックの路地を遠ざかるのをいつまでも感じながら、「わたしの焼肉ドラゴン」もまたその大切な何かを暗示しながら終わったのでした。

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映画「焼肉ドラゴン」公式サイト



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2018.05.18 Fri フィクションやメルヘンが社会を変え、歴史をつくる 映画「ごはん」とピースマーケットのせ

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 今年のピースマーケットのサプライズは、なんといっても大ホールで映画「ごはん」の上映会が同時開催されることです。
 この上映会はピースマーケットとは別の主催で開かれるもので、農民組合大阪府連合会が後援しています。
映画「ごはん」は、2017年の日本映画。日本人が余り知らない日本の米作りの現状をリアルに描きながら、美しい水田の風景やストーリーが観る人の感動を誘います。

 実家が農家の若い女性ヒカリは、東京で派遣社員をしていたが、父が突然亡くなったとの知らせを受け、急いで京都府の実家に帰る。父の葬儀も済み、東京に戻ろうとする中、父が近所の農家30軒分もの米作りを請け負っていたことを知らされる。農作業を手伝っていた源八も骨折で作業ができず、各農家も自分たちで水田の面倒は見られないと言われて、ヒカリは途方に暮れる。当面、源八の足が治るまでと失敗を繰り返し、様々な人に助けられながらコメ作りに奮闘する。その仕事を通して亡き父の思いを少しずつ理解していく。

 わたしはこの映画を観ながら、手法も目指すべき映画への考え方も大きく違うかもしれないですが、河瀬直美の「萌の朱雀」を思い出していました。
 「萌の朱雀」は長い年月をささえてきた山里の家族が、一家離散する中でいとおしく限りなく美しい故郷を去って行くまでを、彼女独特のドキュメンタリータッチで描いた名作でした。
 安田淳一監督の映画「ごはん」は、おそらく河瀬直美のような完璧主義ではなく、もっとゆるやかで、いい意味でのアマチュアリズムの自由なフレームを感じました。
 そして、少し強引な言い方をすれば、山里と農村の決定的なちがいはあるものの、「萌の朱雀」の家族が去ってしまった「故郷」に「ごはん」のヒロインが帰ってきたと言えるのです。
 その意味では、実際にお米づくりに格闘されている農家のひとたちに、ストレートにこの映画が受け入れられるのかはわかりかねます。
 少女の頃に父親の作業をみていたにしろ、東京で派遣社員として事務の仕事をしていた女性が見よう見真似でお米作りができるなんて、ありえないことでしょう。
 一方で、このありえない物語の背景にある農村や農業の実態が圧倒的な説得力で描かれています。
 農業の担い手の高齢化や、お米作りでは生計を立てにくく、自分は野菜を作りながらコメ作りは委託するというやむにやまれぬ知恵によって、コメ作りが続けられていることなど、スーパーなどでお米を買ってなんの屈託もなく食べている消費者の傲慢さを自戒しました。
 その厳しい現実があるからこそ、故郷で育ち都会で暮らしていたひとりの女性がコメ作りを決意するというフィクションというかメルヘンが切実なものとして迫ってきます。現実に、この映画のように都会で暮らしていたけれど親が亡くなり、能勢に帰って農業している友人がいます。
 政治的な問題でも社会的な問題でも、よく「現実はそうはいかない」と言われます。「話し合いによる平和」などはもってのほか、軍事的な抑止力がないと平和は保てないと、専門家や識者たちはいいます。
 しかしながら、わたしはありえないといわれるフィクションやメルヘンにこそ思想はあり、世の中や地域をほんとうに変革していくのはフィクションやメルヘンだと信じています。
 その意味において、映画「ごはん」は農業の現実を知っている人だけでなく、この時代を生きる普通のひとびとのたくさんの夢や夢想を掻き立て、勇気づけてくれるに違いありません。
 1人の女性の人生における「再生の物語」と、農村をはじめとする地方の「再生の物語」がぴったりと重なった奇跡の映画、それが映画「ごはん」なのです。

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2017.11.19 Sun 2021年、青春は死んだのか。映画「あゝ、荒野」と寺山修司の時代2

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 映画「あゝ、荒野」は1966年の新宿を舞台にした寺山修司の同名小説が原作ですが、映画では2021年、東京オリンピックの翌年の新宿を舞台にしています。
 多ジャンルをまたぐ多作で知られる寺山修司のただひとつの小説で、その後すぐに演劇集団「天井桟敷」を設立、モノローグと書き言葉からダイアローグと街の演劇化(フィクションによる現実の革命)を夢見て駆け抜ける直前に書かれたこの小説をなぜ映画化することにしたのかその経緯を知る由はありません。
 しかしながら、1964年生まれの岸善幸監督をはじめ、若い世代が寺山修司の小説によって垣間見た1960年代の荒野に何を見たのか、そして近未来の2021年の荒野に50年の時は何を生み、育て、何を捨てたのか…。前編と後編に別れ、合わせて5時間を越える映画は、わたしのリアルな50年を色濃くスクリーンに映してくれました。

 幼い頃に自分を捨てた母を恨み、世間に牙をむく少年院上がりの新次(菅田将暉)と、吃音障害と対人恐怖症から、他者との関係をほとんど築けずに生きてきた健二(ヤン・イクチュン)。自分の居所がなく、社会に見捨てられた二人の若者がふとしたきっかけで出会い、元ボクサーの堀口(ユースケ・サンタマリア)に手を差し伸べられ、共に堀口のボクシングジムでプロを目指してトレーニングを始めます。
 誰にも解られることもなく、その存在すら認められず、自分のやるせない気持ちや怒りをぶつける相手もいなかった二人は、ボクシングによってはじめて自分を表現する世界が開け、プロになる夢に向かって人生の歯車が回り始めます。そして新次は「新宿新次」、散髪屋で働く健二は「バリカン健二」というリングネームでプロデビューします。
 おたがいを想う深い絆と友情を育み、自分を変えようと成長していく二人でしたが、ボクシングというリングの荒野でのみ許される殴り合い・暴力に新次は裏切られた仲間や母親や自分の人生そのものへの鬱積した激しい憎しみと恨みを爆発させ、一方の健二はそんな新次にあこがれ以上の愛情を感じながら、新次のように自分を取り巻く理不尽さに憎しみを駆り立てようとしますが、内気な彼にはどうしてもできず、憎しみによる殴り合いでしか他者とのコミュニケーションが取れないことにとまどうのでした。
やがて、二人は戦うことでしか繋がることのできない宿命に直面します。
 映画は2021年のネオンの荒野・新宿で、もがきながらも心の空白を埋めようと生きる二人の若者の奇妙な友情と、彼らを取り巻く人々との人間模様をていねいに写し撮るというよりは、登場人物たちが四角いスクリーンという荒野を駆け巡り暴走するのを必死に追いかけ、その疾走感が物語のデイティールをなぎ倒していくようでした。わたしはこの映画を見ていて、手法もコンセプトもまったく違うのに、なぜかしら石井聰亙監督の1982年の映画「爆裂都市 BURST CITY」を思い出しました。
 「暴動の映画ではなく、映画の暴動だ」という「爆裂都市」になぞらえれば、映画「あゝ、荒野」もまた「荒野の映画ではなく、映画の荒野」であり、さらに言えば時代の荒野も青春もなくなってしまったわたしたちの社会への挽歌なのかもしれないと思ったのでした。
1960年代は世界も日本も、第二次世界大戦後の政治・文化・社会のフレーム疲労から、若者を中心に新しい時代をつくりだすために社会が激動した時代でした。いわば、世界も日本も大戦から20年という青春の時代だったのだと思います。
 寺山修司はその時代を背負うようにアカデミックな権威を壊し、「書を捨てよ、町に出よう」と若者を「扇動」しました。小説「あゝ、荒野」のサブストーリーはすべてその時代の政治や社会の実相をジャズのアドリブの手法で書きなぐられたものでした。
 小説「あゝ、荒野」に限らず、寺山修司の全作品も寺山本人も若者を叱咤激励し、こじんまりとした予定調和的な人生ではなく、失敗を恐れず自己の解放と冒険を求める「青春」の異端者であり続けました。だからこそ、たくさんの若者が彼の言葉を生きる糧にするような、若者たちのカリスマであり続けたのだと思います。
 映画「あゝ、荒野」ではその猥雑な時代のアクティブなパーツを2021年の新宿に昇華させ、近未来の新しいパーツに置き換えました。振り込め詐欺や東日本大震災、介護事業などの今日的課題はもちろん1960年代の寺山の原作にはありませんが、ある意味もっとも原作に忠実なジャズのアドリブの手法で、現代の社会の実相をとらえました。
 その中でも私が興味深く感じたのものとして、1960年代に寺山がとらえた老人像です。寺山はその頃のエッセイでもこの小説でも、日本ではまだ福祉制度が貧困な中で、欧米の進んでいると言われる福祉制度を否定しています。
 けれども、たとえばその時代のスウェーデンの老人福祉は、「福祉の牢獄」というべき老人の居住施設が中心だったと思います。寺山はすすんだ福祉制度のもとで老人の自殺が多いことをとりあげ、福祉制度の充実が必ずしも老人の幸せと結びつかないと指摘しています。
 しかしながら、実はスウェーデンやデンマークの福祉制度は施設型から在宅型へと変わり、当事者の老人がサービスを選択し、地域で自立して暮らせるように変わっていきました。それは、寺山が指摘したように当事者を閉じ込めるためのサービスをいくら充実させても少しも幸せでないことを、自殺者の増加で気づいたからだと言われています。
 遅ればせながら日本でも介護サービスを量的に質的にも「充実」させてきましたが、残念ながら日本では一人暮らしをふくむ自立生活ができるサービスは、老人もまた家族と住むことを望むこともあり、貧困なままです。
 また、寺山の原作では映画館の大スクリーンの中でセックスする女優の裸体に興奮し、彼女が「逝く」瞬間にしか射精できない性的不能者・宮木。堀口のボクシングジムの支援者でもある彼がスーパーマーケットの経営者であるのに対して、2021年の宮木は介護施設の経営者になっているのも現代を表しています。
 原作では猥雑な都会でやはり居場所をなくしている老人が「話のネタになる本」を読み、話し相手をさがしたり何年もの自分の爪を空き缶にためていたり、「誰もわたしに話し掛けてくれない」という遺書を残して自殺するアメリカの養老院の老人たちのエピソードなど、生きがいを見つけられない老人をとりあげています。
 しかしながら寺山にとってはそれらが「福祉」への疑問につながっていて、彼の関心はもっぱらそんな老人の死にたいという欲求をかなえさせるための機械を作り、その効果を試す大学の自殺研究会のペシミスティックな若者たちの暗い青春エピソードの方に向かいます。映画ではそれをよりエンターテインメント化し、自殺願望を持ったひとたちを集めて死んでもらうイベントを企画し、だれもがその場に及ぶと死への恐怖におののき逃げる姿を見て、主催者のリーダーの大学生が「自殺の美学」を自らに課して死んでいくシーンがあります。
 わたしはこのシーンには違和感を持ちましたが、つい最近神奈川県座間市で9人の遺体遺棄容疑で逮捕された容疑者が、3月ごろからツイッターを使い自殺願望のある女性を言葉巧みに誘い出し、殺害したと供述しているとの報道を知り、寺山の想像力をはるかに越えてしまった現実に驚きます。原作と映画の間には新宿を舞台にした過去と近未来という50年の時の隔たり以上にまったく違った世界に生きていることを、わたしたちは映画の登場人物とともにあらためて知らされるのです。
 それでもなお、1960年代の寺山がこの小説で証言し、予言した日本社会の閉塞感とともに、彼もまた想像できなかったのかもしれない過酷で暗く、すでに日本社会がどこかに置き忘れてしまった社会的一体感(寺山が好きだった「同時代」)のみじんもない過酷な世界で孤立し、孤独を深く受け入れながら生きざるを得ない若者たちに果たして希望や夢はあるのか。昔も今も変わらない欲望の街・新宿の荒野から四角いリングの荒野へと向かうせつなくも残酷な青春物語の行きつく先に、闘うことを宿命づけられた二人の若者がただひたすら殴り合うその先にどんな世界が待っているのかいないのか…。
 実はこの二人が「明日のジョー」の矢吹と力石のように一人の若者の光と影であったとしたら、わたしはバリカン健二が新次との死闘の先に、殴り合うことでしか分かり合えない友情ではなく、他者の存在を認め合い確かめ合う友情こそがほんとうに時代を切り開く勇気をもたらすのではないかと思うのです。
 寺山修司は虚言で有名なひとで、残酷なまでに強いことを望み、「勝つこと」を願うこの人自身もまた、実はバリカン健二の切ない夢に己の本心を隠していたのではないでしょうか。そうでなければ「人は遊びでなら負けることができる」と競馬のCMの言葉を紡ぎ、血統に逆らって逃げ続ける逃げ馬の勝利を夢見たりしないと思います。
 そんな寺山修司が描いて見せた50年前の「昨日より今日、今日よりも明日」とだれもが凧揚げ幻想に酔いしれていた時代の青春や夢や希望が無くなってしまった今、オリンピック以後より荒廃するであろう社会で人々は二度と立ち上がれないのか、いやそこから立ち上がる人たちがこの50年でつくられたあらゆる権威を壊し、そんなに熱烈にならないかもしれないけれど手ごたえのある情熱を奮い立たせ、もう一度「誰も夢見たことがない新しい世界」を構築する一歩を踏み出しているのか、映画はその答えを出してはくれません。その答えは、映画を見終わったわたしたち自身が1960年代の荒野と2017年の荒野をつなぐ孤独な青春を突き抜けて、2021年の荒野へと一歩踏み出すところから探さなければならないのでしょう。

マッチ擦るつかの間海に霧ふかし 身捨すつるほどの祖国はありや  (寺山修司)

映画「あゝ、荒野」

浅川マキ 「 かもめ(歌詞付) 」(作詞:寺山修司&作曲:山木 幸三郎)


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2017.11.15 Wed 映画「あゝ、荒野」の原作・寺山修司の小説「あゝ、荒野」とその時代 NO.1

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 映画「あゝ、荒野」を見ました。
 この映画の原作は1966年に出版された寺山修司の小説「あゝ、荒野」です。
 1960年代はベトナム戦争、アメリカ公民権運動、中国文化大革命、チェコのプラハの春とソビエト侵攻など世界の激動と重なるように、社会党の浅沼委員長暗殺や三里塚闘争、70年安保闘争、学生運動など日本社会もまた激動の10年でした。
 わたしはリアルにその時代を生きたのですが、同世代の若者たちがデモに明け暮れ、政治的な活動に情熱を燃やしている姿にあこがれとともに違和感を感じながら、眠れない夜を過ごす毎日でした。
学生運動に没入していた大学生の友人たちと徹夜で議論することもしばしばありました。みんな妙に元気で純情で情熱的でしたが、彼女彼らの口癖だった「帝国主義打倒」、「人民解放」、「革命勝利」といった言葉はよどんだ夜の空気にゆらゆらするだけで、わたしの心には届きませんでした。
 わたしもまた社会の理不尽さに異議申し立てする機会と場を切実に求めていたのですが、デモとアジ演説とゲバ棒と石礫と火炎瓶で国家権力とたたかう勇気も覇気もありませんでした。彼女彼らが熱く語る「革命」が勝利に終わったとしても、勝利した「人民」にわたしが入っていないだけでなく、その「人民」たちに排除されるべき人間とされる確信がありました。
 社会性のかけらもなく、隠れ家を探し続けるどもりで対人恐怖症のわたしは、いままでもこれからもこの町もよその町でも、いいことなどなにひとつない青春のただ中にいました。学生でもなく労働者でもなく人民でもなく、市民にもなれそうにないこのわたしはいったい何者なのか、何者になれるのか…。
 
 そんな悶々とした日々を送っていたわたしに生きる勇気を与えてくれたのが寺山修司でした。俳句、短歌、詩、エッセイやテレビ・ラジオを通して、当時は寺山教といわれるほどのカリスマ性で若者の心をわしづかみにしていた彼は、世の大人たちから危険人物と思われていました。事実、彼の著作「家出のススメ」を読んで東京に家出してくる若者が相次ぎ、彼女彼らの暮らしを成り立たせるために劇団「天井桟敷」をつくったところなど、どこか障害者の雇用のためにだけ事業をする豊能障害者労働センターと相通じるところがありました。
 どもるコンプレックスに押しつぶされていたわたしに、寺山修司だけが「どもってもいい」と言ってくれました。それどころか、畠山みどりの「出世街道」の「やるぞみておれ、口には出さず」を例にあげ、「口には出せず」から「口には出さず」と言い直したとき、そこには「どもることは言葉や思想をより深く理解し、政治を通さない人間の革命をめざす「どもりの思想」があると言いました。わたしは彼の唱える「吃音宣言」に励まされたのでした。
 この言説だけでなく、寺山修司は世の中の常識や道徳や秩序を守るルールや、それらを押し付ける権力を否定する一方、障害や貧困などマイナスと言われるものや社会的マイノリティこそが時代を変革できるとしました。それを思想化し、組織化することで政治革命とはちがう回路から人間の革命をめざしたいと、生涯にわたって演劇集団「天井桟敷」の活動にいのちを削りました。
 小説「あゝ、荒野」はさまざまなジャンルで多作した彼のたったひとつの小説で、当時誰が言ったのか忘れましたが「偉大な失敗作」ともいわれました。当時流行ったヌーヴォー・ロマンのアラン・ロブ=グリエやル・クレジオなどの影響もあったのか、1960年代の若者の街・新宿を舞台にして、怒りと憎しみと暴力が炸裂する過酷な時代を生きる二人の若者がボクシングを通じて孤独な青春を共にし、心を通わせつつも体をぶつけあうという大まかなストーリーをたどりながら、寺山本人があとがきに書いているようにモダンジャズのアドリブの手法で、いわば行き当たりばったりに登場人物の生きざまを追いかけるように書きなぐったのだと思います。 それはまた、シュールレアリスムの芸術家マックス・エルンストのコラージュにも似た手法でした。
 寺山修司はあとがきでこうも書いています。
 「わたしはこれを書きながら『ふだん私たちの使っている、手あかにまみれた言葉を用いて形而上的な世界を作り出すことは不可能だろうか』ということを思いつづけていた。歌謡曲の一節、スポーツ用語、方言、小説や詩のフレーズ。そうしたものをコラージュし、きわめて日常的な出来事を積み重ねたことへのデペイズマンから、垣間見ることのできた『もうひとつの世界』、そこにこそ、同時代人のコミュニケーションの手がかりになる共通地帯への回路が隠されているように思えたからである。」

 「手あかにまみれた言葉で形而上的な世界を作り出す」ことは寺山修司のすべての表現に貫かれたもので、いわば庶民の芸術、肉声で語られる路地裏の芸術ともいうべきものでした。それは国家に対して従順に生きることも反逆して生きることもできない若者、当時はまだ地方からの集団就職をはじめ、中卒で就職する若者も数多く、そんな若者にとって少なからずビートルズに代表されるロックや巷に流れる歌謡曲、アングラと言われた演劇や映画といったサブカルチュアがより政治的に思えたたくさんの若者たちに「公園の公衆便所の落書きや電話帳の無機的な数字の並びもまた政治的である」と教えてくれたのでした。
 わたしは小説「あゝ、荒野」をリアルタイムで読んでいたのですが、あらためてもう一度読み直すと、よくも悪くもわたしの感じ方や考え方から行動や趣向まで、寺山修司の影響を強く受けていたことをあらためて思いました。
 直接ではないですが彼と出会っていなかったらまったくちがった人生になっていたでしょうし、ずっと後に障害者の友と出会うことも、豊能障害者労働センターで活動することもなかったでしょう。わたしは自分から死を選ぶことはなかったのですが、もしかするとそちらの方に心が引っ張られたかもしれません。
 実際、わたしにとって豊能障害者労働センターと出会うことで、はじめて働く意味を知り、生きがいを仕事で発揮することができました。
 国家や社会や会社が決めるスタンダードルールを押しつけるのではなく、その集団を構成するすべてのひとそれぞれに夢があり、それぞれの違った個性をそのまま受け入れ、競争することよりも助け合える労働センターだったからこそ、対人恐怖症で社会になじめなかったわたしでも働くことができました。
 そして、労働センターと出会うずっと前の青春時代に、普通とされる社会から離脱し、自分らしく自由に生きる道もあることを寺山修司は教えてくれたのでした。
 寺山修司が言った「政治を通さない革命」は幻想かもしれないですが、政治が日常の暮らしからあふれる肉声をなくし、国会の中や選挙運動のパワーゲームでわたしたちの未来だけでなく、孫やその先の世代の未来までも奪うことになるかもしれない危機を迎えた今だからこそ、歌謡曲や演劇や映画などサブカルチャーが社会を変革できるとする彼の提案は、豊能障害者労働センターのような社会的事業体の活動もふくめ、わたしたちにとって切実なものになっていくのかもしれません。
 もっとも、寺山修司は民主主義も平和も人権も福祉も信じていませんでした。その頃も今も、それらは国家が国民をだまし、囲い込むための罠でしかないとし、何よりもその囲い込みからの解放こそが自由への第一歩と考えていたのだろうと思います。
 ですからいわゆる左翼からも右翼からも危険な人物とみなされていました。
 次回は小説「あゝ、荒野」が書かれた1960年代の社会情勢と、2021年という、東京オリンピックの翌年に時代設定された今回の映画「あゝ、荒野」が予想する社会情勢を比較し、わたしたちの未来に希望があるのかないのかを考えたいと思います。

映画「あゝ、荒野」

寺山修司〜私と彼のただならぬ関係 第2回 熱く麗しきあの時代・美輪明宏

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2017.06.01 Thu 「目の前から消えてしまうものほど美しいものです」 河瀬直美監督作品・映画「光」

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 河瀬直美監督の「光」を見ました。公開されている間に、できれば映画館でぜひ観ていただきたいオススメの映画です。
 映画の音声ガイドを作成する仕事をしている美佐子(水崎綾女)はある日、仕事をきっかけに弱視のカメラマン・雅哉(永瀬正敏)と出逢います。
 子どもの頃に父親が失踪し、いなかで過ごす認知症の母親の介護を隣人にまかせていることを心苦しく思いながら生きる意味を求める美佐子と、カメラマンにとって致命的に視力を失いつつある雅哉。
 年齢も人生経験もまつたく異なる二人が、なくしたもの、なくしつつあるものへの喪失感を抱きながら、生きる意味を共に見つける大人の純愛映画ですが、この映画はなんと4本の映画を同時進行で観客に届けてくれるのです。
 あと3本の映画とは、音声ガイドを作成している劇中映画「その砂の行方」と、スクリーンに映らない美佐子たちが作成した音声ガイドによる映画「その砂の行方」、そして、この映画「光」それ自体の音声ガイドによるもう一つの映画「光」…。
 そして、これら別々の映画がシンクロナイズしながら、最後に共通してたどり着く「光」が美佐子と雅哉の新しい人生に届けられる時、この映画は珠玉の4重奏を奏でるのでした。

 映画は美佐子が街の中で目に入るものを言葉に置き換えるシーンから始まります。彼女は視覚障害者が映画を楽しむための音声ガイドを作成する仕事をしていて、その練習をしていたのでした。
 寡黙な登場人物と限りなく美しい映像をスクリーンにそっと焼き付ける河瀬直美監督の映画では珍しく言葉言葉言葉…。それは当然のことで、この映画は映像を言葉で表現する音声ガイドがテーマで、音声ガイドの作成とそれにかかわるひとたちのドキュメンタリー映画でもあると思います。
 このトップシーンでは美佐子の心を何一つ語らないのですが、見たもの、見えているものを言葉に変えていく作業の中で、事務的にたたみかける言葉にある種の虚しさ、そしてそれが音声ガイドという仕事の難しさからだけではなく、まだ人生の行方に逡巡する一人の若い女性・美佐子の焦りのようなものが伝わってきます。
 音声ガイドの制作現場では、その予感のようなあいまいな感覚は現実のものとなり、この映画のテーマが重く美佐子に覆いかぶさってきます。
 視覚障害者のモニター数名が美佐子の作成した音声ガイドへの意見や助言を言い、それを次の会までに修正するという作業を何回も重ねて、音声ガイドが完成します。
 美佐子と雅哉が出会う場となったそこではもちろん対象となる映画は完成していて、セリフの合間に視覚障害者に場面の説明をする作業は、目で見ることのできない視覚障害者の「欠如」を補う役目を負うことになります。そこで、「足りないものを補い、助ける」という、障害者への「やさしい気持ち」が純粋であればあるほど、時には映画の内容と無関係に音声ガイドが一人歩きし、押しつけがましく「希望」や「夢」を与えようとします。
 それを雅哉は「あんたのひとりよがりの解釈だ」と言い放ちます。他の人たちもそれまで遠慮していたのか、雅哉の発言をきっかけに本音の感想を言い始めます。
 「目の見えるひとはスクリーンに映る映画を観るでしょう。けれどもわたしたちは映画を観るのではなく、映画の中に入っていくんです」。
 わたしはこの言葉にハッとしました。わたしがスクリーンに映る映画を観ている時、彼女たち彼たちはたかだか数メートル×十数メートルの四角い平面ではなく、「世界でもっとも遠いところにある」心の中のそれぞれの映画を生きているのだということを知りました。
 もともと、すべての出来事や映像を言葉に換えることなどできるわけもなく、まして視覚障害者に映画を説明するなどというのは健全者の傲慢さ以外の何物でもないのでしょう。
 その時、音声ガイドはその映画を語るのではなく、視覚障害者の映画体験をプロデュースし、もうひとつの映画をつくっているのかもしれません。
 と同時に、音声ガイドの制作にあたる人々がとても困難な作業を強いられていることも知りました。映画を説明するだけでいいのか、そもそも映画を説明できるものなのか、それを楽しむ視覚障害者もまた、音声ガイドによって映画の何を知ることかできるのか、そこに音声ガイド制作者の独善的な意図がふくまれているのかいないのか。視覚障害者一人ひとりによって感じ方が違い、弱視のひとや弱視から全盲になったひと、幼いころから全盲のひとなど、視覚障害といっても様々であることなどから、音声ガイドのあり方についても様々な考え方があることでしょう。

 わたしはこの映画を観て、若い頃に視覚障害者の友だちと映画を観に行き、私的なガイドをした経験を思い出しました
 1981年か82年で世の中が「国際障害者年」と湧き上がっていた時、「国際障害者年をぶっ飛ばせ」という映画祭が京大の西部講堂であり、わたしたちは原一男の名作「さよならCP」を観に行ったのでした。
 世の中の障害者観を指弾し、今でも輝きを増すこの映画は、脳性マヒ者集団「青い芝」の障害者たちが出演したドキュメータリーで、言語障害のある出演者たちへのインタビューに字幕を付けるべきかでも大論争がありました。彼らの主張は「字幕を付けたら字幕だけを見て、わたしの話を聞かなくなる」という、実にまっとうな意見でしたが、現実に脳性マヒ者の言葉は長い付き合いがないと理解できないということもあり、結局は字幕を付けることになりました。
 この映画の場合は話す言葉も伝えながら同時に町の風景などの映像も伝えなければならず、映画を説明する難しさを痛感した一方で、映画の場面場面を説明することでかえって当事者の想像力をさまたげてしまわないのかという疑問も持ちました。
 ともあれ、あれから40年近くの時が過ぎ、個人的な音声ガイドというボランティアではなく、まだまだ始まったばかりですがこの映画のように専門的なシステムによって音声ガイドのサービスが提供されるようになりつつあることは、ほんとうに喜ばしいことだと思います。
 そして、音声ガイドが「見えない」という、足らないものを補うためにあるのではなく、視覚障害者の伴走者として、当事者の想像力を妨げずに「もう一つの映画」を共につくることととらえる映画「光」は、映画づくりそのものがとても豊かであるばかりでなく、映画表現を通して障害を持つひとも持たないひとも共に助け合い、共に生きる社会の実現をわたしたちに提起しているとも感じました。
 音声ガイドを作成するひとたちが映画をつくるひとたちと同じように映画を愛する人たちであることが、そして音声ガイドを求める人たちもまた映画を愛する人たちであることが痛いほど伝わる映画でした。
 映画「光」は、キャチコピーにあるような「人生で多くのものを失っても、大切な誰かと一緒なら、きっと前を向けると信じさせてくれるラブストーリー」というより以上に、まさしく映画を愛するひとたちによってつくられ、映画を愛するひとたちに届けられた「映画への純愛」にあふれた名作だと思います。
 そして劇中映画「その砂の行方」の登場人物が語る、「目の前から消えてしまうものほど美しいものです」という言葉は、映画への限りないオマージュとして、これからも私の心に残り続けることでしょう。

河瀬直美監督作品・映画「光」公式サイト

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