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2017.11.15 Wed 映画「あゝ、荒野」の原作・寺山修司の小説「あゝ、荒野」とその時代 NO.1

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 映画「あゝ、荒野」を見ました。
 この映画の原作は1966年に出版された寺山修司の小説「あゝ、荒野」です。
 1960年代はベトナム戦争、アメリカ公民権運動、中国文化大革命、チェコのプラハの春とソビエト侵攻など世界の激動と重なるように、社会党の浅沼委員長暗殺や三里塚闘争、70年安保闘争、学生運動など日本社会もまた激動の10年でした。
 わたしはリアルにその時代を生きたのですが、同世代の若者たちがデモに明け暮れ、政治的な活動に情熱を燃やしている姿にあこがれとともに違和感を感じながら、眠れない夜を過ごす毎日でした。
学生運動に没入していた大学生の友人たちと徹夜で議論することもしばしばありました。みんな妙に元気で純情で情熱的でしたが、彼女彼らの口癖だった「帝国主義打倒」、「人民解放」、「革命勝利」といった言葉はよどんだ夜の空気にゆらゆらするだけで、わたしの心には届きませんでした。
 わたしもまた社会の理不尽さに異議申し立てする機会と場を切実に求めていたのですが、デモとアジ演説とゲバ棒と石礫と火炎瓶で国家権力とたたかう勇気も覇気もありませんでした。彼女彼らが熱く語る「革命」が勝利に終わったとしても、勝利した「人民」にわたしが入っていないだけでなく、その「人民」たちに排除されるべき人間とされる確信がありました。
 社会性のかけらもなく、隠れ家を探し続けるどもりで対人恐怖症のわたしは、いままでもこれからもこの町もよその町でも、いいことなどなにひとつない青春のただ中にいました。学生でもなく労働者でもなく人民でもなく、市民にもなれそうにないこのわたしはいったい何者なのか、何者になれるのか…。
 
 そんな悶々とした日々を送っていたわたしに生きる勇気を与えてくれたのが寺山修司でした。俳句、短歌、詩、エッセイやテレビ・ラジオを通して、当時は寺山教といわれるほどのカリスマ性で若者の心をわしづかみにしていた彼は、世の大人たちから危険人物と思われていました。事実、彼の著作「家出のススメ」を読んで東京に家出してくる若者が相次ぎ、彼女彼らの暮らしを成り立たせるために劇団「天井桟敷」をつくったところなど、どこか障害者の雇用のためにだけ事業をする豊能障害者労働センターと相通じるところがありました。
 どもるコンプレックスに押しつぶされていたわたしに、寺山修司だけが「どもってもいい」と言ってくれました。それどころか、畠山みどりの「出世街道」の「やるぞみておれ、口には出さず」を例にあげ、「口には出せず」から「口には出さず」と言い直したとき、そこには「どもることは言葉や思想をより深く理解し、政治を通さない人間の革命をめざす「どもりの思想」があると言いました。わたしは彼の唱える「吃音宣言」に励まされたのでした。
 この言説だけでなく、寺山修司は世の中の常識や道徳や秩序を守るルールや、それらを押し付ける権力を否定する一方、障害や貧困などマイナスと言われるものや社会的マイノリティこそが時代を変革できるとしました。それを思想化し、組織化することで政治革命とはちがう回路から人間の革命をめざしたいと、生涯にわたって演劇集団「天井桟敷」の活動にいのちを削りました。
 小説「あゝ、荒野」はさまざまなジャンルで多作した彼のたったひとつの小説で、当時誰が言ったのか忘れましたが「偉大な失敗作」ともいわれました。当時流行ったヌーヴォー・ロマンのアラン・ロブ=グリエやル・クレジオなどの影響もあったのか、1960年代の若者の街・新宿を舞台にして、怒りと憎しみと暴力が炸裂する過酷な時代を生きる二人の若者がボクシングを通じて孤独な青春を共にし、心を通わせつつも体をぶつけあうという大まかなストーリーをたどりながら、寺山本人があとがきに書いているようにモダンジャズのアドリブの手法で、いわば行き当たりばったりに登場人物の生きざまを追いかけるように書きなぐったのだと思います。 それはまた、シュールレアリスムの芸術家マックス・エルンストのコラージュにも似た手法でした。
 寺山修司はあとがきでこうも書いています。
 「わたしはこれを書きながら『ふだん私たちの使っている、手あかにまみれた言葉を用いて形而上的な世界を作り出すことは不可能だろうか』ということを思いつづけていた。歌謡曲の一節、スポーツ用語、方言、小説や詩のフレーズ。そうしたものをコラージュし、きわめて日常的な出来事を積み重ねたことへのデペイズマンから、垣間見ることのできた『もうひとつの世界』、そこにこそ、同時代人のコミュニケーションの手がかりになる共通地帯への回路が隠されているように思えたからである。」

 「手あかにまみれた言葉で形而上的な世界を作り出す」ことは寺山修司のすべての表現に貫かれたもので、いわば庶民の芸術、肉声で語られる路地裏の芸術ともいうべきものでした。それは国家に対して従順に生きることも反逆して生きることもできない若者、当時はまだ地方からの集団就職をはじめ、中卒で就職する若者も数多く、そんな若者にとって少なからずビートルズに代表されるロックや巷に流れる歌謡曲、アングラと言われた演劇や映画といったサブカルチュアがより政治的に思えたたくさんの若者たちに「公園の公衆便所の落書きや電話帳の無機的な数字の並びもまた政治的である」と教えてくれたのでした。
 わたしは小説「あゝ、荒野」をリアルタイムで読んでいたのですが、あらためてもう一度読み直すと、よくも悪くもわたしの感じ方や考え方から行動や趣向まで、寺山修司の影響を強く受けていたことをあらためて思いました。
 直接ではないですが彼と出会っていなかったらまったくちがった人生になっていたでしょうし、ずっと後に障害者の友と出会うことも、豊能障害者労働センターで活動することもなかったでしょう。わたしは自分から死を選ぶことはなかったのですが、もしかするとそちらの方に心が引っ張られたかもしれません。
 実際、わたしにとって豊能障害者労働センターと出会うことで、はじめて働く意味を知り、生きがいを仕事で発揮することができました。
 国家や社会や会社が決めるスタンダードルールを押しつけるのではなく、その集団を構成するすべてのひとそれぞれに夢があり、それぞれの違った個性をそのまま受け入れ、競争することよりも助け合える労働センターだったからこそ、対人恐怖症で社会になじめなかったわたしでも働くことができました。
 そして、労働センターと出会うずっと前の青春時代に、普通とされる社会から離脱し、自分らしく自由に生きる道もあることを寺山修司は教えてくれたのでした。
 寺山修司が言った「政治を通さない革命」は幻想かもしれないですが、政治が日常の暮らしからあふれる肉声をなくし、国会の中や選挙運動のパワーゲームでわたしたちの未来だけでなく、孫やその先の世代の未来までも奪うことになるかもしれない危機を迎えた今だからこそ、歌謡曲や演劇や映画などサブカルチャーが社会を変革できるとする彼の提案は、豊能障害者労働センターのような社会的事業体の活動もふくめ、わたしたちにとって切実なものになっていくのかもしれません。
 もっとも、寺山修司は民主主義も平和も人権も福祉も信じていませんでした。その頃も今も、それらは国家が国民をだまし、囲い込むための罠でしかないとし、何よりもその囲い込みからの解放こそが自由への第一歩と考えていたのだろうと思います。
 ですからいわゆる左翼からも右翼からも危険な人物とみなされていました。
 次回は小説「あゝ、荒野」が書かれた1960年代の社会情勢と、2021年という、東京オリンピックの翌年に時代設定された今回の映画「あゝ、荒野」が予想する社会情勢を比較し、わたしたちの未来に希望があるのかないのかを考えたいと思います。

映画「あゝ、荒野」

寺山修司〜私と彼のただならぬ関係 第2回 熱く麗しきあの時代・美輪明宏

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2017.06.01 Thu 「目の前から消えてしまうものほど美しいものです」 河瀬直美監督作品・映画「光」

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 河瀬直美監督の「光」を見ました。公開されている間に、できれば映画館でぜひ観ていただきたいオススメの映画です。
 映画の音声ガイドを作成する仕事をしている美佐子(水崎綾女)はある日、仕事をきっかけに弱視のカメラマン・雅哉(永瀬正敏)と出逢います。
 子どもの頃に父親が失踪し、いなかで過ごす認知症の母親の介護を隣人にまかせていることを心苦しく思いながら生きる意味を求める美佐子と、カメラマンにとって致命的に視力を失いつつある雅哉。
 年齢も人生経験もまつたく異なる二人が、なくしたもの、なくしつつあるものへの喪失感を抱きながら、生きる意味を共に見つける大人の純愛映画ですが、この映画はなんと4本の映画を同時進行で観客に届けてくれるのです。
 あと3本の映画とは、音声ガイドを作成している劇中映画「その砂の行方」と、スクリーンに映らない美佐子たちが作成した音声ガイドによる映画「その砂の行方」、そして、この映画「光」それ自体の音声ガイドによるもう一つの映画「光」…。
 そして、これら別々の映画がシンクロナイズしながら、最後に共通してたどり着く「光」が美佐子と雅哉の新しい人生に届けられる時、この映画は珠玉の4重奏を奏でるのでした。

 映画は美佐子が街の中で目に入るものを言葉に置き換えるシーンから始まります。彼女は視覚障害者が映画を楽しむための音声ガイドを作成する仕事をしていて、その練習をしていたのでした。
 寡黙な登場人物と限りなく美しい映像をスクリーンにそっと焼き付ける河瀬直美監督の映画では珍しく言葉言葉言葉…。それは当然のことで、この映画は映像を言葉で表現する音声ガイドがテーマで、音声ガイドの作成とそれにかかわるひとたちのドキュメンタリー映画でもあると思います。
 このトップシーンでは美佐子の心を何一つ語らないのですが、見たもの、見えているものを言葉に変えていく作業の中で、事務的にたたみかける言葉にある種の虚しさ、そしてそれが音声ガイドという仕事の難しさからだけではなく、まだ人生の行方に逡巡する一人の若い女性・美佐子の焦りのようなものが伝わってきます。
 音声ガイドの制作現場では、その予感のようなあいまいな感覚は現実のものとなり、この映画のテーマが重く美佐子に覆いかぶさってきます。
 視覚障害者のモニター数名が美佐子の作成した音声ガイドへの意見や助言を言い、それを次の会までに修正するという作業を何回も重ねて、音声ガイドが完成します。
 美佐子と雅哉が出会う場となったそこではもちろん対象となる映画は完成していて、セリフの合間に視覚障害者に場面の説明をする作業は、目で見ることのできない視覚障害者の「欠如」を補う役目を負うことになります。そこで、「足りないものを補い、助ける」という、障害者への「やさしい気持ち」が純粋であればあるほど、時には映画の内容と無関係に音声ガイドが一人歩きし、押しつけがましく「希望」や「夢」を与えようとします。
 それを雅哉は「あんたのひとりよがりの解釈だ」と言い放ちます。他の人たちもそれまで遠慮していたのか、雅哉の発言をきっかけに本音の感想を言い始めます。
 「目の見えるひとはスクリーンに映る映画を観るでしょう。けれどもわたしたちは映画を観るのではなく、映画の中に入っていくんです」。
 わたしはこの言葉にハッとしました。わたしがスクリーンに映る映画を観ている時、彼女たち彼たちはたかだか数メートル×十数メートルの四角い平面ではなく、「世界でもっとも遠いところにある」心の中のそれぞれの映画を生きているのだということを知りました。
 もともと、すべての出来事や映像を言葉に換えることなどできるわけもなく、まして視覚障害者に映画を説明するなどというのは健全者の傲慢さ以外の何物でもないのでしょう。
 その時、音声ガイドはその映画を語るのではなく、視覚障害者の映画体験をプロデュースし、もうひとつの映画をつくっているのかもしれません。
 と同時に、音声ガイドの制作にあたる人々がとても困難な作業を強いられていることも知りました。映画を説明するだけでいいのか、そもそも映画を説明できるものなのか、それを楽しむ視覚障害者もまた、音声ガイドによって映画の何を知ることかできるのか、そこに音声ガイド制作者の独善的な意図がふくまれているのかいないのか。視覚障害者一人ひとりによって感じ方が違い、弱視のひとや弱視から全盲になったひと、幼いころから全盲のひとなど、視覚障害といっても様々であることなどから、音声ガイドのあり方についても様々な考え方があることでしょう。

 わたしはこの映画を観て、若い頃に視覚障害者の友だちと映画を観に行き、私的なガイドをした経験を思い出しました
 1981年か82年で世の中が「国際障害者年」と湧き上がっていた時、「国際障害者年をぶっ飛ばせ」という映画祭が京大の西部講堂であり、わたしたちは原一男の名作「さよならCP」を観に行ったのでした。
 世の中の障害者観を指弾し、今でも輝きを増すこの映画は、脳性マヒ者集団「青い芝」の障害者たちが出演したドキュメータリーで、言語障害のある出演者たちへのインタビューに字幕を付けるべきかでも大論争がありました。彼らの主張は「字幕を付けたら字幕だけを見て、わたしの話を聞かなくなる」という、実にまっとうな意見でしたが、現実に脳性マヒ者の言葉は長い付き合いがないと理解できないということもあり、結局は字幕を付けることになりました。
 この映画の場合は話す言葉も伝えながら同時に町の風景などの映像も伝えなければならず、映画を説明する難しさを痛感した一方で、映画の場面場面を説明することでかえって当事者の想像力をさまたげてしまわないのかという疑問も持ちました。
 ともあれ、あれから40年近くの時が過ぎ、個人的な音声ガイドというボランティアではなく、まだまだ始まったばかりですがこの映画のように専門的なシステムによって音声ガイドのサービスが提供されるようになりつつあることは、ほんとうに喜ばしいことだと思います。
 そして、音声ガイドが「見えない」という、足らないものを補うためにあるのではなく、視覚障害者の伴走者として、当事者の想像力を妨げずに「もう一つの映画」を共につくることととらえる映画「光」は、映画づくりそのものがとても豊かであるばかりでなく、映画表現を通して障害を持つひとも持たないひとも共に助け合い、共に生きる社会の実現をわたしたちに提起しているとも感じました。
 音声ガイドを作成するひとたちが映画をつくるひとたちと同じように映画を愛する人たちであることが、そして音声ガイドを求める人たちもまた映画を愛する人たちであることが痛いほど伝わる映画でした。
 映画「光」は、キャチコピーにあるような「人生で多くのものを失っても、大切な誰かと一緒なら、きっと前を向けると信じさせてくれるラブストーリー」というより以上に、まさしく映画を愛するひとたちによってつくられ、映画を愛するひとたちに届けられた「映画への純愛」にあふれた名作だと思います。
 そして劇中映画「その砂の行方」の登場人物が語る、「目の前から消えてしまうものほど美しいものです」という言葉は、映画への限りないオマージュとして、これからも私の心に残り続けることでしょう。

河瀬直美監督作品・映画「光」公式サイト

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2016.11.21 Mon  「忘れないと生きていけねえ、忘れたくねえ、忘れらんねえ」 山田太一作・ドラマ「五年目のひとり」

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 11月19日、テレビ朝日で放送された山田太一ドラマスペシャル「五年目のひとり」を観ました。
 1970年代の「それぞれの秋」、「男たちの旅路」、「岸辺のアルバム」、1980年代の「早春スケッチブック」、「ふぞろいの林檎たち」と、時代の空気に敏感でありながら、時代に流されない不器用なひとびとを描く山田太一のドラマは、当時のわたしにとってバイブルに似たものでした。政治的な活動には参加しなかったものの、70年安保以後の高度経済成長のスピードにしがみつき、心の奥に取り返しのつかない忘れものをしたような鬱屈した感情を隠していたわたしは、山田太一のドラマによって勇気づけられていたのでした。
 とりわけ、連続ドラマ「男たちの旅路」の中で障害者の問題を題材にした「車輪の一歩」では、他人に迷惑をかけるなという社会の常識が障害者自身を縛っている、迷惑をかけたらいいじゃないか、いや迷惑をかけることが障害者の権利であり義務だと言い放つ主人公の鶴田浩二のセリフが反響を呼びました。また「人間はやってきたことで評価されてはいけないかね」と老人たちが異議申し立て、バス・ジャックを起こす「シルバーシート」では鶴田浩二が演じる主人公に「あんたはまだ若い、十年たったらわかる」と言って説得に応じない笠智衆など老人たちの強烈なメッセージは衝撃でした。
 その縁もあって、わたしが豊能障害者労働センターに在職していた1992年と2001年の2回にわたり、箕面で講演をしていただいたこともありました。

 1995年の阪神淡路大震災、オウム真理教事件、アメリカ同時多発テロ、東日本大震災とつづいた一大事件を一連の切迫した警鐘ととらえ、世界とわたしたちの未来の在り方を模索するひとびとがさまざまな分野からメッセージを送っている今、山田太一もまたその中の一人だとわたしは思います。
若い頃に山田太一のドラマから自分の生き方を学んできたわたしは、山田太一がテレビドラマの可能性にやや絶望していた時期を越え、東日本大震災以後、本数は少ないものの今だからこそより切実に再生の祈りを詰め込む彼のテレビドラマを待ち望んできました。
 災害が起きるたびに「絆」とか優しさが日本国中にあふれ、救援活動を通じた美談が氾濫することや、反対に「被災したものの気持ちなどわかってたまるか」という強烈なメッセージも行き交う中で確実に時は過ぎ、また新しい災害や事件にひとびとの関心が移り行く…。山田太一はそれを追い続けるドキュメンタリーが事実を追い、検証することで、ある意味一方的なメッセージを提示するのに対して、ドラマでならさまざまな対立するメッセージを登場人物に語らせることで真実を視聴者と共有し、そこから切実に再生へともがくひとびとと寄り添えるのではないかと思ったのではないでしょうか。
 彼がはじめて震災を取り上げたのは2012年のNHKドラマ「キルトの家」だったと思います。このドラマは都会の「団地」に取り残された孤独な老人たちがひとつの家に集いコミュニティの再生を願う集まりに、被災地から安住の地を求め「団地」に逃れてきた若夫婦が出会い、不安に揺れながら幸せを求める道を探し出すといった内容でした。震災から一年半がすぎた頃で、東北の被災地から避難してきたひとたちが、それを隠さなければならない風潮があったことを物語っています。ドラマの後半になって二人がぽつりぽつりと震災の体験を語り始め、それを受け止める老人たちとの交流から被災地の再生が被災地だけのものではなく、老人たちの自立と再生への想いとつながっていきます。
 2014年の「時は立ち止まらない」は今回と同じテレビ朝日の放送で、このドラマでは、震災によって息子と娘が結婚するはずだった二つの家族の内、息子と祖母を亡くし家もなくした家族と、被害がなかった高台に住む家族との間の葛藤を描いたドラマでした。被災地の中で被害を免れたひとびとの後ろめたさと、被災したひとびとを助けたいと思う気持ちと、自分たちが悪くもないのに助けてもらうことへの屈辱と無念がぶつかり合います。同じ被災地に居ながら運よく被害を免れたひとびとの心にも、後ろめたさだけではない大災害の爪痕が広く深く残って行くことを痛烈に描いたドラマでした。

 そして今回のドラマ「五年目のひとり」は、東日本大震災の5年後、癒えぬ心を抱く孤独な中年男と多感な少女との不思議な出会いがもたらす再生の物語です。
 孤独な中年男・木崎秀次に渡辺謙、亜美の両親に柳葉敏郎と板谷由夏、パン屋の主人に高橋克実、その妻に木村多江、そして木崎を東京に呼び寄せ見守る花宮京子に市原悦子と、そうそうたるベテラン役者に交じって多感な少女・松永亜美を演じた蒔田彩珠、亜美の兄を演じた西畑大吾の若い二人が好演しています。

 文化祭からの帰り道、中学生の亜美は見知らぬ中年男(渡辺謙)に、歩道橋で呼び止められます。文化祭で男はダンスのステージに立った亜美を見たといい、「キレイだった。いちばんだった」と言葉を贈り、立ち去ります。
 亜美は思いがけない褒め言葉に有頂天になりますが、母・晶江がその話を聞き自宅に心配のあまり、警察を呼ぶ騒ぎにまでなってしまいます。
 数日後、街で男を亜美は偶然見かけ、小さなパン屋で彼が働いていることを知ります。その男木崎秀次は知人の誘いを受けて故郷からこの町に移住し、ある事情で無給で働いていたのでした。木崎のことを母が疑うほど、悪い人間には思えない亜美は次第に秀次と会話を重ねるうち、打ち解けていきます。
 そんなある日、パン屋の主人から亜美は本当の秀次の身の上を聞く。実は、東日本大震災の津波で秀次は家族をいちどに8人も失ったという、あまりに壮絶な過去を秘めていたのでした。福島で獣医をしていた木崎は震災当初、牛の処分など過酷な仕事をしていて、最愛の家族の死と向き合わないまま3年がたち、自分の心がこわれかけていることに気づき、自ら病院に入院治療し、退院後同郷の京子(市原悦子)の勧めで東京に出てきたのでした。
 亜美は木崎が声をかけてきたのは、木崎がなくした娘に似ているからだと思います。そして、わたしは亜美で木崎の娘ではないといいます。しかしながら木崎はそのことをわかっていても、どうしても亜美を娘とも感じていて、娘や妻、息子を亡くした現実から目を背け、自分の心がまだ癒されていないことを知るのでした。
 まわりからも自分からももう亜美には会ってはいけないと決めた木崎は、亜美の兄から「妹がもう一度、今度は亜美として会って欲しいと言っている」と伝言されます。
 福島に戻るところから、もう一度再生しようと決め東京を去る日、バス停の道路の向う側から手を振る亜美がこちら側に必死で走ってきた時には、木崎の姿はもうありませんでした。(ドラマなので、ネタバレしています。ごめんなさい。)
 このドラマの最後の最後、この場面まできて急に号泣してしまいました。震災で亡くなった最愛の家族や友人、それでも生き残った者は生き続けなければならないのです。そして、普通ならあり得ない50代の男が14歳の少女との出会いによって人生の深い意味をあらためて知り、勇気を絞って生きなおそうとする姿に涙が止まらなくなったのでした。
 「忘れないと生きていけねえ、忘れたくねえ、忘れらんねえ、忘れないと生きていけねえ、食パンにメロンパンに…」。泣き崩れる木崎に京子はいいます。「泣いて、思いっきり泣いてから福島に帰って…」。

 山田太一は東日本大震災から5年が過ぎ、いまだにその悲しみを引きずっているひとびとに少し引いてしまう世間の風潮があるけれども、まだちゃんと泣いていないひとがきっといるにちがいない、人を失ったつらさというのは他人にあまりいうことではないし、言っても相手が困るだろうというような、そうした深い悲しみ、心の波立ちといった感情の世界を描くことがフィクションのおもしろさだとコメントしています。
 「まだちゃんと泣いていないひとがいる」というコメントから、先日観た映画「永い言い訳」の西川美和監督の言葉を思い出しました。彼女もまた「永い言い訳」という映画を撮ったひとつの理由に、「3・11の大震災を経験した後、大切な人との愛に包まれた別れではなく、後味の悪い別れ方をした人の話を描きたかった」と言います。
 「目の前にいる人が突然いなくなった時の、あの時に一言声をかけてれば、ひと目あっていれば、といった後悔を背負いながら生きていく人たちの人生を描きたかった」と…。
 この映画では、主人公の幸夫が自宅で愛人と情事にふけっている時に、旅行中のバスの事故で妻が死んだというテレビニュースが流れます。妻に謝る機会も許してもらえる機会も永遠に失った幸夫は、罪悪感の落としどころがみつからずにジタバタします。 「最愛の妻を亡くした夫」を演じる事しかできない幸夫もまた、ちゃんと泣くことができないのでした。自分勝手で見栄っ張りのどうしようもない嫌な奴だった幸夫が「愛するべき日々に愛することを怠ったことの、代償は小さくはない」と気づいたとき、はじめて妻の死を受け入れることができるのでした。喪失と引き替えに生きなおす再生の物語は、今回のドラマとつながっているように思います。
 もちろん、震災による15000人に及ぶ家族や友人や恋人との別れに向き合わなければならなかったひとびとの心の時計が、映画「永い言い訳」の主人公と一緒にはできないのは当然のことです。しかしながら、生き残ってしまったひとりひとりのそれからの長い人生が同じ時を刻むはずはなく、再生の物語が喪失の物語でもあることを、映画「永い言い訳」もドラマ「五年目のひとり」も教えてくれたのではないでしょうか。

ドラマ「五年目のひとり」無料試聴

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2016.10.19 Wed 「愛するべき日々に愛することを怠ったことの、代償は小さくはない 映画「永い言い訳」

永い言い訳

 映画「永い言い訳」を観ました。このごろのわたしの映画感想の口癖ですが、痛い映画でした。
 映画「永い言い訳」は「ゆれる」、「ディア・ドクター」、「夢売るふたり」の西川美和監督が、第153回直木賞候補作にもなった自著を自身の監督、脚本により映画化したものです。西川監督は彼女自身のオリジナル脚本で映画をつくり、それをまた小説にもする貴重な映画監督ですが、彼女自身が言っているように、それは時として閉ざされた自分だけの世界を多くのスタッフや俳優によって開かれていくプロセスが映画になっていく感じがして、映画づくりそのもののドキュメンタリー性が魅力的な職人肌の監督だと思います。

 津村啓というペンネームでテレビのバラエティなどでも活躍する人気小説家の衣笠幸夫(本木雅弘)は、ある日、長年連れ添った妻・夏子(深津絵里)が旅先で突然のバス事故に遭い、親友とともに亡くなったと知らせを受ける。だが夏子とは既に冷え切った関係であった幸夫は、その時不倫相手と密会中。世間に対しても悲劇の主人公を装い、涙を流すことすらできなかった。そんなある日、夏子の親友で同じ事故で亡くなったゆき(堀内敬子)の遺族であるトラック運転手の大宮陽一(竹原ピストル)とその子供たちに出会った幸夫は、ふとした思いつきから幼い兄妹の世話を買って出る。なぜそのようなことを口にしたのか、その理由は幸夫自身にもよくわかっていなかったが……。

 皮肉なもので、引退したらシニア料金でどんどん映画を観ようと思っていたのに、そうなってみると大阪の北の果て・能勢に住んでいると梅田に出るだけで無収入の身には交通費がかさばり、結局は前よりも映画を観ることがめっきり少なくなってしまいました。
 そんな事情で、よさそうな映画をどんどん飛ばし、自分の中でこれは絶対に観に行かなくてはと思う映画を厳選すると、「永い言い訳」になってしまいました。
 それにしてもこの監督は女性でありながら男ごころを描くのがとても上手で、それも男のだめさ、いい加減さ、自意識過剰さ…、およそ男の厭らしさを徹底的にえぐる、それも映画は男を直接非難するのではなく、男が自らの身と心を持ちこたえられなくなり、どんどんと自己崩壊していくまで追い詰め、見つめ続ける…、とても残酷な優しさを持った監督だと思います。
 東日本大震災を経験した後、「大切な人との愛に包まれた別れではなく、後味の悪い別れ方をした人の話を書いてみたかった」という西川監督は世間的な道徳観とはまったくちがい、妻がバス事故で死んだとき、愛人との情事にふけっていた幸夫を非難するのではなく決して許しません。彼がうろたえ、じたばたしたり後悔したりしながらそれでも自分を取り繕う姿を、体のすみずみ、心のすみずみまでカメラを回し、決して手を緩めてはくれません。
 妻が死んだというのに涙も出ない、実は関係は冷え切っていたのに、愛する妻を亡くした悲劇の夫の役を演じさせる。愛するべき日々に愛することを怠ったことの、代償は小さくはないと気づくまで追い詰めていくのです。
 一緒に死んだ高校時代からの親友の夫は真逆で、自分の感情をそのままぶつけ、恥ずかしげもなく大泣きし続けます。今までの幸夫なら、決して友だちになるはずもない男との間に芽生える奇妙な友情。そして、母を亡くした悲しみをここに深くしまい込み、妹の世話をするために中学受験をあきらめようとする兄と、母の死を受け止めることができないのだろうか、わがままで天真爛漫で、それでいて大人の嘘や都合をしっかりと読む妹。トラックの運転手で週に2回は夜勤で帰れない父親。
 幸夫は子どもたちのためにハウスキープをすることになります。子どももつくらず、自分勝手に生きてきたと言える幸夫にとって、それは思いがけない心境でした。他人のために自分ができることをしようと、今まで自分のためにしかなかった時間と身体を使おう、そんな気持ちになったのは、子どもたちのいじらしさだけが理由ではなく、反対にこどもたちが幸夫を受け入れてくれたからでした。実際こんなに性格の悪い幸夫が、なぜか子どもたちには自然に心を開いていくのでした。
 これだけを言えば、パンフレットや予告編にあるような、再生の物語のようですが、わたしは監督が、映画が彼に与えた「永い刑罰」の始まりなのだと思います。
 妻の突然の死が幸夫にもたらした不思議な疑似家族がそれほど長くは続かないこともまたたしかなことで、映画は冷徹にゆっくりとカメラを回します。幸夫が人間らしい心をとりもどしていけばいくほど、妻の気持ちを顧みず妻とともに生きることを捨ててきた事実を突きつけられるのです。
 まさしく「愛するべき日々に愛することを怠ったことの、代償は小さくはない」(原作小説)のです。
取り戻せない過ちと取り戻せない人生と、それでも人は生き続けなければならない、生き続ける言い訳はとても永い言い訳なのでしょう。
 主演の本木雅弘は映画の前半の鼻持ちならない自己中心のいやな奴から、映画が進むにつれてどうしようもなくだめな男、いままで目を向けることをしなかった人生のもろもろにつまづき、おろおろおどおど前のめりになりながら、心に押し込めてきた感情を爆発させ、そのことでまた自己嫌悪に陥る孤独な男を好演しています。彼の姿を見て自分と重ね合わせる男は多いことでしょう。わたしもまた、あまりに思い当たるところばかりで、スクリーンから目をそむけたくなることが何度もありました。
 少しだけネタバレになったとしたらお許し願って、西川美和監督が最後にこんな幸夫に救済の手を差し伸べるのか、ぜひ映画館でごらんになってください。

永い言い訳

映画『永い言い訳』公式サイト



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2016.06.22 Wed 日本が誇る舞台女優・藤山直美と阪本順治監督作品・映画「団地」

映画「団地」

 6月19日、シールズの街頭行動に参加するため地下鉄本町駅から会場のうつぼ公園を目指して歩いている途中で、雨のため中止になりました。
 箕面の友人と現地で待ち合わせすることになっていて、彼とは本町駅の構内で合流したのですが、ぽっかりあいた時間を映画でも観ようかということになり、シネ・リーブル梅田で公開中の阪本順治監督の「団地」を見ました。
 阪本順治監督が日本アカデミー賞最優秀監督賞など数々の映画賞を受賞した「顔」の藤山直美と15年ぶりにタッグを組んだ映画です。数年先まで仕事が詰まっている日本を代表する舞台女優・藤山直美のスケジュールが2015年の夏に空きそうだと聞き打診したところ、「阪本さんの映画なら出てもいい」と返事をもらい、一週間で脚本を書き上げたそうです。
 一人息子を交通事故でなくし、三代続いた漢方薬の店を売り払って半年前に団地へ越してきた清治(岸辺一徳)とヒナ子(藤山直美)夫妻。清治は毎日植物図鑑を片手に裏の林に木々やキノコを観察するのが日課。ヒナ子は近所のスーパーでレジ打ちのパートに出かける毎日を送っていた。不器用な彼女のレジの前はいつも列ができ、そのうえお客さんと話し込んでしまい、「どんくさい」といつも怒られています。昭和の面影が濃い団地は空き室が目立ち、住人たちは二人の噂話がもっぱらの楽しみのようになっています。そんな夫婦に親しく話しかけてくれるのが自治会長の行徳正三(石橋蓮司)と妻の君子(大楠道代)。
 ある日、些細なことでいじけ、清治が「ぼくは死んだことにしてくれ」と床下に隠れてしまいます。2か月も床下に隠れている間に、離婚、清治の蒸発、さらには殺人か、などと好き勝手なことを噂される始末。ヒナ子夫妻にまつわる噂はさらに拡大し、警察やマスコミまでをも巻き込む事態へと発展していきます。そのうえ黒いスーツに日傘という奇妙ないでたちで、「こぶさたです」を「五分刈りです」と言い間違えたり、立ち振る舞いがどこかおかしい青年・真城(斉藤工)が大量の漢方薬を注文し、それを夫婦が手作業で作り始めるあたりから、この物語は奇想天外な方向へと展開します。
 この映画は、藤山直美というひとがいなければ成立しないといって過言ではない圧倒的な存在感と、岸辺一徳、石橋蓮司、大楠道代という阪本組のベテラン俳優の言葉としぐさと沈黙と饒舌の限りを尽くした、これぞ日本料理(映画)といえる映画です。
 団地の部屋の徹底的なリアリスムは建具から台所の食器棚、年季の入った流し台とテーブルのすべてにいきわたっています。またエレベーターのない5階建ての団地。空き室がめだつ夕暮れに頼り気にゆれる盆やしたしかいいあかり。それを眺めながら、「団地って噂のコインロッカーやな」とつぶやくヒナ子。
 リアリスムの極致のような設定と人間関係を丁寧に掘り起こし、さまざまな人生が交差する団地を舞台に、ごく平凡な主婦のまったく普通ではない日常をユーモアたっぷりに描くこの映画は、その生真面目な「あるある」のリアリスムゆえに暴走していくプロセスを映像美やシャープな場面展開ではなく、日本の宝といってもいいベテラン俳優の会話だけでわたしたちをとんでもないところへと連れて行ってくれるのでした。
 藤山直美は「奇妙な人を演じているわけではないし、ごく普通の慎ましやかな生活をする初老の主婦」と説明する。「息子を亡くすことは想像を絶することですけど、悲しみ方は年齢によって変わりますよね。物悲しくて、哀れで、それでも生きていく、そういうのが出せたらと思っていました」と語っています。
 喜劇役者にとどまらず、日本を代表する実力派の大女優と高く評価される藤山直美の芝居を実は一本しか見ていないのですが、ほんとうにすごい人だと思います。そして親子は別といいながらも、あの藤山寛美を父に持つ才能を現代に進化させた彼女が演技なのか最初から持っていたのかわかりませんが、大きな「かなしみ」に庶民的なセリフひとつひとつが裏付けされている存在感に圧倒されます。(そういえば子供の頃に見た藤山寛美もまた、リアリスムのセリフにどこかブラックユーモアというか諧謔というか毒気が隠れていました。)
 その上に役者としての努力もまたすさまじいものがあるのでしょう。「顔」の現場でヒロインが号泣するシーンで「吸う息と吐く息、どっちで泣きましょうか」と聞かれて一瞬答えに窮したと阪本順治が証言しています。

 舞台となる団地は昭和の高度経済成長の申し子でしたが、今は老朽化して空き家が目立ち、「団地の子」が差別やさげすみの対象となっている由々しき事態を解消すべくリニューアルされたり壊されたりしています。
 団地自体の誕生は1950年代にさかのぼるようですが、わたしの記憶では団地を何棟も作り、ショッピングセンターや保育所、幼稚園、場所によっては学校までも敷地内につくり、ひとつの町のように建設した日本で最初のニュータウンは大阪北部の千里ニュータウンだったと思います。
 住宅不足の解消のために建設された団地やニュータウンは庶民にとって、ステンレスのシンクのあるキッチンや内風呂、水洗トイレなど、すべてが憧れでした。戦前から引きずっていた家族はニューファミリーに模様替えし、間取りをおしゃれに2DKと言い換える新しい暮らしはそのまま今日よりは明日が確実に豊かになると思い込める経済成長のアイテムとなっていったのでした。
 団地で暮らしたことがないわたしは今でも団地は憧れの対象としてあるのですが、老朽化したこととは別に団地住まいが差別の対象になっていると聞き、耳を疑います。
 いつのまに庶民の憧れの象徴だった団地がゴーストタウン化しただけでなく、蔑みの対象にまでなったのか、そこには半世紀を超えた時のキャンバスに取り残された日本社会の成長神話が行く先をなくしたまま立ち尽くしているようです。
 華々しく誕生し、今では信じられないほどの無数の人々の夢と希望を長方形の空間に閉じ込めてきた団地をよくも悪くもワンダーランドとして育った南河内万歳一座の内藤裕敬の芝居に頻繁に登場する団地の部屋の窓を真っ赤に染める夕日や、若松孝二があの「壁の中の秘め事」で鋭く描いて見せた、小さな部屋の一つ一つに収まり切れない孤独と欲望と絶望に引き裂かれた団地コミュニティのさまざまな事件を飲み込みながら、この巨大なコンクリートの箱舟は昭和の激動の海で座礁したままなのでしょうか。
 ともあれ、この映画の団地は最近よく描かれているような廃墟やモンスターではなく、登場人物の人生とともにやさしく年老いて、わたしが子供だった頃の長屋へと変身しているように思いました。そこには誕生したころのように人々を孤独に陥れる暴力性はなくなり、噂話もどこか滑稽で他者をきずつけるのではなく実は気配りしながら見守りあっている優しいコミュニティーになっています。
 面白おかしく生真面目な登場人物たちが次から次へとわたしたちを笑わせながら、どこかペーソスにあふれたセリフのひとつひとつが映画を見終わった後も心にしみこんでいくこの映画は、もしかするとカンフル剤を打ち続けても経済が成長するわけではなく、 むしろ成長しない豊かさをどのようにたのしめばよいのか思いまどうわたしたち、幸せを求める前に何が幸せなのかわからなくなってしまったわたしたちを「だいじょうぶ」と救済するノアの箱舟なのかもしれません。

映画「団地」

映画「団地」公式サイト





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