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2017.10.17 Tue わたしの「極私的路地裏風聞譚・河野秀忠さんがいた箕面の街」 NO.3

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 1987年5月、豊能障害者労働センターは箕面市桜が丘の市営住宅の空き地に、全国から寄せられた1000万円の基金で建てた新事務所に引っ越しました。
 豊能障害者労働センターの経営状態からは決して用意できないお金を地域の方々をはじめ、関連団体や個人の方々、そして機関紙「積木」の読者の方々が寄付してくださったのでした。
 また前年の12月に河野さんの全国的な活動で出会った小室等さん、長谷川きよしさんによる、豊能障害者労働センターの事務所移転応援コンサートを箕面文化センターで開き、その収益も移転費用に使わせてもらいました。
 その日のコンサート終了後、お二人とも初代事務所に来てくださり、河野さんをはじめ10人足らずでささやかな打ち上げをしました。河野さんがお二人へのねぎらいと障害者問題を話している間、のちに箕面市議会議員を経て今は被災障害者支援「ゆめ風基金」の事務局長をつとめる八幡さんがチケット売り上げの計算をし、今は箕面市障害者の生活と労働推進協議会の代表理事である武藤さんが何回も近所の自動販売機のビールを買いに走っていました。
 わたしは移転基金事務を担当していた関係で同席していたのですが、なにしろ小室さんも長谷川さんもテレビの向こう側にいるスターですから、一言もしゃべらずただただ、お二人を見つめるだけでした。
さすがに長谷川きよしさんは早くにお帰りになったのですが、小室さんは深夜にまで及ぶ「飲み会」に最後までつきあってくださいました。
 夜も更け、すきまだらけの部屋に一段と木枯らしがビュンビュン吹く中、「河野さん、ほんとうに寒いね」といい、辛子色の皮ジャンを体に巻き付けて体を震わせていた小室さんの姿を今でも思い出します。あれからずいぶん年月が経った今、小室さんが「ゆめ風基金」の呼びかけ人代表を引き受けられているのは、この頃からの河野さんとの深い縁もあったのでした。
 最初の事務所で活動した5年間は毎月まともに給料が出ることはなく、河野さんが友人からお金を調達してくるのもたびたびでした。会計を担当していた八幡さんが笑いながら「今月も赤字です」と報告するのをみんなでまた大笑いするという始末でした。河野さんといえば何人かお金を貸してくれる友人を捕まえていて、お金を借りては期限が来たら別の友人から借りたお金で返済するというあんばいでした。
 新しい事務所に移転した後、豊能障害者労働センターは激動の時代を迎えるのですが、黎明期の5年間はみすぼらしい現実の田畑に種をまき、大きな夢を育てるための時間で、築30年の古い民家だった初代事務所はいわば「梁山泊」でした。
 河野さんは古くは三井三池炭鉱の労働争議、60年安保、沖縄問題、佐藤訪米阻止闘争、学園紛争、70年安保などの全国的な運動から、小さな町工場で働く労働者のための小さな組合の組織づくりまで、彼の実体験を酒の肴にしながら地域社会や日本社会、そして世界にまで視野に入れた話を独特の語り口で語ってくれました。
 そんなとても濃密な話の中でも、当然のことながらもっとも河野さんが熱を帯び、必死に伝えてくれたのは障害者運動の歴史と、当時の現在進行形のさまざまな障害者運動でした。
 その中でも「青い芝」(日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会)の運動について河野さんの話を聞き、目から鱗のおどろきとともに障害者の運動が(彼の口癖だった)「にんげんの運動」であることを学び、心が躍りました。
 障害児を殺す母親に同情し、「施設が足らない社会が悪い」とする減刑運動に対して、「我々は殺されていい存在ではない」と猛然と異議申し立てをし、車いすを利用する障害者の乗車を拒否するバスと、迷惑だとする健全者に対して「我々を乗せろ」と乗車闘争をする運動は、当時の社会に大きな衝撃をあたえました。
 これらの闘争は、障害者をこの社会にあってはならない存在とし、障害者がいないことを前提とした社会への痛烈な抗議で、差別をなくす運動の中でさえ障害者の存在が排除されていると主張しました。
 70年代の後半、関西での青い芝運動の中で障害者と介護者の関係性についての内部の激しい議論の渦中に河野さんもいたこともふくめて、彼の実体験を通した障害者運動の厳しい歴史は、始まったばかりの豊能障害者労働センターの若いスタッフに先人たちへのリスペクトとともに、自分たちが切り開かなければならない荒野の道の行方を照らしてくれたのでした。
 豊能障害者労働センターは障害のあるひともない人も共に働き、障害者の所得補償と自立生活をすすめるところから障害者の人権を全的に獲得することを目指しましたが、そもそも障害者と健全者の間には乗り越えられない深い溝があり、差別と排除があることを青い芝の運動はおしえてくれました。
 豊能障害者労働センターは当時の障害者団体からは健全者が障害者を抑圧し、働かせている「差別団体」と思われていたところもありましたが、わたしたち自身は青い芝の運動や全障連の運動へのコンプレックスの混じった憧れを持ちながら、当事者の運動と働く場づくり運動との間で引き裂かれながら活動していたのでした。
 もし、河野さんが彼女たち彼たちの熾烈な運動の歴史を教えてくれてなかったら、豊能障害者労働センターはみすぼらしい福祉団体でしかなかったことでしょう。
 中でも河野さんから何度も聞いたのが青い芝の行動綱領でした。

一、われらは、自らが脳性マヒ者であることを自覚する。
われらは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自らの位置を認識し、そこに一切の運動の原点を置かなければならないと信じ、且つ行動する。
一、われらは、強烈な自己主張を行なう。
われらが、脳性マヒ者であることを自覚した時、そこに起こるのは自らを守ろうする意志である。われらは、強烈な自己主張こそそれを成しうる唯一の路であると信じ、且つ行動する。
一、われらは、愛と正義を否定する。
われらは、愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発し、それを否定することによって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ行動する。
一、われらは、健全者文明を否定する。
われらは、健全者のつくり出してきた現代文明が、われら脳性マヒ者を弾き出すことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動及び日常生活の中から、われら独自の文化をつくり出すことが現代文明の告発に通じることを信じ、且つ行動する。
一、われらは、問題解決の路を選ばない。
われらは、安易に問題の解決を図ろうとすることが、いかに危険な妥協への出発であるか身をもって知ってきた。われらは、次々と問題提起を行なうことのみが、われらの行ない得る運動であると信じ、且つ行動する。

 後年、実際に豊能障害者労働センターの障害者たちと人生を共にする中で、わたしは健全者の言葉や行動が障害者にとってしばしば暴力でしかないことや、障害者と健全者が対等であることがほとんど絶望的に思えること、ましてや世間とたたかい、事業で収益を得ていく中での障害者と健全者のありようなどに思いまどうとき、青い芝の行動綱領がいかに深いもので、半世紀を過ぎた今もあせることなく障害者に勇気を与え、未来までも照らす指針であることを痛感しました。
 この行動綱領を作成した横田弘さんは1998年8月、大阪府同和地区総合福祉センターで開催された全障害連交流大会のシンポジウムに出席され、この行動綱領を一つずつ説明してくださったのですが、どの条文も文学的でも哲学的でもなく、脳性まひの当事者として子供時代からいつ殺されるかもしれないという恐怖とともに生きてきた中でたどり着いた、自分のいのちと尊厳を守るために必要な方法なのだと話されました。
 そして21世紀を前にして、青い芝の運動の行動綱領が時代にそぐわなくなっているのではないかという問いにこう答えました。
「障害者自立センターとか、障害者の働く場・生きる場とか、70年代に比べて障害者が少しは生きやすくなっていると思われるかもしれないが、この国は何時でもわたしたちを殺す準備をしていることをわすれないでください。」
 そう言い残して大阪を去って行った横田さんは、2013年に亡くなられました。
 2016年、神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で19人が刺殺され、26人が重軽傷を負った事件は大きな衝撃を与えました。障害者を「人の幸せを奪い、不幸をばらまく存在で、殺すのが世のため」などとする犯行理由を平然と述べる犯人の背後から彼の犯行を後押ししたのは、この国の差別的な福祉制度と健全者幻想であることが明らかになりました。
 横田さんの言い残した予言が胸を打つとともに、青い芝の行動綱領がますます必要とされてしまう恐怖と非寛容の暴力に満ちた悲しい時代へと突き進んでいることを痛感します。

その中でも「青い芝」(日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会)の運動について河野さんの話を聞き、目から鱗のおどろきとともに障害者の運動が(彼の口癖だった)「にんげんの運動」であることを学び、心が躍りました。
 障害児を殺す母親に同情し、「施設が足らない社会が悪い」とする減刑運動に対して、「我々は殺されていい存在ではない」と猛然と異議申し立てをし、車いすを利用する障害者の乗車を拒否するバスと、迷惑だとする健全者に対して「我々を乗せろ」と乗車闘争をする運動は、当時の社会に大きな衝撃をあたえました。
 これらの闘争は、障害者をこの社会にあってはならない存在とし、障害者がいないことを前提とした社会への痛烈な抗議で、差別をなくす運動の中でさえ障害者の存在が排除されていると主張しました。
 70年代の後半、関西での青い芝運動の中で障害者と介護者の関係性についての内部の激しい議論の渦中に河野さんもいたこともふくめて、彼の実体験を通した障害者運動の厳しい歴史は、始まったばかりの豊能障害者労働センターの若いスタッフに先人たちへのリスペクトとともに、自分たちが切り開かなければならない荒野の道の行方を照らしてくれたのでした。
 豊能障害者労働センターは障害のあるひともない人も共に働き、障害者の所得補償と自立生活をすすめるところから障害者の人権を全的に獲得することを目指しましたが、そもそも障害者と健全者の間には乗り越えられない深い溝があり、差別と排除があることを青い芝の運動はおしえてくれました。

小室等「死んだ男の残したものは」

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2017.09.30 Sat わたしの「極私的路地裏風聞譚・河野秀忠さんがいた箕面の街」 NO.2

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 1982年4月、阪急箕面線桜井駅の裏の路地に取り残された古い民家を拠点に、豊能障害者労働センターがほそぼそと活動を始めました。
 その年の7月だったと思います。妻に勧められて、わたしは豊能障害者労働センターの事務所を訪ねました。話には聞いていましたが、事務所とは程遠く、引き戸は開け閉めができず、夏でしたので戸が外されていました。聞くと、戸締りする時は戸をはめるそうで、ガラスの窓は割れたまま、白壁は一部崩れ、天井を見上げると空が見えていました。
 豊能障害者労働センターの設立時は脳性まひの障害者2人をふくむ5人の専従スタッフがいましたが、この頃は粉せっけんを袋詰めし、販売する仕事しかありませんでした。
 全員で粉せっけん詰めをするのですが部屋中に粉せっけんの粉が舞い、タオルで顔を隠してもそれぐらいで防げるはずもなく夏には冷房もない部屋で汗だくにもなり、体中がぬるぬるになりました。それでも、障害者2人は嬉々としていて、脳性まひ特有の不思議な動きをしながら粉せっけんを詰めていたものでした。
 脳性まひの人が粉せっけんを詰める仕事をしていることなどきっと想像できないことだったでしょうし、それを見た福祉関係の人は人権問題として大騒ぎしたかもしれません。しかしながら、障害者の授産施設とは決定的にちがう豊能障害者労働センターの理念は、この時にすでに確立されていたのでした。
 わたしは今もそうですが吃音の対人恐怖症で社会性が著しく欠如し、集団行動が苦手でしたが、労働センターと知り合い、ここならわたしでも仲間に入れてもらえるのではないかと感じました。また彼女たち彼たちもわたしを受け入れてくれました。
 そうこうしているうちに、もう一人、24時間介護を必要とする脳性まひの障害者が仲間になり、わたしも泊り介護をするようになりました。今は資格を持った人が有償介護していますが、その頃は福祉制度も乏しい中、無償で自立障害者の介護を交代でする時代でした。
 そして、月末にある運営会議にわたしも参加するようになりました。
 今では60人ほどの大所帯で箕面市の公共施設の会議室を借りて運営会議をされているようですが、その当時は事専従スタッフに代表の河野さんが加わり、総勢8人ほどでが事務所で会議していました。
 河野さんは障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」の編集長として全国に取材や講演で飛び回り、また主に大阪府や大阪市の人権運動や障害児教育教材の執筆などで超忙しい日々を送っていましたが、それらの重要な活動を天秤皿の片方に乗せてもなお、豊能障害者労働センターは格別に重い存在だったと思います。
 彼が住む地元の街ということもありましたが、大きな理念の実験場として、豊能障害者労働センターの未来に夢を見ていたのだと思います。
 障害者運動としては大阪をはじめとする全国のメインストリームの末席に位置しながらも、障害者の一般就労の権利保障と、一般就労から排除される障害者を福祉的就労(授産施設や障害者作業所による、賃金を伴わない就労)ではない、箕面市独自の社会的雇用(福祉政策として障害者の賃金保障をする雇用)の創出と助成制度を提唱し、1990年の箕面市障害者事業団の設立と、豊能障害者労働センターなどの市民が運営する社会的雇用の場への助成制度を実現させたことは、全国でも突出した運動でした。
 しかしながら、わたしは河野さんの箕面における功績の最たるものは、豊能障害者労働センターそのものなのではないかと思っています。
 高度経済成長の終着駅、バブルの絶頂のただなかで国中が騒然としていた1982年、豊能障害者労働センターは障害者を保護訓練管理収容する既存の福祉制度を拒否し、福祉助成金のないまま「財布はひとつ」の原則のもと、ささやかな事業でつかんだお金を障害者も健全者も対等にお金を分け合っていました。
 冬には枯らしが吹き荒れ、冷蔵庫に入れないとビールが凍ってしまい、外から帰るともう一枚コートを着る極寒と極貧を笑いでしのぎ、それでも「明日はきっといいことがある」と根拠のない、幼い夢を見る若い専従スタッフをこよなく愛した河野さんは、それがゆえに他の障害者団体には求めなかった厳しい道を彼女たち彼たちに用意したのでした。
 設立当初はたしか10万円の運営資金もつくれず、もともと限りなく少ない給料の遅配やさらなる減額も日常茶飯事でしたが、河野さんの口癖は「どこからも金は降りてきません。こうなる責任はすべてあなた方にあるのです」と突き放していました。
 そこではじめたのが大阪梅田での街頭募金でした。週に一度、梅田地下街での募金活動で得たお金の方が毎日の粉せっけんの事業収益よりも実入りが良かったのでした。
  「財布がひとつ」の原則は平等に給料を分け合うのではなく、それぞれの生活事情を申告し、時にはお互いの要求を「ぜいたくだ」とののしりあいながらも、もっとも貧乏なところで分かり合い、助け合う同志としての結束力が高まりました。
 河野さんにとって豊能障害者労働センターは、障害者の運動体の前に彼の若い頃に夢見て挫折した「革命運動体」に近いものだったのかもしれません。それも、マルクス・レーニン主義のエリート労働者による全体主義の革命ではなく、ひとりひとりが際立って違う障害者による助け合い革命というべきか窮民革命というべきか、たったひとつの涙も無駄にせず、だれひとり排除しない「かくめい」を夢見ていたのだと思います。
 その思いはさまざまな活動の方法や経験則を持ちながら、若い専従スタッフに自分の理念や手法をおしつけるのではなく、彼女たち彼たちの自由を最大現に認め、むしろその後方支援に徹するという姿勢に現れていました。
 それは彼が持たれていたイメージとはまったくちがうもので、なかなか信じてもらえないのですが、若い専従スタッフたちにはよくわかっていて、それだけに河野さんをとても信頼し、みんな大好きで、月に一回の運営会議と、そのあとでビールを飲みながら河野さんが当時の全国の障害者運動の出来事を話してくれるのを楽しみにしていました。
 また、たった8人程度の会議でも必ず月に一度、その前に事務局会議をすることを求めたのも河野さんでした。会議のためのレジュメもしばらくして障害者が作成し、「レジュメ」が「出城」になっていて河野さんが「出城ってなんや」と聞くと、「レジュメ」のことを「出城」と思っていたとわかり、みんなで大笑いしたこともありました。
 また、「部落解放箕面市民共闘会議」へのイベントの後援依頼文に、「部落解放箕面市民教頭会議」と書いて提出したこともありました。
 そんな世間知らずの幼い集団であっても、「会議で物事を決める」ことと「本人のいないところで本人のことを決めない」という原則をかたくなに守ることの大切さを、河野さんは教えてくれました。
 そして、機関紙を発行することもまた河野さんの教えでした。当初は数少ない応援者と粉せっけんの購入者に限られていても、機関紙を通じて自分たちの思いを伝え、障害者の問題を身近な問題としてとらえてもらうことと、何よりも今何を伝えるべきか、機関紙の編集を通して学習することができるようになりました。
 この作業は後にカレンダーや教育教材の通信販売へと発展し、豊能障害者労働センターと機関紙「積木」は全国に存在を知らせることになりました。また、地域でのイベントの告知でも大きな力を発揮し、1000人規模のコンサートを成功させる原動力になった他、箕面市内で運営するお店の情報も適時届けられるようになったのでした。
 さらには阪神淡路大震災や東日本大震災など、各地で発生する災害の被災障害者救援金・支援金の呼びかけにも全国から多数の方たちが多額の支援金を送ってくださいました。
 河野さんは自らが編集長をつとめる「そよ風のように街に出よう」の経験から機関紙を発行する大切さを痛感して提案したと思うのですが、河野さんが想像した以上に機関紙「積木」はたくさんの読者に支えられたフリーペーパーに発展したのでした。
 河野さんに「積木」用の原稿を依頼すると、襟を正すように「積木」に寄稿するのは特に緊張すると話していました。ですから、のちに本になった「私的障害者解放運動放浪史」の連載を依頼するとすごく喜んでくれただけでなく、「これなんとか編集できひんか、それなりに貴重な記録なんやけど」と彼の長年の日記をどっさり預けてくれましたが、わたしの力不足で日の目をみないままになってしまいました。
 豊能障害者労働センターは河野さんの実験場といいましたが、「財布がひとつ」からはじまって、彼は究極の民主主義と窮民のネットワークをつくりたかったのだと思います。
 運営会議に障害当事者を排除せず、すべての構成員で物事を決めるという原則は、それゆえにNPO法人になることもとても難しくなります。専従スタッフがすべて理事になると、とても理事会の運営ができなくなるし、障害者の生の声が聞こえにくくなることでしょう。
 「たとえ周りがどんどん法人格を持ったとしても、僕らは何者でもない存在のまま、ぺんぺん草のはえる荒野をまっすぐ進もう」。この言葉は2000年の頃でしたが、少し早い遺言だったのかもしれません。
 その教えを守って、豊能障害者労働センターは法人格を持たず、何者でもなく、ただひたすら自分たちの言葉、想い、情熱だけを頼りに活動を続けています。

西田敏行「もしもピアノが弾けたなら」
この歌も河野さんがすきだった歌で、カラオケでよく歌っていました。

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2017.09.14 Thu わたしの「極私的路地裏風聞譚・河野秀忠さんがいた箕面の街」 NO.1

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 2017年9月8日、河野秀忠さんが亡くなりました。
 1942年生まれの河野さんは、酒屋の店員やトレーラーの運転手などさまざま仕事をしながら、反戦・部落・沖縄問題に取り組み、1971年、障害者の友人を得て障害者解放運動にたどり着き、その後は亡くなるまで生涯現役の闘士でした。
 脳性マヒ者協会・青い芝と映画「さよならCP」上映運動、関西青い芝運動、全障連の設立、障害者問題資料センターりぼん社と障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」の発行、自主映画「カニは横に歩く」、映画「何色の世界」、映画「ふたつの地平線」、養護学校義務化反対闘争、医療的ケアを必要とする障害児者の問題など、全国の障害者運動の現場に立ち会い、1995年の被災障害者支援「ゆめ風基金」の設立者の一人として自然災害による被災障害者の支援に尽力しました。
 一方で障害児教育創作シリーズや人権啓発絵本シリーズなど、教育や人権啓発図書の執筆と講演などで、全国の自治体の教育・人権啓発施策にも影響を与えました。
 そんな河野さんの死を驚きと悲しみの中で受け止めた方は数えきれないでしょうし、河野さんの講演を聴いたり著書を読んだ人もふくめて、河野さんによって人生が変わったと告白する人は100人や200人どころではないと思います。
 わたしもまた出会って30数年、河野さんによって人生が変わった人間のひとりでした。
 ひとりの人間が生涯に出会う人の数はそれぞれでしょうが、河野さんほど多くの人々と出会い、時には激しく時にはやさしく障害者の問題を語り、行動し、共に酒を酌み交わし、人生の宝物を分け合ったひとは数少ないと思います。
 そんな河野さんの数々の出会いや交流やたたかいをそれほど知るわけではなく、また彼にとってわたしがいい友人であったかどうかも心もとなく、そんなわたしが彼との思い出を語ることにどんな意味があるのかわかりません。
 しかしながら、きっと数多くの人々がそうであるように、わたしの心の中にぽっかり空いてしまった寂しい空洞を埋めるためには、河野さんとの思い出を涙が枯れ果てるまで語り、書かずにはおられないのです。
 障害者運動の本流は別の方々にお任せするとして、豊能障害者労働センター在職時、機関紙「積木」の編集者のひとりとして河野さんに依頼し、長期の連載となった「私的障害者解放運動放浪史」(のちに「障害者市民ものがたり―もうひとつの現代史」という本になりました)になぞって、わたしの「極私的路地裏風聞譚・河野秀忠さんがいた箕面の街」を書き残しておこう思います。

 河野秀忠さん、河野保子さんが箕面の街に来なかったら、箕面の障害者運動はなかったと思います。共に学ぶ教育運動は隣町の豊中の教育運動と呼応して、障害者の人権・生活運動は1981年の「国際障害者年」を機に設立された「国際障害者年箕面市民会議」から、河野さんの箕面の運動が始まりました。
その中でも「国際障害者年箕面市民会議」が果たしたものはとても大きなものでした。
 この頃、全国各地で同じような組織ができましたが、ほとんどが時の労働組合のナショナルセンター(全国中央組織)だった総評傘下の労働組合のみで構成されていました。
 けれども箕面だけは、障害者個人、その家族や福祉関係のボランティアに加えて、それまで障害者と出会ったこともない一般の市民が個人で参加できました。
 このことが福祉関係者や活動家だけでなく、その街に暮らすべき障害者とその街に暮らす人々との対話と協働による箕面の障害者運動の方向性を決めることになりました。
 「国際障害者年箕面市民会議」の設立に向けて河野さんの刎頸(ふんけい)の友であった浜辺勲さんと出会い、障害者と障害者の家族、そして地域の市民たちと出会った彼は、その強烈な個性でまわりの人々を扇動、鼓舞し、勇気をまき散らしました。
 河野さんのライフワークとなった1979年発刊の障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」を魂の拠点にして、全国各地の 障害者の肉声を丁寧に拾い集め、ふつふつと立ち上る障害者解放運動の炎に身を焦がしながら、河野さんは自分の住む箕面の街にもその炎を発見したのだと思います。
 人間の解放へとつながるすべての道を先導して歩くのは学者でも役人でも政治家でもなく、市井の人々であることを知った彼がもっとも頼りにしたのは障害者であり生活者としての市民でした。

 60年安保、70年安保や反戦運動、沖縄問題、部落問題などの運動の果てに障害者と出会ったとき、それまで長きに渡り「人民の解放闘争」と声高に叫んできたけれど、その「人民」の中に障害者が入っていなかったことを教えられ、がくぜんとしたと言います。
 そして、中学卒業後、酒屋店員をしながら社会党員となり、大阪十三の中小企業の工場労働者をオルグ(組織)し、組合をつくり、待遇改善や「首切り」反対闘争をしながら傾倒していたマルクス主義もまた、結局のところ健全者の論理でしかないことに気づかされたのです。
 そのことを教えてくれた横塚晃一さんとの出会いを、河野さんは酒を飲みながら何度も話してくれました。それは「さよならCP」上映会で、上映会の後に横塚さんに話をしてもらうことになり、新大阪駅にお迎えに行った時のことでした。
 姿を現した横塚晃一さんは、駆け寄った河野さんに軽く挨拶をして、ひょこたん、ひょこたんと歩き出した。階段にさしかかると、手にした風呂敷包みでバランスを取りながら歩く。途中で、河野さんがその風呂敷包みを持ちましょうと手を出すと、横塚さんはぐらりとバランスを崩し、危うく、階段から転げ落ちそうになった。
 その夜、横塚さんは、「河野さん!ぼくは、誰かの支えが必要な時はぼくがそのことを伝える。ぼくの意思を無視して、ぼくのことに手を出さないで欲しい。小さなことだけど、障害者の人権にとっては、大切なことなんだよ。」と。河野さんは心底から恥じた。本当に、事の本質を理解していない自分を恥じた。

 このエピソードは河野さんと知り合った人で知らないひとがないぐらい、いつも自分を戒める言葉として、河野さんが大切にしてきたものでした。
 箕面に限らずまだ障害者が街で見ることもほとんどなく、親元から独立して暮らす障害者も少なく、大人になれば山奥の施設で過ごし、さらにもっと親亡き後の施設を障害者の親たちが要求し、親が障害児を殺す事件がたびたび起きていたあの時代に、障害者の意志を無視する健全者のおごりを鋭く指摘した横塚さんは素晴らしい人でしたが、そのことにすぐに気づき、その後の人生の戒めとした河野さんの、見た目と大違いの繊細な心が、その後に出会ったわたしをふくめた数多くの人々に静かな勇気を与えてくれることになります。
(つづく)
Janis Joplin - Summertime (Live -1969)
河野さんが大好きだったジャニスのサマータイムです。
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