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2016.07.19 Tue 谷川俊太郎・永六輔・小室等「少年期は戦争だった」2015年1月 永六輔さんの思い出5

永六輔

 7月17日に放送された『NHKアーカイブス「永六輔さんが遺したメッセージ」』を見ていたら、予告では書かれていなかった「永六輔 戦いの夏」がかなりの部分で再放送されていました。それもさることながら、テレビのバラエティ番組の最初といっていい「夢であいましょう」のアーカイブ(1963年)を見て、あらためてこの番組のすごさに圧倒されました。30分番組の中に新人もベテランも一緒になって世相を反映したコントをし、「上を向いて歩こう」などこの番組からヒット曲が次々と生まれました。家庭用ビデオがない時代に生放送でテレビの可能性を追求したこの番組の系譜は「八時だよ全員集合」にまで受け継がれたと思います。障害者支援イベントの構成まで助けてくださった永六輔さんの原点が、この番組にあったことを痛感しました。
 さて、永六輔さんをしのぶ記事は今回で終了します。この記事は2015年1月のイベントの記録ですが、わたしが永六輔さんを身近に見た最後の機会となりました。
 わたしですらまだまだ書ききれない思い出がたくさんあるのですから、全国にどれだけのひとびとが、「むずかしいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを面白く」語り続けた永六輔さんの思い出を宝物にされているか、見当が付きません。


2015.01.24 Sat 谷川俊太郎・永六輔・小室等「少年期は戦争だった」
 1月20日、東京の渋谷で被災障害者支援「ゆめ風基金」とカタログハウスの共催で「ゆめ風であいましょう 少年期は戦争だった」というトークイベントがあり、そのスタッフとして朝早くに出発し、昼ごろに渋谷に着きました。このイベントは永六輔さん、谷川俊太郎さん、小室等さん、そして、ゆめ風基金の代表・牧口一二さんが今の世の中のきな臭い空気を会場のお客さんと共有しながら、子ども時代に戦争と言う非常時をくぐり抜けてきた体験を語り合うイベントでした。
 声高に反戦や平和を訴えたり戦争の非合理と悲惨を語るのとはちがって、戦闘機のおもちゃに熱中した話やみんなが軍国少年だった話や、戦争が終わり疎開から戻ってくると瓦礫とともに死体が転がっていた話、ほとんどの文学や芸術が戦争に加担していったことなど、今につながる連続した日常の生々しさを淡々と語り合われました。
 そのなかでも永六輔さんのお話でしたが、戦争によって破壊された町は震災の瓦礫どころではなく、広大な瓦礫の荒野で、家々で防空壕を掘って空襲に備えていたのだけれど、その防空壕でひとびとが歌を歌っていて、瓦礫の下から歌が聴こえてきたというお話が印象に残りました。
 2部では小室等さん、こむろゆいさんが歌でつなぎながら、永六輔さんがまず登場しました。ご存じの方もたくさんいらっしゃると思いますが、永六輔さんはパーキンソン病で車いすを利用し、しゃべりにくくなっても持ち前の「芸人」堅気でお客さんを笑わせながら、個人が国によって押さえつけられたり、時代を越えて伝えられてきた市井の文化が権威にゆがめられることに対しては徹底的に物申す姿勢は依然とまったく変わりません。
 そんな永六輔さんが20年前に阪神淡路大震災を機に設立されたゆめ風基金という、障害者をはじめとする市民の、市民による、市民のための被災障害者支援基金運動にいわゆる「官制」にはない可能性を見つけてくださり、惜しみない応援をしてくださったことに感謝の言葉がみつかりません。そして、どんなふうに自分が変わっても依然と少しも変わらない精神で人前に出て、「伝えなければならない」思いを精いっぱいお話されることに感動します。
 もうかなり有名な「ネタ」にもなっているお話があります。永六輔さんが病院の廊下の手すりにつかまって歩行するリハビリをしていた時、サポートする東南アジアから来た青年が「永さん、前かがみにならないで上を向いて歩きましょう、そうそう、日本にはいい歌があるではないですか、『上を向いて歩こう』という歌が。永さん、その歌を知りませんか」といいました。永さんが「知りません!」というと、廊下の患者さんたちが大笑いしました。お医者さんが「永さん、まじめな青年に嘘を言ったらだめですよ。ほんとうのことを言ってあげなさい」と忠告され、永さんが「あの歌はぼくがつくったんだよ」というと、「うそでしょ!」…。
 この話は何年も前から聞いているのですがどんどん進化していき、そのたびに新しい笑いが生まれるのですが、普通なら障害を持ち、それがどんどん進んでいくことからもう人前には出ないでおこうと考えても仕方がないところ(事実そんな風に思われたこともあるそうですが)、小室さんや谷川さんたちをはじめとする友人や、どんな状態になっても永さんをひたすら待ちつづけ、話を聞きたいと願う全国の数多くの人びとが永さんを励まし、永さんがそれに応えることでひとびともまた生きる勇気をもらっているのだと思います。
 次に登場した谷川俊太郎さんの前で、小室さんたちが「おはようの朝」を歌いました。この歌はわたしが小室等さんと谷川俊太郎さんのほんとうのファンになったきっかけとなった山田太一脚本の「高原へいらっしゃい」のテーマソングでした。
 小室さんもお話しされていましたが、「ゆうべみた夢の中で、僕は君をだきしめた はだしの足の指の下で なぜか地球はまわっていた」という歌詞が不思議な中にもかわいた切なさのようなものを感じる大好きな歌です。
 谷川さんはいくつかの詩を朗読されましたが、このひとは書く詩と読む詩と歌う詩とそれぞれちがったアプローチをされているように思います。他人の詩でも自分の詩でも谷川さんが朗読すると言葉がすでに歌となって歌い出し、ダンスとなって踊り出すようで、とても心地よく、そしてつらい感情までもが心にしみていくのでした。
 小室さんにうながされて最初に読んだ詩は、永六輔さんの歌詞でいずみたく作曲、デュークエイセスが歌った「ここはどこだ(沖縄)」でした。
 「ここはどこだ いまはいつだ なみだはかわいたのか ここはどこだ いまはいつだ いくさはおわったのか」。永さんの歌詞に込められた沖縄のひとびとの涙と怒りが立ち上がってくる朗読に、心が震えました。
 そして、谷川さん自身の詩で「戦争と平和」を朗読されました。わたしははじめてこの詩を知りましたが、戦争という名前の男と平和という名前の女の設定で、わかりやすい言葉で語られる、谷川さん流の「静かでひそやかな反戦詩」でした。この詩の最後を、「お腹の中の子は母親似であってほしい」という願いで綴られていました。
 その他、茨木のり子さんの「わたしが一番きれいだったとき」を朗読されました。谷川さんは一部のトークとはちがい、2部では「戦争を絶対にしないために、ひとがひとにさべつされないために、ひとがひとをきずつけないために、自分の言葉をみつめ、発しなければいけない」という隠れた切迫感をただよわせていました。
 谷川さんにはこどもたちに伝えようとひらがな言葉でつづる数えきれない反戦の詩があり、大人が読んでも心にひびきます。わたしは小室さんも歌っている武満徹作曲の「死んだ男の残したもの」しか知らなかったのですが、谷川さんの場合は反戦平和の詩というような明示をする必要はなく、21才の時に発表された「二十億光年の孤独」から現在まで80冊以上の本に収められた数々の詩、歌となったたくさんの詩など、そのほとんどの詩が「戦争へと進む道」にたちはだかるように、個人の自由の発露としての言葉をさがし、とくに未来の世界をつくっていくこどもたちに託してこられた足跡なのだと思います。
 わたしは実は谷川俊太郎さんもまた、寺山修司から教わりました。寺山修司は歌人・詩人として活躍していた頃、「机の上で書かれた詩など、なんの意味もない」とか、「詩人は誰に向かって詩を書くのか」と挑戦的な批判を続けていました。彼の主張によると、「公衆便所の落書きや電話帳にも詩が存在する」というわけで、世の中が激動し、大人たちが社会の迷路に迷い込み、若者たちが荒野に立ちつく時、机の上でブッキッシュに書かれた「芸術的で詩的で難解な言葉が連なる詩」などなんの役にも立たないのでした。
 そんな彼がその頃唯一認めていたのが谷川俊太郎さんでした。その頃は先に書いたように生きまどう現代人の心に、わかりやすくやわらかい言葉で社会が押し付ける暴力を静かに拒否する谷川俊太郎の詩を評価していただけなのかと思っていましたが、実は誤解されることが多かった若き寺山修司の才能を早くから認め、病気がちだった寺山修司を励まし、仕事を世話したりしていたことなどを、昨年亡くなられた元妻で寺山修司の仕事だけでなく人生をささえてこられた九條今日子さんの「ムッシュウ・寺山修司」(ちくま文庫)で知りました。
 晩年の寺山修司との「ビデオレター」のことは知っていましたが、寺山修司の最後を看取った谷川俊太郎さんは、遠くから見ればあこがれのひとで、今回近くで見ると怖いほどのオーラを感じましたが、物静かなたたずまいの中にもとても気さくで、面倒見のいい方なのだと思います。
 戦後生まれのわたしは、戦前戦中のことをあまり知らないまま、戦後民主主義教育の中で育ちました。周りの大人たちはといえば戦争中の自慢話や苦労話で花が咲くという感じで学校の先生がいうこととまるでちがっていて、わたしは学校が正しく、「あんな大人になってはだめだ」と傲慢にも思っていた「軍国少年」ならぬ「戦後民主主義少年」でした。
 しかしながら、たとえば島津亜矢が歌う戦前の歌を聴いたり鈴木邦男や竹中労などの文章を通じて、わたしの生き方や社会に対する考え方には戦前戦中とのつながりが抜け落ちていることに気づかされました。
 今回の3人の方の話を通じて、少なからず軍国少年に染め上げられた当時の子どもたちが戦後を生き抜く中で、時代のつながりが途絶えないまま自分の人生を切り開いてこられたことを知りました。そして、「戦後民主主義」の空手形とともに「自由と権利」のバーゲンセールに翻弄されてきたわたしに決定的に足りなかったものが何かも教えてもらいました。戦争へと突き進んでいった時代から出発し、自分を確立し大人になり、いま戦争や平和を語る3人には、なによりも抑え込まれたりマインドコントロールされたものではない、たしかな肉声としての自分の言葉がありました。
 身近なところから政治や社会、そして世界の問題にいたるまで、自分で考え自分の言葉で語ることこそが他者の言葉や他者の考えにも心がおよぶことをつくづくと感じた一日でした。
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2016.07.16 Sat  NHKヒューマンドキュメンタリー「永六輔 戦いの夏」 永六輔さんの思い出4

永六輔
「永六輔さん・小室等さんと話そう会 IN 長町」2011年8月23日 仙台市長町仮設住宅広場

 永さんの追悼番組が続々予定されています。とくに、NHKのアーカイブスと、BSの「永六輔のにっぽん夕焼け紀行」は必見です。

 【NHK総合テレビ】
 7月17日(日曜、後1時50分~3時)
  『NHKアーカイブス「永六輔さんが遺したメッセージ」』(ゲスト坂本スミ子)
  「夢であいましょう」(1963年7月27日)、「ばらえてぃテレビファソラシド」
「ヒューマンドキュメンタリー」(2011年9月30日)などを再放送します。
 7月18日(月曜、前4時30分~59分)
  「永六輔が語った 視点・論点」(仮)永さん出演の回を再放送
7月19日(火曜、後10時~10時25分)
  クローズアップ現代+「永六輔さん 日本人への遺言(仮)」
【NHK・BSプレミアム】
 7月18日(月曜、後4時~6時)
  ハイビジョンスペシャル「永六輔のにっぽん夕焼け紀行」(2001年5月31日放送分)
【NHK・ラジオ第1】
 7月21日(木曜、後8時5分~55分)
  「語りの劇場グッとライフ」永六輔さんを取り上げた回を再構成して放送
【NHK・FM】
  7月31日(日曜、後4時~6時50分)
  「永六輔さん、また夢であいましょう」
  「真冬の夜の偉人たち」第5夜「六・八コンビよもやま話」(14年1月6日)、第5夜「永六輔といずみたく」(15年1月6日)
【読売テレビ】
17日に放送予定だった旅番組「遠くへ行きたい」(前7・00)の内容を変更し、7日に亡くなった永六輔さん(享年83)の追悼番組「永六輔 七転八倒旅語録」を放送。

 今回の追悼番組の中にはありませんが、2011年の東日本大震災の年にNHKが放送した、「永六輔 戦いの夏」という番組がありました。 この番組では、ゆめ風基金が開いた被災地の仮設住宅でのトークライブの模様も放送されていました。わたしはこのイベントのスタッフとしてこの時の永六輔さんの身近にいて、このイベントの模様と感じたことをこのブログとゆめ風基金のブログに報告しました。


2011.10.03 Mon 「永六輔 戦いの夏」
 NHKヒューマンドキュメンタリー「永六輔 戦いの夏」を観ました。
永六輔さんは去年、パーキンソン病と診断され、長年続けてきたラジオ放送でもろれつが回らなくなり、引退も考えたそうです。番組を降りるべきだという声があった一方で、治療とリハビリをしながら活動を続けている永さんの姿勢に勇気づけられ、自分ももう少しがんばろうと思ったというリスナーも紹介されていました。
 8月23日の被災地仙台の仮設住宅でのイベント・「永六輔さん、小室等さんと語ろう IN 長町」の様子も映っていました。前に書きましたが、わたしはこのイベントの手伝いでその場に立ち会うことができました。雨模様の中、永さんと観客とが、インターネットでのつながりとはまったく異質の深い絆によってつながっていることを目の当たりしました。全国津々浦々、ラジオを通してこんなに深くて広いネットワークができていることは承知していましたが、その現場を観て、とてもじゃないけれどこれに勝るソーシャルネットワークは、少なくともこの国にはないと確信できます。
 「日本中どこへでも足を運び、出会いを大切にする。そして、地域に目を向けつづける。」
 放送人として、永さんが肝に銘じてきた言葉は、永さんが師と仰ぐ民族学者・宮本常一が教えてくれたと永さんは言います。「スタジオでものを考えるな。ラジオは電波だ。電波はどこにでも飛んでいく。だからきみもどこへでも飛んで行って、電波が届いた先がどうなっているのかを見聞きしなさい。話を聞きなさい。そして、それを持って帰ってスタジオで話しなさい。」
 この言葉を忠実に守り、何十年もつづけてきた結果、ラジオを通したつながりがどんどんひろがっていったのです。
 そして、ラジオでの永さんのことばにはげまされ、勇気づけられ、生きる力をもらってきたリスナーが永さんの病気を心配し、どんなに聞きづらくてもラジオに耳を傾けつづけ、永さんが少しずつ元気になってくるのを共に喜び、いつの間にか永さんをはげましている。
 仮設住宅でのイベントでも、見に来ているひとはほとんど永さんのラジオ番組を聴いていて、自分の身に降りかかった悲しみよりもまず、永さんが元気にステージに立って話をしてくれていることに感激されていることが、雨の中、わたしたちが配ったカッパをはおる後姿をみただけでわかりました。ほんとうに、「ひと」ってすばらしくいいな、と思いました。
 今はテレビがきらいという永さんが、「夢であいましょう」など、先駆的な番組の放送作家として活躍し、その中から生まれた「上を向いて歩こう」などのヒット曲を次々と生み出した作詞家でもあったことなどから離れ、全国各地を旅しては旅先で独特の筆致のハガキを書く、そんな永さんがたくさんの人に尊敬され、愛されてきたことが病気をきっかけにより多くのひとの知ることとなったのです。
 30年つづけてきた京都の「宵々山コンサート」を今年限りにすることを決め、一週間のプレイベントと、当日のフィナーレの様子も映されていました。
 このコンサートがはじまった時は政治的にも文化的にも激動の時代で、自分の主張を表現する若者の行動に永さんも刺激を受けたそうです。
 「ぼくが作詞し、中村八大さん、いずみたくさんが作曲し、坂本九が歌うというのは、ぼくの歌ではない。自分が詩をつくり、自分が作曲し、自分が歌うフォークソングがほんとうの歌だと思った。ウッドストックでは、若い人が自分の主義主張を歌で表現していた。
それでぼくは作詞をやめた。」と言う永さんは、やはりすごい人だと思います。放送作家と言い作詞家と言い、とびぬけた才能と確立された名声がありながらあっさりとそれを捨ててしまう勇気は、なかなか持てるものではないでしょう。
 そんな永さんの人となりを伝えた後で、この番組のほんとうの意味だったと思うのですが、「戦いの夏」と名付け、治療とリハビリをつづけながら、大震災の爪痕が残ったままの被災地と、旧友を訪ねてのモンゴルと、京都への旅に同行しながら、永さんの死生観を番組は探ります。
 豊能障害者労働センターの一員として1995年に永さんのトークショーを主催し、その後も被災障害者支援「ゆめ風基金」のイベントの手伝いで何度も永さんを見る機会を得ました。今回の被災地でのライブの時も控室で永さんをお迎えしましたが、1995年にはじめて永さんを間近に見た時のオーラは今でも変わらず、とてもやさしくてとても過激でした。
 永さんの「戦いの夏」はわたしたち放送を観る者にとっても、また幸運にも永さんと出会えた者にとってもとても暑い夏でしたが、勇気をくれた夏でもありました。

水原弘「 黄昏のビギン」

ちあきなおみ「黄昏のビギン」
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2016.07.14 Thu 永六輔さんと三波春夫さん 永六輔さんの思い出3

永六輔

 1995年に被災障害支援「ゆめ風基金」の呼びかけ人代表を引き受けた永さんは、多彩な人脈を生かして芸能人や文化人に支援を呼びかけ、また小室等さんや谷川俊太郎さん、中山千夏さんなど、永さんの多彩な人脈を生かし、ゆめ風基金の支援イベントを成功に導いてくださいました。わたしは応援スタッフとして、何度もそれらのイベントに参加させていただきました。
 永さんの素晴らしい活動のひとつとして、在野の芸能や無名の人を応援しました。初代高橋竹山や林永哲、おすぎ、ピーコ、クミコなど、永さんの応援で世に認められたひとたちがたくさんいます。
 そしてもう一つは、晩年に病気で元気をなくした中村八大をはげまし、いっしょにコンサートをしたり、特筆ものはそれまで「思想的に」相いれなかったと思われていた三波春夫と意気投合し本を共著、それから全国ツアーをしたりと、永さんによって往年の大スターの魅力が再発見されることもよくありました。
 市井のひとびとの信条から生まれる生活文化・風俗などの再評価などに力を注いだ他、権威を嫌い反骨精神を持ちつづけ、反戦平和をひらがな言葉で語り、何物にもおもねず、自由が国や世間によって狭められることに断固たたかい続けた永さんだからこそ、「市民の市民による市民のための基金運動」である「ゆめ風基金」にありったけの応援とありったけの情熱を注いでくださったのだと思います。
 そんな永六輔さんへの追悼をこめて、今回はゆめ風基金主催による、三波春夫さんとのイベントの記録を採録します。


 1998年か1999年か忘れてしまいましたが、三波春夫さんと永六輔さんのイベントにスタッフとして参加させていただいたことがありました。
 阪神淡路大震災の経験を生かすために、被災障害者の短期的救援と長期的支援のために、1995年に発足した被災障害者支援「ゆめ風基金」は永六輔さんや小室等さんの応援をいただき、いろいろなイベントを開いては基金の呼びかけをさせていただいています。
 この時も、永さんが三波さんによびかけてくださり、ボランティアとしてわたしたちが用意した舞台に出演して下さったのでした。
 三波春夫さんについては何も説明はいらない国民的歌手ですが、テレビで観る三波さんはド派手さと問答無用の笑顔と、なんといっても「お客様は神様です」の名言の人でした。
 昔は坂本九や森山加代子、ザ・ピーナッツなどのポップスも、三波春夫、三橋美智也、村田英雄、美空ひばりなどの演歌も同じ音楽番組に出演していましたから、いろいろな歌がわたしたちの耳に届いていました。
 70年代からもう一つのジャンルというべきかテレビに出ない歌手の歌がライブなどを通して広まり、わたしも小室等、井上陽水、吉田たくろう、三上寛などに熱を上げるようになり、テレビに出演している歌手にはだんだん興味を持たなくなっていきました。

 ですから、三波春夫さんの生歌を聴いたのはこのイベントが最初で最後でした。
 その日、テイチクレコードの人と連れ合いさんと娘さんに支えられるように現れた三波さんは茶色の地味な着物を着ておられ、テレビで何度も観てきた三波春夫とはまったくちがった印象を持ちました。ほんとうに小さな方でした。
 すでにガンを患っていられたことをご家族の方以外には隠しておられた最晩年の三波さんに、後から知ったわたしたちが心配りできるわけはありませんでした。ただ、高齢になられて体がよれよれされている感じがして、大丈夫なのかなと少し心配したことを覚えています。
 開場前から永さんがいつものように「場内整理」をして不慣れなわたしたちを助けて下さり、いよいよ開演となりました。
 実は、わたしはこの舞台の様子をほとんど思いだせません。ただ、この頃三波さんととても親しくなった永さんが奈良県をはじめとする老人施設にお二人でボランティアとしてよく行かれていたことや、三波さんがおじいちゃん、おばあちゃんに圧倒的な人気だったことなどを話されたと思います。そして、永さんにうながされたように三波さんが戦争体験を話されたと思います。
 三波春夫さんがその時歌われた歌は「俵星玄蕃」と、永さんが作詞された「明日咲くつぼみに」以外はまったくおぼえていません。
 というより、わたしはこの時はじめて生で聴いた、三波春夫さんの最晩年の「俵星玄蕃」にびっくりして、他のことはほとんど忘れてしまったのでした。
 ステージに立たれた三波春夫さんは、やっぱりテレビで観ていた「三波春夫」でした。失礼ながら、会場に現れた時のあのよれよれの小さなおじいちゃんのおもかげはまったくありません。最近、島津亜矢さんのこの歌を聴くたびに、大変なエネルギーがないと歌えないと思う「俵星玄蕃」を、テレビで観てきたそのままにフルコーラスで歌われるのを見て聴いて、すごいという以外にことばがありませんでした。
 今もわたしの手もとに、永さんが作詞された「明日咲くつぼみに」のCDがあり、三波さんのサインがあります。

 三波春夫さんが亡くなられたのは2001年のことでした。亡くなられてはじめてガンとたたかっておられたことを知りました。そして、あの時に三波春夫さんの「俵星玄蕃」を聴くことができたことに感謝しました。
 永六輔さんもご存じでなかったことにびっくりしましたが、永さんは三波さんがガンだったことを知っていたら、「明日咲くつぼみに」のあんな詩を書かなかったと言います。「時は還らず 世は移りゆく いつか別れの言葉 さようなら」
 この歌のレコーディングの時、高音を大きな声で歌い上げていくことをずっとやってきた三波さんに永さんは優しく囁くように歌って、と注文を出したそうです。三波さんは挑戦するといい、録音が始まりましたが、やはり三波さんは歌い上げてしまい、囁くことができません。
 そこに連れ合いさんのひと声が飛んできました。連れ合いさんは歌謡曲への転向を勧めたり、三波春夫という歌手を陰で育ててきたプロデューサーだったのでした。「このやろう、永さんの言うようになぜ歌えない。三波春夫ともあろうものが! 私は三波春夫をそんな歌手に育てた覚えはないよ」。その時の連れ合いさんの剣幕たるや、あまりの迫力にスタジオ中が凍りついたそうです。連れ合いさんが話し終えると、あの大スター・三波さんは少し微笑んで、こう言ったそうです。「すみません。もう一回お願いします」

 もうひとつ、永さんが語る三波春夫さんの有名なエピソードがあります。
 自分の名前も思い出せなくなったおばあちゃんたちが「三波春夫」という言葉には反応すると聞き、永六輔さんと老人ホームに行かれた三波さん。
 そこには何時もどこに居ても1人で歌っているお婆さんがいる事を予め三波さんは聞いていました。案の定、そのおばあちゃんは三波さんが登場する前からずっと大きな声でわらべ歌や数え歌を歌っていました。
 すると三波さんはおばあちゃんの側へ行き一緒に歌を歌いはじめると、他のおじいちゃんおばあちゃんも一緒に歌いだしました。結局、三波さんは持ち歌を一つも歌いませんでした。
 その帰り道、三波さんはしみじみと、「永さん、われわれは傲慢でしたね。皆さん歌う歌を持ってらっしゃるじゃないですか。歌いに行って私の歌を聞かせてあげましょうと思ったのがとても傲慢だった。とても恥ずかしい。長い間、私は恥ずかしいことをしてきた。おじいちゃんもおばあちゃんも、自分の歌を持っていらっしゃる。その歌を一緒に歌わせていただいたおかげで、どれだけ歌手として目が覚めたか。本当に勉強になりました。」

 この2つのエピソードを後から知って、あの時の舞台のことをあらためて思い返しています。テレビで観るだけでは決してわからなかった三波春夫さんの実像と、舞台に上がった時の大きな姿と立ち振る舞いを、ほんとうに最初に最後に観ることができたこと、あの舞台は永さんと老人ホームを回っていた頃の三波さんの、ほんとうのすごさを身近に観ることができたとても幸運な舞台だったことを…。

三波春夫「元禄名槍譜 俵星玄蕃」

舟木一夫「明日咲くつぼみに」(作詞・永六輔 作曲:久米大作)
三波春夫さんの音源が見つからず、舟木一夫さんのカバー曲です。

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2016.07.13 Wed 永六輔さん、ありがとうございました。永六輔さんの思い出2

永六輔さん

 1995年7月2日、永六輔さんは豊能障害者労働センター主催のトークイベント「「だいじょうぶ!永六輔ひとり応援団」に出演するため、大阪府箕面市の箕面市民会館(現グリーンホール)の舞台に立ってくださいました。
 下の記事はその時の模様を記したもので、豊能障害者労働センター機関紙「積木」に掲載されました。


 誰が想像できたでしょう。開場してすぐ、永六輔さんはもう舞台に立っていました。「開演前の場内整理です。あっ、今入ってこられた方、ご心配なく、まだ開演前です。あっ、本にサインですか。何でもやっちゃうと言いましたから、やっちゃいます。ロビーではいろんなものを販売しています。ご協力ください。」とか言いながら、いろいろな話をもう始めてしまいました。
 ホールに入って30分の間にステージのすべての段取りを一人で決め、ひとりでなにもかもやっちゃう。それがまた、「ムム!なるほど」と納得。
 すごい!のひとことを飲み込んで、すべてをまかしちゃいました。
 永さんは、「名声」や「権威」をすべて受ける立場にあるはずなのに、自分自身にも他人にも、それらすべてを受けつけない。出会う人を、いつも「永六輔」ひとりのフィルターで真正面に受け止める。
 永さんが作詞家でもあり作家でもあり何とかでもあるすごい人ではなく、お客さんひとりひとりを大切にするという、あたりまえに思えることからすべてを考え、つくり、それを自分で、自分の責任ですべてやっちゃうことがすごい!
 開演前に舞台に出るのも、お金を出して来ていただいたお客さんひとりひとりに楽しんでもらいたいという気持ちからだと思う。
 「ピアノを弾くひとを見つけておいてください。遊びたいから」と、言われていて、どうしようと思っていたら、間近になってOさんと出会いました。
 「永さんが何をしはるか、わかりませんねん。当日の打ち合わせで決まるんですわ」と言うぼくたちに、「わかりました」と引き受けてくれた彼女に感謝します。
 Oさんがいてくれてよかった。永さんのお話とOさんのピアノが、初対面にもかかわらずぴったりと息が合い、講演会とはひと味ちがったとってもたのしい雰囲気をつくりだしました。
 「学校ごっこ」の設定で、「授業」の合間にOさんのピアノが入り、開演前もふくめてあっと言う間の2時間半でした。その間にお客さんの笑い、また笑い。
 笑いながら、ぽつんと心に落ちる言葉。
 卒業式で歌わなくなった「仰げば尊し」をお客さんといっしょに歌ったり、「君が代」を独自の歌い方で歌うなど、ユニークなイベントになりました。
 戦後50年の論議を待たなくてもわたしたち自身、多くのひとを犠牲にしたあの戦争にいたるまでの「たったひとりのひと」に拍手する時代から、いまだにやって来ない庶民ひとりひとりが拍手しあう庶民の時代を求めてやみません。
 けれどもまた、「仰げば尊し」を歌う歌わないが学校とか教育の枠の中と、ほんのひとにぎりの人たちの間でしか問題にならなかったのもまた、事実ではなかったのか。
 歌もまた作った人間からはなれ、その時代のひとびとの心を通るものなら、歌にたくしたそれぞれの思いはその人にとってたしかな風景を描いているのではないでしょうか。涙ぐんで歌った人もいました。久しぶりに大きな声で歌を歌ったという人もいました。
 この歌を卒業式で歌わなくなったことをまったく知らなかったという人もたくさんいました。そのことが問題なのだと思います。
 箕面の民間デイサービスをしているグループがみんなで歌を歌おうと老人たちによびかけると決まって、「紀元節」の歌が出てくるという話を聞きましたが、老人たちが子どもの頃にはそんな歌しかなかったというだけでなく、どんな歌にもその歌の内容と別に、その歌を歌った時のその人の人生の風景が染み着いていることと関係があるのではないでしょうか。
 そして、そのことをぬきにして、個人の肉体の回路を通らずにつくられる歴史や政治が、その個人の生活心情をまきぞえにしてしまう不幸があります。
 「市民運動」から「庶民運動」へ。人間の体の中の途方もない長さの赤い血のトンネルを通りすぎる言葉や文化。時代をこえて、人の生き死にをこえてひとりがひとりに伝えていく、そんな思想が「にんげん」にはあるのだと、永さんの話を聞いて感じました。
 そして、「遠くへ行きたい」をお客さんが歌い、永さんが手話をされましたが、舞台袖で永さんの立ち姿を見ていたら、その「いとおしさ」に涙が出ました。やっぱり、永さんはステキな人です。
 7月2日の「だいじょうぶ!永六輔ひとり応援団」は、雨にもかかわらず720人のご来場をいただきました。わたしたちはご協力くださったすべてのみなさん、そしてご来場いただいたすべてのみなさんに感謝しました。
 このイベントを企画したのは前年末のことでした。それから約半年、あの大地震が無数の人々の運命をはげしくゆらしたように、わたしたちもまたそのまっただ中で心をゆらしてきました。
 はちきれそうになる心の振幅に体が追いつかず、被災障害者救援活動、バザーと、ひとつひとつのことをかたづけることで、「いまこの時」をかけぬけた半年でした。
 その間に世の中は地下鉄サリン事件など、テレビの灰色のブラウン管が破裂するほど騒々しく、地震のことが遠い風景になろうとする時に、いつもわたしたちを「あの時」にとどめようとするもの、それは死んでもなお夢見つづける幾多の心と、死線をこえてがれきの下から立ち上がるいのちたちのきらめきうごめく合図のひとつひとつでした。
 おそらく事実だけをつめこむ「歴史」の重箱におさまるはずもないひとりひとりの決定的な真実は書かれた書物の中ではなく、ひとからひとへ時の数珠をたどって語られてきたのでしょうし、この半年の体験はひとりひとりの人数分の真実として語られる時を用意しているのだと思います。
 どんな書物にもどんな教科書にも抜け落ちている真実としての体験、学ぶ言葉ではなく、くちびるにたどるつくまでの言葉、くちびるを通らず「伝えたい」と身をよじり、息と風がからだとこころの境界をかけぬける声。
 7月2日、わたしたちの前にあらわれた永六輔さんは、笑いの中にそんなごつごつとした声にならぬ声、言葉にならない言葉をいとおしくすくいあげ、わたしたちに届けてくれました。
 わたしたちはそれらの言葉をたしかに受け取りました。そして、この半年けたたましくかけあがった非常階段の踊り場で、肩の力をほぐす機会に恵まれたのでした。
 地震直後、箕面市民会館のロビーは箕面市役所に寄せられた救援物資で埋めつくされていました。7月2日、降りしきる雨の中を来てくださった人々でにぎわうロビーに立ち、たしかに時は過ぎたのだと思いました。
 だからこそ、決して忘れられない「あの時」からはじまった時の回路をひた走り、「だいじょうぶ!」というメッセージを届けてくれた永六輔さんの友情に感謝します。
 アンケート用紙に「永六輔さんひとりの応援団ではなく、今日の参加者全員が大応援団でした。」と書いてくださった方の言われるように、永さんと、わたしたちと、ご来場いただいたみなさんと、「遠方で行けないけれど」とはげましてくださったすべてのみなさんとの友情を分かちあう場となったことも。
 そして願わくばこの友情が、ともに生きるすべてのひとびとの希望をたがやしますように・・・。
 永六輔さん、みなさん、ありがとうございました。
 また、このイベントの収益から被災障害者復興のための「ゆめ風基金」に50万円を基金させていただきましたが、ご来場の方々からも約12万円の基金を寄せていただきました。重ねてお礼を申し上げます。

水原弘「黒い花びら」

夢であいましょう ~ To the Memory of My Mother

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2016.07.12 Tue 永六輔さん、ありがとうございました。永六輔さんの思い出1

永六輔

 永六輔さんが亡くなられました。
 永六輔さんとは1995年に設立された被災障害者支援「ゆめ風基金」が毎年開いていた支援イベントのスタッフとして身近にかかわらせていただきました。
 永六輔さんといえば、なんといっても「上を向いてあるこう」、「黒い花びら」、「遠くへ行きたい」、「黄昏のビギン」など、中村八大とのコンビで世に出した数々のヒットソングはこれからも時代を越えて歌い継がれることでしょう。また、テレビ放送の創成期の伝説的バラエティー番組「夢であいましょう」や、それ以後ラジオ番組の放送作家兼パーソナリティとしても活躍され、ラジオを通じて長年にわたり全国のリスナーとの深い心のつながりもまた語り継がれ、若い世代にも受け継がれていくことでしょう。放送作家、作詞家、ラジオのパーソナリティ、タレント、随筆家などなど、多彩な才能でわたしたちを笑わせ、時には叱咤し、生きる勇気を届けてくれた戦後の巨人といえる永六輔さんの死は昭和の終わりを告げるもので、くしくも参議院選挙で憲法を変えようとする議員の数が3分の2を超えた翌日に知ったのも因縁を感じます。
 子どもの頃、街中が、日本全体が「戦後」から離陸しようともがいていたあの時代を席巻し、今も世界中で歌い継がれる「上を向いて歩こう」を作詞した永六輔さんを、30年以上も経て間近に見ることになるとは、思いもしませんでした。1995年、わたしははじめて永六輔さんにお目にかかりました。
 1961年、わたしは中学2年生でした。60年安保闘争の嵐が走り抜け、貧困と欲望と希望と後悔が渦巻き、時代は墜落しそうになりながら重たい翼を明日に向かって必死に持ち上げていた頃、母と兄とわたしの3人は雨露をしのぐだけのバラックで身を寄せて暮らしていました。
 わたしと兄を育てるために朝6時から深夜1時まで一膳飯屋を女ひとりで切り盛りし、必死に働いていた母のせつなさと反比例するように、わたしたちは圧倒的に貧乏でした。
 甘い夢と根拠のない野心を隠し持つ父親のいないわたしに、坂本九やジェリー藤尾、森山加代子が歌った数多くのヒットソングは心に染みました。雑音だらけのラジオ、画面がゆれては時々ぷっつりと消えてしまうテレビから流れた「六八(永六輔・中村八大)コンビ」による新しい歌謡曲・日本のポップスは、それまで歌謡曲しか知らなかったわたしに「明日きっといいことがある」と思わせるに余りある希望と夢をくれたのでした。
 後に、「上を向いてあるこう」は60年安保の挫折から立ち上がろうと永さん自身にも世の中の若者にも送った応援ソングだったのだと知りました。

 1995年の地震からひと月はすぎていたでしょうか。わたしはゆめ風基金の現代表理事の牧口一二さんと副代表理事の河野秀忠さん、理事の八幡隆司さんに同行し、被災者救援イベント会場に出演されていた永六輔さんを訪ねました。
 牧口さんたちは阪神大震災の被災障害者を長期支援するための「ゆめ風基金」の立ち上げイベントへの協力依頼と、永さんに基金の呼びかけ人代表を引き受けてもらうため、わたしはこの年の7月に永さんのトークイベントを開く豊能障害者労働センターの一員として同行させていただいたのでした。
 はじめて見た永さんはとても大きな人で、特に顔が大きく真っ赤でした。その人が放つエネルギーは火傷するほど熱く、とてつもなく大きなやさしさに、わたしはたじろぎました。この人にお願いする以上、こちらも覚悟を決めなくてはと思いました。
 その印象を持ったまま6月22日、わたしは大阪のフェスティバルホールで開かれた「ゆめ風基金」の立ち上げイベントのスタッフとして、大阪の女性障害者・Tさんと2人で永さんの控え室担当になりました。このイベントは障害者運動のネットワークが結集し、当日2800人のお客さんが入った最大級のイベントでした。
 永さんの他に大阪フィルハーモニー、紙ふうせんなど、多数のアーティストが参加しましたが、永さんの控え室はそのまま全体のミーティングにも利用されました。
 湯呑みぐらいはあったように思いますが、ケータリンググッズはなく「そういうものは担当者が適当に用意してください」という、予想していたとおりのアバウトな指示で、先日の永さんの迫力を思い出し、正直緊張していました。
 それはTさんも同じみたいで、「どうしようかな、何したらいいんやろ、永さんのような有名人にどう接したらいいんかな、ああどうしょう」と、わたしをますます緊張させるようなことを耳元でささやくのでした。顔を見ると言葉ほどには緊張してるようではなく、このひとはなかなかのくせ者だと思いました。
 「会場に来られたら控え室にお通しするので、お茶でも飲んでもらって」と言われたが、肝心のお茶がない。しかたがない、現地調達に行きましょうと外に出ました。「だいじょうぶかな、なんとかなるかな、ミスしたらどうしょう、だいじょうぶや、どっちみち相手も人間なんやから、気楽に行こう、なんとかなるやろ」と相変わらずぶつぶつ言いながらTさんは、軽度の脳性マヒといわれる独特の風情でぶらぶら歩きます。そんな彼女と身の上話などもしながらコンビニで買い物している間に、わたしははすっかり緊張がほぐれました。ああ、ここにも人生の達人がいる。
 控え室にもどり、お茶の準備もすましたものの、いっこうに永さんは現れない。おかしいなと思っていたら、もうとっくに会場にいるらしいという情報が入り、わたしは急いで客席に行きました。永さんはリハーサルを聞きながら、あっちの座席こっちの座席と大きな体をゆすりながら動きまわっていました。
 「あのー、お茶を入れますので、控え室に…」と言う間もなく、「ありがとう、気を使わんでいいから、ぼくは勝手にしてるので」と、つれない返事。落ち着かん人やな、と思いながらも何にもしなくていい気楽さに、Tさんとわたしはほっとしました。
 やがて、永さんの控え室で舞台スタッフ、出演者が集まり、打ち合わせがはじまりました。実は、超多忙な永さんが来る前にすでに打ち合わせはすましていて、その確認ぐらいの感じで舞台監督がスケジュールの説明をしていました。
 ところが、永さんはそれをことごとくひっくり返してしまうのでした。他の人たちはみんな口をぽかんとあけ、当惑しています。静まり返った中、永さんだけが早口にしゃべっていました。
 わたしは横で聞きながら、永さんのほんとうのすごさを知りました。永さんは完璧にお客さんの立場に立っていたのです。それはみごとなもので、反論の余地がありませんでした。初顔合わせの出演者が集まったイベントの場合、出演者への気づかいから舞台づくりをしてしまうことがよくあります。その中でも永さんへの気づかいもあったと思います。
 永さんはそれをもっとも嫌う人なのです。お客さんはわざわざ時間をこの催しのために使うのですから、入場料以上の満足を持って帰ってもらわないといけない。
 その信念はすごいもので、稀代の才人で放送作家、作詞家その他数々の分野で活躍されてきた人だけど、お客さんへのサービスを第一と考える「芸の人」なのです。
 リハーサルの間、あっちの座席こっちの座席と飛び回っていたのは、どうすればお客さんに楽しんでもらえるか、そしてどうすればゆめ風基金の願いをお客さんに伝えられるのか、そのことで永さんは頭がいっぱいだったのです。控え室でお茶なんか飲んでる暇はないのです。このイベントにかける永さんの思いが伝わってきて、胸にじんと来ました。
 開場と同時にマイクを持ち、入場整理をしながら開演まで話し続けるのも、お客さんを一番に考える永さんの思想といっていいでしょう。お客さんはもちろん大喜びで、何度も笑い転げ、何度も涙を流す。おかしくて、楽しくて、元気が出て、そしてやさしくなれる。
 永さんはお客さんとそんな豊かな時間を共有し、満足して帰ってもらうことに全力をつくすのでした。
 その日の終演近くに、東京の永さんの事務所から電話がかかってきました。「永はまだ出ていませんか。明日の予定があるので」。わたしはいそいで舞台袖に走って行き、機会を見つけて永さんに伝えました。「わかっているよ。悪いけれど、最後まではおれそうにないね」。
 永さんは時計を気にしながらぎりぎりまで舞台に立っていました。そして「もう限界、またね」と、スタスタと会場ロビーへと向かいました。
 わたしは永さんの帰りのタクシーを段取りするよう言われていました。「タクシーをすぐに用意します」と言ったのですが、「そんなものいらないよ、ここから淀屋橋まで歩くから」と言い残し、大きな肩にかばんをかけ、上体をななめにゆすりながら走って行きました。
 なんてやさしくていさぎよくて、いそがしい人なんだと思いました。
 それから毎年、何回となくゆめ風のイベントで永さんのそばにいる機会を得ましたが、舞台を下りている時はぐったりされていることもありましたが舞台ではそんな素振りはまったくありません。わたしたちが気を使うと「もっとぼくをこきつかわないとだめじゃない。人をつかうのが下手なんだから」と機嫌が悪くなるのです。
 かかわりを持つ以上、ゆめ風基金のためになることなら何でも引き受ける。そのことがお客さんにもわたしたちスタッフにも伝わって、いつもわたしたちは涙が出てしまうのでした。
 ゆめ風基金立ち上げイベントの10日後、1995年7月2日、いよいよ箕面に永六輔さんがやってきました。(つづく)

永六輔 「生きているということは」「いきるものの歌」

Sukiyaki - 上を向いて歩こう (Kyū Sakamoto, 坂本 九)

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