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2016.11.21 Mon  「忘れないと生きていけねえ、忘れたくねえ、忘れらんねえ」 山田太一作・ドラマ「五年目のひとり」

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 11月19日、テレビ朝日で放送された山田太一ドラマスペシャル「五年目のひとり」を観ました。
 1970年代の「それぞれの秋」、「男たちの旅路」、「岸辺のアルバム」、1980年代の「早春スケッチブック」、「ふぞろいの林檎たち」と、時代の空気に敏感でありながら、時代に流されない不器用なひとびとを描く山田太一のドラマは、当時のわたしにとってバイブルに似たものでした。政治的な活動には参加しなかったものの、70年安保以後の高度経済成長のスピードにしがみつき、心の奥に取り返しのつかない忘れものをしたような鬱屈した感情を隠していたわたしは、山田太一のドラマによって勇気づけられていたのでした。
 とりわけ、連続ドラマ「男たちの旅路」の中で障害者の問題を題材にした「車輪の一歩」では、他人に迷惑をかけるなという社会の常識が障害者自身を縛っている、迷惑をかけたらいいじゃないか、いや迷惑をかけることが障害者の権利であり義務だと言い放つ主人公の鶴田浩二のセリフが反響を呼びました。また「人間はやってきたことで評価されてはいけないかね」と老人たちが異議申し立て、バス・ジャックを起こす「シルバーシート」では鶴田浩二が演じる主人公に「あんたはまだ若い、十年たったらわかる」と言って説得に応じない笠智衆など老人たちの強烈なメッセージは衝撃でした。
 その縁もあって、わたしが豊能障害者労働センターに在職していた1992年と2001年の2回にわたり、箕面で講演をしていただいたこともありました。

 1995年の阪神淡路大震災、オウム真理教事件、アメリカ同時多発テロ、東日本大震災とつづいた一大事件を一連の切迫した警鐘ととらえ、世界とわたしたちの未来の在り方を模索するひとびとがさまざまな分野からメッセージを送っている今、山田太一もまたその中の一人だとわたしは思います。
若い頃に山田太一のドラマから自分の生き方を学んできたわたしは、山田太一がテレビドラマの可能性にやや絶望していた時期を越え、東日本大震災以後、本数は少ないものの今だからこそより切実に再生の祈りを詰め込む彼のテレビドラマを待ち望んできました。
 災害が起きるたびに「絆」とか優しさが日本国中にあふれ、救援活動を通じた美談が氾濫することや、反対に「被災したものの気持ちなどわかってたまるか」という強烈なメッセージも行き交う中で確実に時は過ぎ、また新しい災害や事件にひとびとの関心が移り行く…。山田太一はそれを追い続けるドキュメンタリーが事実を追い、検証することで、ある意味一方的なメッセージを提示するのに対して、ドラマでならさまざまな対立するメッセージを登場人物に語らせることで真実を視聴者と共有し、そこから切実に再生へともがくひとびとと寄り添えるのではないかと思ったのではないでしょうか。
 彼がはじめて震災を取り上げたのは2012年のNHKドラマ「キルトの家」だったと思います。このドラマは都会の「団地」に取り残された孤独な老人たちがひとつの家に集いコミュニティの再生を願う集まりに、被災地から安住の地を求め「団地」に逃れてきた若夫婦が出会い、不安に揺れながら幸せを求める道を探し出すといった内容でした。震災から一年半がすぎた頃で、東北の被災地から避難してきたひとたちが、それを隠さなければならない風潮があったことを物語っています。ドラマの後半になって二人がぽつりぽつりと震災の体験を語り始め、それを受け止める老人たちとの交流から被災地の再生が被災地だけのものではなく、老人たちの自立と再生への想いとつながっていきます。
 2014年の「時は立ち止まらない」は今回と同じテレビ朝日の放送で、このドラマでは、震災によって息子と娘が結婚するはずだった二つの家族の内、息子と祖母を亡くし家もなくした家族と、被害がなかった高台に住む家族との間の葛藤を描いたドラマでした。被災地の中で被害を免れたひとびとの後ろめたさと、被災したひとびとを助けたいと思う気持ちと、自分たちが悪くもないのに助けてもらうことへの屈辱と無念がぶつかり合います。同じ被災地に居ながら運よく被害を免れたひとびとの心にも、後ろめたさだけではない大災害の爪痕が広く深く残って行くことを痛烈に描いたドラマでした。

 そして今回のドラマ「五年目のひとり」は、東日本大震災の5年後、癒えぬ心を抱く孤独な中年男と多感な少女との不思議な出会いがもたらす再生の物語です。
 孤独な中年男・木崎秀次に渡辺謙、亜美の両親に柳葉敏郎と板谷由夏、パン屋の主人に高橋克実、その妻に木村多江、そして木崎を東京に呼び寄せ見守る花宮京子に市原悦子と、そうそうたるベテラン役者に交じって多感な少女・松永亜美を演じた蒔田彩珠、亜美の兄を演じた西畑大吾の若い二人が好演しています。

 文化祭からの帰り道、中学生の亜美は見知らぬ中年男(渡辺謙)に、歩道橋で呼び止められます。文化祭で男はダンスのステージに立った亜美を見たといい、「キレイだった。いちばんだった」と言葉を贈り、立ち去ります。
 亜美は思いがけない褒め言葉に有頂天になりますが、母・晶江がその話を聞き自宅に心配のあまり、警察を呼ぶ騒ぎにまでなってしまいます。
 数日後、街で男を亜美は偶然見かけ、小さなパン屋で彼が働いていることを知ります。その男木崎秀次は知人の誘いを受けて故郷からこの町に移住し、ある事情で無給で働いていたのでした。木崎のことを母が疑うほど、悪い人間には思えない亜美は次第に秀次と会話を重ねるうち、打ち解けていきます。
 そんなある日、パン屋の主人から亜美は本当の秀次の身の上を聞く。実は、東日本大震災の津波で秀次は家族をいちどに8人も失ったという、あまりに壮絶な過去を秘めていたのでした。福島で獣医をしていた木崎は震災当初、牛の処分など過酷な仕事をしていて、最愛の家族の死と向き合わないまま3年がたち、自分の心がこわれかけていることに気づき、自ら病院に入院治療し、退院後同郷の京子(市原悦子)の勧めで東京に出てきたのでした。
 亜美は木崎が声をかけてきたのは、木崎がなくした娘に似ているからだと思います。そして、わたしは亜美で木崎の娘ではないといいます。しかしながら木崎はそのことをわかっていても、どうしても亜美を娘とも感じていて、娘や妻、息子を亡くした現実から目を背け、自分の心がまだ癒されていないことを知るのでした。
 まわりからも自分からももう亜美には会ってはいけないと決めた木崎は、亜美の兄から「妹がもう一度、今度は亜美として会って欲しいと言っている」と伝言されます。
 福島に戻るところから、もう一度再生しようと決め東京を去る日、バス停の道路の向う側から手を振る亜美がこちら側に必死で走ってきた時には、木崎の姿はもうありませんでした。(ドラマなので、ネタバレしています。ごめんなさい。)
 このドラマの最後の最後、この場面まできて急に号泣してしまいました。震災で亡くなった最愛の家族や友人、それでも生き残った者は生き続けなければならないのです。そして、普通ならあり得ない50代の男が14歳の少女との出会いによって人生の深い意味をあらためて知り、勇気を絞って生きなおそうとする姿に涙が止まらなくなったのでした。
 「忘れないと生きていけねえ、忘れたくねえ、忘れらんねえ、忘れないと生きていけねえ、食パンにメロンパンに…」。泣き崩れる木崎に京子はいいます。「泣いて、思いっきり泣いてから福島に帰って…」。

 山田太一は東日本大震災から5年が過ぎ、いまだにその悲しみを引きずっているひとびとに少し引いてしまう世間の風潮があるけれども、まだちゃんと泣いていないひとがきっといるにちがいない、人を失ったつらさというのは他人にあまりいうことではないし、言っても相手が困るだろうというような、そうした深い悲しみ、心の波立ちといった感情の世界を描くことがフィクションのおもしろさだとコメントしています。
 「まだちゃんと泣いていないひとがいる」というコメントから、先日観た映画「永い言い訳」の西川美和監督の言葉を思い出しました。彼女もまた「永い言い訳」という映画を撮ったひとつの理由に、「3・11の大震災を経験した後、大切な人との愛に包まれた別れではなく、後味の悪い別れ方をした人の話を描きたかった」と言います。
 「目の前にいる人が突然いなくなった時の、あの時に一言声をかけてれば、ひと目あっていれば、といった後悔を背負いながら生きていく人たちの人生を描きたかった」と…。
 この映画では、主人公の幸夫が自宅で愛人と情事にふけっている時に、旅行中のバスの事故で妻が死んだというテレビニュースが流れます。妻に謝る機会も許してもらえる機会も永遠に失った幸夫は、罪悪感の落としどころがみつからずにジタバタします。 「最愛の妻を亡くした夫」を演じる事しかできない幸夫もまた、ちゃんと泣くことができないのでした。自分勝手で見栄っ張りのどうしようもない嫌な奴だった幸夫が「愛するべき日々に愛することを怠ったことの、代償は小さくはない」と気づいたとき、はじめて妻の死を受け入れることができるのでした。喪失と引き替えに生きなおす再生の物語は、今回のドラマとつながっているように思います。
 もちろん、震災による15000人に及ぶ家族や友人や恋人との別れに向き合わなければならなかったひとびとの心の時計が、映画「永い言い訳」の主人公と一緒にはできないのは当然のことです。しかしながら、生き残ってしまったひとりひとりのそれからの長い人生が同じ時を刻むはずはなく、再生の物語が喪失の物語でもあることを、映画「永い言い訳」もドラマ「五年目のひとり」も教えてくれたのではないでしょうか。

ドラマ「五年目のひとり」無料試聴

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2014.03.01 Sat 山田太一「時は立ち止まらない」

 スポーツで勝って、コンサートをひらいて元気を「与える」という人が多くてムカつきます。どうして上から目線なのでしょうか。与えられたくなんかないよ。自分で輝くよといってやってください。 (山田太一)

 わたしはいま、自然災害による被災障害者を支援するとともに、防災・減災活動をすすめる「ゆめ風基金」の手伝いをさせてもらっているのですが、上記の言葉は2011年の東日本大震災直後に「ゆめ風基金」の活動を支えてくださる呼びかけ人の方々にメッセージをお願いしたところ、山田太一さんからいただいたメッセージです。
 震災直後から全国のボランティアの人々が広大な被災地で救援活動をすすめるのと軌を一にして、芸能人によるボランティア活動も盛んに行われました。
あの頃連日連夜繰り広げられた避難所などでの歌い手さんなど芸能人のボランティア活動は純粋な気持ちから来ているのはわかっていても、どこか画一的な被災者像を押し付けられているような感じを持ってしまいました。
 かけがえのない家族や友人をなくし、生き残った被災者の方々の悲しみはその大きさも深さもひとりひとりちがうでしょうし、被災地の中でも単純なものではないはずで、ましてや被災地以外の地に住む者が簡単にわかるはずもありません。 
 震災直後に届いた山田太一さんの言葉は痛烈で、もし若い芸能人のブログなら炎上しかねない発言であり、とても勇気のいる発言だと思いました。
 さすが山田太一と、若い時から大ファンのわたしはおおいに共感したものですが、そういう人も結構いるみたいで、「ゆめ風基金」の呼びかけ人のメッセージの中でも特に賛同が多かったことを覚えています。
 「絆」という言葉がもてはやされ、被災者から反対に勇気と元気をもらったとか、いろいろなエピソードをテレビや新聞から垂れ流され、歌やドラマや小説やドラマなど、ドキュメンタリーからエンターテイメント、フィクションまで震災をテーマにした感動的な物語が大量に押し寄せたこの3年ですが、復興というひとつの言葉では解決しようもないさまざまな問題が被災地の人々にますます重く積み上げられていることは、今年の1月で避難者数が27万人、県外への避難者が福島県で約5万人、宮城県で約7000人、岩手県で約1500人であることが証明していると思います。
 「感動的な物語」だけでは語れない被災されたひとりひとりの肉声や悲鳴、憤りは全国で一生懸命活動されている市民たちの集まりなどで聞くしかなかったことも事実です。
 「ゆめ風基金」もそれらの活動のひとつで、被災障害者ひとりひとりの肉声をさまざまな場で聞くための集まりを開いたり、情報発信し、必要な人に届く支援を続けてきました。

 震災直後に痛烈なメッセージをくださった山田太一さんがこの震災をテーマにどんなドラマをつくるのかと、わたしは心待ちにしていました。
 そして震災から3年、2月22日にテレビ朝日で放映された山田太一作「時は立ち止まらない」は、わたしが想像していた以上の物語でした。
 ドラマは震災の5日前、2011年3月6日、高台に住む地元の信用金庫で支店長を務める西郷良介(中井貴一)とその妻・西郷麻子(樋口可南子)の会話から始まります。
 「お父さん、向こう行ってすぐ愛想よくばっかりしねえでよ」、「愛想よくして何が悪い、今や娘が嫁に行くかもしれねえ家だ」。その日は、一人娘の千晶(黒木メイサ)と海沿いの町で漁師をしている浜口克己(柳葉敏郎)の長男の浜口修一(渡辺大)との結婚を認め、良介の母・奈美(吉行和子)も加えた家族全員が浜口家を訪ね、顔合わせをする日だったのです。
 浜口家では西郷家の家族を迎え入れるために、克己が朝早くに釣り上げたマスを父親の吉也(橋爪功)がさばき、しっかり者の妻・正代(岸本加世子)が手早く料理をつくっていました。克己の母のいく(倍賞美津子)は千晶が市役所に勤めながら将来は政治家になりたいという夢を実現したいと修一に伝えていることなどから、漁師の妻には向かないと、この結婚には反対していました。ともかくも修一の弟・光彦(神木隆一郎)を加えた浜口家の家族6人と西郷家の家族4人は大きな座卓を囲み、ぎくしゃくしながらも親戚となるはずでした。
 それから5日後の3月11日、あの大震災と津波によって、浜口家は新郎になるはずだった修一と母の正代、祖母のいくが命を落とし、家も漁船も失ってしまいます。
 一方、高台に住んでいた西郷家は被害を免れます。東日本大震災がなければ結婚を機に結びつくはずだった2つの家族が、地震と津波によってあまりにもかけはなれた立場になってしまい、どちらのせいでもなく気持ちがすれ違い、対立してしまいます。
 良介をはじめ西郷家の家族は、自分たちは被害を受けなかった後ろめたさも感じながら、浜口家の残された家族をなんとか助けたいと、避難所に物資を届けます。
 浜口家の祖父、吉也は援助を拒絶します。「こっちはなんにもない。ありがとうというしかない。網もロープも船も、女房に嫁に孫までいない。それ、俺のせいか、息子のせいか」。
 「自分が悪いわけではないのに、他の人に助けてもらうことへの無念さや屈辱。報道やドキュメンタリー番組だとそういうことは言えないが、人間だからそうした感情はあるはずです」と、山田太一さんは語っています。
 追い詰められた良介は、「津波に遭ったと聞けば、誰にでも優しぐしなぎゃなんないのか」と、妻の麻子に漏らしてしまいます。ドラマは良介をはじめ西郷家の人々を通して、同じ被災地に居ながら運よく被害を免れたひとびとの心にも、後ろめたさだけではない大災害の爪痕が広く深く残って行くことを丁寧に描いています。
 震災によりいったん崩壊してしまうのですが、本音でぶつかりあうことから震災前よりも強くつながっていく2つの家族の2年半の物語は、押し付けられた「感動」ではない、もっとごつごつした手触りのある感動をわたしの心に届けてくれました。
 これこそが山田太一さんのドラマだと、ほんとうにうれしい涙を流しました。

山田太一「時は立ち止まらない」1

山田太一「時は立ち止まらない」2

テレビ朝日開局55周年記念 山田太一ドラマスペシャル「時は立ち止まらない」公式ホームページ


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2013.08.20 Tue 山田太一のドラマ「よその歌 わたしの唄」その4

 山田太一のドラマ「よその歌 わたしの唄」はこんな物語です。
 文化人類学の教授を定年退職した春川高史(渡瀬恒彦)はカラオケ店の店員を装い、一人カラオケをしている自分と同年代の井形俊也(柄本明)に声をかけ、「コーラス隊」に入らないかと誘います。年齢も性別もバラバラで、高史の基準でいいと思った人に声をかけ、そのために借りたスタジオにすでに何人か集まっています。
 認知症の父親の介護をしている桂葉結(キムラ緑子)、癌か何かで余命の短いらしい岡崎恒人(山崎樹範)、妻と子に逃げられた奥村功之介(阿南健治)の他、村崎秀美(中越典子)と秀美の友人の藤上由紀(伊藤麻実子)、松木伸次(瀬戸康史) …、彼女たち彼たちはそれぞれの事情を抱えています。
 高史の妻・茜(いしだあゆみ)は音楽一家に生まれクラシックに精通していて、今もバイオリン教室をやっています。高史と茜もまた微妙な心のずれをひきずり、ギクシャクした関係にあります。
 後日、俊也は自分の妻・加代(鳳蘭)を稽古場へ連れてきます。加代がピアノを弾き、「与作」を歌いだすと、スタジオの空気が変わったように彼女の歌に引き込まれます。そして、「また逢う日まで」をピアノに合わせてメンバーも歌います。みんな楽しそうで、きっとこのコーラス隊はうまくいきそうな雰囲気になるのですが…。
 そんな時、俊也から加代が急死したという連絡が入ります。葬儀の後、俊也は妻のいない家に帰るのがツライといい、高史の家に入り浸るようになります。ある日、コーラス隊の目的がわからないとメンバーたちがやめていき、傷ついて高史が家に帰ると、俊也が当たり前のように食事を作ったりしています。
 「いくら妻が亡くなって悲しいからと言って、何日も泊まるなんて非常識じゃないか」とケンカするうちに、高史と俊也の間に不思議な友情が芽生えるのでした。
 俊也は、高史や稽古場に来ていたメンバーたち、そして茜に、妻の追悼コンサートを開いてくれないかと呼びかけます。

 最近は専門店までできている「一人カラオケ」は、好きな歌を何度も歌えたり、歌ったことのない歌に挑戦できるなどの自由さが人気で、いまちょっとしたブームだそうです。
 練習のためというのが多いのかも知れませんが、そればかりではなく、歌がうまいとか下手とか、誰にも気兼ねしないで思いっきり声を張り上げて歌い、ストレスを発散させたいひとたちもいるようです。
 山田太一(すなわち高史)が注目するのは後者の方なのでしょう。音程やリズムがどうとかいっさい気にせず、自分の思ったとおりに声を枯らして歌うひとたちの歌う歌にこそ、歌が歌であるために必要とされる何かが隠れているのではないか。それは他人には決してわかってもらえない孤独な心の叫びなのかも知れません。

 「ひとりはいいね、フフ。うるせえガキはいないし、何時に帰ろうと文句はないし、ひとりで酒のんで、ひとりでメシ食って、ひとりでテレビ観て、ひとりでカラオケ行って、ひとりで齢とって、こうなりゃ、ひとりが好きになんなきゃ、やってらんねえだろ、フフ」。
 妻と子に逃げられた奥村が言うこのセリフのとおり、孤独な心がだれかとつながっていたいと必死に願って歌えば歌うほど、皮肉にも誰にも聞かせられない一人カラオケの孤独に立ち戻ってしまうのです。
 パソコンから携帯電話、スマートフォンと、コミュニケーションツールが膨張しつづける中で、たったひとりの友だちをさがすことが困難な時代をわたしたちは生きているのかも知れません。
 ドラマの最後、コンサートが開かれるのですが、一人カラオケで発散していただけの孤独な心の叫びはいつのまにか他者に気持ちを届ける歌となり、他者とともに歌い、他者と共に聴く歌へと変わっていきます。
 一人カラオケからコンサートを開くまでの登場人物たちの人生の一コマを描くこのドラマは、生きることに不器用で孤独な心がおそるおそる他者ともう一度つながっていく再生の物語、人生のリハビリテーションの物語でもあるのでした。

 最近は「十津川警部」など、他人の人生を見るばかりの役が多い渡瀬恒彦が、歌を通して他人の人生を覗き込んでいるうちに、自分と妻の人生と向き合っていくことになる老いた元教授の役どころにぴったりでした。そして 柄本明、キムラ緑子、阿南健治といったベテランに、山崎樹範、中越典子、伊藤麻実子、瀬戸康史たち若い俳優さんがからみ、突然場を壊すように突っかかる言葉や、頑なな心のひりひりした言葉が飛び交い、それでもつながっていきたいと必死に不器用に生きる登場人物のおかしさといとおしさは、山田太一のドラマでしか味わえないものです。
 その中でも妻の役を演じた、いしだあゆみは圧巻でした。たしかに痩せすぎで痛々しいとか、セリフ回しがおかしいとネガティブな評価もありましたが、わたしは正反対で、最近のいしだあゆみのそんなところが大好きです。
 とくに、最後の最後で「また逢う日まで」を弾き語りで歌うところはクラシックとは程遠かったのですが、ほんとうにひさしぶりに彼女の歌を聴いてわたしは涙が出てきました。
 いま、老いた女性の役をセクシーに演じることができる役者のひとりだと思います。

 80年代の半ばに現れたカラオケは、よくも悪くも「歌」に対する日本人のアプローチを変え、いまや音楽産業もカラオケを無視しては成り立たなくなってしまいました。カラオケで歌いやすい歌づくりも本気で行われていて、カラオケが歌をだめにしたという人たちもいます。
 たしかに、カラオケで歌いやすい曲作りをするのはいかがなものかと思いますが、一方でカラオケのおかげで日本人はよく歌を歌うようになったともいえます。今はカラオケマシーンもびっくりするような歌の上手な人たちがたくさんいます。さらにはテレビ朝日の関ジャニの番組のように、プロの歌手が自分の持ち歌を歌ってもカラオケマシーンの採点が低く、対戦相手に負けてしまうことが多いという笑えない現実があります。
 声量や音程、リズムなど基礎的な力がカラオケマシーンの採点に正直に表れるというのもたしかなことで、プロはカラオケマシーンでは測れない表現力があるから採点と関係がないというのはいいわけのようにも思えます。
 しかしながら、カラオケマシーンで最高得点を取るような歌に心をゆさぶられるかといえば、必ずしもそうではありません。やはり歌は機械で測れるものではなく、そのひとの肉声がたったひとりでもいい、誰かに届き、必要とされるかにかかっているのではないでしょうか。
 山田太一のドラマ「よその歌 わたしの唄」は、うまい下手ではなく「よその歌(カバー曲)」に自分の人生を重ね、自分の孤独と自分の心の叫びを肉声で届けたいと必死に願い、歌う時、その歌はもう「わたしの唄」になり、時には生きる勇気をくれることもあると教えてくれたように思います。
 そういえばここ何年もカラオケに行っていません。わたしも一人カラオケで、島津亜矢を思いっきり歌ってみたいと思います。

尾崎紀世彦「また逢う日まで」
この歌は新しい歌謡曲を求め、世に問うた阿久悠の野心にあふれた一曲だと思います。このドラマには主題歌はないのですが、この歌がドラマのアイコンというかテーマであることは間違いないでしょう。

ブルーハーツ「TRAIN TRAIN」
「ここは天国じゃないんだ かと言って地獄でもない いいやつばかりじゃないけど 悪いやつばかりでもない」
この曲もこのドラマにぴったりの選曲で、昔からドラマに使う音楽にこだわりを持ってきた山田太一らしいと思います。この曲の編曲とレコーディング時のピアノは、今日ライブを聴きに行く小島良喜で、1990年に桑名正博とともに豊能障害者労働センターのチャリティコンサートに来てくれた時、「あの歌は一発で決まった」と話してくれました。ちなみにわたしがはじめて大阪城ホールに行ったのはブルーハーツでした。

森進一「冬のリヴィエラ」
このドラマで歌われる歌はどれも一人カラオケにぴったりの歌ばかりで、山田太一はそれぞれの登場人物の人生が投影された歌を選んでいます。この歌は妻と子に逃げられた男の悲哀をかくしてかっこよく歌おうと頑張る姿がおかしく、涙を誘います。

山田太一ドラマスペシャル「よその歌 わたしの唄」1

山田太一ドラマスペシャル「よその歌 わたしの唄」2


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2013.08.03 Sat ひとつのドラマが人生を変えることもある・山田太一その3

 「人間は、してきたことで敬意を表されてはいかんかね。してきたことを大切にできなければ、人間は使い捨てられるだけじゃないか」と、一人の老人が言います。
 「こんなことをして世間が敬意を表しますか。すねた子どもが押入れに閉じこもっているのと変わらないじゃないですか」と、警備会社の吉岡が言います。
「わしらは押し入れにとじこもっただけです」。
 「あんたにはわからないんだよ。税金のお世話になっているもんは、おとなしくしてなきゃいかん。そんなことはわかってるんだよ。だけど、時々、わーっ、わっーて、無茶をしたくなる年寄りの気持ちなんか、あんたにはわからないんだよ」。
 「これは老人の、要領のえん、悪あがきです。だまって、警察に突き出してくれますね」と、老人たちは言うのでした。
 1977年に放映された男たちの旅路シリーズ「シルバーシート」は、老人ホームに入っている老人たちが友人の死をきっかけに、車庫にある都電に篭城する話です。
 じいさんたちはさびしいんだ、若い奴がすぐにのけものにするからだ、社会に訴えたいことがあるんだ……。
 老人たちに好意的な警備員たちがさまざまな憶測をし、老人たちを説得するが、いっこうによせつけません。
 「吉岡さん、あんたの言っていることは理屈だ」「あんたは、まだ若い。若いから理屈で納得できる」「あんたの20年後ですよ。20年たったら、あんたの言っていることが理屈だとわかる」。
 「死んだ本木さんの骨が帰ってきた時、悲しくてね、くやしくてね、このままおとなしく死んじまってたまるかと思ったんだ」。
 このドラマを見た時、わたしは30才でしたが、「あんたの言っていることは理屈だ。あんたはまだ若い」という言葉が、66才になった今もずっと心にひっかかったままです。
 ラスト近くの10分間、篭城した都電の中で笠智衆、加藤嘉、殿山泰二、藤原釜足という名優たちがたたみかけるセリフにかくした山田太一のメッセージは、36年がすぎて介護保険制度ができた今でも、いや今だからこそますますその意味は重くせまります。
 まわりがどんな福祉制度で固められても、福祉制度に合わせられてしまう「老い」ではなく、ひとは自分の「老い」と出会い、とまどいながらもどうつきあっていくかを自分で決めるしかないし、自分で決める自由があるはずなのです。
 「シルバーシート」の老人たちの痛烈な言葉は、まるで思い通りにならない恋人とつきあうように「老い」を生き、「老い」とつきあう人間のいとおしさ、不思議さをかくしていました。
 「わしたちが何を要求しているのか、わかりますか?あんたも20年たったらわかる」とは、テレビの視聴率と格闘しながら山田太一がかけた、時代をこえる「謎」のメッセージなのだと思います。
 その「謎」を、わたしたちは解き明かすことができたのでしょうか。このドラマが放映されてから36年の間に、たしかに老人や障害者にかかわる福祉制度は大きく変わりましたが、人間の不思議さや人生の謎、「老い」や「かけがえのない個性」や「友情」を分かち合う社会の仕組みを、わたしたちはまだ持てないでいます。

 1979年11月24日、男たちの旅路シリーズ最終回「車輪の一歩」が放映されました。車イスを利用する青年たちに吉岡が言います。
 「ひとに迷惑をかけるなという、この社会がいちばん疑わないルールが君たちを縛っている。ひとに迷惑をかけていいじゃないか。君たちが自由に街に出られないルールの方がおかしいんだ。迷惑をかけることを恐れるな」。
 当時は「なぜ、鶴田浩二扮する吉岡に言わせるのか」という障害者市民運動からの意見もあったと聞きますが、このメッセージは当時障害者の友人がいなかったわたしの生き方、感じ方を見事にひっくりかえしてくれました。
 それから3年後、活動をはじめたばかりの豊能障害者労働センターに行った時、脳性まひといわれるKさんたちとすぐ仲間になれたのは、このドラマを見ていたからでした。
 最初は周辺にいただけだったわたしが、1987年に豊能障害者労働センターのスタッフになったのも、すべてはこのドラマからはじまっていたのだと思います。

 3回に渡り、「男たちの旅路」シリーズを中心に山田太一のドラマについて書いてきましたが、1960年代の木下恵介劇場からNHKの朝ドラ「藍より青く」、それ以後倉本聡と並びテレビドラマの創世記をけん引した山田太一の数々の名作は、いまもたくさんの人たちの心に強烈に残っていることでしょう。
そして、一本のドラマで人生が変わることを教えてくれる、そんなドラマをつくる作家はそんなに多くはいないと断じて思うのです。
 「シルバーシート」、「車輪の一歩」は、まちがいなくわたしの人生を変えてしまったのでした。
 山田太一さんの人気ドラマに「ふぞろいの林檎たち」がありますが、豊能障害者労働センターの人たちは障害のある人もないひとも、ほんとうに「ふぞろいの林檎たち」そのままです。その「ふぞろいの林檎たち」のために、1990年、2000年と2回も、豊能障害者労働センター主催の講演会に来てくださった山田太一さんに深く感謝すると共に、不遜を承知で言えば、それはわたしたちのたちの誇りでもあります。
 
 さて、今回のドラマ「よその歌 わたしの唄」について書くつもりがとても長い前置きになってしまいました。そして、実はこの間、小椋佳のコンサートに行ったり、明日4日は唐十郎作・蜷川幸雄演出「盲導犬」を、11日には最近ファンになった曽我部恵一のライブに行くことになっていたり、その上に明日は首を長くして待っていた島津亜矢の「BS日本のうた」への出演がありまして、書きたいこと、書かなければいけないと思っていることがたくさんあります。
 順番がどうなるかはわかりませんが、今回のドラマ「よその歌 わたしの唄」は、カラオケをきっかけにした「歌(唄)」をテーマにしていることもあり、島津亜矢や曽我部恵一、小椋佳のことにも触れながら書いてみようと思っています。
 とにもかくも、明日は島津亜矢の番組を録画しておき、宮沢りえ、古田新太、小出恵介が出演する「盲導犬」を観に行きます。

NHK土曜ドラマ 山田太一シリーズ「男たちの旅路 第3部 第1話 シルバー・シート」(1977年)
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2013.08.02 Fri 寺山修司から山田太一へ・山田太一その2

 わたしは何回も引っ越しました。摂津市千里丘の家を高校卒業後すぐに出て大阪の岸里に住んだのを皮切りに、吹田、蛍池、服部、川西、豊中と移り、箕面に住んでいた時はこの町が終の棲家と思ったものですが、それからまた旅は続き、吹田の江坂町で妻の母との同居をへて、大阪のてっぺんといわれる能勢町に引っ越してちょうど2年がたちました。

 1977年12月3日、土曜日。その日は川西の家から豊中に引っ越すため、わたしは朝から必死で準備をしていました。出来合いのもので夕食を済まし、まだ小さかった子どもたちが寝た後、妻と2人でなかなか片付かない最後の荷物の整理をしていました。
 夜の9時すぎに、電話のベルが鳴りました。すでに亡くなって4年が経とうとしている親友だったK君でした。「引越しの準備大変やろ。明日行くわな。『男たちの旅路』見てへんやろ」。
 その夜は山田太一の「男たちの旅路」第3シリーズの最終回「別離」を放送していましたが、引越しの前の日で見れるはずもありませんでした。
 「こうなってな、あーなってな、桃井かおりが死んでしまうねん」と、筋書きを電話で話す彼の親切はありがたいのですが、「俺は見たでー」という優越感のようなものを感じ、「こんちくしょう」と思ったものでした。
 「高原へいらっしゃい」、「さくらの唄」「岸辺のアルバム」…。この頃は各局でよく山田太一のドラマがあり、わたしと友人との間で「山田太一のドラマを見たか」が合言葉になっていました。

 19才から23才まで、最初に就職した建築設計事務所を半年でやめてビルの清掃を3年、その後ぶらぶらしていた時代にもっとも気になる人間は寺山修司でした。
 どもり、「私生児」、ヒッピー、孤独…。ほんとうは社会や他人と関係を持つことが怖いだけだったわたしに、寺山修司はたった3分の歌謡曲や雑多な巷から思想を語り、自分らしく生きる勇気を教えてくれました。
 そして1970年、世の中の喧騒がおさまるのと同時に、わたしの青春は終わりました。それから会社勤めをし、結婚し、子どもが生まれ、わたしにも家族ができていく年月に、もっとも気になる人間となったのが山田太一でした。
 山田太一が描く日本の高度成長期の家族は、決して幸せではありませんでした。というより、期待される幸せな家族像が、山田太一のドラマにはなかったのでした。
 「岸辺のアルバム」、「早春スケッチブック」に代表されるように、ドラマの最初で幸せな家族像はすぐに崩壊してしまいます。
 「わかってくれる」と思い込むことが家族のひとりひとりを傷付けていたことを知らされ、自分自身も傷ついてしまいます。そして不思議なことに、「決してわかりあえない」ことを知った時、家族や友人や自分のまわりのひとたちを前よりもいっそういとおしく思うのです。そして、もう一度いっしょうけんめい生きよう、いっしょうけんめいつきあおうと静かな決意をする登場人物たちの後姿は、いつのまにか見ているわたし自身の後姿になっていました。
 ひとはいつから自分がおとなになったと感じるのでしょう。波がきらきらした夢を連れ去った後、砂浜に取り残されるものは思い出という貝殻だけなのでしょうか。
 いや決してそうではない。若さというスピードが置き忘れた人生の意味をひとつひとつ辛抱強く拾いながらもう一度歩きはじめる時、ひとはおとなになっていくのだと思います。
 つまらないと思ってしまいがちな平凡な日常生活の中で「自分らしさ」を再構築していくドラマを、わたしは必要としていたのでした。山田太一のドラマは、おとなになっていくわたし自身のドラマでもあったのです。
 そしてわたしにとって、山田太一のドラマはフィクションで終わりませんでした。「男たちの旅路」シリーズの「シルバーシート」、「車輪の一歩」は、その後僕自身が会社勤めをやめて、豊能障害者労働センターのスタッフになることを予見していたのでした。

NHK土曜ドラマ 山田太一シリーズ「男たちの旅路 第3部 第3話 別離」(1977年)
特攻隊員だった鶴田浩二演ずる吉岡は、死んでいった戦友への申し訳なさをかかえ、生き残ってしまった自分を恥じるように生きています。戦後の経済成長とともにあった時代の風潮を憂い、「若い奴はきらいだ」と言い放つ吉岡の言動を時代錯誤で右翼的と反発しながらも、水谷豊や桃井かおりたちが演ずる戦後生まれの若者は奇妙な尊敬の感情を持ち始めます。一方吉岡もまた、若者は若者なりに一生懸命生きていることを心の底で感じるようになり、かたくなで不器用だが少しずつ不思議な友情に近いものが両者の間に生まれるのでした。
鶴田浩二主演のテレビドラマということで、このドラマの設定は山田太一にとっては本来のものではなかったかもしれないのですが、予定調和的で安易な「解りあい」や人間関係など絶対にありえない山田太一らしいドラマだったともいえるのではないでしょうか。
そして、桃井かおり演じる悦子は吉岡に恋心をもちはじめ、吉岡は時々おどおどしながらも戦中派の硬派の中年を演じつづけるのですが、その悦子が死んでいこうとする時、「悦子くんを愛している」と水谷豊演ずる陽平に告白します。
最初はテレビドラマに出ることを断ったといわれる鶴田浩二がこの役柄ならと受けたといわれる特攻隊崩れの右翼的で硬派の中年の男が無防備でたどたどしく、内心おろおろしながら、嫌っていたはずの若すぎる女性への愛の告白をするこのシーンを、よくも鶴田浩二が演じたものだと思います。そして、時代錯誤であっても「かっこいい」とされた吉岡より、この時のぼろぼろで「かっこわるい」吉岡を演ずる鶴田浩二に、名優である証を見たのはわたしだけではなかったと思います。
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