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2013.06.23 Sun 村上春樹の新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」3

 村上春樹の新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」には、静かな時間が流れています。しかしながら、その静けさは36才という彼の年齢からすれば、あまりにも静かすぎるといえるでしょう。これからまださまざまなことがふりかかり、人生を切り開かざるをえないはずです。そんな彼がクールではげしく感情をぶつけたりもしないのは、やはり16年前に4人の友人から一方的な絶交を宣告された事件が彼の心をいわば半開きのドアのようにしていて、人生の何事にもほんとうに心を全面的に開いてコミットすることを恐れるあまり、それが彼の人格にまでなってしまっているのです。
 それは彼一人の問題のようですが、その背景として1995年の阪神淡路大震災とオウム真理教事件によって、戦後民主主義と経済成長神話が著しく損なわれてしまったことと共振しているとわたしは思います。
 あのとき以来、わたしたちは昨日よりは今日、今日よりは明日と、世の中もわたしたちの暮らしもよくなっていくことや、誰でも努力すれば幸せになれるという幻想を持つことができなくなってしまいました。もちろん、いつの時代でもだれもが幸せになることなどはなかったのですが、戦後の巨大な幸福幻想は個々の運不運や幸福や不幸を飲み込み、昔流行った村田英雄の歌のように、「いつかおまえの時代が来るぞ」という言葉がわたしたちに見果てぬ夢をばらまいていたこともまた事実でした。
 多崎つくると4人の友人の間にあった濃密な人間関係もまた、多崎つくるに理不尽な仕打ちをしてしまうことで残りの4人の心もばらばらになり結局はこわれてしまいます。
 そして16年後の2011年、現実の日本社会は東日本大震災と原発事故によって、さらに困難な状況に追い込まれました。それは16年前にはまだ取り戻せると信じられた経済成長や豊かさは一部の人間の幻想へと変質し、もう一方の多くの人々にとってはすでに遠い過去になりつつあるという現実をつきつけることになったのではないでしょうか。
 村上春樹の新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読みながら、もしかするとわたしも日本社会もこの16年間、この厳しい現実から目をそらしてきたのかもしれないと思いました。悲しい時もうれしい時も大きな船にみんな一緒に乗っているという幸せな幻想が壊れてしまってからは自分の現実と立ち向かうことで精いっぱいで、その個々の現実をもたらす社会の現実と立ち向かう余裕も想像力も持てなかったとしてもしかたがなかったのかもしれません。
 そしていま、1995年と2011年の2つの理不尽な出来事を乗り越えて、わたしたちはわたしたち自身の、そして日本社会の、さらには世界の市民社会の未来がどんな形と色を持つことになるのかを見つめ、考え、想像し、次の世代にバトンを渡さなければならないのだと思いました。 
 「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それがもたらした歴史を消すことはできない。それだけは覚えておいた方がいいわ。歴史は消すことも、作りかえることもできないの。それはあなたという存在を殺すのと同じだから」
 多崎つくるのガールフレンドの沙羅の言葉は、読者であるわたし自身の心に放たれた言葉のように受け取りました。

 沙羅の啓示ともとれるアドバイスを受けて多崎つくるは16年間の心の封印を解き、かつての友を訪ねる巡礼の旅を始めることになります。
 わたしは果たしてかつての友が事前のアポもなく彼に会うことをこばまず、ましてや16年前の一方的な絶交という理不尽な行為の理由を話してくれるものなのか、少し無理があるかなとも思いました。しかしながら、この物語はダイアローグによって語られる多崎つくるのモノローグで、沙羅というガールフレンドもかつての友も、またこの小説でけっこう重要な人物でありながら物語の外に消えていった灰田という青年も、多崎つくるの巡礼物語の狂言回しであることに気づきました。
 彼らは多崎つくるの固く閉ざされた心を慎重に開き、高校時代の親密すぎた関係にまで立ち戻り、やりなおしのきかない歴史を検証する巡礼の旅の水先案内人なのだと思います。その意味でもガールフレンドの沙羅が旅行代理店の優秀なスタッフで、彼女がこの旅全体をディレクトし、フィンランドにまで足を延ばした時の飛行機のチケットやホテル、現地のアドバイザーまで手配するのも暗示的です。

 この極私的で奇妙な巡礼の旅が、多崎つくるに再生と未来と生きる希望をもたらしたのかといえば、それはなんとも言えません。ある意味、この巡礼の旅は多崎つくるが沙羅とより深い関係になっていくための通過儀礼のようでもあるのですが、旅を終えた後、この二人がほんとうに結ばれるのかはわからないまま物語は終わってしまいます。
 あくまでもこの巡礼の旅は過去の検証という役割は果たしたものの、不可解で理不尽な絶交のほんとうの理由を知ったところで、多崎つくるのこれからの人生が変わるかどうかはまた別のことなのかもしれません。
ただ、この巡礼の旅の最後、今はフィンランドで暮らすかつてクロと呼んでいた女友だち・エリとの痛々しい会話の中で、彼はもうひとつの啓示を受け取るのでした。
 「私たちはこうして生き残ったんだよ。私も君も。そして生き残った人間には、生き残った人間が果たさなくちゃならない責務がある。それはね。できるだけこのまましっかりここに生き残り続けることだよ。たとえいろんなことが不完全にしかできないとしても」
そして、多崎つくるもまた、エリとの別れ際に言葉にできなかった次の言葉をエリに語りかけるように噛みしめます。
 「僕らはあのころ何かを強く信じていたし、何かを強く信じる自分を持っていた。そんな思いがそのままどこかに虚しく消えてしまうことはない」
 これが彼の巡礼の旅によって獲得した強い感情であり、これからの人生をどう生きるのかと立ち止まり、新しい一歩を踏み出す静かな決意でもあるように感じました。
 それはちょうど、この社会がこの時代がわたしたちが、新しい未来の入り口を予感しながら暗闇の中で立ち止まっていることと重なっています。
 思えばこの物語自体がひとつの啓示で、わたしたちが新しい巡礼の旅の一歩を踏み出すのを待っているような気がします。

ボブ・ディラン「時代は変わる」(time they are a changing)1964年
わたしの隠れ家時代への巡礼の旅のテーマソングのひとつです。この歌を初めて聞いたのは以前にも書いたことがある梅田の少しいかがわしいお店「オーゴーゴー」でした。ここには学生運動とは縁がない同世代の若者がひしめいていて、ビートルズやローリングストーンズがかかっていました。その中でアコースティックでリズムがほとんどないこの曲がかかるとそれまで踊っていた若者は一斉に踊りをやめるのですが、ただひとりわたしの妻だけが踊っていて、けっこう一目置かれていました。彼女たち彼たちもまた同時代を生きたもうひとつの「運動」をラジカルにしていたひとたちであったと思います。
ある日、店員が「警察が来ます。すぐに逃げてください」と叫び、みんな一斉に夜のネオンの闇に消えていきました。わたし自身は警察に連行されてもかまわなかったのですが、とりあえずみんなと一緒に逃げました。
あくる日の夜、お店に行くとすでにお店はなくなっていました。

三上寛「夢は夜ひらく」(第3回全日本フォークジャンボリー'71)
ビートルズ解散後、わたしはこの人の大ファンになりました。この音源は1971年のフォークジャンボリーで、このイベントはこの年に再度ステージで歌った吉田たくろうを支持する人たちがメインステージになだれ込み、混乱の中止になってしまったことは「春一番」の記事で書きましたが、三上寛はこの時に飛び入り出演したと聞いています。この映像がテレビで流れ、わたしは大阪府豊中市のレコード店に飛び込み、彼のデビューアルバムを買いました。ちょうどその時、豊中市民会館のこけら落としのイベントに出演すると聞き、生まれてはじめてライブに行ったのが三上寛でした。

島津亜矢「旅愁」(2012年リサイタルより)
島津亜矢のこの歌を聴くと、わたしの隠れ家時代を思い出します。阿久悠の残した詩を歌にしたこのアルバムは、どれも名曲ばかりですが、この曲の「あのひともこのひとも、旅路の夢に見るばかり」というくだりに思わず切なくなります。ほんとうに長い時が過ぎたことをしみじみと思います。

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2013.06.10 Mon 村上春樹の新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」2

 わたしたちが共同生活をしていた家には、同世代の若者がよく訪ねてきました。友だちの友だちというぐあいに口コミで広まったのでしょう。学生運動の闘士だというひとや、政治的な闘争は人間の革命のほんの一部分でしかないと主張するヒッピー、それに高校時代からの友だちでふつうに会社に勤めているひとなどが突然訪れては泊まっていきました。
一宿一飯ではありませんがその日の晩御飯を食べた後、わたしはみんなと話をするのがとても楽しみでした。大学紛争の話や70年安保、ベトナム戦争のことなど、世の中の政治的な動きに疎いわたしには知らないことばかりでした。新聞やテレビとちがい、ひとりの生身の人間の心と体を通ってきた情報はとても生々しく伝わってきました。
 学生運動をしているひとたちの中には公安警察に目をつけられているひとたちもいたと思います。そんな彼女たち彼たちにとってわたしたちの家は、かっこうの「隠れ家」だったのかもしれません。そもそも、高校卒業して建築設計事務所につとめたものの半年でやめてしまい、友だちに依存する形で共同生活をはじめた対人恐怖症のわたしにとってこそ、その家は「隠れ家」だったのでした。
 毎日仕事に行くひとりをのぞいて仕事もせず、それまでの貯金を崩して生活していましたが、ほとんど外出もせず生活費を5人で分けるとほんとうに少ないお金で暮らすことができました。
わたしはみんなで小さな会社をつくろうなどと幼稚で甘い夢のようなことを言っていましたがそれを実行する努力もせず、実は心を固くしてその隠れ家に閉じこもっていました。
 どんな小さなグループでも周りのひとを排除し、遮断することでそのグループを存続させようとする誘惑から自由になれないものですが、わたしたちもまたその例外ではありませんでした。いつのまにか数少ない友人たちとも疎遠になるにつれて、わたしたち自身の関係もおかしくなり、お互いを傷つけあうだけの毎日が続くようになりました。
 一年ほどたって、わたしたちは共同生活を解消し、それぞれの人生を歩き始めることになりました。共同生活の前の高校時代にまでさかのぼる数年の間、友人たちとの狭くて濃密な人間関係にたよって生きながらえてきたわたしは、その時はじめて自分ひとりで生きていくことに直面しました。そして、自立して生きていくというこんな当たり前のことができないことをごまかし、この社会からできるだけ遠くに逃げたいという本心を社会の問題にすりかえてきた傲慢さに気づかされました。
 嵐が通り過ぎたあと、吹きすさぶ風が叩き壊した窓ガラスの破片が夜の青さに光り、わたしの心には青春の肉片が生臭く散らばっていました。
 
 村上春樹の新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では、確固としてあった(と信じていた)「完璧な共同体」は、親友たちからの絶交という一方的な行為によって突然解体されます。なぜ絶交されたのか、多崎つくるはそのユートピアを壊してしまうどんな裏切り行為をしてしまったのか。
 多崎つくるはその理由をたずねることができないまま、16年間を過ごしてきました。もし多崎つくるがその理由をたずね、その上で喧嘩をしてでも物事をはっきりさせた上でグループを解消し、絶交していたならこの物語ははじまらなかったでしょう。
 多崎つくるはなぜ聞けなかったのでしょうか。わたしは彼があまりにも純情に4人の親友とそのグループの一体感を信じていたために、その濃密な関係が突然解消されること、まして一方的にその理由を思い当たるふしのない自分の裏切り行為のせいにされることなど考えられなかったのだと思います。
 その時の多崎つくるの心情は理不尽な仕打ちに対する怒りよりも、それまでに経験したことがない大きな悲しみではなかったでしょうか。ひとは誰しも長い人生の中でそういう場面に何度か直面しますが、あまりにも大きな悲しみは人から言葉も涙もうばうことをわたしたちは知っています。
 彼が信じて疑わなかった「完璧な共同体」、深く濃密な信頼関係もまた実はとてももろいものだったことに打ちのめされた彼はそれから一年は自殺寸前まで心が壊れていきます。
 そしてようやくまた人生を歩き始めた時、彼はすでに以前のように純情で育ちの良い子供ではなくなっています。それ以後の16年間、他人と深くかかわることを恐れ、他人の心の奥に踏み込むことも自分の心をさらけ出すこともできずに生きてきたのでしょう。
 多崎つくるの人物像をなぞってみると、村上春樹の小説すべてに共通しているものがありますが、あれほど女性にモテず、あれほど無難に仕事もできず、またあれほど生きにくさをカバーするに余る処世術を持たず、またあれほど都会的なセンスを持たず、またあれほどおしゃれなお店や音楽を知らず、またあれほど…、とそんなに取り除けば意味がなくなるはずなのですが、その特徴を剥げば剥ぐほど浮かびあがってくる人物像が、わたしにはとてもなじみの深い人物で、ふと気づくとそのひとは私自身のように思えてくるのです。
そして、すでに損なわれてしまった愛、後悔や反省では取り戻すことができない濃密で肉感的な人間関係が心の壁にへばりつき、自信のなさや恐れから新しい人間関係をつくる勇気を持てない多崎つくるを自分自身と確信するひとは私一人ではなく、日本にも世界にもたくさんいて、彼の小説がこれほど世界的にも愛読されるもっとも大きな理由なのだと思います。
 その共通しているものは、「どうしようもない生きにくさ」とか「どこかそぐわない自分自身と社会との関係」とか、「コミュニケーションの不可能性」と言っていいでしょうか。実際、ひととひとが向かい合い、一方が涙を流して「解りあえた」と思った時、実はもう一方が屈服させられていることは多々あり、村上春樹の小説にはその微妙なすきまのような空間にコミュニケーションとデスコミュニケーション、正義と悪が用意されていて、ちょっとしたきっかけでそれらがいつでも交換可能であるかのようです。
 最近の日本社会の一方的でヒステリックな世論や憎しみに満ちたヘイトスピーチなどにとまどいながら「ちょっと待ってください」と心の中でつぶやくひとたちにとって(わたしもそのひとりですが)、村上春樹の小説はその暴力的な大波に抵抗できる静かな勇気をくれるかけがえのないものです。
 村上春樹は最近の講演で「僕の物語と読者の心が共鳴する魂のネットワークのようなものをつくりたい」と言ったそうですが、その魂のネットワークは彼の小説を通じて日本中に世界中に張り巡らされた静かな勇気のネットワークでもあるとわたしは思います。

ジャックス「ラブ・ジェネレーション」
隠れ家時代の愛唱歌といえばまずはジャックスです。1968年のアルバム「ジャックスの世界」はほんとうに画期的なアルバムでした。ジャックスは日本語で歌う日本のロックシーンのさきがけのようなバンドで、わたしはもとより当時の若者から幅広く支持されました。

ジャックス「割れた鏡の中から」
久しぶりに聴くともう一曲紹介したくなり、「裏切りの季節」とどちらにしようかと悩んだ末にこの曲にしました。このアルバムは「からっぽの世界」や「時計を止めて」「マリアンヌ」などの名曲ぞろいで、ただ単にロックシーンだけではなく、当時の社会的な背景が色濃く反映されたカウンターカルチャーとしても注目されました。

島津亜矢「命かれても」
一転してこの時代、わたしは森進一のファンでした。とくに「命かれても」はわたしの隠れ家時代の心情にぴったりはまっていて、大阪空港に近かった家から深夜に散歩し、よくこの歌を大きな声で歌ったものでした。
われらが歌姫・島津亜矢の熱唱でお聴きください。

ジョン・コルトレーン「マイ・フェバリット・シングス」
わたしたちの隠れ家に時々来てくれたIさんにジョン・コルトレーンを教えてもらいました。彼とはとくに朝方までいろいろな話をしました。学生運動の闘士だった彼は、政治的な問題についても丁寧に話してくれましたが、一方でコルトレーンやジャックスも教えてくれたのでした。そして、世の中の理不尽さを感じていても行動にできない内向的なわたしに、「腰が重いけれどいつか立ち上がる時が来るよ」と励ましてくれました。わたしが豊能障害者労働センターの誕生に立ち会い、障害者の運動をつづけられたのも、青春の時の彼の言葉があったからでした。

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2013.06.06 Thu 村上春樹の新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」

多崎つくると、彼の巡礼の年

 村上春樹の新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は「ノルウーの森」や「国境の南、太陽の西」に近い作品のようで、前作長編「1Q84」や「海辺のカフカ」などの大掛かりなインターテイメント性のないリアリスム小説と言えるかもしれません。
 といって「ノルウェーの森」や「国境の南、太陽の西」にあるドラマチックなところもなく、物語は淡々とつづられ、村上作品の中では読みやすい小説ともいえるかもしれません。
 わたしはむしろ「1Q84」や「海辺のカフカ」の波乱万丈な物語を通り過ぎたひとの後日談のようにも思え、これまでの作品に登場し去って行った登場人物やちょっとおしゃれなレストラン、音楽や街の風景などの村上作品アイテムの数々が比較的短い小説の中でたびたび姿を現し、あらためてこれまでの小説をもう一度読みたいと思いました。

 36才になる多崎つくるは名古屋の公立高校を卒業、東京の工科大学の土木工学科に進み、東京の鉄道会社で設計管理する仕事をしています。
 彼は高校時代に特別に親密な関係を作っていた親友4人から、大学2年生、20才のときに突如、理由も告げられないまま絶交を言い渡され、心の底では今でもそのことをひきずっています。そして、はじめて付き合いたいと思える女友だちから、「なぜ4人から絶交されたのかを確かめ、決着をつけないと女友だちとのこともふくめ、新しい一歩を始められないと助言されます。
 4人のかつての友人はみんな名前に色がついていて、それぞれアカ、アオ、シロ、クロとよびあっていたのですが、多崎つくるの名前には色がなく、つくると呼ばれていました。
 小説の題名となっている「色彩を持たない」つくるという設定は、そのままこの物語の核心となっていて、「あるところのものであらず、あらぬところものである」という実存主義を喚起させますし、「巡礼」というキーワードもどこかベルイマンの映画のようでもあります。
 大手旅行代理店に勤める彼女が4人の現住所と仕事場を調べてくれたのをたよりに、封印されていた歴史と向き合うためにつくるの「巡礼の旅」がはじまります。その旅で明らかになっていくのは残酷な事実でした。(ネタバレになってもいけないので、あらすじはここまでにします。)
 高校時代に5人がつくっていたとても深い関係を、多崎つくるは「自分が正しい場所にいて、正しい仲間と結びついている、そう信じることができた」と語っています。しかし、そのような場所は失われ、「完璧な共同体」と思われた親友たちとの関係は損なわれてしまいます。自殺寸前まで自分を追い込んだ彼は1年を経て立ち直ったものの、いまだに心の底にはこのことが説明のつかない傷となって残っています。
 誰もがこのような経験を持っているのかもしれませんが、実はわたしにもとてもよく似た経験があり、今までの村上作品以上に身につまされる思いで読みました。

 わたしの高校生活はとてもみじめな毎日でした。それは単にわたしがどもりである以上の理由はなかったのかも知れません。中学に入ってからは一時どもりが収まり、自分でもびっくりするぐらい積極的になっていましたが、はっきりとした目的もなく漠然と普通高校から大学へと進学したいと思った時、突然どもりが再発したのでした。
 母は片手に余るほどの薬を飲み、女手ひとつで私と兄を育てるために命を削るように一膳飯屋を切り盛りしていました。まだ高校の進学率が低かった時代で、せめて高校には進学させてやりたいと夜も昼もなく働いていた母の姿が今でも目に焼き付いています。
 それでも極貧に近い経済状態を子供心に知らないはずはありません。どもりの原因などわかるはずもありませんでしたが、大学進学など絶望的であることを体が教えてくれたのかもしれません。
 ともあれ、手に職を持ったほうが良いと言われ、ほんとうは興味のない工業高校の建築科に入ったわたしは、専門の勉強が増えるにしたがって成績もどんどん下がり、最後は学校もサボるようになっていきました。
 そんなわたしでも2人の友人と出会います。2人とも建築科で、しかも美術部に入ったことで友人となり、私たち3人は試験中でもデパートの屋上で夜まで学校への不満をぶちまけたものでした。
 その頃、別の高校の美術部の女子生徒3人とグループ交際をはじめ、結局この6人が高校卒業後も月に1、2回会うようになります。そして、そのうちの5人で二戸一の住宅を借り、共同生活をすることになるのでした。
 時は1960年代後半、70年安保闘争、大学紛争、ベトナム戦争と日本も世界も騒然としていました。このころについては映画「マイ・バック・ページ」に関する記事など、このブログですでに書いていますが、わたしが何度もこだわってこの頃のことを書いてしまうのは多崎つくるとよく似ていて、あのころのさまざまな出来事が今でも決着をつけられず心の壁にへばりついているからなのです。若さと青春ということで決して片づけられないある種のうしろめたさ、甘酸っぱい思い出と取り返しのつかない心の傷、現実離れした幻想と切ない希望、そして、血を吐くような恋…。
 わたしは何度もこのグループから離れようとしましたが、そのたびに友人がかけつけてくれて、ほかの人たちとでは決して持つことができない友情を確認することになるのでした。多崎つくるたちのグループでは3人の男と2人の女という微妙な組み合わせで、心の底では恋心が飛び交っていたもののそれを覆い隠すことで関係を続けていましたが、わたしたちの場合は公然とした恋愛関係を内包することで、よりもろくより激しく危ないものになっていきました。
 ほんとうはたださびしい甘えん坊の意気地なしでしかないのに、起こるはずもない、また起こそうともしない革命幻想にひたり、自分たちはほかのひとたちとは違う一段エライ人間のように思う勘違いと傲慢さが、わたしたちを友人と思うそれ以外の人々を寄せ付けず、どんどん風通しが悪くなり、そのグループでしか通じない習慣やゆがんだルールをつくることになっていきました。
 やがて、わたしたちはまるでそのように運命づけられていたようにグループを解散することなるのです。
(つづく)

映画「マイ・バック・ページ」と川本三郎

映画「マイ・バック・ページ」・ぼくの「マイ・バック・ページ」1

映画「マイ・バック・ページ」・ぼくの「マイ・バック・ページ」2
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2013.06.03 Mon 村上春樹と寺山修司と豊能障害者労働センター

 村上春樹の新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読みました。
 最近は彼の新作が出版されるたびにニュースで取り上げられ、前作の長編「1Q84」の時はかなりの騒ぎになりました。今回の新作も発売前から予約が殺到していて、わたしは少し後に本屋さんに行ったのですがやはり予約しなければなりませんでした。
 わたしは1979年に「風の歌を聴け」でデビューした村上春樹の小説が、けっこう長い間苦手でした。1987年に空前のベストセラーになった「ノルウェーの森」も何年後かに娘にすすめられ、文庫本を読み始めては最初の数ページで挫折していました。
 そんなわたしでしたが1998年、ちょっとしたきっかけで豊能障害者労働センターのリサイクル本から「ダンス・ダンス・ダンス」(1988年刊)を買い、はじめて村上春樹の小説を読んだのでした。
 それからは一冊ずつ年月をさかのぼり、「風の歌を聴け」までたどると、それからは新刊が出るたびに読み続け、現在に至っています。
 わたしはほんとうのところ読書家とはいえず、今でもそうですが小説はあまり読みませんでした。
 若いころは、小説という虚構の世界の登場人物がどう生きてどう死んでいくのか、そのひとの夢も希望も野望も絶望も他者との出会いも別れも作者という絶対権力者の思いのままであることがどうしてもなじめないことのひとつでした。そんなわけで若いころはもっぱら詩やエッセイや時には哲学や思想など、虚構というよりは現実に寄り添うような本を読んでいました。
 しかしながら、いつのまにか自分がもう若くはないと思い始めたころ、ひとつは豊能障害者労働センターの障害者との出会いから、わたしは大切なことを教えてもらいました。
 それは、現実と思っているものはわたしが思う現実であり、他人が思う現実はまたちがった風景を持っているということでした。
 そう思い返せば、わたしは若いころに寺山修司が大好きで、寺山修司の我田引水と思えるような現実のとらえ方に親しんでいたことを思い出しました。寺山修司が若い私に教えてくれたことは、客観的現実などというものより、自分の肉体や感じる心を通った私的現実・エロス的現実に身を投じることでした。
 そして、社会のすべての領域のあらゆる権威というものに疑いを持ち、天下国家や社会の在り方を論じる分厚い書物よりも、藤圭子が「十五、十六、十七と、あたしの人生暗かった」(「夢は夜ひらく」と歌うパチンコ屋や飲み屋、深夜映画館や競馬場や路地裏にもうひとつの現実があり、その現実を想像力によって思想化することでした。
 若いころは「書を捨てよ、街に出よう」とか「家出のすすめ」とか、寺山修司の挑発がもうひとつわからなかったのですが、豊能障害者労働センターとの出会いによって、その意味が自分の体と心にしみるように実感できるようになりました。
 1983年、寺山修司が亡くなり、精神的支柱というか心のよりどころというか、実人生で出会っていたわけでもないのに、わたしの心にぽっかりと穴が開いてしまいました。
 しかしながら、わたしはその時すでに豊能障害者労働センターの周辺で、いままでまったく経験してこなかった「社会的な活動」に参加していて、若いころから慣れ親しんだ哲学書や思想本や歌謡曲や芝居などから感じるすべてのことを現実の場で検証し、肉体化することに熱中するようになりました。
 他のひとたちが障害者の運動やボランティア活動などの社会的な活動をへて豊能障害者労働センターの活動に参加したのとはちがい、まったくの白紙の状態で活動に参加したわたしは、見るもの聴くものすべてが新鮮でしたし、「福祉」という枠組みなど無関係に、ひとりひとり個性のちがう障害者との新しい出会いに夢中でした。

 そんな暮らしの中で、わたしは虚構や物語がひとりの人間の人生においても、また社会においてもとても大切なものであることを実感するようになりました。ひとつの事実にはその事実とかかわり、立ち会った人の数だけの「真実」という物語があり、その物語をどれだけ共有できるかで人生の楽しみや、柔らかく多様な価値観が共存できる社会の可能性が広がることを知ったのでした。
 わたしが村上春樹の小説を読むようになったのは、そんな心境の変化があったからだと思っています。ほんとうはどんな小説でもそうなのでしょうが、村上春樹の小説を読むと、書き手である村上春樹が小説の中の登場人物を思いのままに描き、動かしているようには思えないのです。
 彼の小説は阪神淡路大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件があった1995年以前とそれ以後とで大きく変わったといわれますし、本人もそれを認めています。しかしながら、村上春樹も最初はどこにたどりつくかはわからない物語の行方を探しながら書いていて、時間的な落差を追いかけるように読み手であるわたしもまた自分の物語としてその行方を探しながら読んでいるような、奇妙な錯覚をしてしまうのです。
 うまく言えないのですが、村上春樹はどちらかというと小説家というより、現実とのやりとりから生まれるいくつもの物語をエンターテイメントとして構成するプロデーサーのようなんです。彼のつくる物語はたとえ特別な地域の風土や文化が背景に描かれていても、そこに住んだひとしかわからないような特有のにおいというものがなく、それを批判するひともたくさんいますが、むしろ彼の小説に出てくる人間の心の井戸を想像力という掘削機で深く掘ると世界のいたる所の地下深くとつながっていくのです。
 具体的な場所や民族や固有の文化からさらに深く掘り続けた底の底にあるアイデンティティをよりどころに、物語はその井戸の底から湧きあがるように読者に届けられ、世界中のちがった場所でちがった時に、彼の物語の構造に肉付けするようにちがった物語があふれてくるようなのです。
 その仕組みというか虚構の構造は昔も今も変わらないのですが、ただそのプロデュースが個人の責任の持てる比較的小さな物語の世界から、1995年を経て、たとえ自分ひとりで責任を回収することができなかったとしても社会全体、世界全体を物語の工事現場としてとらえなければならなくなったといえるでしょうか。

 正直のところ、わたしは彼の小説のどこにそんな魅力があるのと友人に聞かれても自信を持って答えられません。
 それぞれの小説のストーリーの展開や登場人物の魅力にはじまり、とくに最近の小説で評される社会的な啓示や同時代へのメッセージがあるのかないのか、あるとすればそれはどんな啓示でどんなメッセージなのか。賛否両論から「好き嫌い」まで、世間を騒がし、世界を騒がしてしまう現象はなぜ起こるのか。その現象は単なる文学の庭だけの現象なのか、それとも日本の、世界の在り様にかかわり、村上春樹もわたしたちもどんな世界をめざし、夢みているのかなど、ひとつの問いに答えようとすると次から次へと自問があらわれ、結局のところ「好きだ」としか言えなくなるのです。
 最近はイスラエルやスペインなどの文学賞受賞のスピーチや新聞への寄稿、エッセイなどで社会的な発言も積極的にするようになり、それを参考に村上春樹の考え方や生き方から小説を語れる部分もできるようになったところもあるかもしれませんが、わたしはそれは矮小なものだと思います。
 やはり彼の小説の魅力は、虚構の構造を読者に提供することにあり、わたしたち読者はその構造(ジャズでいうコードのようなもの?)に基づいてわたしだけの物語(アドリブ)をまるで前に経験したことがあったように読みとく楽しみにあるように思います。
 新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」に入る前に紙面がいっぱいになってしまいました。新作については次回以降に書きたいと思います。

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