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2012.08.05 Sun 想い出よありがとう

想い出よ ありがとう
やっと今 そう云える私
数え切れない 昨日に
それぞれの 心をこめて
島津亜矢「想い出よありがとう」(作詞・阿久悠)

1995年の阪神淡路大震災とオーム真理教の事件は、ちょうどバブルの崩壊と重なり、「今日よりは明日、今年よりは来年」という淡い期待によって成り立っていた未来予想を壊してしまいました。
 50年に渡る民主主義国家のもとでの安全神話がこわれたことで安全ファシズムといえる動きが強まった一方で、今まで国や行政におまかせでやってきた街づくりを市民が担う新しい民主主義も生れることとなりました。
 わたしたちの活動においてもそれは例外ではありませんでした。わたしたちの活動は他の障害者団体に理解されることが少なく、孤立することを承知していましたが、1995年の地震における救援活動を通して、運営の違いや地域をこえて助け合うことの大切さを学びました。そして障害者団体に限らず、他の市民団体や個人の方にもわたしたちの思いをより伝えたいと思うようになりました。
 2000年に入り、新自由主義、市場原理主義を取り入れた小泉政権は、規制緩和、公共部門の民営化、福祉の削減など、大きな政府から小さな政府への転換をすすめました。
 企業は国内では非正規雇用をふやし、さらに雇用そのものを海外に移すことでグローバル化の波に乗ろうとしましたが、その結果国民の間に少数の「勝ち組」と、多数の「負け組」をつくったこともまた事実としてあります。
 わたしたちは小さな政府に反対ではありません。福祉国家が大きな政府だと言われますが、簡単に福祉の充実が大きな政府で、福祉の削減が小さな政府だと言えないと思っています。
 どちらにしても福祉予算は「かわいそうなひと」、「社会の一員としての役割を担えないひと」への保護として考えられていて、そもそも障害者を「かわいそうなひと」、「社会の一員としての役割を担えないひと」ととらえる社会こそが変わらなければならないとわたしたちは主張してきたのでした。
 保護することではなく、社会の一員として参加することを保障し、さまざまな個性や文化を持ったひとびとが共にになう経済システム、障害者を結局は閉じ込めてしまうために費やされる福祉政策から、真に障害者が参加し、共に働き、共に生きるための政策をわたしたちは提案してきました。その冒険のひとつが豊能障害者労働センターだと思ってます
 そして、いまにいたるわたしたちの壮大な冒険から、次の10年は国レベルでも地方レベルでも、障害者が対象となり消費者になるのではなく、障害者が運営を担い、障害者がサービスを提供する社会的企業として広く理解されていくことを切望しています。
 経済のグローバル化は、世界の貧困をより深刻なものにしたと言われています。その矛盾が、2001年9月11日の痛ましい事件を生んだ一つの要因であるとも言われます。
 同時多発テロとアフガニスタンへの軍事行動で多くの人々が亡くなりました。そして2003年、アメリカはイラク戦争へとつきすすみました。
 世界のいたましい惨状に何かしなければとあせりながらも、わたしたちはここを離れることはできませんでした。わたしたちは北大阪の小さな荒野を耕し、障害のあるひともないひとも、誰もが幸せになるための経済をつくりださなければなりませんでした。
 わたしたちは平和を願う心が自立経済を生み出す活動につながることを、ガンジーから学んでいました。そこでわたしたちは、毎年開いてきたバザーを通じて平和を願う心、差別をなくす意志、非暴力の理念を伝えようと思ったのでした。

 豊能障害者労働センターの物語をここまで書いてきましたが、ここからは別のひとが綴っていってもらいたい。
 わたしは2003年に豊能障害者労働センターを退職しました。今はアルバイトスタッフとして、豊能障害者労働センターにかかっていますが、そろそろ労働センターを卒業しなければと考える今日この頃です。
それはさておき、ひさしぶりに労働センターに足を踏み入れると、なつかしさよりも圧倒的におどろきの方が大きいのです。当の彼らにとってはふつうのことが稀有のことであることに、びっくりさせられます。
 障害者スタッフの立ち振る舞いをみていると、つくづくこのひとたちがコミュニケーションの狩人、人生の達人だと感心してしまいます。
 わたしがいた時よりもはるかに多い障害者スタッフが、わたしがいた時に夢見たことなどすでにあたりまえのように実行していて、それは、なにかができるようになったとかいうようなことではなく、ここでは、ひとりひとりが自分の個性をそのままあらわにしながら、他者への心配りを決して忘れません。
 誤解を恐れずにいうなら、豊能障害者労働センターのほとんどの障害者スタッフが一般企業に就職することはまず無理なことではあるでしょう。それは、ひとつはたしかに企業のハードルを越えられない重度と言われる障害者だからといえます。
 けれどももうひとつは、実は彼らは自分をふくめ、この集団とその構成員をマネージする、経営することを日々他の障害者と学び合い、成長しているためなのです。
 学校が本来教育するところではなく、学び合うところであるように…。
 それはけっして福祉的就労の場である授産施設(B型就労継続支援事業所)でも、またおそらくは一般企業でも学べないことだと思います。
 日常の中で、たとえばだれかが発作でたおれたら、われもわれもと現場にかけつける。そのうち、そんなにひとがいてもしかたがないことがわかってくると、離れた場所で心配しながら状況をみつめている。
 まわりのひとがそんな彼らのことをよくわからず、いろいろな「説教」をしても、彼らはさらりと受け流し、その「おせっかい」な親切にはそれなりの礼をつくす、という案配で、それはみごとな立ち振る舞いをさらりとしてしまいます。
 健全者の新人をもりたてるのにも余念がなく、スキンシップもふくめてその新人が豊能障害者労働センターの「社風」(?)に早く溶け込むようにさまざまな気配りをする。
 かぞえあげたらきりがない。こんな職場だったから、わたしも働けたのだと感謝しています。
 そして、かれらの活躍が縦横無尽に発揮されるのはなんといってもバザーの時でしょう。はじめてのひとが見たら、「訓練が行き届いている軍隊」とまちがい、そこから「このひとたちは一般企業で働けるのを、豊能障害者労働センターが無理やりひきとめている」と誤解の風評が立つのも不思議ではありません。
 けれどもけっして忘れてはならないのは、彼らはいまある一般企業に就職できるわけではおそらくないのです。反対にこんなに生き生きと仕事ができるはずの彼らを雇用できない職場のあり方、社会のあり方の方こそ問われるべきなのだと思います。
 彼らが生き生きと仕事をしているのは、さまざまなとんちんかんに心ゆすぶられながらも友情から生れる、ドラッカーなみの経営学をもってバザーを、そして豊能障害者労働センターをマネージ(経営)しているからなのです。
 はたしてこんなに豊かな職場関係をもっている企業が社会的企業をふくめてあるでしょうか。いま社会的企業が注目されていますが、そこでも障害者は「お客さん」でしかないことがよくあります。
 「障害者が担う」とか「障害者が運営する」というと、ほとんどのひとが「それは建前だ」と答えます。
 そのひとたちに見てもらいたい。豊能障害者労働センターの障害者たちの「大活躍」を。(ただし、彼らは奥ゆかしいので、ぱっと見でだまされないようにしていただきたい。)
 豊能障害者労働センターの半開きのドアをあけて中に入ると、ここはまさしく人生の宝探しの場です。
 この宝の山を、わたしが独り占めするのは贅沢すぎる。もしこの文章を読んでくれたあなたとも分け合いたいと思うのですが、もう語る言葉が見つかりません。

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2012.07.03 Tue 天国は無い ただ空があるだけ

豊能障害者労働センター30年ストーリーNO.7

天国は無い ただ空があるだけ
国境も無い ただ地球があるだけ
みんながそう思えば 簡単なことさ
  (イマジン 訳詞/忌野清志郎)

 1993年11月1日、わたしたちは坊島の事務所に拠点を移しました。同じ箕面市内とはいえ、事務所の移転は、いままで歩いて来ていたひとが自転車に乗ったり、またその逆があったり、視覚障害者の杉山幸子さんはガイドヘルパーの方と新しい道をおぼえたりと、障害者にとっては大事件でした。
 それでもわたしたちはすこしずつ新しい出会いをつくっていきました。

 1994年、それまでの数年箕面市と論議を深めてきた箕面市障害者事業所制度がはじまりました。
 一般企業から排除され、保護訓練指導される枠組みによる授産施設か障害者作業所、デイサービス、在宅福祉の消費者としか位置づけられない職業的重度といわれる障害者の雇用の場(社会的雇用の場)に対する助成制度は、全国で初めの画期的な制度として注目され、後に滋賀県などの制度につながっていきました。
 しかしながら、一般企業に就労を拒まれるなら「八百屋でもしょうか」という2人の青年から出発したわたしたちは、当初から自ら事業を起こしていく集団でした。
 障害者事業所に社会的起業までの展望を持っていたわたしたちと、一般就労(一般企業への就労)が理想で、それができないひとに提供する次善の雇用の場とする箕面市とのずれは当初からありましたが、現在はより鮮明になっています。
 それでも、まだ身体障害者の福祉的就労の場、授産施設がなかった1982年から、障害者の手に乗るお金をつくりだすために悪戦苦闘してきた12年、箕面市ではじめて24時間介護を必要とする障害者の自立生活を公的介護保障なしで実現し、あるひとは新婚生活のさ中、月に15日も泊まり介護をしながらささえてきたこの12年間という長い時をへて、ようやくわたしたちの活動が(箕面市のみですが)はじめて公的な活動団体と認知されたことを、わたしたちは運動の果実としました。

 1995年1月17日、あの阪神淡路大震災を境に日本の社会のあり方がそうだったように、わたしたちの活動もまた大きく変わりました。
 幸い、わたしたちの地域は活断層が寸前で止まり、大きなの被害はなく、事務所も無事でした。しかしながら朝のニュースは、わたしたちの想像をこえた事態が同時多発的に起こっていることを刻々伝えていました。
 その最中にもテレビの中が大きくゆれ、それを見るわたしたちもまた大きな余震に震えていました。プレハブの事務所は余震の揺れとともに、窓ガラスやかべが奇妙な叫び声を上げるのでした。
 あの日の前まで、わたしたちは春のバザーの準備をしていました。
 おたがいの無事を確認できたものの、「今度はこことちがうか」と頻繁に寄せてくる余震にふるえていました。「仕事なんかできへん」と誰かがいいました。
 その時、一枚のFAXが届きました。何度も何度もFAXの機械を通ってきたために、文字はつぶれてしまって細かいところはわからないけれど、そこにはけっしてテレビではわからなかった、被災地の障害者の安否と被害のひどさが伝わってきました。
 「バザーやって、売り上げみんな被災地の障害者に持っていこ」。
 しばらくして、誰かが言いました。わたしたちは被災障害者救援バザーを開くことにしました。
 それと同時に、全国の障害者団体のネットワークから「障害者救援本部」が結成され、豊能障害者労働センター機関紙・積木79号で基金のお願いをしました。
 救援本部の物資ターミナルも引き受けたわたしたちは、被災地に救援物資を運びました。
 バザーは、新しい事務所のまわりの市民をふくめて100人のボランティアのひとたちに応援していただき、約7000人の方々が参加してくださいました。 野外ステージでは、新谷のり子さんもかけつけてくださいました。
 400万円の売り上げとなり、よびかけた救援金と合わせて1000万円を救援本部を通して被災地の障害者に届けることができました。
 4月には、「被災障害者支援ゆめ・風基金」が立ち上がり、わたしたちは7月にゆめ・風基金呼びかけ人代表の永六輔さんの講演会を開きました。
 わたしたちはあの寒い朝以後、2つの時を生きているのだと思います。止まってしまった時と激しく刻み始めた時。2つの時がひとつになるのには、もっと多くの時を必要としているのだと思います。

 救援活動が一区切りした後も、わたしたちのもとには全国からバザー用品が送られてきました。「今度はあなた方の活動に生かしてくれ。」という言葉とともに寄せられるバザー用品の山を前に、リサイクルショップを開くことにしました。
 今では箕面市内に5つのお店を運営し、障害者スタッフが切り盛りすることで職種の開拓が進んだ他、バザーと合わせたリサイクル事業は豊能障害者労働センターの大きな柱に成長しました。
 また1998年には小泉さんを中心とする障害者スタッフのデザインによるメッセージアートTシャツ、雑貨の通信販売をはじめ、カレンダーの販売をふくめてもうひとつの大きな事業になりました。

 こうして、わたしたちの1990年代は終わろうとしていました。ふりかえれば20世紀の世界はなんとたくさんのなみだと血が流れつづけたことでしょう。
 わたしたちは、血と悲しみと怒りと恨みの歴史とさよならできないのかと無力感におそわれます。
 それででも、わたしたちに届けられる声があります。いつの時代にあってもきずつきながらもひとを愛し、共に生きることをおそれない勇気を、わたしたち人間はすてなかったことを必死に伝えてくれるメッセージがあります。
 だから、わたしたちもまたそのメッセージを、次の時代のおとなたちとこどもたちに伝えていこうと思いました。

 窓の外にはもう、21世紀の風が吹いていました。
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2012.06.11 Mon さよならだけが人生ならば、また来る春はなんだろう

豊能障害者労働センター30年ストーリーNO.6

さよならだけが人生ならば、また来る春はなんだろう
はるかなはるかな地の果てに、咲いてる野のゆりなんだろう
                                    寺山修司 

 1990年、箕面市障害者事業団が設立され、一般企業への就労が困難な「職業的重度」といわれる障害者の雇用の場として事業を開始しました。
 障害者事業団は保護訓練指導する福祉的就労と一般企業への就労との谷間を埋めるため、一般企業への就労が困難な職業的重度といわれる障害者の「次善の」雇用創出を目的とされました。それを箕面市では障害者の「社会的雇用」と呼んでいます。
 箕面市障害者事業団の設立により、わたしたちの活動を市民が運営する社会的雇用の場と位置づけるための制度づくりが、箕面市とわたしたちの間で協議されることになりました。
 わたしたちはすでにその頃、一般企業への就労をこばまれる障害者が自ら運営に参加する起業集団として、わたしたちの活動をとらえはじめていましたので、「次善の」雇用の場という位置づけとはちがうものでしたが、それでも全国的にみれば先駆的な制度であることから、わたしたちもそのテーブルにつくことにしました。
 その時代、もし大阪府の作業所制度の枠に入っていればそれなりの助成があり、財政的には楽になったのですが、作業所制度は授産施設と同じように障害者を保護訓練指導する制度で、制度上はいわゆる健全者は指導員、障害者は訓練生となります。たとえ実質は対等だといっても、年月が経ち新しい仲間がふえれば、豊能障害者労働センターの宝である「共に働き、共に運営する」という運営は崩壊してしまいます。障害者スタッフを中心にそれだけはいやだ、どんなに貧乏でもこの宝物は捨てられないと、わたしたちは団結していました。
 そんなわけで助成金がほとんどない状態の中、わたしたちは日常活動と別に毎年、箕面市民会館でのイベントをすることになりました。
 渋谷天外さん、桑名正博さんとの出会いから1990年1993年まで毎年、桑名正博コンサートを開きました。
 それに加えて1992年には山田太一さんと西川きよしさんの講演会、1993年には小室等しさんのコンサートと年に2回もイベントをした年もありました。
 これらのイベントは出演者をはじめご来場いただいた多くの市民の方々のご協力により、いずれも1000人を越える盛況で、この時代の運営を助けていただきましたし、ご来場くださった方々にご満足いただけるような質の高いイベントであったと誇りにしています。
 その間に、桜ケ丘の事務所に移転して5年がすぎていました。
 5年前にこの事務所を建設する時、一抹の不安を持ったことが現実となってしまいました。この土地は市営住宅の跡地で、5年後には整備するということは聞いてはいましたが、この事務所の土地もその計画のなかに入っていて、立ち退きを求められたのでした。
 全国から寄せられた1000万円の基金でこの事務所を建設した時は箕面市障害者事業団はまだ設立されていなくて、行政的な位置づけも整理されていなかったことや、おたがいの約束事へのとらえ方の食い違いもあり、協議は難航しましたが、最終的に箕面市障害者事業団の職種開拓育成事業として位置づけられ、坊島の事務所が建設されることになりました。

 桜ケ丘の事務所でわたしたちは、多くの友と出会いました。新しい友がリュックサックから心の荷物を広げるたびに、わたしたちの地図は描きかえられました。
 世界はいつもとつぜんわたしたちの前に立ち現れ、わたしたちは混乱しながらもワクワクしたのでした。
 もし歴史がわたしたちの肉声で語られるとしたら、はるか遠い大地に立つひとりの少年のうれし涙も悲しい涙も、わたしたちのひとみからあふれることでしょう。
 そして、何億光年の時を渡る満天の星をみつめる、たったひとりのまだ見ぬ不在の友と出会う予感に心おどらせるでしょう。
 桜井の事務所が、ふきぬける風に身をかがめながら、かろうじてわたしたちの夢をかくまってくれた袋小路だったとすれば、桜ケ丘の事務所は、わたしたちの夢見る心が解き放たれ、言葉が追いつけないほどの急ぐ心とたくわえた涙、出会いと別れと希望と後悔が突き抜ける荒野でした。
 わたしたちが主催するイベントに来てくださった山田太一さんも小室等さんも、桑名正博さんも、桑名さんとともに来てくれた小島良喜さん、妹尾隆一郎さんも、そしてわたしたちも、桜ケ丘の事務所の風を心いっぱいに吸い込みました。
 あの日、あの時、わたしたちはわたしたちの今を息づきながら、その風の色とかおりに、どこかにかくれている、なくさないで!と叫ぶたくさんの声たちにつつまれていました。
 なくしてはいけない時の贈り物は、わたしたちに切ないがゆえにしあわせな未来をてらしてくれたのでした。
 毎年春には、鳴き声を練習しにやってきて、上手になったら飛び立っていったうぐいすたち。そのすぐあとに天使のように、なぜか「だいじょうぶ」とささやいてくれた鈴虫たち。
 さようなら、そして、ありがとう。
 1993年10月31日、どしゃ降りの雨の中、わたしたちは桜ケ丘の事務所と別れ、坊島の事務所に引っ越しました。
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2012.06.05 Tue 変わらない夢を、流れに求めて

豊能障害者労働センター30年ストーリーNO.5

シュプレイヒコールの波、通り過ぎてゆく
変わらない夢を、流れに求めて
時の流れを止めて、変わらない夢を
見たがる者たちと、戦うため
                               中島みゆき「世情」

 桜井の事務所は古い民家で戸はガタガタ、風はビュービュー吹き抜ける、ひどい雨漏りと、おばけ屋敷とも言われました。
 それでもみんなでお金を出し合い、また紹介された新聞記事を見て近所のひとからいただいたお金をかきあつめて、やっと借りた事務所でした。
 トンカントンカンと改造し、立派?に機能し始めたのでした。事務机やスチール棚などの備品はすべていただきものでかため、当初は割合広いイメージもあったのですが、当初2人だった障害者も1986年には5人となり、勢12人になっていました。荷物も増えて足の踏み場もない状態になりました。
 またやむを得ず借りたものの、桜井の事務所は冬ともなれば木枯らしが部屋を舞い、外から帰ってくるとみんなジャンパーやコートをはおらなければならず、またビールなどは部屋に置いておくと凍ってしまうので冷蔵庫に入れるという、笑えない落語のような状態でした。
 ひとりが風邪をひくと何周期も全員が風邪をリレーし、とくに障害者の健康を考えてももう限界で、今よりも広く、健康的な事務所に移転することが急務となっていました。
 その間、行政的には何とかせねばとならんという機運が高まり、箕面市障害者事業団の設立準備や、障害者作業所制度の開始などの動きはありましたが、そもそも障害者を保護訓練指導する制度の枠組みからの解放をめざして設立した豊能障害者労働センターは、その枠組みの中にある作業所への移行は解散を意味するものでした。そのため、あくまでも重度といわれる障害者の所得をともなう社会的雇用の場を貫く豊能障害者労働センターへの助成制度はまだありませんでした。
 そこでわたしたちは事務所の拡大移転について行政とも話し合い、土地の確保については行政にお願いし、建設費は労働センターが用意することになりました。
 と言っても、労働センターにはそんなお金はありませんでした。それでなくてもこの時代は毎週日曜日に梅田にカンパ活動をしながらなんとか飢えをしのぐという、そのころでさえ誰も信じられないような赤貧の中にいました。
 そこでわたしたちは当時大阪大学教授だった小川悟さんを代表に仰ぎ、近い方にも遠くの方にも実行委員をお願いし、拡大移転500万円基金運動をはじめたのでした。ほんとうは500万円では少なすぎることはわかっていたのですが、それ以上のお金を寄付していただく自信がありませんでした。
 1986年12月20日、長谷川きよしさんと小室等さんに来ていただき、箕面サンプラザで豊能障害者労働センター5周年と拡大移転応援コンサートを開きました。
 拡大移転基金は全国のたくさんの方々のご支援で約1000万円になりましたが、土地の確保が難航し、期限の問題で将来的な不安をかかえながらも箕面市桜ケ丘の市営住宅跡地が確保され、予定より約1年おくれた1987年5月、念願の新しい事務所ができあがったのでした。
 その間にも、障害者9人をふくむ19人と仲間は増え続けました。
 新しい事務所のなんともいえないいい香りがただよい、わたしたちは陶然としました。
 実際それから1週間、ただただぼうっと大きな窓にふちどられた5月の緑をながめるばかりで、仕事が手に付きませんでした。
 わたしたちは思いました。この事務所はわたしたちのものではないのだと……。
 建物を支えているのはわたしたちのつたない叫びを受けとめてくださった、いくつものうれし涙がぎっしりとつまった心のコンクリート、いくつもの勇気がぎっしりとつまった心の鉄骨なのだと……。
 そのひとつひとつの涙と勇気こそが、豊能障害者労働センターそのものだったのです。
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2012.06.02 Sat Yさんとボブ・マーレーとたこ焼きと

豊能障害者労働センター30年ストーリーNO.4

これまで、俺たちはいい友達を持った
そして、いい友達を失ってしまった
これから輝かしい未来が始まるだろうけど、今までのことを忘れちゃいけないよ
                      ボブ・マーレー「ノウ・ウーマン・ノウ・クライ」

 「お茶がこぼれました。誰かなんとかしてください。」
 身をかたくして、ただじっと座っていたその女性は、うろたえながら叫びました。その言葉のひびきは、まるで遠い国から亡命して来たかのように、わたしたちの頭の上によどみました。
 Yさん、あなたが労働センターを去ってから、もうずいぶん時がたってしまいました。この手紙をあなたが読んでくれるかどうかはわかりません。
 ですから、この手紙はあて先不明で帰ってくる、わたし自身への手紙なのかもしれません。
 あなたが労働センターにいた2年半という時間を今ふりかえってみても、あなたの出した宿題はあまりにも大きすぎるように思います。
 その答えを出す時をまちがったわたしですが、ボブ・マーレーを口ずさみながら、一緒に行った須磨海岸のコンサートのことを思いだします。
 あれはたぶん、あなたが労働センターに現われてからまもない日曜日だったと思います。わたしの妻があなたを誘って、3人で行きました。
 わたしと妻は、労働センターと関わったのと同じ頃、Tさんというステキな歌うたいと出会いました。不思議にもわたしたちは1972年頃に彼がまだ高校生だった頃、豊中市民会館のステージで彼の歌を聴いていたのでした。
 その彼がバンドを作ってまた歌い始めた頃、わたしが箕面ではじめて開いたロックコンサートに参加してくれたのをきっかけに、わたしは彼の当時のバンド「トキドキクラブ」のファンになり、彼らの出るコンサートに必ず出かけていたのです。
 あなたはおよそロックやレゲーを聴きに行くには似つかわぬいでたちで現われました。時代遅れのブラウスにブリーツのスカート、口紅だけは真っ赤でハイヒール。海岸の砂に足をとられ、足がいたいと何度も立ち止まりながら、やっと野外ステージにたどりついたのでした。
 トキドキクラブのライブが始まると、あなたは踊り始めました。それはなんとも言いがたい風景でした。今風のカッコいいファッションの群れの中で、あなたのまわりだけが古い日光写真の中にあるような、不思議な光景でした。見ていた多くの若者はしたり顔で笑っていました。
 うしろの方にいたわたしは、サングラスの中でその遠い風景を見つめていました。
 そのうち妻が一緒に踊り始めました。若者の苦笑いはもっと大きくなりました。
 しばらくして気が付くと、わたしはやみくもに前に走り出て踊り始めた、というより、めちゃくちゃなラジオ体操をしていました。サングラスはどっかへふっとび、財布や免許証がちらばりました。
 わたしの姿を見た若者たちは、あざわらうようにわたしに視線をむけました。わたしは本当に、今まで貯金してきた恥という恥を団体で使い果たしてやろうと、彼らのひとりの手をつかみ、引きずり出そうとしました。
 実際その時のわたしは、その若者になぐりかからん勢いだったのでしょう。わたしが近づくと、みんな逃げて行くのでした。あっ、また悪い癖が出てしまった。なんで俺はいつもこうなんだろう、と思いました。
 回りを見ると、もうひとり男が踊っていました。労働センターの良き理解者となった神戸のスナック「メルヘン」のマスター、今は亡きMさんでした。あなたと妻、Mさんは本当にトキドキクラブの音楽に酔いながら、しなやかに体を動かしていました。
 踊り始めてから見る風景は、サングラスによどんでいた風景とはまるでちがいました。5月の風に身をゆだね、太陽をちりばめた光の粒のような波の階段の踊り場で、スカートをひるがえし、それが遠い国の言葉であるかのように、トキドキクラブの音に耳をかたむけているあなたがいました。 
 トキドキクラブの演奏が終わり、ボブ・マーレーの「ノウ・ウーマン・ノウ・クライ」がかかった時、若者たちが一斉に踊り始めました。
 いま、はっきりとわたしは言える。あの時のボブ・マーレーは、カッコヨク踊る彼らにではなく、あなたにこそ語りかけていたことを。
 いま、はっきりとわたしは言える。あなたの踊りが、自分をとりもどしていく時速100キロの青春の救急車だったことを。
 あなたの過ごしてきた授産施設で、あなたの青春は少女のまま、ひん死の重傷だったことを。
 それから半年後、わたしたちは事務所の土間を改造し、たこやきの店「れんげや」を開店しました。あなたはわたしの妻とたこ焼きを焼くことになりました。
 あなたが焼くふぞろいのたこやきのファンも現われました。
 きっとわたしたちは、どこかでさよならの仕方を間違えたのだと思います。自分を取り戻していくあなたの変わりように、わたしたちはついて行けなかった。
 短い間にいくつもの恋を通り過ぎたあなたは、そのたびに別の「もうひとつの場所」を見つけてきました。その時のあなたにとって、労働センターが自由への旅のはじまりの、小さな駅の待合室でしかなかったことも仕方のないことでした。
 十三の映画館で、Tさんたちと一緒に芝居をした時、たこ焼きやの女を演じたあなたは、生き生きと輝いていました。あなたはあの時、本当のたこ焼きやさんを捨てることを決めたのではないかと思います。
 それから半年後、あなたは労働センターを去って行きました。
 寒い冬、なれない手付きでたこ焼きを焼いたあなたもまた、豊能障害者労働センターの30年をささえているのだと思います。
 Yさん、元気ですか、いまどうしていますか。
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