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2017.04.25 Tue おお せつなやポッポー 友部正人の「乾杯」と浅間山荘事件

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乾杯 取り残されたぼくに
乾杯 忘れてしまうしかないその日の終わりに
乾杯 身もと引き受け人のないぼくの悲しみに

おお せつなやポッポー
500円分の切符をくだせえ
友部正人「乾杯」

 1972年に発表されたこの曲は、同年の連合赤軍浅間山荘事件を取り上げた、トーキングブルースです。
 あさま山荘事件は、1972年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において連合赤軍が人質をとって立てこもった事件です。
機動隊の人質救出作戦が難航し、死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)を出しました。10日目の2月28日に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕されました。
2月28日は酷寒の環境における警察と犯人との攻防、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビで生中継され、NHK・民放を合わせたテレビの総世帯の視聴率は午後6時26分に89.7%に達し、国民のほとんどすべてがテレビを見ているという空前の出来事でした。
 わたしはこの頃、フーテンのような暮らしから小さな町工場に就職して2年がたった頃で、ようやく仕事にも慣れ、極度の対人恐怖症も工場の中では少しずつ解消されてきた頃でした。
 この日は仕事が終わった後、普通ならすぐに帰るところ、卓球をしながらテレビの中継を見ていました。そして、自分がこの社会のどこに立っているのか自問しつづけました。
 というのも、自分がお茶の間で、仕事場で、町の電器屋のテレビの前で、現実に今起こっている事件を卓球しながら、コーヒーを飲みながら、酒を飲みながらまるでドラマを見るように機動隊員の死までも傍観し、人質の女性の安否を気遣い、犯人たちの非道をなじる側の人間に洗脳されていく、もう少し正確に言えばそのようにふるまわなければならないと実感したからでした。
 テレビ報道は、「安全な場所」にいるわたしたちに犯人逮捕までの長い道のりを映しつづけることで、正義とやさしさをもって反社会的な行動を極悪人と断罪することを要求していました。
 思えば、今数多くの芸能人が時事評論家になり、「真実」より「印象」やパフォーマンスで大切なことがかくれたまま、薄明るい闇に次々と消えていくニュースバラエティが席巻していますが、あさま山荘事件の報道はその最初のひとつでした。
 この事件以来、マスコミ報道は事件をさまざまな角度から検証し真実にたどりつくことより、わたしたちをひとつの方向に誘導し、国や社会が「善良な市民」と認める人間になる「洗脳教育」をするようになったと思います。

 この事件から45年、わたしたちは見事に傍観者、サイレントマジョリティとして愛される存在とみなされるようになってしまいました。しかしながら、サイレントマジョリティという大衆がすでに崩壊してしまったことも事実で、分衆から孤衆へと追い詰められたわたしたちはサイレントマイノリティとして復活する時が近づいている予感もあります。
 たとえば、「世界の終わり」というバンドに集まる若い人たちにとって、このバンドは世の中の暴力から身を守るシェルターの役割を果たしていますし、高橋優に集結するひとたちもまた、自分の肉声であるべき人生をもとめていると思います。「エレファントカシマシ」もまた、ますます過酷になって追い詰められたわたしたちが、「さあ、がんばろう」と疲れた体を奮い起こす応援歌を歌いつづけています。
 45年も前に、友部正人の「乾杯」は、そんなメディアバイパスのもとで傍観者であることの危険を説得力のある語りで表現しています。そして、1970年代初め、まだ激しかった政治の季節のほてりが冷めやらぬ頃、考えるよりもまず行動することにあこがれた青春の青さを一気に凍らせた浅間山荘事件の人質が、実は「ヤスコ」さんだけではなく、テレビを見ていたわたしたち全員が国家の人質であったのだと、気づかせてくれたのでした。
 
おお せつなやポッポー
500円分の切符をくだせえ
 この歌詞は高田渡を中心に結成されたジャグ・バンド「武蔵野タンポポ団」の「ミッドナイトスペシャル」から引用されたもので、もともとアメリカ民謡を1934年にレッドベリーが作詞したものです。
 さらに、「500円の切符をくだせえ」という歌詞はラングストン・ヒューズの詩「75セントのブルース」から来ていて、浅川マキの「夜が明けたら」もこの詩に触発された歌だと思います。
 木島始の訳詞で紹介されたこの詩をわたしに教えてくれたのは寺山修司でした。黒人差別とたたかったラングストン・ヒューズのこの詩は海を越え、高度経済成長の華やかさの陰で鬱屈し、心を閉じ込めないと生きていけないと思ったわたしの1972年に届きました。
「どこへいくかなんて 知っちゃあいねえ ただもうこっからはなれていくんだ」
 ヒッピーでありませんでしたが、この世の中のすべてから脱出したい…。その思いはわたしだけではなく、たくさんの人々が持っていた感情で、友部正人は傍観者の心情を歌うだけでなく、傍観者から脱出する汽車に乗り込んだのだと思います。
 そして、今もまだ「銀河鉄道の夜」のカムパネルラのように、大人になったジョバンニを探して旅を続けているのだと思います。

おお せつなやポッポー
500円分の切符をくだせえ

友部正人「乾杯」

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2017.04.14 Fri 島津亜矢・「明日にかける橋」と「いっぽんどっこの唄」

島津亜矢コンサート2016

 島津亜矢の音楽番組出演がつづくのと、それ以外のライブや活動記録と重なり、感想ブログが追いつかなくなり、いっそのこと飛ばしてしまってもいいかなとも思うのですが、それでも3月19日放送のNHKBSプレミアム「BS新日本のうた」のスペシャルステージでの「お吉」、「独楽」につづいて歌った「いっぽんどっこの歌」には格別の思い出があるため、おくればせながら書いてみることにしました。
 その間にも直近のNHK「うたコン」に島津亜矢が出演していたことを知らず、仕事をしていて見逃してしまい、録画もしていませんでした。ファンの方々の報告でサイモン&ガーファンクルの「明日にかける橋」を歌ったと聞き、残念に思っていたところ、最近はそれほどの縛りがないのか、ユーチューブに挙げている人のおかげで聴くことができました。彼女のブログによれば10日前にこの歌を歌ってほしいという要請があったということで、急仕込みとはいえ素晴らしい歌唱でしたが、もう少し歌いこめばこの歌の奥行きをとらえることができたのではないかと思いました。
 1970年に発表されたこの歌はポール・サイモンがゴスペルに影響を受けてつくった曲と言われていて、ちなみにこの曲に触発されたポール・マットニーが「レット・イット・ビー」をつくったと言われています。
 ベトナム戦争末期の反戦運動など激動のさ中、世界の人々が深く傷ついた時代、この曲にこめた祈りは、傷つき、損なわれてしまった時代そのものに捧げられていると思います。
 そして今、度重なる震災で日本社会そのものが損なわれ、シリアでは犠牲者のしかばねをどれだけ積み上げたら紛争とテロが収まるのか見当もつきません。さらに北朝鮮とアメリカの脅し合戦がエスカレートし、現実感のないまま巻き添えになる不安から、いわゆる「共謀罪」や憲法「改正」をわたしたちの社会が求めてしまう危うさを感じます。
 そんな時代だからこそ、この番組の制作チームは(おそらくいつも)島津亜矢に、傷ついた世界の人々、彼女の出身である熊本や東日本の人々、失われた無数のいのちへの鎮魂と祈りをこめたたましいの歌を歌ってほしいと願ったのだと思います。
 そこまでの思いにこたえるには、やはり急ごしらえの感はぬぐえないのもまた真実で、島津亜矢だからこそこの歌にもっとたましいを注入し、歌を必要とする世界の人々に届く歌として、これからも歌ってほしいと思うのです。
そしていつか、悲鳴を上げている世界と人々の心を癒す「大きな歌」をオリジナルで歌うために、もっといろいろな歌のつくり手が彼女の存在を知る機会が増えればと思います。
 いろいろ多方面から不満が聞こえる「うたコン」ですが、島津亜矢にとってはそんなチャンスと出会える大切な番組ではないでしょうか。

 さて、「いっぽんどっこの歌」ですが、島津亜矢にとって北島三郎の歌を歌う以上に感慨深いものがあったのではないでしょうか。 というのも、この歌は水前寺清子と星野哲郎の深い絆から生まれ、星野哲郎の大きな冒険と「たたかい」から生まれた歌だからです。
 それというのも1963年、レコード業界に君臨する日本コロンビアから経営陣の一部やディレクター、作詞家の星野哲郎、作曲家の米山正夫らがクラウンレコードを設立し、歌手の北島三郎や水前寺清子が移籍するという「大事件」があったからです。
 この頃はレコード会社がほぼ歌謡界を支配していて、各レコード会社に作詞家、作曲家、歌手が専属にいて、その枠組みから外れるとほぼ活動できなかったようです。ですから、新しいレコード会社の設立には当然強力な妨害が入り、星野哲郎は畠山みどりもクラウンに移籍してほしいと思い、話が決まる前にコロンビアによって阻止されたいきさつがあるようです。
 そこでコロンビアで何度もレコーディングするも日の目を見なかった水前寺清子をクラウンに移籍させ、1964年、畠山みどりが歌う予定だった「袴を履いた渡り鳥」を「涙を抱いた渡り鳥」とタイトルを変更してデビュー曲としたのでした。
 星野哲郎にとってこの時代は大きな賭けに出た時で、何が何でもクラウンに移籍した歌手たちのためにヒット曲をつくらなければと特別な決意のもと、北島三郎の「兄弟仁義」をヒットさせ、1964年に水前寺清子の「涙を抱いた渡り鳥」をヒットさせます。
 この頃のクラウン専属のテレビ番組には北島三郎、水前寺清子の他、美樹克彦、笹みどりなどが出演していましたが、とにかく過剰なまでの思いと心意気があふれていて、それがまた歌をヒットさせていたのだと思います。
 後で知ったのですが、五木寛之の「艶歌」シリーズの小説の主人公「艶歌の竜」こと「高円寺竜三」のモデルとして知られる名ディレクター・馬渕 玄三もまたクラウン設立の立役者の一人で、テレビドラマ化され、演歌の竜を演じた芦田伸介が強く記憶に残っています。
 1966年の「いっぽんどっこの唄」は、デビュー曲のいきさつを離れ、水前寺清子自身の歌の道を決定づけた曲で、それはまた星野哲郎にとっても彼のライフワークのひとつとなった「援歌」(応援歌としての演歌)のジャンルを確立するきっかけになったのでした。
 「ぼろは着てても心の錦、どんな花よりきれいだぜ」…。最初の二行にその歌のすべてを語る巷の詩人・星野哲郎は、かつて「やるぞみておれ口には出さず」と畠山みどりに歌わせた心情をそのままより進化させ、高度経済成長のベルトコンベアからはずれ、時代の風潮にあらがう生き方もあることを水前寺清子に歌わせたのだと思います。それは実は今、わたしたちが直面している現実を予想したものだったのだと痛感します。
 そして1986年、すでにフリーの作詞家となっていた星野哲郎はひとりの少女に見果てぬ夢を見ます。かつて寺山修司が嫉妬した詩人・星野哲郎が日本的なるもの(こう書けば右翼とよく間違えられるのですが)、民謡などをたどり、世界の大地とつながる音楽のたましいから立ちのぼる歌、それを新しい演歌とよんでもいい「援歌」を、その少女・島津亜矢に託し、彼女のデビュー曲を「袴を履いた渡り鳥」としたのです。
 そのことを骨身にしみてわかっている島津亜矢にとって、水前寺清子は格別の存在なのだと思います。島津亜矢のすごさというか歌唱力というか類まれな才能が発揮できる歌は案外、一般的に名曲と言われる歌、歌のうまい人がそのうまさを披露するときによく歌われる歌ではなく、実は「いっぽんどっこの唄」のように、星野哲郎の心意気や願い、祈りがこめられた、世間でド演歌とされる歌の方にあるのかも知れません。
 最近の著しい進化途上の珠玉の歌唱はもちろんのこと、時代をいくつも越えて星野哲郎の、畠山みどりの、水前寺清子の、島津亜矢の、そして日本社会のおよそ60年の急流に流されずその底にずっと変わらずある「ささやかな希望」をかみしめる名唱でした。

島津亜矢「明日に架ける橋」

島津亜矢「いっぽんどっこの唄」

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2017.04.11 Tue 小林陽一モンクストリオが60年前の路地を思い出させてくれた。桜の庄兵衛「菜の花スイングJAZZ」

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 わたしがジャズをはじめて聴いたのは12歳のころだったと思います。
わたしが子どもの頃に住んでいた摂津市千里丘という町にも、まだ戦争の傷跡が残っていました。チャンバラごっこや缶蹴りをした近くの「御殿地山」と呼んでいた原っぱには小さな小屋やほら穴があり、焼け焦げたヤカンや割れた茶碗が転がり、ちぎれてしまった鉄条網が地面を這っていました。
 わたしと兄と母の3人が身を寄せるように暮らしていたバラックの壁の節穴からは外の景色といっしょに冬には冷たい風が入り込んでいました。母はわたしが生まれてすぐに私と兄の父親である愛人と別れ、シングルマザーとしてわたしたち子どもを育てることだけに生きようと決意したのでした。国道沿いにあったバラックの家の前で朝早くから深夜まで一膳飯屋をやりくりし、稼いだ日銭と残った食べ物で親子3人が食いつないでいました。
 バラックの店、鉄条網とガード下と原っぱと牛馬とメリケン粉と麦飯…。ドッジボールと日光写真とべったんと缶けりと七輪のいわしのけむり…。わたしの子ども時代の伝説の風景はいつも涙で輪郭をなくしてしまうのでした。
 そんなわたしの子ども時代は貧乏でしたが自由でもありました。界隈にお金持ちはほとんどいませんでした。父親がいないわたしの家族がまわりからどう見られていたのかよくはわかりませんが、まわりの家族たちもそれぞれの事情をかかえていたのだと思います。
 もちろん、さまざまな差別がたくさんあっただろうけれど、幸運にもまわりのどの家族もわたしたちに親切でした。生活の苦しさや個々の家族の事情が大人たちにあったはずですが、そんな事情をわたしたち子どもが読み取れるはずもありませんでした。
めまぐるしく走りぬける時代の風景は青い空につつまれ、わたしたちもまた貧乏とともにやってきた戦後民主主義の原っぱをかけめぐったのでした。
 ジャズはそんな私の子ども時代の街角、まだアスファルトに覆われる前の黒い土の路地を、イワシのけむりとともに流れ込んできました。
 それは280円で買った中古のラジオから、母が楽しみにしていた三橋美智也の「赤い夕陽の故郷」と広沢寅蔵の「清水の次郎長」の隙間を縫うようにやってきて、雑音と共に掻き消えたと思うと突然大きな音で鳴り響くのでした。
 歌謡曲しか聴いたことがないわたしには、遠い海をわたってきたその音楽はとても奇妙なものでしたが、それでもジャズは自由と手をつなぎ、暗い部屋をぼんやりと照らす裸電球のような根拠のない明るい未来を用意したのでした。
 
 4月9日、大阪府豊中市岡町のギャラリー「桜の庄兵衛」での小林陽一モンクストリオの演奏を聴きながら、わたしは子ども時代の黒い土の路地といわしのけむりを思い出していました。あれからの長い人生で左に行くか右に行くか立ち止まるか思いまどった時、いつもよみがえる子ども時代の風景は悲しくも切なくもありながら、貧乏と釣り合う夢と希望と青空と自由と民主主義に彩られ、わたしの行く道を照らしてくれました。そしてそこにはいつもジャズがありました。
 ジャズの中でもいろいろあるカテゴリーとかジャンルを知らないわたしですが、チャーリー・パーカーなどのビパップやソニー・ロリンズ、アート・ブレーキーなどのハード・パップの日本における第一人者といわれるドラムスの小林陽一とピアノの太田寛二と、ベースの金森もといの3人が奏でる音は専門的な知識がなくてもストレートに1950年代のわたしに連れ戻してくれたのでした。
 太田寛二のピアノは骨太でアドレッシブで、まるでわたしの心の非常階段を駆け上がるようなリズミカルなメロディで風景を描き、金森もといのベースがその風景にふくやかな色彩を丁寧に塗り、小林陽一のドラムスがその風景に奥行きのある空間を宿し、至高の時を刻むのでした。
 ドラムスが後ろに控えていると、ピアノもベースも本来の役割の一つであるリズムを刻むことからやや解放されてメロディをつくる自由を与えられ、音楽という時の芸術を絵画にしたり物語にしたりできると言いますが、まさに小林陽一のドラムスは正確なリズムを刻みながらピアノとベースをあおり、どこまでも遠くに音楽を連れて行くのでした。

 「桜の庄兵衛」のライブ空間は奇跡ともいえる場所で、古民家に宿る何百年の営みが白い壁や茶色の梁と柱や障子にしみ込んでいて、そこで演奏される音楽や落語とともに先人たちの暮らしから沸き立ち、受け継がれてきた文化もまた、わたしたちに語りかけてきます。
 今回のジャズもまた、奇跡の空間の隅から隅までしみわたり、とてもあたたかい時間をわたしたちに届けてくれました。アメリカの大地で、暗闇しかなかった人々の心から生まれ、麦畑や荒野を経てダウンタウンの路地にたどりつき、やがて海を渡り、日本の戦前から戦後の巷を流れ、60年前のわたしに届いたその音楽・ジャズは小林陽一モンクストリオによってよみがえり、わたしの心に「ただいま」と言ってくれたのでした。
 わたしもまた「お帰り」と言いながら、夕暮れの「桜の庄兵衛」の庭に見事に咲いたしだれ桜を見ていました。

 この日は豊能障害者労働センター製作のカレンダー「やさしいちきゅうものがたり」のイラストレーター・松井しのぶさんをお誘いしたのですが、亡くなられたお父さんの49日の法要と重なり、無理を押して来てくださったことを知りました。ほんとうに申し訳ないことをしてしまいました。

小林陽一モンクストリオ「ウンポコロポ(バド・パウエル)」

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季節季節で楽しめる桜の庄兵衛さんの庭ですが、この春は可憐なしだれ桜を見ることができました。

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2017.04.09 Sun 友部さんの歌は、70年以後の人生を生き続けなければならなかったわたしの伴走歌でした。友部正人ライブ

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マラソンがゴールに運べるものは
自分が持つささやかな空気だけ
その空気を計りに載せて
代わりに重たいメダルをもらう
友部正人作詞・作曲・歌「ニューヨークシティマラソンに捧げる」

 開演時間になると友部正人は静かに登場し、昨年発表された「ブルックリンからの帰り道」に収録されている、タヒチで2年間暮らしたゴーギャンが結婚していた島の少女・テフラとわかれ、フランスに帰る物語を歌う「マオリの女」を歌い始めました。
 歌い終わった後、彼には珍しく少し長めのMCが入り、植民地の人々と幸せな関係と思い込むフランスの人々と、長年抑圧されてきた植民地の人々との埋められない隔たりについて語りました。
 4月4日、大阪心斎橋のライブハウス「JUNUS」での友部正人のライブはこうして始まりました。最近はしばらく彼のライブに足を運ぶことをせず、毎年5月の「春一番コンサート」のライブしか聴いていませんでしたが、時の隔たりをまったく感じさせず、若い時からずっと変わらない弾き語りのスタイルと、そのだみ声で舌っ足らずの歌声はわたしの心に瑞々しい感覚をよみがえらせました。
ああ、友部さんの旅はまだ終わっていない。そして、わたしの旅もまた…。

 1966年、わたしは高校を卒業後、建築設計事務所に就職したものの半年でやめ、フーテンまがいの暮らしをしていました。時代は学園紛争と70年安保闘争にいたる異議申し立てと政治の季節でした。でも社会に順応できないわたしは、ただただ大人からも大人になることからも社会からも逃げ続ける毎日でした。時代の吹きすさぶ嵐が通り過ぎるまでのただひとつの隠れ家だった吹田の旧国鉄操車場の近くのアパートで息を殺し心を固くし身を潜めていました。
 そんなある日、「オー・ゴー・ゴー」という店を知りました。大阪梅田の歓楽街の細い路地を入ると、その店はまさに隠れ家のように立っていた。船室をイメージしてつくられた細長い店内は薄暗く汚くて、天井には網がめぐらされていました。
 入り口に近いほうにテーブルが並び、真ん中は踊れるようになっていて、その奥にも少しテーブルがありました。ここでも多くの若者たちがたむろしていました。
 雑音の多いスピーカーから、ビートルズやモンキーズ、そしてボブ・ディランがよく流れていました。わたしはその時はじめてボブ・ディランの名曲「時代は変わる」を聞きました。1970年に向かって街はますます騒然としていて御堂筋では学生のデモ隊と機動隊がにらみ合い、機動隊の盾とこん棒で学生たちがたおれる、そんな日々が続いていました。
 同年代の学生たちに心情的にはまったく賛同しながらもどうしてもその運動に参加するところまでは行かなかったのは、一方であの「オー・ゴー・ゴー」にたむろしていた若者たちもまたあの時代をたしかに生きていたのであり、わたしもまたそのひとりだったからなのだと思います。
 ある夜、「みなさん、警察の手入れです。今すぐ逃げてください」という店員の叫び声が聞こえるやいなや若者たちはいっせいに夜の闇に消えていきました。わたしも必死で梅田駅の方に走りました。あくる日にお店の前に行くと、そんなお店など最初からなかったようによそよそしい空き店舗の看板が風に揺れていました。

 1970年、わたしの青春をはげましてくれたビートルズが解散しました。わたしにとってはぼ同じ時に起こったよど号ハイジャック事件よりもショックが大きく、ますます時代の袋小路に迷い込んでしまいました。わたしは生きることに未練が強く死ぬことは考えませんでしたが、ひとが自分の命を絶つ決定的な夜のすぐ隣にいたのかも知れません。
 ともあれ、殺伐とした青い時をへて大人として夫として、そして父親として生きなおす出発点にわたしは立っていました。
 そのころわたしがその日その日を生きていくためにすがりついたものが三上寛と友部正人と寺山修司と山田太一でした。
 わたしはそのころはフォークソングが苦手だったのですが、三上寛の追っかけをしていた時に友部正人もよく出演していて、三上寛とはスタイルがちがうもののその歌は心に深く突き刺さり、そのやさしい痛みがいつまでも心に残ったのでした。
 関西のフォークシーンのようなメッセージソングでもなく、また最近のJポップへとつながる個人の感情をストレートに歌う歌でもなく、日常の心象風景の背後にひそむ時代の闇を淡々と歌う友部さんの歌は、70年以後の人生を生き続けなければならなかったわたしの伴走歌でした。
 ひさしぶりにライブを聴いて、このひとのかたくななまでにすがすがしい歌がわたしの澱んでいた心の水を波立たせ、あの「やさしい痛み」がよみがえりました。
 「それでも人生はつづく」、その長い時間を彩る大長編映画がまだ終わっていないのだとしたら、友部さんの歌は「お前はどんな人生を生き、どんな人生を生き続けるのか」と歌いつづけるテーマソングなのだと思いました。
 そして…、「一本道」。若い頃とはちがう思いがあふれてきました。「ひとつ足を踏み出すごとに 影は後ろに伸びていきます」、思えば友部正人はすでに青春のまっただ中で、はるかに遠く過ぎさった青い時の砂浜に散在する「思い出」という石ころさえも見届けていたのでしょうか。
 新しい歌が旅はまだまだ続くと歌っているように、これまで歌いつづけてきた数々の名曲もまた世代を越えて新しい出会いを続けているのだと思うと、涙が出てきました。心密やかに、自分自身につぶやきました。「さあ、さあ、元気出して」と。
 会場には50人を越える人たちがいました。若い世代もたくさんいて、友部正人さんの歌がどの世代にも受け入れられる「青春」の歌なのだと実感しました。

 この日、3人の友人とライブに行ったのですが、なんとわたしが手配していたチケットを家に忘れてきてしまいました。ダメモトと思いつつ会場で説明したところ、当日は当日券で入場し、主催の「グリーンズ」に返券するとお金を返してもらえるとのことでした。
 とてもありがたく感謝する一方、ほんとうに情けない失敗で、一緒に行った友人が心配してくれました。

友部正人「愛について」

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2017.04.08 Sat ああ、友部さんの旅はまだ終わっていない。そして、わたしの旅もまた…。 友部正人ライブ

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 4月4日、大阪心斎橋のライブハウス「JUNUS」で友部正人さんのライブがあり、友人3人で行きました。5月14日に能勢で開くコンサートを開く挨拶も兼ねていたのですが、最近は毎年5月の「春一番コンサート」の時の30分程度のライブしか聴いていなくて、ファンとは言えない後ろめたさを抱えて会場に行きました。
開演時間になると友部さんは静かに登場し、昨年発表された「ブルックリンからの帰り道」の最初に収録されている「マオリの女」から歌い始めました。
 若い時からずっと変わらない弾き語りのスタイルと、そのだみ声で舌っ足らずの歌声は年を重ねたわたしの心に瑞々しい感覚をよみがえらせ、ああ、友部さんの旅はまだ終わっていないのだと思いました。そして、わたしの旅もまた…。
 つい最近の歌と「一本道」や「こわれかけた一日」などの名曲を次々と歌い、ほとんどMCはなく、歌い終えた後に「ありがとう」と静かに話す友部さんの姿に、なぜか涙が出てきました。その涙は昔をふりかえる涙でもなく、また歌の内容から流れる涙でもなく、ただ友部正人という一人の男が少年のような柔らかい心と孤独な夜を持ち続け、半世紀も歌いつづけていることのいとおしさが胸に迫ってきたのでした。
 1970年代、政治の季節が通り過ぎた後の無力感は政治活動とまったく無縁な町工場で働いていたわたしの心までも覆いつくしていました。
 そんな時、関西のフォークシーンのようなメッセージソングでもなく、また最近のJポップへとつながる個人の感情をストレートに歌う歌でもなく、時代の闇を色濃く隠している日常の心象風景を淡々と歌う友部さんの歌は、70年以後の人生を生き続けなければならなかったわたしの伴走歌でした。
 「それでも人生はつづく」、その長い時間を彩る大長編映画がまだ終わっていないのだとしたら、友部さんの歌は「お前はどんな人生を生き、どんな人生を生き続けるのか」と歌いつづけるテーマソングなのだと思いました。
 会場には50人を越える人たちがいました。若い世代もたくさんいて、友部正人さんの歌がどの世代にも受け入れられる「青春」の歌なのだと実感しました。
 くわしいことはまた次の機会とさせていただきます。

友部正人×森山直太朗「こわれてしまった一日」

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