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2018.07.14 Sat 音楽は愛を必要とする心から生まれ、愛を必要とする心に届く。7月11日のチャリティコンサートにご協力ありがとうございました。

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 7月11日の水曜日に開催しました、福島県の障害のある子どもたちの保養プジェクト「ゆっくりすっぺin関西」支援コンサートは200人を越える方々のご来場をいただきました。今回のコンサートは11人の実行委員がともだちや知り合いに呼びかけ、ひとりひとりの強い思いに応えてくださる形で集まってくださったもので、感謝の言葉以外見つかりません。ほんとうにありがとうございました。
 「出演料も宿泊費も、飲み物ひとついらない、わたしたちの演奏で楽しんでいただき、その収益をすべて、活動支援を求めているグループに寄付してください」と、吉田馨さんから今回のチャリティーコンサートの話をもらった時、正直に言えば彼女の覚悟というか潔さに圧倒されて、果たしてわたしたちがその熱い思いに応えられるのかとたじろぐ気持ちもありました。
 コンサートを実現するために集まった11人の実行委員は、それぞれが障害者福祉や人権の活動に携わっているひとたちで、それぞれの活動をこえて、「ゆっくりすっぺin関西」の地道な活動を共にささえようと思いました。
 福島原発事故による放射能汚染は、チェルノブイリなどの経験則からも被害はまだ途上であるとも言え、とくに社会の未来をになう子どもたちにどれだけの影響をあたえるのかわからないのが実情です。
 あるひとたちは福島から一日も早く移住することをすすめ、またあるひとはすでに問題はなく、風評被害こそが問題なのだといいます。その渦中で福島の人たちは分断され、「復興オリンピック」の掛け声に追い詰められ、息をひそめて暮らしていることもまた真実です。問題はまだ解決していないどころか、問題の大きさをはかることすらもっと長い年月を必要としているのです。
 そんな現状から2013年、障害を持つ子どもとその家族を一時的に関西に迎え入れ、放射能の不安からはなれて心身の疲れを癒してもらう保養プロジェクト「ゆっくりすっぺ in 関西」が設立され、地道な活動をつづけています。
 コンサートの実行委員会は、息の長い活動を必要とする「ゆっくりすっぺ in 関西」の活動を多くの方々に知ってもらい、その活動資金をつくりだすためにぜひともこのコンサートを成功させたいと、約半年の期間を費やして準備をしてきたのでした。

 当日はご来場のお客さんにゆっくりと楽しんでいただくように、10人のボランティアスタツフにも手伝ってもらいました。その中には、今西日本の水害による障害者の救援活動で奔走するゆめ風基金のスタツフもいて、時間の隙間を縫うようにかけつけてくれて、「ゆっくりすっぺ in 関西」の紹介ビデオの上映や音響・照明を引き受けてくれました。
 彼に限らず、この会場に集まってくださった200人の方々の中には今現在の救援活動に忙しい方や、もしかすると箕面もその周辺の町も地震の被災地で、ご自身の自宅など身の回りの被災に遭われた方もいらっしゃったのではないかと思います。
 そんな緊迫した雰囲気の中、開演時間になりました。
 ビデオ上映、主催者の挨拶が終わり、4人の演奏者が登場しました。ヴァイオリンの平山慎一郎さん、チェロの増山頌子さん、ピアノの中井由貴子さん、そしてヴィオラの吉田馨さん…。
 今回はリヒャルト・シュトラウス「ピアノ四重奏曲ハ単調作品13」をメインにした演奏でした。
 ロビースタッフのわたしは前半の演奏は聴けませんでしたが、後半は会場に入り、しっかりと聴くことができました。
 もとよりクラシックには疎いわたしですが、何回か吉田馨さんの室内楽を聴き、オーケストラよりもシンプルな演奏がどこかジャズと似通っているように思え、親しみを持てるようになりました。またこの作曲家に限らずブラームスやモーツアルトにしても弦楽四重奏曲のような室内楽にそれぞれの作曲家の個性や人生、年齢などが素直に表現されているように思います。

 クラシックを感じる感性に乏しいわたしが言うのもおかしいですが、リヒャルト・シュトラウスの「ピアノ四重奏曲」はとてもドラマチックで、時には荒々しく若い情熱がほとばしるような楽曲に感じました。そして、素人なりに以前吉田さんに教えてもらった老ブラームスに似た感じがしたものの、年老いたからこそ豊かになったブラームスではなく、あふれる若さがこの作曲家の未来を大きく広げて行くことになったことでしょう。
 そして、目の前で演奏する彼女彼ら4人もまた、この作曲家の若さが残した楽譜をたどりながらそれぞれの音楽の航海の途上で交錯した奇跡をいとおしむように音を紡いでいくのでした。
 実際、200人の人が入るといっぱいになる会場で、舞台もなくお客さんと同じフロアーで演奏する彼女彼らの姿は、荒海のただ中で波に揺られながら、「約束された岸辺」にたどりつこうとしている小舟のようでした。そして無数の音たちに囲まれ心を震わすわたしたちもまた、その小舟に乗っているのだと思います。
 直近の大阪北部地震の傷跡も癒えないうちに200人を越える命が失われ、7000人が避難を余儀なくされ、2万6千の家屋被害があってもまだ被害の全貌が明らかにならない西日本豪雨被害のさ中にあり、相次ぐ自然災害にわたしたちの心は固く縮まってしまいそうになります。
 かたや、ここ数年の自殺は減少傾向にあるものの世界6位と高く、とくに若い人たちの自殺が増え続けるわたしたちの社会は政治経済にかかわらず格差を増殖させ、希望や夢を語るよりは絶望と孤立を呑み込む闇に包まれていると感じるのはわたしだけでしょうか。
 しかしながら、遠い昔からひとはまた一切れのパンを分け合い、切ない夢を分かち合って生きていくために助け合うことを学んできたのではないでしょうか。そして音楽はいつもそのことをわたしたちに思い出させてくれる大切な宝物なのだと思うのです。
 演奏を聴きながらそんなことを思っていたわたしがふと我に返ると、200人の心が重なり、会場全体が希望という「約束された岸辺」にたどり着く大きな船に見えました。
 その大きな船は彼女彼らの演奏が終わり、何日か過ぎた今でも、わたしの心を震わせるのでした。
 音楽は愛を必要とする心から生まれ、愛を必要とする心に届く。


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2018.06.27 Wed ピアソラのタンゴと映画「ブエノスアイレス」 桜の庄兵衛「金関環&古川忠義のコンサート」

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 6月24日、豊中市岡町の「桜の庄兵衛」で開かれたコンサートに行きました。
ヴァイオリンの金関環、ギターの古川忠義が出演し、「雨あがりつばめ飛び交う コンサート」と題されたこのコンサートは、演奏の合間、MCの枠を超えた二人の掛け合いが超一流で、笑いが絶えないコンサートでした。
 普段、クラシツクコンサートが苦手なわたしですが、苦手な理由のひとつに「聴く作法」が疎ましいということがあるのですが、2人のコンサートはそんなことを気にする必要がなく、聴き手のわたしたちは演奏の合間の掛け合いにただただ笑い転げました。
わたしのようにクラシックをほとんど聴かない者でも楽しめるようにコンサートをプロデュースするその巧みさは素晴らしいものでした。
 もちろん、演奏の巧みさや楽曲に対する真摯さは素晴らしく、一般のコンサート会場では味わえない「桜の庄兵衛」という稀有の場にふさわしく、音楽が生まれる瞬間に聴く者をいざなうコンサートでした。
 「音楽は聴く人のためにありますから」と言う金関環は阪神大震災の時、被災地で「音楽が役に立つのか自問しながらだったが被災者が集まり、目を閉じ、頭を深く垂れて聴き入ってくれた。みんな本当に音楽が必要なんだ」と痛感し、音楽観も変わったといいます。
 ギターの古川忠義とは20年以上の付き合いで、年に何回かは一緒に演奏しているといいます。たしかに、古川忠義との絶妙かつ軽快なパフォーマンスは長い付き合いと信頼関係によって裏付けされたものなのでしょう。
 2人とも、「クラシック音楽を一人でも多くの方に親しんでもらいたい」という思いから、クラシック奏者としてのさまざまな決まり事を破り捨てたバラエティーやパフォーマンスを通して、豊穣な時を蓄え、未来への希望を奏でるクラシック音楽の入り口を用意するサービス精神に圧倒されました。
 一緒に行った豊能障害者労働センターのFさんは、「今までで一番楽しめた」と絶賛していましたが、わたしも今年は今まで心を張りつめてきたこともあり、まだひとつ箕面でのチャリティコンサートを抱えているものの、ほんの一瞬心を休め、リラックスして音楽を楽しむことができました。そうなんですよね。音楽は言葉通り、楽しむものなんですよね。

 休憩をはさんで2部のはじめは古川忠義の映画音楽のギター演奏で始まりました。「禁じられた遊び」が終わり、「ひまわり」のテーマソングの演奏では一人漫談の見事な語り口で物語を語り、ここでも爆笑が会場にとどろきました。
 その後、金関環が登場し、アストル・ピアソラの「タンゴの歴史」を演奏しました。
 アストル・ピアソラはアルゼンチンの作曲家・バンドネオン奏者で、タンゴにクラシック、ジャズの要素を融合させた巨匠です。元来タンゴは踊りのための伴奏音楽でしたが、ピアソラはそこにバロックやフーガといったクラシックやジャズを取り入れた独自の演奏形態を産み出しました。当初は保守的なタンゴファンや演奏家に「踊れないタンゴ」と言われ、なかなか受け入れられなかったようですが、それでもなおピアソラは自分のタンゴを追求し続け、自身が学んだクラシックの知識を生かして「聴く」ためのタンゴを世界に広めました。
 わたしの少ない知識でも、タンゴは男と女が抱き合った状態で繰り広げられるストイックかつエロチックなダンス音楽、時には激しく時には切なく、胸がしめつけられるような激しい恋を彩る情熱的でセンチメンタルな音楽と思います。
 そして、ピアソラのタンゴと聞いてすぐ、わたしは1997年のウォン・カーウァイの映画「ブエノスアイレス」を思い出しました。
 「恋する惑星」や「欲望の翼」など90年代の香港映画をけん引したウォン・カーウァイが、ブエノスアイレスを舞台にゲイの男2人の激しい恋と人生模様を描いた「ブエノスアイレス」、この映画のもっとも官能的なシーンとして覚えているのが、レスリー・チャンとトニー・レオンがお互いの体の隙間をなくすように強く抱き合って踊るシーンでした。この時に流れる音楽がピアソラの「Tango Apasionado」だったと思います。
 この日に演奏された「タンゴの歴史」は、そのタンゴの発展の有様を20世紀初頭から表現した名曲で、 第1楽章の「Bordel(ボルデル)1900」、 第2楽章「カフェ1930」、 第3楽章「ナイトクラブ1960」、第4楽章「現代のコンサート」の4曲で構成されています。
 1900年、ブエノスアイレスのいかがわしい売春宿や酒場での明るく陽気なダンス音楽として誕生したタンゴは1930年にはカフェに進出します。甘くメランコリックな旋律で、退廃的な空気に満ちていました。
 1960年、ピアソラ自らが登場し、それまでにあった既製のタンゴを破壊し始めます。この楽章はその新しいタンゴの萌芽があらわれます。
 そして現代、タンゴはストラヴィンスキーやバルトークをはじめとするクラシックの作曲家にも影響を与え、タンゴ以外のジャンルの演奏家によって演奏される音楽となりました。
 金関環は、ピアソラが生涯をかけてタンゴを愛するゆえに作曲家としてもバンドネオンの奏者としてもさまざまな実験を繰り返しながら、タンゴがあらゆる音楽と融合し、新しいタンゴが生まれることを夢見ながらタンゴと格闘した道のりを追いかけ、わたしたちにその足取りを教えてくれました。
 思えば金関環のヴァイオリンも古川忠義のギターも、既成のクラシックにはない自由さと、それを裏付ける潔さのようなものを感じます。そしてクラシックもジャズも歌謡曲も、そしてタンゴも大衆音楽そのもので、音楽はそれを必要とする心から生まれ、それを必要とする心に届くということを体と心で感じたコンサートでした。
 金関環さんのコンサートはとても人気があり、今回のコンサートでも早くにチケットが完売になっていました。早くに申し込んでなかったら参加できないところでした。

 「桜の庄兵衛」さんのご協力で、わたしたちが7月11日に開くチャリティーコンサートのチラシを入れてくださいました。また、チケットも5枚も買っていただき、感謝です。

Happy Together MV - Final Tango Apasionado(アストル・ピアソラ)


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2018.06.25 Mon 島津亜矢「人生の並木路」・80年の時をくぐりぬけた時代の警告

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 今年は5月の「ピースマーケット・のせ」が終わっても、7月11日の箕面でのチャリテーコンサートを予定していて、なかなかこのブログに書きたいと思うことに手を付けられずにいます。島津亜矢の記事も随分と遅れがちになってしまいますが、その中でもこれだけは書いておきたいと思う記事として、6月10日のNHK「BS新日本のうた」で歌った「人生の並木路」、「UTAGE!」で歌った「ファイト!」や「RIDE ON TIME」などがありますが、今回は「人生の並木路」について書きます。
 ご存知のように「人生の並木路」は1937年に佐藤惣之助が作詞、古賀政男が作曲、ディック・ミネが歌い大ヒットした楽曲で、映画「検事とその妹」の主題歌としてつくられました。わたしは子どもの頃はディック・ミネで、大人になってからは森進一の歌で何度も聴くたびに涙があふれ、何度も歌うたびに涙があふれる愛唱歌です。
 わたしの母は今のしゃれた言葉でいえばシングルマザーでしたが、戦後すぐの混乱期に出会った父の愛人として兄とわたしを生みました。戦後すぐの蓄えた着物を売って暮らしをしのぐタケノコ生活も行き詰まり、料亭の仲居をしているときに若旦那衆の一人として何度か来ていた父と出会ったそうです。母はとにかく子どもが欲しかった。いっさいの援助もいらないし認知もいらないから、ただわたしたち子どもを産むことだけを条件にした付き合いで、わたしたちが物心がつく頃に別れたようです。
 母は焼き芋屋から後に大衆食堂をたったひとりで切り盛りして、わたしと兄を育ててくれました。その当時もわたしたち家族が貧乏だったことはわかっていましたが、いま振り返るとなんの後ろ盾も福祉的配慮も受けず、朝早くから日付が変わる深夜2時まで働いて、片手に余るほどの薬を飲みながら、兄とわたしを高校まで行かせてくれた母の苦労は並大抵のものではなかったことでしょう。兄が脊椎性カリエスにかかり、人生を悲観し一家心中を考えたことも一度や二度ではなかったと母に後から聞かされて、その恩に報い、老いた母のせつない望みに完璧に応えるほどの経済力もなく、彼女が満足できる晩年の日々を用意できなかったことに心が痛みます。
 早くに家を出て妻と出会い、若くに結婚したわたしとちがい、母と同居しなければならず、また同居するにはあまりにも手狭で日の当たらない実家に来てくれる女の人はその時代でもあまりいなくて、兄はわたしよりずいぶん後に遠縁で、家の事情をよく知っている娘さん(今の姉さん)と結婚することになりました。
 その結婚披露宴で、わたしは泣きながら「人生の並木路」を歌いました。わたしたち家族の特殊な事情は、わたしに一方で早くその強い絆を断ち切りたいと思う一方で、どうしても切れない濃い血縁が自分の心と体にしみついていて、母と兄とわたしの3人が拠り所としている他人には説明できない切ない感情をあふれさせるのでした。
 晴れやかな結婚のお祝いの場で「人生の並木路」を歌うというのは非常識だったと今では思うのですが、「生きていこうよ希望に燃えて、愛の口笛高らかに、この人生の並木路」という歌詞が、わたしたち兄弟の、それから後も決して順風満帆とは言えない人生を予言しているように思えたのでした。
 わたしは演歌の巨匠といわれた古賀政男がそれほど好きではありませんが、「人生の並木路」や「影を慕いて」など、戦前の古賀メロディーには単なる感傷的な旋律というだけではない複雑な心情が隠れていて、いつ聴いても涙が出ます。
 というのも、すでにこの時代には日中戦争と太平洋戦争に至る国家と軍によって個人・国民の自由が奪われようとしていて、その支配は古賀政男をはじめほとんどの作詞家、作曲家に限らず芸術・文化の表現行為すべてに及んでいたからです。
 多くの音楽家がそうであったように、古賀政男も作詞家の佐藤惣之助も軍歌をつくりはじめていたこの時代、佐藤惣之助や古賀政男の心中は忸怩たるものがあったに違いありません。戦後、彼らもまた戦争犯罪者として裁かれるのではないかとおびえるほどに、国家の強い暴力に逆らえないまま戦意高揚の歌をつくり続けました。
 その中で、「人生の並木路」や「影を慕いて」などの曲は当局の検閲のぎりぎりのところをすり抜けて、同時代の切なくも哀しい希望が隠れていて、大衆もまた表面的には国家に奉仕しながらもこれらの歌に隠された秘密のメッセージを受け止めたからこそ、大ヒットしたのだと私は思います。
 1928年、古賀政男は自殺を図ります。その時に浮かんだ一片の詞から1931年の「影を慕いて」が生まれます。昭和恐慌、柳条湖事件、満州事変と軍靴の足音が時代を切り裂こうとしていました。若く繊細な心と壊れやすい感受性をもつ古賀政男は、自分の個人的な体験の裏側に暗黒の時代や歴史があることを知ったのだと思います。
 そしてこの歌「人生の並木路」では、兄が妹に話しかけるように歌います。時代はますます暗くなり、明日のいのちもわからずますます悪い方向へと流されていく恐怖と不安を隠しながら、「もうしばらくの我慢だよ、とにかく生き延びることだ、いつかは国家の抑圧から解放される…」と、兄は妹に諭すのでした。兄と妹という設定は単なる兄弟というのとは少し違い、唐十郎の芝居のように二人の間に淡く純粋な恋が隠れていて、それがとりわけ二人の強い絆と、自分たちではどうにもできない大きな世の中の流れにひたすら固く抱き合い、銃弾だけでない国家の暴力が通り過ぎるのを息をひそめて待ち続けるのでした。
「雪も降れ振れ夜路のはても やがてかがやくあけぼのに わが世の春はきっと来る。」

 さて、この歌の島津亜矢の歌唱は、数々の歌い手さんのカバーの中でも特異で、すばらしいものでした。というのも、わたしがつらつらと書いてきたこの歌の時代性がよみがえってくるからなのです。美空ひばり、ちあきなおみなど見事な歌になっているのですが、戦争へと至る、いやすでに戦争に突入している時代の暗黒と、その暗黒の果てに切なくも「わが世の春」を切望する古賀政男と佐藤惣之助の心情までも島津亜矢はすくい上げ、歌に込めるのでした。
 そして、今によみがえるこの歌と共振する歌があるのでしょうか。そう思った時、たとえば「SEKAI NO OWARI」や「エレファントカシマシ」、「グリム・スパンキー」、いま休憩している「いきものがかり」など、長い戦後から戦前になろうとしているのかも知れないキナ臭い時代の空気を感じて、一時避難所もしくはシェルターの役割ができるこの人たちの音楽が「人生の並木路」とつながっていることを感じます。
 しかしまた、古賀政男たちが通りすぎなければならなかった国家の強い暴力が今によみがえらないようにこそ、わたしたちは闘わなければならないのだと思います。
 たとえば東京オリンピックや万国博への世論の誘導や憲法改正(?)のために国民投票の情報活動に、ジャンルを越えたミュージシャンが動員され、「踏み絵」を踏むようなことがないように…。

島津亜矢「人生の並木路」 

古賀政男「人生の並木路」
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2018.05.28 Mon 「演歌のちあきなおみ」のくびきから解き放たれて。島津亜矢の「喝采」、5月8日の「うたコン」

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 ずいぶん前になってしまいましたが、5月8日のNHK「うたコン」で、島津亜矢が「喝采」を歌いました。
 この歌はご存知のようにちあきなおみが1972年に発売した楽曲で、この年のレコード大賞を獲得し、紅白歌合戦でもこの歌が歌われました。
 この歌に限らず、また島津亜矢に限らず、ちあきなおみの歌を歌うことは人知れずプレッシャーがかかるのではないかとわたしは思います。それはいまだにかなりの数の「ちあきなおみ命」という熱烈なファンがカバー曲を寄せ付けないことだけが理由ではありません。
 むしろ大衆音楽全体がちあきなおみの立ち位置を「演歌・歌謡曲」としていることに根本的な行き違い、誤解があり、そのために彼女の楽曲を歌うのがどちらかといえば演歌・歌謡曲の歌い手さんが多いという事情があります。この歌が発売された1972年は、今のJポップとはちがう「ポップス」というジャンルがあり、ちあきなおみはデビューからずっとポップス歌手で、そこから考えればもっとJポップのジャンルからちあきなおみをカバーする歌手が生まれていいはずです。
 この不幸な現実はちあきなおみという不世出の歌手の不幸だけではなく、日本の大衆音楽の不幸でもあるとわたしは思います。
 ちあきなおみほど、自分が歌うべき歌、歌いたい歌を探し続けた歌手はいないのではないかと思います。米軍キャンプ、ジャズ喫茶やキャバレーで歌ったりと下積みの時代を経て1969年に「雨に濡れた慕情」でデビューし、その後の華々しい活躍の中でも、彼女のビジュアルから「魅惑のハスキーボイン」というキャッチフレーズをつけられたりして、芸能界になじめず自分らしい歌手像を求めつづけたといいます。
 あきなおみはポップス歌手としての印象が強くありましたが、その後は「さだめ川」、「酒場川」、「紅とんぼ」、「矢切の渡し」などの船村演歌の名曲もたくさん歌いました。
 また、ニューミュージックのアーティストから楽曲提供を受け、中島みゆきの「ルージュ」や友川カズキの「夜を急ぐ女」などをレコーディングしました。さらにはシャンソン、ジャズ、ポルトガル民謡のファドなど、その探求心は彼女の歌を至高の芸術にまで高めました。

 「喝采」は、そんな彼女の変貌のターニングポイントとなった曲で、彼女のそれ以後の圧倒的な歌唱力による独特の世界への第一歩だったように思います。
 その真骨頂は「演劇的」ということに尽きると思います。1977年の紅白歌合戦での友川カズキの「夜を急ぐ女」の鬼気迫るパフォーマンスは、今でも語り草になっています。
「喝采」はそこまでの演劇性を歌唱としては求めていないのですが、ヒットチャートにすんなり納まるポップスであるだけでなく、私小説的なプロデュースが彼女の歌によって実現できた第一作だと思います。作詞者の吉田旺とはデビューからの深い親交があり、シャンソンやファドなど、ちあきなおみの音楽的冒険を理解し、共に彼女の世界を広げていったひとで、「喝采」においてもその演劇性の一端を歌詞にしていると思います。
 さて、島津亜矢の「喝采」ですが、依然に歌唱した時と比べて段違いで、なんといってもセクシーな低音が物語るこの歌の私小説な物語と、歌の中のヒロインの歌手を演じ歌うという難しい二重構造を、オリジナルのちあきなおみとは少し違う切り口で物語にしました。ちあきなおみは作中人物に寄り添う巫女のように、ライトに照らされていないヒロインの孤独を歌い上げましたが、島津亜矢の場合は語り手としてのもう一人のヒロインが一幕物の浄瑠璃の芝居を物語るように、やや力強く歌ったのが印象的でした。
 この歌に限らず、島津亜矢でさえも「演歌としてのちあきなおみ」に囚われていたように思います。演歌の歌い手さんがちなきなおみを演歌ととらえて歌う数々の音源は、彼女のたどりついた世界からはかなり稚拙ものが多いと思います。歌が下手で歌唱力がないのではありません。歌が持っている闇の魔力にたどり着かないというべきか、歌の物語の読みがちがうというべきか、つまりは歌の解釈がちがうということなのだと思います。
美空ひばりの場合はまだ演歌としての到達点にたどり着くためのエチュードとして歌ってもそれほどの破綻はないでしょう。しかしながらちあきなおみの場合は、言い方を変えれば現代演歌が「きらい」だった彼女がスバ抜けた演歌としての歌唱力を持ち合わせていたために、安易に彼女の演歌の歌い方だけを真似てしまうか、彼女よりも巧みな演歌の歌唱を目指してしまうのだと思います。
 島津亜矢の今までのちあきなおみのカバー曲もまた、その現代演歌というくびきに囚われていたと思います。それがゆえに、「かもめの街」も「紅とんぼ」も現代演歌でしかなく、ちあきなおみの音楽的冒険にたどりつけなかったのではないでしょうか。
ちあきなおみの頑強なファンが圧倒され、あきらめてしまうほどのカバーは、実は島津亜矢の現在の立ち位置、演歌も歌謡曲もJポップもジャズも、最近あまり歌わないシャンソンも同じ立ち位置で歌えるオールラウンドのボーカリストに進化した今こそ歌えるということを、今回の歌唱が証明してくれたとわたしは思うのです。
 実際、今回の歌唱で一番印象的だったのは「いさぎよさ」とか「歌う覚悟」がにじみ出ていて、それは、「演歌としてのちあきなおみ」との決別であり、ちあきなおみがたどり着いた高みと同じところに立ち、ちあきなおみの音楽的冒険を率直にリスペクトすることでもあるのでしょう。
 わたしの独断と偏見をお許し願えれば、戦後の歌謡史の中で燦然と輝くちあきなおみがたどり着けなかった地平があるとすれば、わたしは浅川マキだと思っています。戦後の女性ボーカリストの系譜の一つに、浅川マキからちあきなおみがあり、ちあきなおみは演歌の歌姫としての役割を負わされましたが、浅川マキはジャズやブルース、ゴスペル、フォークソング等を歌い、独特の世界を確立したブルースの歌姫でした。
 ちあきなおみの「朝日のあたる家(朝日楼)」は浅川マキの訳詩によるもので、ちあきなおみは浅川マキにリスペクトしながらも浅川マキとはちがう入り口から、この歌を彼女色に染めようと意識的に歌っていると思います。
 島津亜矢にとって、この系譜はなかなかてごわいものがあるのではないかと思われました。古くは「かもめの街」でのネガティブな評判に心痛めたこともあったかもしれません。
 しかしながら、今回の吹っ切れた歌唱を聴くと、ちあきなおみの冒険をきちんと受け止める歌手として、島津亜矢の役割がまたひとつ増えたとわたしは思います。
 ですから、もう一度、「かもめの街」や「紅とんぼ」を、そして新しく「冬隣」を、そして最大の難曲である浅川マキの「朝日楼」を、今の島津亜矢に歌ってもらいたいと思います。

島津亜矢 喝 采 2002 × 2
この頃の島津亜矢はあふれる声量と声質で聴くものを圧倒していました。本人は決して歌のうまさや声量を誇る人柄ではありませが、とにかく若くて一生懸命だったのでしょう。この頃はまだぞくっとする低音はなく、どうしても高音が響き渡り、上手いというしかないのですが、一方で「そんなに元気に歌う歌ではない」とコメントされる理由になっています。「かもめの街」でも似たような批判があったように思います。しかしながら、一番の問題は彼女のせいではありませんが、「演歌のちあきなおみ」に疑いを持たないところにあると思います。時が経ち、年齢を重ねることで今の島津亜矢はこの歌を新しい解釈で歌ってくれました。その映像も音源もありませんが、聴かれた方にははっきりとその違いがお分かりになったと思います。
ちあきなおみ/喝采 1972年

ちあきなおみ「朝日楼(朝日のあたる家)」 

浅川マキ 「 朝日楼 (歌詞付) 」
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2018.05.18 Fri 再度、ロックンロールは死なず ピンクさんが教えてくれた「もうひとつのピースマーケット」

ピンクさん

 今年で3回目となる「ピースマーケット・のせ」を間近にして、どうしてもあるひとのことを思い出してしまいます。そのひとは2000年にこの世を去ったピンクさんです。
 35歳の時に、わたしの人生をかえる2つの出来事がありました。ひとつはその5年後から16年間在職した豊能障害者労働センターの運動、もう一つはわたしがはじめて企画に参加した「自由の風穴」コンサートをきっかけに、音楽業界とはちがう自分の歌いたい歌を歌い、自分の聴きたい音楽を聴くライブやイベントの主催者になったことでした。
 くしくも今年の7月11日にクラシックのチャリティコンサートを開くことになった会場でもある箕面文化交流センターの8階のホールで、「自由の風穴」コンサートを開いたのは1982年のことで、豊能障害者労働センターが活動を始めた年でもありました。
 その頃、わたしは大阪府豊中市の北部に住んでいて、犬の散歩によく河原に行ったものでした。そこにはよくバイクを止めた5、6人の若者がたむろしていました。
 近所の住民たちに怖がられていた彼らとちょっとしたきっかけで話すようになり、彼らが近所の学生で、それなりに一生懸命生きていることがわかりました。彼らに教えてもらったアイアンメーデンは、ビートルズ以後ほとんど音楽を聴かなかったわたしにはとても新鮮な音楽でした。
 そして、夜に星を観ながら他愛のない話をする若者たちを「怖い」と思ってしまう地域のありように疑問を持ち、ロックコンサートを開きたいと思ったのでした。
 その時に助けてくれたひとがSさんで、彼は「ベ平連」とつながる「今こそ世直しを!市民連合」のひとりで、政治的な活動と音楽の活動とが別のものではなく、ともに自由でありたいと願うかけがえのない表現であることを教えてくれました。
 そして、Yさんの友人のピンクさんと出会ったのでした。
そのころ、ピンクさんは中之島公園で「グラスルーツコンサート」という手づくりコンサートを開いていました。関西のフォークシンガーの友人に声をかけ出演してもらい、自分の演奏もするという、総合プロデーサー兼アーティストとしてフル活動していました。とても気さくで面倒見がよく、やさしいひとでした。と同時に、とことん音楽が好きなんやな、ということが伝わってきました。アーティストとしての野心がなかったはずはないのですが、それよりも「歌いたい、演奏したい」と渇望する若いひとたちに表現の場を用意したいという情熱にあふれていました。
 やがてグラスルーツコンサートは、能勢の「青天井」に引き継がれていきました。ピンクさんにはウッドストックの影響があったのかもしれません。夏だったと思うのですが、ある企業の能勢のキャンプ場を借り切って夜通しライブをし、疲れたひとは各々のバンガローに雑魚寝したりその場で寝たりして、彼のもっとも好きな言葉どおり、自由でアナーキーなライブでした。
 その頃は豊中に住んでいて世間知らずのわたしは、能勢がとんでもなく遠い異国の地のように思ったものでした。それが今、能勢に住んでいて、能勢も能勢の人も大好きになり、PEACE MARKETという不思議な催しに参加することになるとは思いもしませんでした。
 もうひとつ、ピンクさんにずいぶんお世話になったことがあります。それは1990年代のはじめに箕面で3年開いた「ハッピークリスマス」で、日ごろ人権問題にかかわる人々と障害当事者の交流を深めるため、ロックを中心に韓国舞踊やダンスを楽しんでもらう企画でしたが、ほんとうの手弁当でPA機材一式をピンクさんが持ってきてくれて自らオペレートもして、歌も歌ってくれました。会場にジョン・レノンの布看板をつるし、ピンクさんが訳詩した「イマジン」を歌ってくれました。ピンクさんに頼らなければ費用の方でもまたこのイベントのコンセプトの面でも実現しなかったイベントでした。
 この時、わたしは彼を悲しませる申し入れをしてしまいました。その頃彼は「伊達屋酔狂」というアーティスト名を使っていました。わたしは障害者問題にかかわる一人として、その名前の「酔狂」の「狂」を、チラシに印刷することをどうしても受け入れることができませんでした。その頃蔓延していた言葉狩りだと、彼は激怒しました。周りからもわたしの申し入れを理不尽ととらえる人も少なからずいました。わたしはさまざまな障害を持つ友人との出会いから、いままで何も考えずに、いわゆる差別的な言葉を使っていたことに次々と気づかされていた頃でした。相手を罵倒する時や、反対に親しみを伝えるために、時として「あほ」や「狂う」という言葉を使ってしまうとき、それらの言葉で差別を受けてきたひとたちのひとりひとりの顔を思い浮かべることはないでしょう。もし彼女彼らの顔を思い浮かべたら、やはり使えない言葉なのだと今でも私は思うのです。
 しかしながら「そんなこと言うんだったら、この話は無しや」と電話で怒る彼には、いくら話してもそれは理不尽で教条的な理屈でしかなかったのだと思います。
 イベントの話はすでに進めているにどうしようかとおろおろするわたしに、共通の友人から「直接会いに行って気持ちを伝えたら」と言われ、おそるおそる電話をし、彼も渋々それに応えてくれました。
 ところが、彼の家に行った時には機嫌を直してくれていて、「よく来た」と歓迎してくれました。わたしが話をするまでもなく、障害者団体が主催するイベントに「狂」はまずいなと言い、「酔夢」という別の名前にするといってくれたのでした。その時、彼の音楽への思いや生き方について、随分長い間話してくれました。また、言いたいことはいっぱいあっただろうけれど、わたしの頑固で偏狭な思いについても一定の理解をしてくれたのだと思います。
 「ハッピークリスマス」は3年とも盛況でした。障害者がダンスが好きで、またとても才能のあるひとたちがたくさんいることにびっくりしました。この催しは豊中に受け継がれ、そのあとずいぶん長い間続いたと思います。
 それからずいぶん年月が過ぎたある日、友人から、ピンクさんが亡くなったと聞きました。犬の散歩中に転倒し、頭を強く打ち、そのまま逝ってしまったということでした。
 くしくも2000年の秋深い時、彼がけん引した20世紀の谷間舎に誘い込まれるように49歳の若さで逝った彼は、「青春」を精いっぱい生きたのだと思います。何にもとらわれない柔らかい心と人なつっこい笑顔がお別れの会に行ったわたしに語っていたように思います。
ロックンロールは死なずと…。

さあ、輝く陽の光 たえまない水の流れに
生命の力が今よみがえるように 
ああ、限りない風の力
あかあか燃える木の炎
だけど原子力の炎とはさよならさ
    訳:PINK「POWER」

TOM西村&Mino king『POWER』(cover)訳/モモタローPINK
ピンクさんのグラスルーツコンサートをけん引したひとりのTOM西村さんは遠く三重の地でこの歌を歌い続けておられます。
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