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2016.05.02 Mon 唐組「秘密の花園」・人さらいならぬ心さらい

唐組「秘密の花園」

 4月29日、大阪南天満公園で唐組の芝居「改訂の巻『秘密の花園』」を見ました。
 毎年この時期にやって来る唐組の芝居を観るのを楽しみにしていて、ふりかえるとはじめて観た状況劇場の「唐版 風の又三郎」が1974年でしたから、状況劇場解散後、1988年の唐組旗揚げをへて現在まで、40年以上も唐十郎の芝居を観てきたことになります。しかも、いつまでたってもどの芝居でもほとんど物語の展開すらわからず、なんのことやらさっぱりわからないまま薄汚れた紅テントの中に引きこまれるのでした。
 このひとの芝居はおどろおどろしく見えて実はとてもせつない純情な物語ばかりです。その時々の役者が時にはエロチックに、時には悲劇的に演じ、体の奥の奥からせり上がるセリフと諧謔に満ちた笑い、狭い舞台を縦横無尽にかけめぐる役者の肉体と肉体のぶつかりあい、それらすべてが一筋のか細い純情な物語を綴るのでした。
 姉と弟、兄と妹の近親相姦を越えた深い絆、孤独な少年の夢から立ち上る日本の暗闇、看護師の白衣に隠された陰謀と裏切り、何世紀もの夜を通りぬけてきた純愛…。
 ひるがえるマントにロマンティズムを忍ばせて唐十郎がのぞかせてくれるものは、新聞の三面記事に仕組まれた悪意に満ちた世界に抗う少年少女の純愛で、その純愛は国家もわたしたちも忘れてしまいたい日本の歴史の暗闇に見捨てられた理不尽な出来事をよみがえらせるのですが、充満する紅テントの劇的空間が解体され、芝居が終わるとともに少年少女も純愛も引き裂かれ、街の闇に消えてしまうのでした。そして、芝居を見ているだけのはずのわたし自身も彼女たち彼たちの幻影と妄想とともに行方不明になってしまい、毎年わたしは昨年のわたしの純情を探しにまた、紅テントの中にもぐり込むのでした。
 さて、今年の芝居は「改訂の巻『秘密の花園』」。1982年に下北沢の本多劇場の杮落とし公演として行われた伝説的な作品で、それから何度も再演され、「改訂版」とついたのは1998年に書き直したものらしいです。
 舞台は東京・日暮里。坂の多い、沼や森も在る謎めいた町。駅前には、漆の大木が一本。不用意に触った人はかぶれてしまう。古アパートに住むキャバレーホステスの一葉(いちよ)に、アキヨシは毎月、自分の給料を届けている。アキヨシは一葉にプラトニックな思いをいだいていた。夫の大貫もアキヨシの割込みを容認。奇妙な三角関係は二年続いている。一葉とアキヨシの「手を握るだけで妊娠してしまう純愛」は、生まれる前の港で契りをかわしたからだと信じている。「きっと一緒だよ、向うに着いてもきっとね」と。
 訪ねて来たアキヨシは、駅前まで実姉と一緒だったがはぐれてしまったと言い、漆の木にかぶれたらしいと腕を見せる。暫くすると、実は縁談話があり、関西に転勤しなくてはならない、と切り出すアキヨシ。一葉は、お幸せにねと言い残し、共同便所に消える。しかし、いつまで待っても戻らない。様子を見に行ったアキヨシは、首吊り自殺している一葉を見付けるのでした。
 戸口に一葉に瓜二つのアキヨシの実姉・双葉(もろは)が立っていたのが一幕の終わりだったか二幕の始まりだったかおぼえていませんが、幕間にブラームスの弦楽六重奏がかかかり、不思議にこの芝居のためにつくられたようにぴったり合っていて、悲しくて切なくて美しい旋律がこの純愛悲劇の結末を暗示します。
 「一葉さんの中に、私を見たんでしょ。」と突き放した様子で言う双葉。(一葉と双葉を藤井由紀さんが演じています。)姉の双葉と一葉が入れ替わり、アキヨシが人妻一葉と純情な三角関係をつづけなから、姉の双葉と兄弟以上の恋愛感情を持ち、ここでも奇妙な三角関係にあったことがわかります。
 このあたりから唐十郎の妄想に次ぐ妄想がビュンビュン飛び、死んだはずの一葉とアキヨシが洪水に乗じてボートに乗り、「生まれる前に結ばれていた向こう岸」に行こうとします。一葉の夫もまた生まれる前の二人の純情に加担するように応援してすぐに、このひともまた便所で首をつってしまいます。物語の向こうに行こうとする一葉とアキヨシと、そこに猥雑な悪巧みでそれを阻止しようとする連中とのどたばたは、夫の首吊りをきっかけに時間が止まり、向こう岸とこちらとの間に結界のように糸がひかれ、純愛をたどる物語はふたつにひきさかれてしまうのでした。
 暗転の後、やはり古いアパートの一室。姉はアキヨシの縁談をすすめようとしますが、アキヨシはそこをはなれようとしません。「森の中の古いアパートの一室、あの秘密の花園があったはず…」。
 やがて妄想なのか幻想なのか姉・双葉は一葉にすれかわり、純愛の指輪を菖蒲に通す間にと便所に行った一葉は戻ってこず、便所の扉を開けると漆の木が立っていた…。アキヨシにかかった魔法が解けたように紅テントが解体され、彼方に一葉が美しい横顔をアキヨシと観客に見せながら、夜の闇に消えていくのでした。
  「これはなんだ、さっぱりわからん」とお叱りを承知で物語をたどってみましたが、わたし自身冒頭に書いたように「さっぱりわからん」のです。それでも魅かれてしまうのは、時代が変わり、街がさまざまな厚化粧を繰り返してもこの街の地下に、この地面の下にいくつもの見えない穴があり、そこでは決して忘れない、わすれてはいけないもの、決して変わらない、変わってはいけないものにあふれていて、唐十郎はそれらの事件や歴史をいくつもの物語、芝居にしてよみがえらせてくれるからなのです。彼の脳内実験室で培養されたそれらのすべてといっていい物語の数々は、忘れたはずのわたしたちを温かく迎えてくれて、いつまでも笑いながら手を振ってくれるのでした。
 こうして唐組の紅テントの切ない旅は突然掻き消え、わたしはまた大阪の街の闇に心をさらわれてしまいました。南天満公園は明日の統一行動の後、街頭パレードの行き先のひとつで、明日わたしは消えてしまった紅テントのあった場所に見えない穴を探すことになるのですが、決してその穴は見つからない事でしょう。
 それにしてもこれがあの「秘密の花園」なのか、似ても似つかない物語のように見えながら、少年少女が10年も封印されていた秘密の花園を見つけ、おとなたちのサビのついた現実認識を越えて新しい世界をつくり出す姿はどこかこの芝居と通じるものがあり、強いて言えば「秘密の花園」はちょうどシールズをはじめとする若い人たち行方を照らしてくれそうなのに対して、唐十郎の「秘密の花園」は決してその行方が決して希望に満ちたものではないかもしれないことを示唆しているようにも思います。

唐組「ひみつの花園」

ブラームス:弦楽六重奏曲 第1番 変ロ長調 Op.18 第2楽章
クラシックを知らないわたしは、亡くなってしまったKAさんと新宿梁山泊が演じる唐十郎の芝居を見に行った時、有名らしいクラシックが挿入されていて、彼女はすぐに「あれは・・・」と教えてくれました。そして、唐十郎の芝居の根底を支える文学や音楽、さらには歌謡曲まで幅ひろい憧憬の深さに触れるのも、唐十郎の芝居の楽しみのひとつだねと話したのを思い出します。
この芝居の場合も奥村チヨの「ごめんね…ジロー」と「岩崎ひろみの「すみれ色の涙」がブラームスと混ざり合い、なんとも甘酸っぱく切ない純愛物語に浸ってしまうのでした。
奥村チヨの「ごめんね…ジロー」
唐十郎の芝居で挿入される歌謡曲は芝居の水先案内人の役目を果たしていて、その時の時代の空気感を漂わせています。この歌も「秘密の花園」の純愛を彩る歌になっています。
岩崎宏美 「すみれ色の涙」
この歌の場合は「秘密の花園」の物語そのままに、当時の岩崎ひろみの清楚で一途な歌には少女のせつなくあわい恋心があふれ、年寄りの私の胸もキュンとなり、ろっ骨に涙が落ちるのでした。

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2015.05.05 Tue 唐組「透明人間」

唐組「透明人間」

 毎年、この時期に大阪から始まる「唐組」の春の公演を観に行きました。
 唐十郎の芝居を初めて観たのはわたしぐらいの年令からするとずいぶん後からで、「状況劇場」として大阪天王寺の野外音楽堂での「風の又三郎」でした。この頃は初期の黄金期以後の根津陣八、小林薫の時代でしたが、たしか台風がすぎた直後で、ほんとうに芝居があるのか問い合わせたことを覚えています。
 その時もいまも、わたしは紅テントの幻想的な密室空間での何かを思いつめた緊張感と、そうかと思えばダジャレを連発しながら早口のセリフで物語が強引に展開する不思議な物語に魅せられる一方、その芝居の本当の意味がよくわからないでいます。
 彼の芝居に魅入られたひとたちの多くはわたしと同じような感想で、中には「意味を求めても仕方がない」というひともいます。芝居に意味を求めるよりも、2時間ばかりの密室空間に閉じこめられ、芝居の終わりにその密室空間が解体され、巷の夜に放り出されるカタストロフィーに身を任せる瞬間こそが唐十郎の演劇体験だとするのもまた間違ってはいないのだと感じますし、そこから何を見出すかは観る者に任されているのだと思います。
 状況劇場から唐組へと紅テントの演劇空間は微妙に変わってきましたが、唐十郎の芝居には目の前で繰り広げられる物語の展開の裏側に日本の近・現代史の暗闇が広がり、芝居の中で語られる事件や戦争や災禍がその暗闇の歴史のるつぼで再構成され、テント小屋の密室空間にせり上がってきます。
 登場人物たちの「こだわり」とそのこだわりの故郷というべき日本の暗黒史の只中に放り込まれたわたしは、そのこだわりの物語があまりにも純情な物語なので、わたし自身もまた破局へと突き進む純情物語の「もうひとりの登場人物」と化してしまうのでした。
 そして、ひるがえる紅テントが去った後も、その純情物語の「その後」は巷の夜に放り出されたわたしの心のひだにべっとりとへばりついたままで、役者たちの顔と声から逃れられず、「その後」のつづきを求めてまた紅テントの中に迷い込むのでした。
 今回の公演は90年代の唐十郎の最高傑作といわれ、いままでタイトルも物語の展開も違う形で何度か再演されてきた「透明人間」の初演版でした。

 ある暑い日、僕の町内に「水を恐がる犬」の噂がひろがった。 保健所員・田口はふってわいた狂犬病騒動の調査にとり掛かった。 調べを進めていくうちに、ある煙だらけの焼きとり屋の二階にたどり着く……。 そこに間借りしている老調教師・合田とその飼犬・時次郎、同じくその焼きとり屋に居候する、合田の元軍用犬学校時代の同僚の息子・辻くんが、その元凶であった。 あまつさえその時次郎は、この騒ぎをよそに辻くんと散歩中だという。 そんなところへ野球広場の少年が咬まれたという一報が飛び込んできた。 町内は大騒ぎになり、母親は少年を連れてどなり込んでくる勢いだ。 ところが当の辻くんは、犬を野放しにしたままひとり帰り、店の何故かしゃべらぬ女店員・モモを相手に語り始めるのだった。 「浮かんで、行け、どこまでも逃げて行け。そして、又会う時、この水中花の誓いを忘れるな。おまえが、もう俺を忘れていても、俺は、また、この水中花に似たものを、おまえにかざそう。そしたらきっと俺と思え」 スーパーマーケットの前にできた水たまりは、いつか戦時中の福建省にあった演習地の沼へ。幻の沼は時空を駆け巡り、水が水を呼ぶ恐水幻想が雨降る焼きとり屋の二階にあふれだす。 透明人間はここにいたのか!

 パンフレットに書かれた「物語」はどこに行くやらわからないのですが、といって難解な芝居とは言い難く、大衆演劇と同じ人情小話が随所にちりばめられたわかりやすい物語でもあります。わたしがわかりにくいと思うのは物語の筋書きではなく、登場人物の「こだわり」の背景にある暗黒の歴史的事実と、その呼び水となるアイコンが何を意味しているのかと考え込んでしまうからです。
 その上で理解できないところがいっぱいあるのですが、芝居を観ながらわたしなりに感じたこの芝居の「こだわり」について、書いてみようと思います。
 唐十郎の芝居にはよく水がでてきます。初期の名作「少女仮面」ではひとりの男が水を飲み続けるシーンがありますが、この底知れぬ「渇き」は唐十郎自身の戦争体験が深くかかわっているように思います。それだけでなく、唐十郎にとって時には沼であったり池であったり海であったりする水は彼の劇的幻想の源泉で、「こだわり」という幻想の世界、「向こうの世界」への入り口で、唐十郎が元気に舞台に出ている時は必ず大きな水槽に潜るのがお約束でもありました。
 「透明人間」では降り続ける雨で町の下水管があふれ、スーパーマーケットにできた水たまりが戦時中の福建省にあった日本軍の軍用犬の演習地の沼へとつながって行き、それはめぐりめぐって焼き鳥屋の2階の大きな水槽へとつながって行きます。
 芝居は夏の暑い日、狂犬病とうわさされる犬を探して、保健所員の田口が焼き鳥屋の2階の押し入れに住むその犬の飼い主・合田を訪ねるところから始まります。そこで問題の犬は合田の元軍用犬学校の同僚の息子・辻と散歩中で、その途中少年が咬まれたというニュースが入ります。しかしながら少年を咬んだのは辻で、彼は犬を野放しにしたまま焼き鳥屋の2階に戻ってきます。
 辻の父親は戦時中福建省で犬の調教をしていて、モモという犬に人間と犬という以上の特別な愛着、人間の女を愛するに近い感情がありました。
 ある時、狂犬病が発生し、上の命令で調教した犬を殺害しなくてはならなくなりました。その時父は堪え難く、モモをこっそり逃がそうとしますが医務官に発見されてしまいます。医務官は「泥沼にオモリをつけた赤いダリアを沈め、その花をモモが取ってこれたら逃がしてやろう」と言います。ダリアを取れなくて浮き沈みするモモを見かね、父は沼に飛び込み、沈んでいるダリアをモモにくわえさせ逃がすのでした。「お前の事は忘れない!いつかきっと会おうな」と。
 話は現代に戻り、辻は父親の記憶の檻に閉じ込められていて、父親が逃がしたモモという名の女を探しては殺してきたらしくて、この焼き鳥屋にもモモという名前の女がいることを知ってやってきたようなのです。
 父親がモモと名付けた中国人娼婦と暮らしていた記憶を引き継ぎ、焼き鳥屋の店員モモと入れ替わったモモに似た娼婦と暮らす辻…。
 父親の記憶を物語るのは辻自身とモモに似た娼婦で、焼き鳥屋の店員モモは話ができず、ただ、「風は海から 吹いてくる 沖のジャンクの 帆を吹く風よ  なさけあるなら 教えておくれ わたしの姉さん どこで待つ」と、か細い声で歌う姿が保健所員の田口には愛おしく映るのでした。
 モモ似た娼婦がこの歌を中国語で歌い始めると、モモもまた中国語で歌い、この時、わたしはモモが中国人で、彼女もまた辻の父親の記憶を継承し、父親の愛した犬のモモでもあり、中国人娼婦のモモでもあったのだと思いました。
 この芝居では舞台上手の水槽が大きな役割をしていて、焼き鳥屋のモモは辻によって水槽に沈められ、辻もまた銃で撃たれ、胸から血ならぬ水を吹き出し、水槽に沈みます。
 そして、芝居の語り手でもあった田口もまた、心惹かれるモモが水槽からせり出し、彼女とともに水槽に消えていきます。
 このラストシーンには多くの観客がジーンときましたが、わたしはこの水槽が福建省の演習地の沼につながっていて、モモは田口を除く登場人物を日中戦争のさ中へと連れ戻したのかも知れないと思いました。そして田口がモモへの純愛によって日本と中国の暗闇の歴史をくぐりぬけ、現代のアスファルトに覆われた地下の水脈へとモモをもう一度連れ戻してくれることを願いました。

 わからないことがまだまだたくさんあります。水中花が父親と愛犬モモが沼の中で赤いダリアを手に取って誓った「生き延びよ」というアイコンであったことは少しわかりましたが、タイトルになっている肝心の「透明人間」が何を意味しているのかわかりません。
 「『透明人間』と言う題名は自らが成し得ぬ事を託す存在、そしてラストでは自ら透明人間になって成し得なかった事を成そうとする意思を示す。この戯曲、前回は「水中花」と題されて公演された。水中花は辻とモモの絆でもあり宿命。モモの歌は現代と15年戦争を繋ぐタイムマシンであり、犬と人間・日本と中国の変換装置でもある。」という、すばらしい劇評をみつけましたが、正直わたしはよくわからないのです。
 ただ、田口が「夜のひさしに当たる五月雨は、誰の涙かっていう。――あれは透明人間が歌っていたんじゃない。孤独な男の歌だった」というセリフが、モモが歌うこの歌とともに、いつまでも心に残っています。

 やっぱり唐組の芝居はいくら筋書きを書いても「ネタバレ」とは程遠く、わからなくてせつなくて心痛くて、それでいて乾ききった日常生活の床をスパッとめくり、血と汗にぎり、少年少女のように心を震わせる、わたしにとって年に一度の栄養ドリンクのようです。とても大好きな劇団です。

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2014.05.08 Thu 唐組「桃太郎の母」

唐組「桃太郎の母」

 唐組の「桃太郎の母」を観ました。毎年春、大阪から始まる唐組の芝居を観るのがわたしの楽しみのひとつで、1988年に状況劇場解散後、唐組が結成された最初の頃から観てきました。
 実をいうと唐組の芝居は毎回ほぼ理解不能で、テント小屋に充満する言葉と汗とつばとひやりとした空気と黄色い光と暗闇におぼれそうになりながら、あっという間に過ぎ去ってしまい、そのあらすじもはっきりと思い出せません。
テント小屋は母親の胎内のようですが、暖かかくて居心地の良い所ではなく、芝居が始まる前のたどりたどればどこまで行くのかわからない時の鉄路を疾走して今着いたばかりの場所、かつてどこにでもあったはずの忘れられた場所、芝居が始まればあっという間にわたしを記憶の中にかくれていたもうひとつの町に連れもどす、なつかしくもおそろしい暗闇でもあります。
 そこでくりひろげられるいくつもの物語はあっちにもこっちにも飛び散るのですが、そんな喧噪の真っただ中で時には姉と弟、兄と妹、時には幼馴染など、過去からの深いつながりをひきずり、お互いに思いやる純情な心の震えが芝居の空間からあふれ出る時、テント小屋の冷たい密室が切なくもあたたかいセンチメンタルな風に包まれます。
 芝居の最後、密室だったテント小屋の舞台が解放されると、現実の町のあたたかい暗闇にすべての物語が飲み込まれ、観客であるわたしもまた母親の胎内から生まれてきたばかりの赤子のように、夜のとばりに放り出されるのでした。
 今回の「桃太郎の母」は1993年に上演された芝居の再演で、小説にもなり、また林海象の映画「海ほうずき」にもなった物語ですが、2幕の芝居は唐組らしくとてもテンポよく疾走してしまうので、やはりほとんどわかりませんでした。しかしながら、先ほども書いた純情な心のふるえがべったりとわたしの心の壁にへばりついたまま落ちないので、わたしなりに感じたことを書いてみようと思います。

――悶(ほん)……「さわぐ」という意味を持つ粉。飲むと何年も姿を消す、そしていったん帰ると聞いたこともない体験をほのめかすという。別名、桃太郎の母――
 1990年4月7日、女子大生・真理子、台南、高雄にて消息を断つ。行方切れて5日後、母元に一通の手紙あり。「待ってて、母さん、私の息を届けます」
それから3年――。
そのころカンテン堂は、勝手に募集した助手・まりこと共に、台湾での調査を終えた。そこで真理子の台湾渡航の目的である卒論研究に突き当たる。それは、博山炉の、いわやを持ち上げている細い管。その隘路。<風はここを吹いてくる。この風に当ると、女はなぜ妊娠するのか>であった。
真理子の足取りと、桃太郎の母。まりこから真理子へ贈られたアンモナイト。真相はその中にある……!!
「息」は隘路をめぐる。
代わる代わる訪れる隘路をくぐり、まりこと名のる女とカンテン堂は、真理子の「息」を求めて奔走する。
日本と台湾を駆け抜けた原始睡眠の果て、唐十郎・博山炉ロマンチシズム!!

 これはこの芝居のパンフレットに書かれたあらすじのような宣伝文句のようなものから抜粋しました。
 これを読んでもさっぱりわからないのですが、この物語が1990年に実際に台湾で起きた日本人女子大学生殺人事件を題材にしたものであることはわかります。
 唐十郎は新聞の小さな記事から一気に物語を増殖させる天才ですが、当時のワイドショーの格好のネタになったこの事件に唐十郎が関心を持ったのは、被害者の女性が事件の直前に母親にはがきを出していたことにあるのでしょう。
 理不尽で許しがたい事件に巻き込まれ、亡くなった一人の女性が出した母親への最後の手紙の内容をわたしは知りませんが、唐十郎はそれを「息」に変え、さらにその息を海ほうずきとした時、その化学反応は台湾の歴史と日本との複雑な関係と、中華圏にとどまらず日本においても今も根強く続く神仙(仙人)思想、とりわけ女仙たちを統率する聖母・西王母と、西王母が住むとされる世界の中心にそびえる崑崙山(こんろんさん)を模した博山炉(はくさんろ)、古代の中国や日本で長寿・不老不死をもたらす不思議な実、破邪の力を持つ神聖な果実として扱われてきた桃、そして当局が取締りを強化しつづけても絶えることのない覚醒剤や媚薬にまで想像力を広げ、ついには清濁混在した台湾と日本の歴史を、真理子がベレー帽に隠した海ほうずきに浮かび上がらせたのだと思います。
 そして、「実在の事件をねじまげ、被害者の女性への人権侵害」ともとられかねない物語の中に、実は亡くなった女性への深い哀悼が込められていると私は思います。唐十郎はとても優しい、悲しいまでの優しさで、この女性の失われた命を一方の天秤皿にかけ、もっう一方の天秤皿に猥雑で喧噪に満ちた時代の中で非業の死をとげた命をいつくしみ、三千年の命へとみちびく西王母(「桃太郎の母」)の伝説のすべてを乗せたのではないでしょうか。
 わたしは「桃太郎の母」という題名がとても不思議だったのですが、芝居を観た後、日本のおとぎ話に登場する桃太郎やかぐや姫や一寸法師(この芝居では探偵・灰田のライバル)など、柳田国男が「小サ子」と称したヒーローやヒロインはおじいさんが別の女性と交わってできた私生児なのか、それともキリスト教の聖母マリアともちがい、川や竹など生きとし生けるものの源泉をつかさどる自然そのものを母とするのかと考えました。
 そして、この芝居の登場人物が持つてんでばらばらに見える物語と饒舌な言葉の奥から、真理子とまりこの心の交換の中から、さらには昔懐かしカンテン棒で迷推理をするさえない探偵・灰田のロマンチズムの彼方から、静かで無垢で切ない命のリレーのバトンを渡されたような気がします。

劇団唐組 公式情報 - アメーバブログ
5月10日からの公演日程がわかります。

劇団 唐組 | Facebook

石田英一郎・著「桃太郎の母」
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2013.11.20 Wed 「唐版 滝の白糸」その3

唐版 滝の白糸

 役者のことを言えば、窪田正孝はテレビドラマ「陽はまた昇る」で初めて知り、落ち着いたセリフの中に、ストレートな若さではない複雑でデリケートな演技に注目していたところ、「平清盛」でその才能をつよく感じた人です。今回の芝居は少し叫びすぎだったかなと思いましたが、じゃあ、それ以外にどんな演技ができたのかと思うと、彼はやはり彼らしく、アリダのように芝居の中で大きくなったのではないかと思います。
 実際のところ、この人だけは舞台に出ずっぱりでしたので、観客の注視する中で最初は兄と母をなくした喪失感が漂い、受動的だったアリダが銀メガネ、お甲、亡き兄の幻影、ミゼットプロレスラーたちの物語と出会い、その物語を追走することで「自分の物語」を獲得し、再生、成長していく姿をたった100分ほどの間に演じてくれました。この芝居でアリダを演じた沢田研二、岡本健二、藤原竜也とくらべても、まったくひけを取らないどころか、もしかすると新しいアリダ像をつくったのかもしれません。
 彼の特徴はとても普通に見えながら、少し怖い「狂気」のようなものがかくれているところで、こんな役者を必要とする芝居がこれからもいくつもあると思います。
 そして、大空祐飛。このひとはやはりまだ「宝塚の男役」で、女にはなっていないというひともいましたが、蜷川幸雄はそこに魅力を感じたのだと思います。
 初演の李礼仙に代表されるお甲像は、肉感的で男を魅惑し、すれっからしに見えながらも純な心をかくしている女そのものだと思うのですが、大空祐飛の場合、間違えばアリダの方を演じてもいいような中性的な美しさがあります。
 これは宝塚の男役だった癖が抜け切れていないのか、あるいは(わたしは宝塚歌劇を観たことがないのですが)、これが本来の彼女の特徴なのかわかりませんが、人形にあるような不思議な魅力、中性的なエロチシズムとでもいえばよいのか、ある意味とても危険な官能性を秘めたお甲でした。
 宝塚の魅力の一番は男役にあり、恋愛感情にも似た感情で「男装の麗人」に惜しみない声援と拍手をおくる女性ファンに支えられ、その憧れの頂点にいた大空祐飛は今回の芝居では「女装の麗人」として新しいお甲像を演じ、この芝居はもしかすると2人の少年愛の物語なのかとまちがうほどでした。
 そして、芝居後半の水芸では、さすが宝塚のトップスターという出自にふさわしい扇子の使い方、立ち振る舞いと口上で、この芝居のクライマックスにふさわしいエンターテインメントで観客を圧倒しました。
 この芝居ではお甲がクレーンに乗って宙を舞うシーンが評判ですが、わたしはそれよりも、お甲が最後に述べる口上に不覚にも涙を流してしまいました。

まださわりなんです。これからいいところだったんです。
明日から巡業にまいります。小人と女子プロレスの。
たまにはリングに鶴が飛んできて、ヴァヌカン山上の闘いよろしく小人さんたちと鶴が闘います。そして闘いの中で敵のなんたるかを見極めなければなりません。
傷にナンコウをぬったり、汗をふいてやったり、明日からわたしもがんばらなければなりません。
これから長い長い旅ですもの。
そしてそのためにはまず、明日の旅費を作らねばなりません。
しっかりと芸をみせて、あなたから御代をもらわなければなりません。
何事も一事が万事ですものね。この今夜の一事をおろそかにして明日から何が一事となりましょう。
これからいいところなんです。できます。踊ります。この滝の白糸太夫は!
今、あの壁に描かれた「復讐」の血管符号に学んで白糸太夫のくりだす銀のしずくは深い滝となるでしょう。万事はこの一事から!
それでは皆様、手首の蛇口をはずしましょう!

 そして、平幹二朗。このひとはやはりすごい役者でした。彼の役割は狂言回しで、この芝居を舞台の上で演出するような役どころでしたが、唐組のいつもの芝居では、唐十郎や今回羊水屋として存在感あふれる演技を見せた鳥山昌克が演じるところです。その場合はどこか優しくて無理を聞いてくれるおじさんのようで、ドタバタと演じることが多いように思うのですが、平幹二朗の場合はそこは容赦がなく、冷徹な計算と姑息なたくらみがオーラのようにあふれていて、アリダのような純情な少年などひとたまりもなく自分の筋書きとおりに操ってしまいます。
 そして、抑制のきいた透明な声で語る長セリフを聞きながら、もしかするとこの3人のうち最も色気のある役者だと思いました。

 最後に、まったく原作とはちがうように見える「唐版 滝の白糸」は、実は原作への激しいシンパシーと忠実な「解釈」に基づいたものであることを学びました。
 「滝の白糸」というタイトルで新派や映画になった泉鏡花の「義血侠血」は1894年に出された観念小説といわれた初期の代表作で、こんな物語です。

水芸人の滝の白糸は法律を勉強している村越欣弥という青年と出会い、心ひかれる。
彼女は欣弥に学費の援助を申し出て、欣弥はその申し出を受け勉強のために東京へ。
数年後のある日 彼のために前借をした大金を賊に奪われてしまい、犯人が残していった包丁を手に、白糸は迷い込んだ家で強盗殺人をはたらいてしまう。
裁判に掛けられた彼女の前に検事となった欣弥があらわれ、包み隠さず真実を述べるようにと諭す。
真実をすべて白状した白糸は殺人犯として欣弥に起訴され 死刑の判決が下る。
そして恩人を死刑に追いやった欣弥も自ら命を絶つ。

 「唐版」はこの物語の後日談で、登場人物の設定を変えて生き残った女と、死んでしまった男の弟の物語で全然違うお話ではあるのですが、「お金」が重要なポイントになっていることや、原作ではもう少落ち着いて状況把握していれば、白糸太夫は犯罪を犯して死刑になることもなく、欣也も自殺しなくてもよかったでしょうし、「唐版」の場合はそもそもなぜお甲とアリダの兄が心中しなければならなかったのか、またお甲が自分の死と引き換えにミゼットプロレスへの援助をするわけもそれほど説明されません。
 こう考えると、唐十郎の「唐版 滝の白糸」は時代設定も登場人物もまったくちがうのに、泉鏡花の原作とよく似たお話だと思います。2つの物語が時代を越えて深くつながっているのは、どちらもとても「理不尽」であることです。そしてそのふりかかる「理不尽」で止められない運命に抗い、殉じる崇高な純愛の物語であることです。
 泉鏡花は江戸時代の物語に傾倒していたと聞きましたが、唐十郎もまた江戸時代の河原乞食といわれた歌舞伎芝居への傾倒があり、この2人に共通するものは「前近代」の理不尽さに立ち戻ることで、「近代」の理不尽さを糾弾することにあるように思いました。
 人間は合理的に生きられるものではなく、社会や他者からはおろかで反逆的にみられても、純な心は時代を越えて届けられことを、「唐版 滝の白糸」は泉鏡花の源流から現代に伝えてくれたのだと思いました。

 今年は思いがけず、芝居を劇場でみることができました。「盲導犬」は娘の夫と2人で、「唐版 滝の白糸」はもうひとり、豊能障害者労働センターのFさんと3人で観に行きました。
 2回とも思ったのですが、娘の夫は車いすを利用しているので車いす席になるのですが、場所が料金の高いゾーンになるため、本人も介助者も自動的に高い料金をはらうことになるのがなんとなくおかしいと思ってしまいます。
 たしかにいい所で観られるので高い方の料金になって当然と思う一方、自分が望んだわけではなく、会場の都合でその位置に車いす席を設置してあるのですから、会場か主催者の配慮で安い料金にしてもいいのではないか、それが無理なら少なくともなにがしかの説明があってしかるべきなのではないかと思いました。

唐版 滝の白糸


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2013.11.18 Mon 「唐版 滝の白糸」その2

唐版 滝の白糸

 劇場に入ると幕はなく、薄暗い舞台には廃屋のような2階建ての長屋が建っていて、その前の路上には懐かしい看板やがらくたが積まれています。車の音か何か、遠くの街のざわめきがかすかに聞こえ、いつのまにか劇場の中は霧が立ち込めています。
 開始5分前のアナウンスがあり、車のエンジン音がひときわ大きくひびき、しばらくすると客電がついたまま窪田正孝演じる少年アリダが後方の扉から舞台中央へと歩いてきます。そして下手側の扉から、平幹二郎演じる銀メガネが現れ、アリダをつける。アリダが舞台に上がると客電が消え、舞台が明るくなる。アリダが舞台奥の長屋の前でうずくまり、銀メガネが後ろから覗き込む。
「どうして僕をつけるのですか」と、アリダが振り返って叫ぶ…。
 観客であるわたしは演劇空間に誘い込まれ、どこか不吉でそれでいてわくわくする運命をアリダとともにたどることになるだろうと予感する。
 こんな風に、「唐版 滝の白糸」は始まりました。

 銀メガネは十年前に幼いアリダを誘拐して、10年の刑務所暮らしをしたと言います。そして今日は5月5日、端午の節句。アリダの兄の一周忌の日です。
 流しに水をため、手首を切って心中をはかった兄の命日に、心中の生き残りの女お甲に兄の借金10万円を返しに来たアリダでしたが、話しているうち言葉巧みな銀メガネにその金を渡してしまいます。
 運送屋の2人の男(井出らっきょとつまみ枝豆)が大きな洋タンスを担いで長屋の前に運び込み、セリフの掛け合いで笑わせて去っていき、次にアリダの兄と商売をするはずだったという羊水屋(鳥山昌克)が登場しますが、さすが唐組の役者で水を得た魚のようなセリフ回しで会場を沸かせました。
 一瞬、舞台が暗くなり、洋タンスにスポットライトが当たると、大空祐飛演じるお甲が立っています。ここまでのかなりの時間を長セリフの掛け合いで引っ張った分、大空祐飛の立ち姿が異様に美しく、さすが宝塚だと思いました。水商売女風の厚化粧と真っ赤なワンピースが目に焼き付きます。
 生き残ったお甲が移り住んだ長屋には、お甲と赤ん坊を支えてくれるミゼットプロレスの連中が住んでいます。 彼らは明日から2ヶ月の巡業予定だが旅費が足りず、その金を工面するための無心だったと言い、お甲は時に優しく時に厳しく、哀れを装い、誘惑するようにお金をねだります。4人の小人症のひとたちが舞台に現れ、お甲に金の工面ができたか聞き、無理なら良いのだと慰めて退場します。2回目に登場した時だったか、下手に並び口上を述べる4人に後方から夕日が差し込んで長い影をつくり、「影に映った自分はこんなに大きいねぇ~」、「影を踏んじゃいけないよぉ~」というシーンは胸に迫るものがありました。
 兄さんの一周忌のこの日、滝の白糸を見せるからお金を返してと、水芸の準備をするのですが肝心のホースから水が出て来ない。水道の栓を開けてとアリダに頼んでいたのと叫びながら長屋に駆け込んでいくお甲。
 暗転後の舞台。薄闇の中に菖蒲(アヤメ)がずらりと並び、白糸太夫の衣装に身を包んだお甲が水芸を始めます。そこに長屋を取り壊そうとする工事人夫が多数現れ、射撃音と音楽が大音響で流れる中、アリダが必死に抵抗します。工事人夫がホースを切断したため水芸を中断されたお甲は長屋の2階に駆け上り、身を乗り出して叫びます。
 「できます、踊ります。この滝の白糸太夫は!万事はこの一時から!それでは皆さま、手首の蛇口を外しましょう」。水の代わりにお甲の手首から血が吹き出し、アリダに降りかかります。流し台に乗ったお甲がクレーンに乗って宙を舞い、アリダは全身を真っな血で染まりながら流し台を追いかけて舞台を飛び回るのでした。
 やがて暗い舞台に一人残されたアリダ少年は「菖蒲はどこだ!この夜をあやして守る、ぼくらのあやめは!」 と天を仰ぐと、菖蒲の葉を唇にあてておもいきり吹き鳴らす…。
 ざっとストーリーを書いてみても仕方がないところもあり、ここからはわたしの感じたことを書くことで、すこしでもこの芝居のすばらしさを伝えられたらいいなと思います。
 
 この物語は多くの方が言っているように、少年アリダが生まれ直すというか、兄や母の死を受け入れ、大人として自立していく物語であると思います。芝居が始まって30分はあったでしょうか、銀メガネとの絡みでよくも悪くも俗世間の人間らしさというか、生きる術を獲得します。そしてお甲が登場すると、最初は兄をたぶらかして心中を誘い、自分だけが生き残り、子どものミルク代ではなくミゼットプロレスの地方興行の旅費を工面するためにお金を要求するお甲に反発するのですが、次第に彼らのために必死にお金をつくりだそうとしているお甲の気持ちに惹かれるようになり、お甲が水芸で銀メガネからお金を取り返そうと必死になるのを手伝うようになります。それは兄の一周忌に水芸をすること、それ自体がお甲の兄への愛でもあることを知ったからではないかと思いました。その血を浴びることでアリダは子どもから大人へ、少年から青年へと脱皮したのではないでしょうか。
 芝居の最初から最後まで出ずっぱりのアリダでしたが、最初の幼かった彼が最後には孤独に耐えて生きる決意を持ち、悲しみをすべて吐き出そうと菖蒲の笛を強く吹く大人になっていました。
 お甲はどうでしょうか。心中で生き残った人間が世間からどういわれるかはわかりきっていますし、ましてや女の場合はひどいバッシングを受けるにちがいありません。それらを払いのけながら生きるお甲のしたたかさや潔さの中には、とてもこわれやすいけれども人を愛する純情な心が隠れています。アリダがお甲に気持ちを寄せるきっかけは、彼女の小人症のひとたちへのピュアな思いとともに、兄の指が6本あったことを共有できたことだと思うのですが、彼女の悪態やはすっぱな外見の奥に、先に逝ってしまったアリダの兄への少女のような純愛を感じずにはいられません。
 そう思うと唐十郎の芝居にはいつも、兄と妹、姉と弟など、血縁でありながらすでに他人でもある主人公たちによって芝居の前に純粋培養されていた純情な心が、芝居の中の猥雑で暴力的にも思える狂言回しのような「悪者」に揉まれ、鍛えられ、導かれ、芝居が終わった街の雑踏から次の荒野へと去っていく物語が多いと気づきます。
「唐版 滝の白糸」では、自分の死と引き換えに水芸をつづけるお甲の血を全身に浴びながら、アリダもわたしたちも、死んだ兄とお甲が一年かかって準備してもう一度心中する姿を観ていたのかもしれません。
 そして、銀メガネ。彼は結局のところは登場人物ではなく、冷徹にこの芝居を見つめ、お甲の二度目の心中とアリダの血塗られた誕生と自立をそそそのかし、仕組んでいった作者そのものだったように思います。
 ストーリーを追って書いてみると、ここですでに紙面を越えています。あと少しお付き合いくださって、次回は役者について感じたことと、この芝居と泉鏡花の原作との通底路を探ってみたいと思います。

唐版 滝の白糸


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