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2018.08.24 Fri 「サム・フランシスの色彩」展 アサヒビール大山崎山荘美術館

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 8月22日は久しぶりに妻と二人で出かけ、アサヒビール大山崎山荘美術館に行きました。妻の母親が亡くなって4か月が過ぎましたが、その間、わたしは箕面のチャリティコンサートの準備に追われ、妻はのっぴきならない事情で近所のお家を40万円でゆずりうけ、リサイクルショップと週に一度の昼ご飯やさんやくつろぎスペースやちょっとした会議や文庫など、地域に開放できるようなフリースペース「SE-NO(せーの)」(仮)を開く準備をするのと自治会の用事で超忙しくしていました。
 そんなことでお店の準備で身動きが取れずにいて、せめて日帰りで出かけようと相談していたところ、「サムフランシスの色彩」展が大山崎美術館で開かれていると知り、お互いに高校時代に慣れ親しんだ作家だったことから、ようやく重い腰を上げ、出かけることになったのでした。
 妻はここ数年、長い間の無理がたたり、関節炎というのか、両膝がいたくてまともに歩けない状態になっています。医者嫌いの彼女にしては珍しく、近所のお医者さんで週に2回リハビリに通うようになって少しは楽になっているようなんですが、長い距離歩くのができず、杖かカートの助けを借りて外出しています。そんなわけでカートをささえにしてゆっくりと、大山崎に向かいました。
アサヒビール大山崎山荘美術館は12年ほど前に行ったことがあります。
 とても雰囲気のある建物で、居心地がよかったことを覚えていたのですが、今回特に驚いたのは、なんでも2010年に改修したようで建物の中がすべてバリアフリーだったことです。もともとは山荘で段差がたくさんあってふつうなのに、建物の中は完璧なバリアフリーで、それがこの歴史的建物にすっかり溶け込んでいて、いろいろなひとを迎え入れたいとするこの小さな美術館の姿勢があらわれていて、とても気持ちよい空間でした。
 サヒビール大山崎山荘美術館は、関西の実業家・故加賀正太郎氏が大正から昭和初期にかけ建設した「大山崎山荘」を創建当時の姿に修復し、安藤忠雄氏設計の新棟「地中の宝石箱」などを加え、1996年4月に開館しました。
 太郎氏の没後、加賀家の手を離れた大山崎山荘は、平成のはじめには傷みが激しく荒廃寸前となっていました。さらに周辺が開発の波にさらされるなかで、貴重な建築物と周囲の自然の保護保存を求める声が多くあがりました。
 加賀氏は、ニッカウヰスキーの設立にも参画し、アサヒビールの初代社長であった故山本爲三郎と同じ財界人として深い親交がありました。京都府や大山崎町から要請を受けたアサヒビール株式会社は、行政と連携をとりながら、山荘を復元し美術館として再生したのでした。
 小さな美術館の特徴を活かしたユニークな企画をされていて、「サム・フランシスの色彩」展も、アサヒビール社のコレクションからアメリカの抽象画家サム・フランシスの作品を10点ほどですが初めて公開するほか、素材の微妙な調合により釉薬を生みだした河井寬次郎と濱田庄司のやきものや、筆触分割による色彩の組みあわせで光と影を捉えようとした印象派以後の絵画など、色彩にまつわる多彩な作品を展示していました。
 私と妻が出会ったのは高校生の時で、学校はちがったのですがどちらも美術部員で、今でいう合コンでした。場所は大阪中之島にあった「グタイピナコテカ」でした。グタイピナコテカは関西で活動していた具体美術協会の創設者・吉原治良所有の明治時代の土蔵を改修した展示施設で、現代美術を紹介する場としても注目されていました。
 ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグ、イサム・ノグチ、ジョン・ケージなどもしばしば訪問し、活発な交流が行われていた施設で、わたしたちのあこがれの場でもありました。サム・フランシスの作品も、おそらくここで見たのが最初だったと思います。
 わたしは絵を描かない美術部員で、ポップアートやネオダダ、そしてシュールレアリスムにかぶれた軽薄な高校生でした。わたしにとってその時代は音楽や演劇よりも美術の時代でした。たしかにビートルズがあらわれたりと、ロックの方がすでに世界の若者の心をつかんでいたのでしょうが、歌謡曲派のわたしにはロックはまだ敷居が高く、むしろ美術手帳をバイブルに、現代美術の冒険に心を奪われていたのでした。
 そんなわたしの青春の1ページに、サム・フランシスも存在していました。
 今回、少し勘違いをしていて大きな美術館の展覧会のようにもっと作品がたくさんあると思っていましたが、この美術館が所有している8点ほどの作品が展示されていただけなのですが、がっかりするどころか、はじめてこのひとの作品と出会ったように感じました。
 壁一面の大きさのキャンバスにアクリル絵の具による鮮やかな色彩は、世界中の色という色をかきあつめたようでもあり、また日常ではさまざまな色がグレーがかっているというか、生々しさを形・フォルムが隠しているのですが、その形や器から解放され、本来の質感と肉感が直接わたしの前に立ち現れるようなのです。
 そして、日本びいきの彼らしく、飛沫やにじみをいかす余白であったはずの「あざやかな白」が色彩として自己主張する様は、すでに半世紀をすぎても色あせることがありません。
 高校生の時に心ときめかせ、ただがむしゃらに作品の前を通り過ぎてしまったサムフランシスの「初めに色彩ありき」の世界観を、半世紀を経てほんの少し感じ取ることができました。
 「サム・フランシスの色彩」展は9月2日で終了し、9月15日から12月2日までは「谷崎潤一郎文学の着物を見る」展という、またユニークな展覧会があります。
 建物自体を味わうだけでも素敵なところですが、9月3日から14日までは休館になるようです。

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2016.11.28 Mon 宮島・厳島神社と初めての広島平和公園

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 11月26日は久しぶりの妻との慰安旅行で、広島に行きました。昨日は妻のリクエストで京都へ行き、伊藤若冲の展覧会に行きました。お目当は大きな屏風絵で、鳥の屏風と並んで、象まで描かれた色々な動物の屏風でした。この絵は細かい格子状の目盛りに合わせて絵の具をおいていくように描かれていて、タイル絵の様で銭湯の書き割りみたいでした。
 その他おびただしい数の掛け軸に主にニワトリが描かれた作品が展示されていました。暮らしの中にある様々な動物や風景を時には写実的に、ときにはひょうきんなポップアートふうに自由自在に描かれていました。江戸時代中期から後期の京都に居て、政治的な束縛から解放され、強烈な自由にあふれていました。
 ただ、残念だったのは超満員で、しかたないのですが係りのひとに立ち止まらないでくださいといわれました。美術展に行って「立ち止まらないでください」と言われたのはフェルメール展以来でした。

 26日は朝早く家を出て、新大阪から広島へ、広島から宮島まで直行しました。天気予報で雨模様となっていたからです。ところがほぼ終日なんとか天気がもち、宮島を堪能しました。実はわたしの母は香川の人でしたが、子供のころに広島に年季奉公に行き、数少ない休みに厳島神社に行った思い出を話していて、一度行こうとおもっていたのです。実際のところ、寺社仏閣は時の権力者の野望の残骸に思えて、わかいころは好きではなかったのですが、歳を重ねると反対に彼らのかなわなかった最後のゆめの儚さに思いを巡らすようになり、好んで見るようになりました。
 厳島神社は平清盛が肩入れして夢破れた後も、毛利元就や豊臣秀吉ら権力者の果てしない権力欲の表現の場とされて来ました。いく時代かが過ぎ、彼らが目もくれなかった私たち雑民がゾロゾロと押し寄せる様子をみて何を思うのかなと考えると、權力の虚しさとともに、少しはこんなふうに彼らも民に喜ばれることもあるのかなと思いました。
宮島で一日を過ごし、近くのビジネスホテルに泊まりました。

 翌日の27日は一日雨が降るなか広島平和公園に行きました。実はわたしは一度も平和公園に行ったことがなく、今回の広島旅行となったのでした。原爆ドームは大きな建物で、360度どの角度からでも見ることができ、違った表情で原爆の破壊力のすごさを今に残しています。
 1945年の8月6日の朝に人類が犯してしまった最大最悪の過ちが20万人のいのちを奪い、今も生き残った人々の心とからだを痛めつけ、この街を破壊し尽くした記録と記憶をこのドームが深い沈黙と共に静かに叫び、泣いているように感じました。原爆ドームを歴史の証言として残してくれたことに感謝しつつ、なぜ大阪市は大阪大空襲の証言として大阪砲兵工廠を残さなかったのだろうと思いました。
 誰のものかわからない7万人の骨を拾い集めた慰霊碑と、犠牲者の1割にも上る韓国・朝鮮人の犠牲者を慰霊する韓国人原爆犠牲者慰霊碑慰霊碑に手を合わせ、記念館に入りました。
 記念館は超満員で、子どもの衣類などひとつひとつの遺品を丁寧に見ることができませんでしたが、それらの遺品もまた何十年もあの朝に理不尽に奪われたいのちたちの無念を語っているようでした。
 5月にオバマさんが訪れ、慰霊碑に花をたむけ、演説したことは記憶に新しいですが、わたしはいろいろな批判があることを承知で彼の演説は素晴らしいものだと今でも思っています。しかしながらアメリカ大統領として核のボタンを持ち、いつでもそのボタンを押す用意をしながら核廃絶の演説をしなければならないことが、失望と共に世界が深い暗闇に中にあることを証明しています。
 そして被爆国でありながら核兵器禁止条約の決議に反対する日本にも絶望と怒りを禁じえません。
 毎日世界中から平和記念公園と記念館をたくさんの人々が訪れ、二度と戦争をしないと誓う心こそが、遠い道のりであっても武器を持たずに共に生きる勇気をたがやし、平和をつくる一歩であることを、世界の国々の政治家は心に深く受け止めるべきだと思います。

 まだ大阪に帰るには時間がありましたので、広島名物のお好み焼きを食べた後、広島県立美術館で開かれている「エッシャー展」に行きました。行く前はそれほど乗り気でなかった妻は足が痛くて歩きにくいにも関わらず会場を歩き回り、いままでそれほど知らなかったエッシャーの作品に触れて感動していました。
 エッシャーといえば「だまし絵の巨匠」と称されますが、初期の作品から年代順に見て回ると、だまし絵と称される作品は奇をてらったものでは全くなく、彼の追い求めた世界の帰結であったことがよくわかりました。主に木版画とリトグラフで制作された作品は彼が好んだ風景が細かく緻密に描かれているのですが、先人の画家たちが風景や動物を二次元のキャンバスに正確に写すことで空間や立体を再現するのに対して、エッシャーは細微に当たって正確に描けば描くほど「本物の風景から逸脱した風景」になっていくのでした。
 彼の関心は平面の中に立体そのもののイリュージョンをつくりだしたり、平面上の動物や人物のパターンをびっしりと描き、視点を変えると別の絵になってしまったり、紙からはい出したトカゲが書物や小さなバケツの上を通り、また紙に帰っていく作品、下から水が流れたり、上っている階段のはずがいつのまにか降りていたり、世間でだまし絵と言われる作品になっていきます。
マグリットなどにも似ていると思いましたが、エッシャーの場合はとても勤勉な職人で、その世界観は冒険的でありながら生真面目に版画をつくり続けた人だと思います。
 中には画面全体を小さな碁盤の目を張り巡らしてからその中に形を載せていく手法や動物を細密に描く作品など、京都で見た伊藤若冲と共通した画業を全うした人だと思います。かたや水墨で、かたや木版で、どちらも白黒グレーで制作されているところも共通していました。

2日間の旅を終えて、無事に帰ってきましたが、今回は大きな言い合いもなく楽しい旅になりました。妻は最近歩くことがかなり難しくなっていて、医者は「加齢のせい」としか言わず痛み止めをくれるだけで根本的な解決にはならず、整体などお金がかかる治療もできずに放置していましたが、今回の旅行でいよいよ歩きづらくなったので自分でなんとか解決しようと言っています。わたしも最近またお腹が出てしまい体重も増えているので、お互いに自力で身体をメンテナンスしなければと感じた旅でもありました。

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有名な大鳥居で一枚。写真を写した時は引き潮でしたが、夕方には満ち潮で下の方がすっぽりと水に埋まりました。
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韓国人原爆犠牲者慰霊碑。長い間さまよっていた2万人のたましいを慰霊するため、1970年につくられました。
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平和記念資料館を含め、平和公園は丹下健三グループによって設計されました。
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エッシャー展は12月25日まで開かれています。

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2016.08.02 Tue 人道的配慮が差別からなされ、新たな差別を生むこともある。障害者殺傷事件の報道に思うこと

 神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた障害者殺傷事件の続報は容疑者にかかわるニュースでもちきりです。もちろん、容疑者の生い立ちや犯行に及ぶまでの言動などから未然に防げなかったのかと検証することは当然のことでしょうし、犯行までにかかわった施設、行政、病院、警察の担当者、友人の証言から、もしかすると防げたのかもしれないと反省し、2度とこんな事件が起きないために何をすべきなのかと考えることはとても大切なことだと思います。
 しかしながら各テレビ局とも容疑者の非人道な人物像をあぶり出し、視聴者が望む犯人像をなぞる興味本位な報道のように思います。
 「障害者は死んだほうがいい、安楽死させるべきだ」、「重度の重複障害者は殺すべきだ、いなくなったほうが社会のためになる」と障害者差別発言を繰り返し、実際の犯行に及んだ容疑者の非人道性と残虐性は極まっています。一方で措置入院後の退院で危険な人物を放置したことについての関係者への責任が問われ、大麻を使用していたこともふくめて容疑者の精神鑑定が実施されることになれば、一斉に非難の声が上がることでしょう。一つ間違えると精神障害者全体に対する差別と偏見が助長されることにならないかとても心配です。

 わたしは加害者に関する情報がどんどんと提供されるのに対して、命を奪われた19人をふくめて被害者の情報が著しく少ないことをとても異様に感じます。
 事件のあった障害者施設「津久井やまゆり園」には19歳から75歳の約150人の知的障害者が入所し、そのうちの約40人が60歳以上とみられ、全国の障害者施設と同様に重複障害を含む重度化と高齢化が進んでいます。
 死亡したのはいずれも同施設の入所者の男性9人、女性10人で、年齢は19歳から70歳。また、負傷したのは施設職員男女各1人を含む男性21人、女性5人と公表されています。
 被害者の名前について神奈川県警察は、「施設にはさまざまな障害を抱えた方が入所しており、被害者の家族が公表しないでほしいとの思いを持っている」として、公表しない方針を明らかにしました。
 それに対して障害当事者や障害者運動団体が疑問を感じ、「障害者差別」になりかねないと危惧しています。わたしも家族への配慮や人道上の配慮という理由そのものに、加害者が障害者を「社会の役に立たない、いてはいけない存在」としたのとはまたちがう「隠さなければいけない存在」とする日本社会の障害者への差別が根底にあると思います。
 理不尽にいのちを奪われた19人の無念さや、からくも命は助かったものの負傷された26人のひとたちの恐怖、そして負傷はしなかったものの悪意と憎悪による殺戮と暴力が自分たちに向けられたことにどれだけのショックを受けたのか、知る由もありません。
 被害にあった個人ひとりひとりの存在がおぼろげにもみえることすらなく、ただ数字でのみ語られるとしたら、容疑者の異常な犯行という特殊性の背後に潜む障害者差別から目を背けることになるのではないでしょうか。
 わたしは決して犯行が起きた障害者施設の運営の在り方や職員の資質などを問うつもりは全くありませんし、いくつかの証言にあるように地域とのかかわりをつくったり、散歩に出たりと閉鎖性を少しでも和らげる努力がなされていることも事実だと思います。
 しかしながらそれでもなお、誤解を恐れずに言えばわたしは「入所施設」という一般社会から隔離された密室であったからこそ、こんなに多くのいのちが1時間ぐらいの間にうばわれてしまったのだと思わずにはいられません。
 夜中の手薄な管理体制であったとしても、まず容疑者は5人の職員を結束バンドで手すりに拘束しました。その行為の間で職員が抵抗できなかったのかという疑問が出てもそれはその場にいなければわからないわけですが、少なくとも犯行の場がたくさんの利用者と数少ない職員という厳然と存在する階級制のもと、社会とは隔離された入所施設で人生を過ごす密室だからこそ犯行を可能にしたという一面を拭い去ることはできないのではないでしょうか。
 そこのところをさけて加害者情報ばかりが増殖し、時々匿名で犠牲になった障害者の家族のコメントが記事になるぐらいで、注目すべきは当事者の友人のコメントは皆無、負傷した障害者のコメントも取り上げられません。どれだけ彼女たち彼たちが社会的なつながりを絶たれているのかという実態を取材し、障害者の入所施設の存在や社会的な位置づけに切り込んだ報道は皆無と言っていいでしょう。すべては人道上や家族への配慮として、個々の障害者を「弱者」と一般化し、「弱者の存在を抹殺する非人道的で残虐な犯行」と片づけてしまうことで、容疑者に刷り込まれてしまった障害者差別を明らかにすることからマスコミもわたしたちの社会も逃げてしまったのだと思います。
 障害者の入所施設で人生を過ごす障害者は13万人といいます。一般に普通の社会生活を送れない重度とされる障害者の入所施設は親元にいられなくなったとか親が亡くなったという事情から必要とされ、障害者を保護するという役割の裏に、障害者を社会から隔離するという役割があることもまた事実だと思います。
 わたしはどんなに重度と言われる障害者でも「あってはならない存在」でないとするならば、極々せまい人間関係に閉じ込められず、友人との出会いや恋愛、他者とのかかわりの中から生まれる夢や希望が育てられる機会もまた確保されなければならないと考えます。
 わたしの少ない経験ですが、かつて豊能障害者労働センターに在職時に重度と言われる障害者の授産施設に行ったとき、そこで「働いている」障害者の方が私の仲間の障害者スタッフよりも働き者でびっくりしたことがあります。このように書くと豊能障害者労働センターの当時の障害者スタッフに失礼なのかもしれませんが、率直にその授産施設に通う障害者のどこが重度なのか、本当に理解できなかったのです。
 わかったことは、重度であるかないかは周りの関係によって決まるもので、どんなに重度と言われる障害者でも友人や友人のグループと、周りの地域との関係があれば一人暮らしやグループホームなどで、地域の市民との日常生活がはぐくまれる自立生活かそれに準ずる暮らしができるということです。
 容疑者に「死んだほうがいい」と思わせた重度障害者の存在は、わたしたちの社会の都合でつくりだされたもので、入所施設はその受け皿として存在していることを、この事件はあらためてわたしたちに突き付けたのだと思います。

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2016.07.28 Thu 凶悪な犯行を後押しした障害者差別の根深さ・障害者施設で起きた障害者殺傷事件

 7月26日未明に神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた障害者殺傷事件により亡くなられた19人の方々のご冥福をお祈りするとともに、負傷された方々が一日も早く回復されることを願っています。
 震災などの自然災害とは別に、オーム真理教による地下鉄サリン事件や池田小事件、秋葉原事件など数々の凶悪犯罪により、理不尽にもたくさんの命が奪われてきました。そのたびに哀悼の言葉が連ねられても被害者のご家族など関係者の方々のほんとうの悲しみが癒されるはずもなく、実のところ、言葉をなくしてしまうというのが正直な気持ちです。たったひとつのかけがえのない命をこれほどまでたやすく、なんの躊躇もなく奪ってしまう行為は決して許されるものではありません。
 後を絶たないこれらの犯罪はテロそのもので、日本におけるテロは政治的でも宗教的でもなく、これらの一連の残虐な犯罪としてつながっていて、これからも頻繁に起こるのではないかとても心配ですし、誰の身にもいつふりかかるかわからない恐怖に襲われます。
 それぞれの事件の背景や加害当事者の生い立ちや環境が違っていても、それらの一連の事件は政治や社会や歴史のメインストリームにかくれた、いわば路地裏の吹き溜まりからふつふつと生まれ、重なり、つながり育つ悪意と残虐にみちたエネルギーによる暗闇の歴史なのかもしれません。
 今回の事件の原因や社会的背景など捜査の進展段階で新しい事実が次々と出てくる途上にあり、テレビや新聞各社の報道も入り乱れている状況ですが、特筆すべきは今回の事件の容疑者の行動は無差別な殺傷ではなく、障害者だけにターゲットを絞った殺戮である点で、社会の底部に凄む障害者差別がもたらした「テロ」であることです。容疑者の身勝手で残虐な犯行を後押ししたともいえるこの社会の障害者差別の根深さをあらためて痛感せざるをえません。

 障害者施設「津久井やまゆり園」は定員160人の知的障害者の入所施設で、4月末時点で19歳から75歳の人たちが個室に1人か2人が入所し、約40人が60歳以上とみられ、おそらく全国の障害者施設と同様に重複障害を含む重度化と高齢化が進んでいます。
 福祉が進んだといわれる今も、障害を持つことで普通に学ぶことも普通に働くことも、人生を共に生きる友情や恋愛をはぐくむことから遠ざけられる障害者の絶望と悲しみ、そして経済的にも生活的にも親の元でしか暮らせない理不尽な現実があります。
 一般企業への就労を拒まれるほとんどの障害者は「福祉制度」の枠の中で、「就労支援継続事業」と称したかつての授産施設や作業所に通っても経済的に自立生活をおくれるだけの所得からは程遠く、経済的にも介護などの生活面でも親や家族にその基盤をゆだねざるを得ません。
 そして親や家族の事情で親元に住むことができなくなれば、生活保護などで所得を獲得し、介護保障を獲得して自立生活を送るか、入所施設に入るしかありません。自立生活を獲得するためには本人だけでなく、本人を支える仲間やグループとともに行政と過酷なたたかいを継続しなければなりませんし、そもそもそんな熾烈なたたかいを共にする仲間やグループと出会うことは並大抵の努力では困難なのが現実です。
 そんな事情から、たとえ本人が望まなくても入所施設に入らざるをえず、ひとによれば20年30年、あるいはそれ以上、人生の大半を施設の中だけで過ごすひともいる事でしょう。
 1970年代あたりから、障害があっても地域で生きる権利を求める当事者を中心とした運動とそれに呼応した福祉サービスの充実によって、たくさんの障害者が地域社会で暮らせるようになり、入所施設の数は大きく減少しただけでなく入所施設の運営も解放され、「津久井やまゆり園」においても地域の住民との交流を進める努力もなされていると聞きます。
 それでもなお、重複障害をともなう重度化と高齢化は本来あるべき個性やその人らしさが見えにくくなっていると想像できます。地域との交流があるとはいえ、入所施設である以上世間とは隔絶され、施設の中の狭い人間関係の中では一方的に福祉サービスを利用するだけの存在で、自分が他者に助けられるだけでなく自分も他者を助けるという、「助け合う」喜びや楽しさを分かち合える友情がどれだけ広がっているのかは知る由もありません。
 容疑者は2012年12月、この施設で非常勤職員として働き始めたといいます。採用試験の書類には「学生時代に障害者支援ボランティアや特別支援学校での実習を経験しており、福祉業界への転職を考えた」と書かれ、面接でも「明るくて意欲がある」と評価されたともいいます。わたしは箕面の豊能障害者労働センター在職時に新しいスタッフを迎え入れる時、「明るくて意欲がある」というアピールをする人は苦手で、どちらかというと一見「元気がない」人ばかりを迎え入れる提案をしてきました。
 それは「明るくて意欲がある」ひとはおおむね障害者を助けたい、指導したいと意欲を燃やす人が多いという経験則によるもので、わたしはむしろ「障害者に助けられる」ひとに心を惹かれたのでした。
 社会から孤立し、隔離された山の中などに静かにたたずむ入所施設のスタッフとなった容疑者は、おそらく当初は入所している障害者を見守り、助け、指導しようと意気込んでいたと思います。それはある意味、入所者にとっても喜ばしいことだったのかもしれませんが、その時点で見守り(監視)、助け(保護)、指導(訓練)の対象で、「社会の役に立たない人たち」という、日本社会が入所者をはじめとする障害者に向ける差別を背負ってしまっていたのだと思うのです。
 「手助けしなければならないひと」から「役に立たないひと」へ、そして「安楽死させるべきひと」にまで暴走してしまう悪意と人権侵害と暴力のエネルギーは、周りの人々の気づきをはるかに飛び越えた凶悪犯罪へと突き進んでしまったのですが、それを支えたのは社会の障害者差別であったと思います。
 今度の事件の反省から、外部からの侵入を防ぐセキュリティの強化が言われていますが、それは同時に入所者を社会的に隔離することになり、かえって今回の事件の底流にある障害者差別をより助長することになりかねないことを考慮しながらの対策を求めます。
 と同時に、わたしは入所施設が差別の構造から存在していることをあらためて確認し、障害者が当たり前の市民として地域社会でともに生きるための福祉サービスと雇用助成の充実に力を注ぎ、ひとりでも多くの障害者が地域社会に戻って来ることを願います。
 容疑者について考えると一連の事件が起きるたびに繰り返されるマスコミ報道のひとつに精神鑑定が焦点となり、心神喪失や心神耗弱により判断能力がないとされて罪が軽減されるようなことがあれば、被害者の遺族はもとより世論の厳しい糾弾にさらされることでしょう。そして、精神障害者に対する差別が深まり、監視や保護という名の隔離へと世間の要求が高まることも危惧されます。
 それはとても危険な動きだと思います。容疑者に対しては厳しく裁かれるべきであると思いますが、それとはまったく別に一般に精神障害といわれる人たちもまた社会の偏見と差別にさらされながら生きていて、社会からの排除の力におびえる毎日を送っているひとも少なくありません。排除の暴力に支配され、ひととひとが助け合うのではなく、疑いあい監視しあう社会はヒステリックで緊張の解けない社会であり、いつも「多数」の中にいなければ安心できない社会にわたしたち自身が身を置くことになります。
 国際問題となっているテロを防ぐには監視と武力だけではなく、さまざまな民族・人種を出自とする多様なひとびとが共存し、助け合うことが必要であるのとまったく同じように、障害者を一方的に「助けなければならないひと」としたり「何をするかわからないひと」とするのではなく、障害をふくめていろいろな個性を持ったひとびとが助け合える社会こそが、今回のような事件を防ぐ道なのではないでしょうか。

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2016.02.08 Mon 桂あさ吉落語会「はてなの茶碗」・桜の庄兵衛ギャラリーにて

桂あさ吉

 少し前になりますが1月31日、大阪府豊中市の「桜の庄兵衛ギャラリー」で「桂あさ吉落語会」があり、友人を誘い5人で行ってきました。
 「桜の庄兵衛」さんは昨年の9月に友人のビオラ奏者の誘いで行ったのがはじめてで、その後11月にピアノとフルートの演奏会があり、どちらもすばらしい演奏で大満足の催しでした。「桜の庄兵衛ギャラリー」は、江戸時代の庄屋さんから始まる立派なお屋敷で、阪神大震災の時に破損した客間を改修するにあたり、地域のコミュニティと文化の拠点にしようとギャラリーとされたと聞きます。
 それはさておき、今回は落語で、これもまたわたしがめったに見聞きしないジャンルで、そう思うとわたしは68歳という年になるというのに、落語だけでなく歌舞伎や能、狂言など世間的なたしなみとして身に着けてなければならない文化と無縁の人生を送ってきたことを後悔しています。
 落語については、わたしが働いていた豊能障害者労働センターの若いスタッフから立川談志や円生、小さんなどの名人の落語を聴きなさいと、よく言われたことを思い出します。
 彼の強いアドバイスも談志や小さんのビデオをほんの数回見たぐらいしか効果がなかったのですが、それでも最近はもう少し落語に親しむこともできるようになり、テレビのアーカイブで談志や小さんを見たり、大阪天満宮の「繁昌亭」にも他人に誘われてですが一度だけ行ったことがあります。そんなわけで、落語を深く親しんできたわけではないわたしですが、それでも落語の面白さが少しわかるようになったかも知れません。
 さて、今回の落語会は1993年に桂米朝門下の桂吉朝の弟子となってすでに22年になる桂あさ吉で、古典落語の他、創作落語、英語落語も手がけ、桂かい枝らとともに、アメリカ、オーストラリア、シンガポールなどでの海外公演も多数で、笛、三味線、日本舞踊を得意とされているようです。
 この日は「はてなの茶碗」と「かぜうどん」と、2つの演目を演じました。ゲストには桂吉弥の弟子・桂弥太郎が「動物園」を演じました。
  「はてな茶碗」のお話は大阪出身の油屋の男が清水の茶屋で休憩していると、有名な茶道具屋の金兵衛、通称「茶金」が、茶屋の茶碗のひとつをこねくり回しながら、しきりに「はてな?」と首をかしげる。
 茶金が帰った後、あの茶金が注目するとはさぞかし値打ちのあるものに違いないと、この茶碗を茶店の主人からすったもんだの末二両で買った油屋。それを持ってさっそく茶金の店へ。番頭に「五百両、いや千両の値打ちがある!」と息巻くも、どう見てもただの茶碗、「うちでは取り扱えない」と埒が明かない。
 そこに現れた主の茶金に事の次第を聞いてみると、ヒビも割れもないのに、どこからともなく水が漏れるので、「はてな」と首をかしげていただけであった。意気消沈し、自らの身の上を茶金に語る油屋。しかしそこは通人の茶金。「二両で自分の名前を買ってもらったようなもの」と、その茶碗を油屋から三両で購入することにし、この金を持って親元に帰って孝行するように諭す。
 この話が評判となり、関白・鷹司公によって「清水の 音羽の滝の 音してや 茶碗もひびに もりの下露」という歌が詠まれる。さらには時の帝によって「はてな」の箱書きが加わる。立派な肩書きが付いた茶碗の噂が鴻池家の耳に入り、とうとう千両で売れてしまった。茶金は油屋を呼び出し、千両の半分の五百両を渡す。大喜びの油屋。
 後日、再び茶金の元を訪れ、「十万八千両の大儲け!」と叫ぶ油屋。茶金が問い質すと、「今度は水瓶の漏るのを持って来ました。」、という落ちで終わります。
 この話に限らず、落語は江戸時代の庶民の欲望や人情、思い違い、人の愚かさが生み出す心温まる話など、単純に笑えてなおかつ現代に通じる教訓まで与えてくれます。そして、人間そんなにカリカリしないでもだいじょうぶと生きる勇気すら与えてくれる落語は、時には心を硬くして生きることを強いられる現代人に先人がプレゼントしてくれた「癒し薬」のように思えてきます。
 最後の落ちまで物語のあらすじを紹介しても、落語の場合はネタバレといわれないのがありがたいですが、それだけ物語の筋がわかっていてもそれぞれの噺家のその時々の話芸のみで成り立つ落語は、クラシックと同じように究極のカバーによる究極のオリジナルを追求する芸術なんだと思います。
 桂あさ吉の落語を聴いたのははじめてでしたが、落語家にもっとも必要とされるのではないかと思われる(失礼かも知れないですが)「脱力感」があり、それでいてメリハリのある落語だったように思いました。それでもきっとまだまだこれから10年20年と話芸に磨きをかける途上の「修行の身」として精進の毎日なのでしょう。
 めったに専門の寄席や演芸場に行かないわたしには、「桜の庄兵衛ギャラリー」で聴く落語はとても身近で入りやすいものの、反対に日常性から異空間に誘い込むためには寄席以上の力量が問われるのではないかと思います。それがちょっとした緊張感をもたらしていて、とても楽しく大笑いできた落語でした。

 桂あさ吉の落語を聴いた後に初心者なりに落語の面白さを考えてみると、なんといっても一人芸で、それも大抵の場合演者の落語家の着物衣装も手ぬぐい、扇子といった小物も座布団もすべて同じでありながらいろいろな演目を演じることです。同じ一人でも一人芝居は背景が用意されていることが多いですし、何人もの登場人物を演じ分けるところは同じですが、落語のように物語を語るところがほとんどありません。浪曲の場合は三味線を伴奏にして話を語り、歌が入りますし、一番よく似ているように思う講談の場合も物語を語る要素が多いと思います。
そう考えると、落語はたった一人の話芸だけで登場人物同士の会話と語りを絶妙に組み合わせ、聴く者を異空間に招き入れる総合芸術の極みと言えるでしょう。
 つぎに、声質とセリフの抑揚やスピードなどの話の表現力で登場人物を語り分けるだけでなく、有名なところでは扇子を箸に見立ててうどんやそばを食べるしぐさなど、芝居とはまったくちがう身体表現に感服します。
 さらには、ここが一番難度の高いところだと思うのですが、いわゆる「間」がその物語をもっとも引き立たせる正念場であることでしょう。しゃべらないことはとても不安なことだと思うのですが、「間」を充分にとるだけでなく登場人物の感情をどれだけ豊かに表現できるかで、登場人物の次の言葉が生き生きしてきて、物語が豊かな肉付けになって行きます。
 そして、感心するのが話の前ふりの「まくら」と、最後の「落ち」です。
出囃子とともに現れ高座にすわると、演目に入る前の「まくら」でお客さんをひきつけると同時に今日のお客さんの雰囲気をさぐります。ここにも名人と呼ばれるひとたちの「まくら」が伝説となっていますが、虚構の橋をお客さんに渡らせ、異空間に迷い込ませるための仕掛けというわけです。落語の巧妙なところは日常の言葉で異空間に誘い込まれるので、わたしたちはいつのまにか物語の中に入りこんでしまいます。
  「落ち」がまた絶妙なしかけになっていて、落語という言葉そのもののように、しゃれたセリフで話を終わらせるというある種の諧謔性に満ちた「落ち」は、異空間からお客さんを日常に戻す役割を果たすとともに、夢から醒めたように「落ち」が記憶にのこるというわけです。
 こんなことは落語通でなくてもわかりきったことと、読者からきっとお叱りを受けることでしょう。

 この日、落語とは別にびっくりしたのは桂あさ吉が吹いた笛でした。直接口をつけて吹く笛はとても難しく、最初はまともに音が出ないのではないかと思いますが、彼が吹く笛はどこか重い扉を突き抜けるような切迫感とともに、それを維持したままでメロディを奏で、リズムを刻むすばらしい演奏でした。どこかでこんな緊張感のある音を聴いたことがあると思っていたのですが、坂田明の平家物語でした。
 その時の話も面白くて、西洋の音楽はピアノに代表される絶対音階ですが、和楽はどんどん変調(?)していき、時には一回の演奏で一つ高い音の笛に変えることもあるそうです。また、歌が入る場合、歌い手の咽喉がだんだん温まってきて声の高さが上がり、伴奏もそれに合わせて行くそうです。永六輔さんが話していたように、明治時代に絶対音階の西洋音楽をむりやり導入した音楽教育は、日本の音楽の宝物まで捨ててしまったのかもしれません。
 
 今回も「桜の庄兵衛」さんは、わたしに未知の体験を用意してくれました。
 わたしが世間知らずで無粋な老人であるだけですが、「桜の庄兵衛」さんが企画される催しはどれも初体験に近く、今日はわたしをどこの荒野に連れて行ってくれるのか、その荒野にたたずむプラットホームで、どんな出会いが用意されているのか、期待が膨らみ、胸が高鳴ります。次の催しの日は能勢の方で沖縄の写真家・山城博明の写真展の日と重なり、参加できなくて残念ですが、その次の催しにはまた友人と一緒に参加しようと思います。

 ブログのアクセスが25万回を越えました。島津亜矢さんが紅白に出たことで昨年末から急激に増えました。島津亜矢さんと、「亜矢姫倶楽部」の方々をはじめ島津亜矢ファンのみなさんのおかげです。ありがとうございます。
 これからも島津亜矢さんについては書き続けようと思っていますので、よろしくお願いします。ちなみに、島津亜矢さんの記事は196本になり、もう少しで200本になります。こんなに書き続けられとは思っていませんでした。

桂弥太郎
桂弥太郎さんは2009年が初舞台とあって、まだ噺家としては日が浅く、初々しさがあるさわやかな感じでした。
演目の「動物園」は朝が弱く、力仕事が苦手で、口下手なため、仕事勤めが続かない男が「うろうろするだけで一万円もらえる」という言葉に惹かれて仕事に行った先が移動動物園で、虎の皮を渡されて虎に成りすます話で、「落ち」は、虎の檻の中にライオンが放たれて、男はパニックに陥りますが、ライオンはうなり声を上げながら男の耳元に近づいて、「心配するな、わしも1万円で雇われたんや」。
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