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2017.07.04 Tue たった一粒の涙からはじまる革命、豊能障害者労働センター35年と河野秀忠さん

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 7月1日、豊能障害者労働センターの35周年パーティーに参加しました。
 豊能障害者労働センターの35年という長い時の間で、わたしは1987年から2003年までの16年間、活動を共にしました。110人をこえる参加者の方々の中には懐かしい顔が半分、知らない顔が半分と、わたしが在職した16年と、その活動から去った14年という年月につりあうようでした。

シュプレヒコールの波通り過ぎていく 変わらない夢を流れに求めて
時の流れを止めて変わらない夢を 見たがる者たちと戦うため

 と歌う中島みゆきの名曲「世情」の歌詞さながらに、豊能障害者労働センターは時の荒野を疾走してきました。
 社会を形成・支配する権力のみならず、それに抵抗する人権運動や平和運動にもぬぐいがたく隠れている「時の流れを止めて変わらない夢を見たがる」巨大な力にあらがい、アナーキーな純情という変わらない夢を(時代の)流れに求めて35年。
 世界に一つしかないかけがえのない個性を尊敬し、助け合い、補い合い、どこまでも自由に悪戦苦闘しつづける豊能障害者労働センターはこれからも箕面のみならず、日本社会、さらには世界の声なき叫びが流す無数の涙をきらめく星座に滲ませ、輝き続けることでしょう。

 わたしが豊能障害者労働センターに足を踏み入れたのは、1982年の春でした。箕面市桜井の路地裏の突き当り、その頃で築20年の民家に入ると、現代表の小泉祥一さんと、かつて箕面の共に学ぶ教育運動の先頭にいた梶敏之さんという脳性麻痺者2人と、今は箕面市障害者の生活と労働推進協議会の理事長・武藤芳和さん、被災障害者支援ゆめ風基金事務局長・八幡隆司さんと、あとひとり女性スタッフの5人が粉せっけんを詰めていました。
 35歳のその時まで世の中の理不尽な出来事に憤り、いろいろな市民運動に参加しようと思っても、子どもの頃からの対人恐怖症で吃音のわたしはひとと話すことが苦手で打ち解けられませんでした。
 もうひとつ正直に言えばどんな小さな組織にも権力が存在し、その権力に依存することで運動が成り立っている姿を目の当たりにすることが多く、なじめないでいたのでした。
 そんなわたしがもぐもぐと自分の名前もろくに言えないでいると、小泉さんがブレイクダンスのように体を捻じ曲げ、足を挙げながら、「どっ…、どうも」と小泉語で話しかけてくれました。その瞬間、どもりで苦しみ続けた35年間の桎梏から解き放たれた思いでした。
 たったひとつの言葉が言えないためにたくさんの言葉を乱発し、言葉に翻弄されてきたわたしはこの時、言葉は口からだけ発せられるものではなく、伝えたいと思う気持ちと分かり合いたいと願う純情な心と身体によって生まれるものなのだと教えてもらいました。
 ちなみに小泉語は今も健在で、今回のパーティーでも絶妙なタイミングで間を入れる挨拶を聴きながら、「ああ、この人もまたコミュニケーションの達人だった」とあらためて感じました。
 静かでゆっくりした時間が流れていたあの頃から豊能障害者労働センターは大きく進化しました。事業の広がりもスタッフの人数もさることながら、一般企業への就労を拒まれる障害者の所得を保障するためにみんなで給料を分け合う活動を箕面市独自の障害者雇用施策にまで普遍化し、制度の成果を箕面市が国に提案するまでに育て上げた実績は高く評価されるべきだと思います。
 設立当初は年間120万円の運営資金をつくるために毎日曜日、大阪梅田でのカンパ活動で補てんしていたものが、今では地域事業と通信販売で年間1億円を売り上げるまでなっています。
 そして労働センターのすばらしいところは、これだけの進化を遂げても設立当初の理念が消えてしまうどころか、運営のありようが全く変わらない所にあります。

1.障がいのあるひともないひとも共に働き、得た収益をみんなで分け合うこと。
2.すべてのスタッフは対等で、利用者と職員というように分けないこと。
3.障がいのあるないにかかわらず、誰かの問題をそのひと抜きで決めないこと。
4.月に一度の運営会議で活動方針を決め、会議には障害者を含む全員が参加できること。

 豊能障害者労働センターの根幹をなすこれらの約束は、センターの設立以前に全国の障害者解放運動の一端を担い、けん引してきた前代表の河野秀忠さんなくしてはできませんでした。
 河野さんはさまざまな人権・平和運動や労働組合運動をしてきた経験から、豊能障害者労働センターをほんとうに民主的な運営形態にしようと夢見たのだと思います。建前と本音を使い分けず、得たお金はみんなで分けるという「財布はひとつ」も、利用者と職員という分け方をしないことも、会議には全員が参加でき、全員でセンターを担うという考えも長い間理想と言われながらも、豊能障害者労働センターの障害者スタッフがけん引する形で河野さんの夢を実現させたのでした。
 昔話だけれど、はじめてワープロを手に入れた時、小泉さんが担当したレジメの表題が「出城」となっていて、「これなーに」と聞くと「レジメ」の入力間違いとわかり大笑いしたのが昨日のようです。
 こんな笑い話をつづけながら、豊能障害者労働センターの障害者スタッフは自分の仕事を開拓し、獲得していきました。今ではお店の切り盛りから機関紙「積木」の印刷・発送まで障害者スタッフが担い、河野さんが夢見た新しい組織運営のありようが現実のものになっています。
 あの頃、月末になると河野秀忠さんがやってきて運営会議が始まるのですが、総勢6人に運営委員2、3人が参加し、障害者スタッフの生活状況から粉せっけんの販売状況、そしていつも真っ赤っ赤の会計報告と半月遅れの給料遅配など、傍から見れば楽しくないはずのこの会議が当時のわたしたちの楽しみのひとつでした。
 というのも、箕面の町からほとんど出たこともなく、月に一度やって来る河野さんが全国の障害者運動の話や、1970年代から始まる障害者解放運動の歴史、そして時には60年安保、70年安保闘争、労働組合運動からマルクス、レーニン、トロツキーのことを、まるで新作落語のような語り口で物語ってくれるのを楽しみにしていたのでした。運営委員を名乗って押しかけてたわたしは、ドイツの革命家・ローザ・ルクセンブルクを河野さんから教えてもらいました。
 どんどん仲間の団体が福祉法人やNPO法人になり、資金繰りや設備投資資金の調達が楽になっていく中でも、「豊能障害者労働センターは何者でもない集団でありたい」と話した河野さんの夢の中では、労働センターは「たった一粒の涙からはじまる革命」でした。ちょうど戦艦ポチョムキンの「たった一杯のスープ」のように…。

 その河野秀忠さんが今、病と闘っています。河野さんを友人とも恩人とも思うたくさんのひとびとの中に豊能障害者労働センターもわたしもいます。また箕面市人権宣言の採択をはじめ、河野さんは箕面市の人権・福祉施策に少なからず役割を果たしたといっても過言ではないでしょう。
 わたしたちの元に帰って来れる日はまだまだ遠いかもしれませんが、必ずや帰って来てくれるものと信じ、願っています。その時が来たら久しぶり酒を飲みかわしながら、ゲバラの話などを聞かせてください。

もし私たちが空想家のようだといわれるならば、
救いがたい理想主義者だといわれるならば、
できもしないことを考えているといわれるならば、
何千回でも答えよう。
「その通りだ」と。(チェ・ゲバラ)

中島みゆき「世情」
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2016.10.10 Mon 秋の天神さんの風物詩 「天神さんの古本まつり」 11日最終日

2016年天神さんの古本まつり

 昨日は「天神さんの古本まつり」に行ってきました。
 この催しは大阪古書研究会が大阪の古書文化の聖地といえる大阪天満宮の協力を得て1998年から毎年開いているもので、豊能障害者労働センターは最初から参加させてもらっています。
 豊能障害者労働センターのリサイクル事業は1995年の阪神淡路大震災の救援バザーをきっかけに大きな事業になりました。  箕面市内はもとより、いまでは付近の町からもバザー用品の回収のお声がかかり、それを4つのお店と移動バザーで販売して障害者の所得をつくりだしているだけでなく、それらのお店はすべて障害者スタッフが切り盛りしていて、働く場をつくりだす大切な事業になりました。
 古本の回収も多いのですが、回収の手間の割にほとんど商売にならない状態でした。また、回収した本の中には値打のありそうな本もあり、それらは売らないまま倉庫に眠っていました。
 1998年のことでした。当時のスタッフのひとりが大阪かっぱ横丁の古本屋さんに値打のありそうな本を持っていきました。そのお店の店主・Sさんに豊能障害者労働センターの活動を説明すると好意的に話を聞いて下さり、ストックしているたくさんの本を高い値段で買って下さいました。
 それからしばらくして再度本を買い取っていただこうと連絡すると、Sさんは「これらの本を私が引き取ってもいいのですが、今度わたしたちが開く古本まつりに出店して直接売ったらどうですか?特別出店で費用が掛からないように仲間に協力をお願いします」と言ってくださいました。思いがけないお話をいただき、大阪古書研究会のみなさんに感謝しつつ、このお祭りに参加させていただくことになりました。
 今でこそ古本屋さんと変わらない店構えになりましたが、当初は本棚もろくになく、あり合わせの棚をつくり、いよいよ初日を迎えました。
 その日はあいにくの雨でしたが、たくさんのお客さんであふれました。わたしは今でもその日の雨の音と、お客さんたちが神社の境内の砂地を踏むひたひたという音を覚えています。音楽などはいっさいかからないのですが、ただひたすら雨音と足音が奏でるハーモニーはどんなBGMよりも素敵な音楽でした。それはこのおまつりにためにやってきた無数の本たちとお客さんたちとの出会いの音楽でした。
 あるひとから別れた本がまた別のひとと出会うことができる古本は、新刊よりもはげしくその本を必要とするひとを待ちつづけているのでしょう。ひともまた、誰かから手渡されたその本が自分の人生の道しるべになる、そんな切実な願いをかなえてくれる本を求めて、このおまつりに来るのだと思います。
 それから毎年、豊能障害者労働センターはこのおまつりに参加させていただき、今ではわたしもふくめていきさつを知っている当初のスタッフはほとんどいないのに、若いスタッフが古本屋さんの仲間になっていて、愛されていることがとてもうれしいです。また、このおまつりがきっかけで、豊能障害者労働センターは箕面で独自に古本市を毎年2回開いています。
 
 天神さんの古本まつりも、今年で19回になりました。時の過ぎて行くのはほんとうに早いものですが、今も変わらずにぎわうこのおまつりは、秋の天神さんの風物詩になっています。
 そして、いまもまた、お客さんの足音がひたひたと境内に静かに響いています。

 天神さんの古本まつりは11日(火)まで開かれています。
 今日は夕方5時まで、最終日の11日は4時までになっています。
 みなさんのご来場を心よりお待ちしています。

2016年天神さんの古本まつり


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2016.04.27 Wed 自由になるための自由、自由になろうとする自由・豊能障害者労働センターの慰安旅行

豊能障害者労働センター旅行

 4月23日、24日と、豊能障害者労働センターの旅行に参加させてもらいました。
 豊能障害者労働センターの旅行はまさしく「ザ・慰安旅行」の極め付けのような旅行で、なんといっても総勢41人の中に世間でいうところの「障害者」が何人いるかということなどどうでもよくて、障害者スタッフのテンションの高さは生半可ではなく、そのひとりひとりのテンションの高さが共鳴したりぶつかったりして総体のテンションの異様な高さを生み出しています。実際のところ、旅程そのものは一泊二日であまり冒険をするわけにはいかない旅行なんですが、この旅行を思いっきり楽しみにして日が近づくにつれてずいぶん入れこんできた障害者スタッフのテンションが旅行当日に爆発するという感じなんです。
 今回は岡山県赤磐市の農業公園ドイツの森から和気町の和気鵜飼谷温泉、あくる日にイチゴ狩りを楽しみ、昼食後岐路に着くという旅程でした。
 バスの中、ドイツの森での見物や体験、旅館に着いてからのお風呂、食事とカラオケタイム、その後の二次会、あくる日のイチゴ狩りと、そんなにアトラクションがあるわけではないのですが、とにかくみんな楽しそうでワイワイガヤガヤ、「自分にやさしく、他人にきびしく」障害者のひとたちが旅行を引っ張って行きます。
 寝る時の部屋割りと別に昼間の行動を共にする6チームがあり、「笑うようなチーム」、「楽しいチーム」、「世界の夢チーム」、「おどるチーム」、「酔っているチーム」などユニークな名前のチームに分かれて行動するのですが、わたしは「にじチーム」に入れてもらいました。
 ドイツの森につくとそれぞれのチームに分かれましたが、わたしたちのチームはTさんがワインを飲みたいと言い出し、早速ボトル1本を四人でわけて飲みました。チームは7人いて、他の3人は気の毒にもわたしたちが飲み終わるまで待たせる結果になりました。
 Tさんとは以前にあったことがありましたが、今回の旅行で親しくなり、彼女はフェイスブックの達人みたいで、初心者のわたしは大変勉強になりました。
 また体験コースとして万華鏡をつくりました。店員さんの説明では簡単で10分ほどでできるとなっていたのですが、実際にやり始めると不器用なわたしたちに急きょ3人の店員さんがつきっきりで指導してくれました。ひとりは外側の表面に張り付ける色紙に大量の接着剤をつけ、ひとりは何もせず、しかたなく店員さんが説明しながら作るのを「次はどうするの?」と急かしました。わたしが「最強の不器用チームでしょ」と言うと、「そんなことないですよ」とやさしい声と裏腹に顔の表情が硬いので思わず笑ってしまいました。
 旅館に着くとそれぞれ助け合いながら風呂に入り、食事の後のカラオケタイムは障害者の独壇場です。KOさんの「愛人」と、KAさんの「与作」、Yさんの「モーニング」(岸田智史)は今も健在の中、びっくりするのが若い障害者のパフォーマンスです。
 今回の旅行ではMさんがすごかった。Mさんはお父さんが箕面市役所に勤めていて、毎年のバザーやイベント、カレンダーの販売などで協力してくれる豊能障害者労働センターの良き理解者のひとりです。彼女がまだ赤ちゃんだった時から知っていましたので、彼女が労働センターのスタッフになったと聞いた時、世代の移り変わりとともに世代をこえて伝わって行く労働センターの活動を誇らしく思ったものです。
 彼女は「ダウン症」で、やはりダウン症のひとは芸術の才能に優れているひとが多く、彼女も歌といいダンスといい目をみはるものでした。
 彼女たち彼たちの歌を聴いているとカラオケ文化もまんざら悪くはないなと思ったのと同時に、やはり歌は歌いたい人が歌い、その歌を受け止める心に流れてこそ歌になることを教えてもらいました。まさしく島津亜矢が歌う阿久悠作詞の「思い出よありがとう」のように、「歌よりも歌らしく 心を揺さぶる」とは、このことなのだと思います。
 楽しい宴も終わり風呂に入り、二次会部屋で少し時間をつぶしてから寝る部屋に戻りました。3人で寝たのですが、これがまたわたしもふくめて変な3人組で、Wさんはなぜかひとりで現地に来て合流し、食事の時に豪勢なオードブルを振る舞い、あくる日またホテルからタクシーで去って行くという人物。
 もうひとりのHさんは小柄な青年で、熊本地震が一面に掲載されている新聞を片手に、いつも一生懸命に言葉を繰り返すのですが、余程の付き合いがないと何のことを言ってるのかよくわからないのです。ただ、今回少し長く一緒にいて、彼にとってのいろいろな事件を伝えたいと必死に言葉を繰り返しているのだと知りました。
 Hさんに限らず彼女たち彼たちはコミュニケーションの達人たちで、究極のコミュニケーションは言葉だけにあるのではなく、必死に伝えたいと思う心にあるのでしょう。そして、伝えたい心が依って立つところは相手や仲間に対する底抜けの信頼にあり、自分が何者かをさらけ出し、他者の存在を全面的に受け入れることにあるのです。
 実際、今回の旅行でも何回か口喧嘩がありましたが誰も止めに入らず、結局のところは当事者同士の和解への努力にゆだねたり、自己主張が行き過ぎると結構激しく障害者同士でバッシングし、本人がそれを受け入れるといった自浄作用がここにはあります。豊能障害者労働センターのひとたちの猥雑さ、テンションの高さはそこからくるのであり、それは何者によっても整然と抑え込まれたりしない、いやできない自由そのものなのだと思います。
 いま安保法制への異議申し立てや「責任を伴わない自由」をだめだとする自民党の憲法草案への異議申し立てをする時、民主主義にとって最も大切なものは多数決などではもちろんなく、たったひとりの人間の自由であり、だからこそ他者の自由もまた大切なものなのだと、豊能障害者労働センターの障害者の言葉と行動から学ばせてもらった旅行でした。

「どんなに自由をうばわれても人間には最後にひとつだけ自由がのこる。それは自由になろうとする自由です。」(竹中労)

「自由になる自由がある 立ち尽くす 見送りびとの影」
(宇多田ヒカル「真夏の通り雨」)

宇多田ヒカル「真夏の通り雨」
宇多田ヒカルの復帰作はこの曲とNHK朝のドラマの主題曲「花束を君に」は、どちらもとてもはっとする言葉メロデイが刺激的な楽曲です。このひとはJポップといえるのかどうかわからないですが、この2曲を聞いていると、このひとに島津亜矢の曲をつくってほしいなとつくづく思います。島津亜矢を日本のボーカリストとして正しく評価されるきっかけになるのではないかと思うからです。

竹中労語る 天安門事件
この映像は1988年10月11日から1992年10月16日まで放送されたテレビ朝日の深夜帯番組にレギュラー出演していた竹中労の発言記録です。この番組は一週間にあったさまざまな事件や政治的な問題を出席者が自分の意見を言う番組で、東京地域のみの放送だったらしいです。わたしはこんな番組があったことも全く知らず、今回竹中労についてネット検索して発見しました。かなりの数の記録があり、今聴けば竹中労の遺言のように聴こえます。このひとはほんとうに信頼に値するジャーナリストであったとつくつぐ思いました。

豊能障害者労働センター旅行

豊能障害者労働センター旅行

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2016.01.17 Sun 阪神淡路大震災と豊能障害者労働センターと村上春樹

 阪神淡路大震災から21年目の1月17日を迎えました。
 その日の朝、経験したことのない大きな衝撃に目を覚ましたものの、わたしは揺れる天井をただただ眺めるだけしかできませんでした。
 当時わたしは豊能障害者労働センターで働いていて、家も箕面市の近くのかなり古い平屋の家を借りて暮らしていました。娘は東京で働いていて、息子は大学生で同居していました。そのうち息子がどうなったか心配になって名前を呼ぶと、「テーブルの下にいるで。ガスの栓も閉めたから」という返事に、おろおろしているぼくとちがい、しっかりしてるなと感心しました。
 そのうちに、事務所で仮住まいをしていた脳性マヒのKさんの介護者から、「食器棚が倒れた程度で大丈夫ですが、職場の学校に行かなければなりませんので後はよろしくお願いします」と電話が入りました。「わかりました。ご苦労様でした。すぐに事務所に向かいます」といったものの、余震がはげしくふとんに潜り込んでしまいました。「あんた、なにしてんねん、早よ行かなあかんやろ」と妻に叱咤激励され、ようやく事務所に行きました。
 事務所に着くと、Kさんが心配そうな顔で待っていました。「おそなってごめんな」といいながら靴を脱ぐまもなく、プレハブの事務所は余震の揺れとともに、窓ガラスやかべは「ガタガタ、バリバリ」と奇妙な叫び声を上げ、そのたびに2人で「ワオー、ワオー」と叫びながら抱き合いました。
 事務所の中にいると余計に恐怖心がつのるばかりなので、朝ごはんを食べに出かけました。途中、箕面市役所の窓ガラスがこわれ、散乱していました。 
 マクドナルドを出て事務所に戻ると、センターのみんなが少しずつ集まってきました。みんな青ざめた顔をしていました。事務所の周りの路地といっていい道路がすべて車で一杯になっていたし、電話ボックスには長蛇の列ができていました。被災地のまわりの街の風景は、おそらくどこも同じだったことでしょう。家族は、親戚は、友人は、恋人は…、安否を知りたくて日本中、場合によっては世界の果てからも被災地へと無数の心が急いでいたと思います。
テレビは信じられない崩壊の風景を映しはじめました。そのテレビの外側で、6400を越える死のカウントがはじまっていたのでした。
 すでに多くのひとたちがリュックを背負い、被災地へと歩きはじめていました。
わたしたちもまた仕事どころではありませんでした。けれどもわたしたちは箕面を離れるわけには行きませんでした。特別の朝だからこそ、豊能障害者労働センターという日常活動をはじめなければいけないと思いました。と同時にまだ何の情報もないけれどわたしたちに想像できない悲惨で困難な状況になっているはずの被災地を思うと、胸が痛くなりました。やっぱりいつもと同じような日常活動なんかできるはずもなかったのでした。
 その時、一枚のFAXが届きました。何度も何度もFAXの機械を通ってきたために、文字はつぶれてしまって細かいところはわからないけれど、そこにはけっしてテレビではわからなかった、被災地の障害者の安否と被害のひどさが伝わってきました。
 「救援バザーをしよう」と、誰かが言いました。実はわたしたちは毎年、年の初めから約三ヶ月かけて春の大きなバザーを開いてきました。「自分たちの運営がどうとか言ってる状況じゃない。とにかく、春のバザーの売上はすべて救援金にしよう。それならこの場所から離れないで救援活動に参加できる。」
 そして大阪を中心にした当時の全国的な救援組織「障害者救援本部」が結成され、わたしたちもその活動に参加することになりました。
 わたしたちの救援活動は、わたしたちが一方的に誰かを助けるということではありませんでした。かろうじて被害をまぬがれたわたしたちの方こそ終わらない余震におびえ、「次は自分たちかも知れない」という恐怖におちいっていました。死のふちをくぐりぬけてきた被災地の障害者のメッセージは明確でした。一瞬のうちに無数の命がうばわれ、無数の家と無数の生活がこわれてしまった。だからこそ被災地の復興は、共に生きる社会への再生でなければならないのだと。救援活動を通してわたしたち自身の街のあり方、社会のあり方を考えました。
 それからの約二ヶ月の間、毎朝わたしたちのプレハブの事務所は全国から届けられる救援物資とバザー用品で一杯になりました。全国の障害者運動団体からは救援本部のよびかけに応えて救援物資が届けられ、豊能障害者労働センターの機関紙「積木」の読者からはバザー用品をいただきました。
 公的な機関の場合は送料がいらないが、自主的な救援活動の場合は送料がかかる。それでも1人の人がダンボール箱三つも四つも送ってくださり、その中には救援金とともに心のこもった手紙が添えられていました。中でもおどろいたのは、被災地の方々から多くのバザー用品が送られてきたことでした。差出住所が避難所だったこともありました。「地震以後、朝のあいさつは『あんた生きとったか?』です。手をにぎりあって、無事を喜んでいます。あの朝、使わんものが棚からいっぱい落ちてきました。もういのちだけでけっこうや。ここではバザーもまだでけへんやろから、そちらで金に換えてここの障害者のために使うてな。わたしらがこんなに困ってるんやから、障害者は大変やと思う。」みんなで読んで、泣きました。毎朝こんな言葉をいっぱいもらって勇気をもらい、わたしたちは救援物資を被災地の障害者に届ける一方で、バザー用品の仕分けをつづけました、いつのまにか、ぼくたちの回りにはいつも二、三十人のボランティアの方々が来てくださり、バザー用品の置き場所は箕面市が事務所の裏にあった古いプレハブを提供してくれました。

 「売上げなんぼあると思う?」
知的障害といわれる仲間のHさんがわたしに話しかけました。「どうかなぁ」と、ぼんやり答えるぼくに、「1億円あると思うねん。」とHさんは目を真っ赤にして言いました。あの時、彼の1億円はきっと、障害者をふくむ被災地のすべての人々に届けたいというありったけの気持ちだったのだろう。過酷な状況とたたかっている被災地の障害者とつながろうとする気持ちが、1億円のバザーを夢見たのだと思います。その1億円は救援本部全体の救援金総額として現実のものになったのでした。
 阪神淡路大震災から21年、東日本大震災と同時多発テロ、そして戦争と、わたしたちも世界もこの地球も悲鳴を絶やすことがありません。そして多くの命、幼い命までもが傷つき、息絶えていく過酷な現実がこの世界を覆っています。
 けれどもその一方で、この21年は絶望を語るだけではなかったと信じたい心があります。いろいろな民族、文化、個性が助け合い、共に生きる勇気を育てる社会。武器を持たなければ食べ物を得られない悲惨から子どもたちを解放する平和な社会。世界のどこで生まれても「しあわせになる権利」を子どもたちに手渡せる社会。理想といわれても夢といわれても、そんな夢みる社会への希望をたがやす世界の人々のたゆまぬ努力もまた、この21年につめこまれているはずなのだと…。
 わたしたちはあの寒い朝以後、2つの時を生きているのだと思います。止まってしまった時と激しく刻み始めた21年の時。2つの時がひとつになるのには、もっと多くの時を必要としているのだと思います。

 村上春樹の六編の連作短編小説「神の子どもたちはみな踊る」のひとつに「アイロンのある風景」という小説があります。家出して海岸の街に住み着いた若い女と、大学を卒業する見込みも意志もなくバンドをつづける同居人の若い男、妻と子どもを阪神地区に残して漂流した果てにたどり着いた海岸で焚き火をし続ける中年の画家。
 冬の夜、孤独という言葉では語れない大きな何かをそこなった心は、死の予感と生きることの空虚感に包まれています。焚き火は、それをしつづけなければ生きることもつながることもできない切実な儀式となっています。「火が消えるまで眠ろう。目がさめたら死のう」という会話は、反対に焚き火が終わればいや応なく寒さで目をさまし、この現実を引き受けてそれぞれが生きていくしかないという静かな決意にも聞こえます。
 阪神大震災の時、公園や学校などの避難所ではどこでも焚き火をしていました。6400人以上のかけがえのないいのちがうばわれ、あたり一面が瓦礫の荒野となってしまったその地で凍てつく冬の夜を照らす焚き火は、体をあたためることや灯りをとることや炊き出しをするためだけに必要だったのではありません。多くの証言が語るように焚き火は被災地のひとびとの心をあたため、癒してくれたのだと思います。
 余震の恐怖、肉親や恋人、友人を失った無念、生き残ったがゆえにおそいかかる死の予感…。廃材といっしょに何度も何度もそれらをドラム缶の中に投げ込み、ひとびとは焚き火をしつづけたのでした。それは6400を超えるたましいを見送る儀式でもありましたが、それと同時に生き残ったひとびとが助け合って生きる以外に道はないことを教えてくれる、だれもが必要とした道しるべでもあったのだと思います。

やがて悲しみは希望にかわり 新しい星が生まれます
生まれたての星はまだ 光ることができません
だから星は焚き火をして 光る練習をするのです
今夜もほら、あんなに赤く 星がにじんでいます

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2015.05.31 Sun ゆめ風基金20年と豊能障害者労働センター

 被災障害者支援・ゆめ風基金設立20年記念イベントまであと2か月半になりました。
 昨年の秋から準備を進めてきましたが、まだチケットの案内ができていないところもあり、少し焦ってきました。実際のところ、いろいろな方の応援はいただいているものの、ゆめ風基金の事務局は6名で、わたしと障害者スタッフは週3日の勤務ですから、機動性にはやや欠けるところがあります。
 そんな中で、ゆめ風基金とはつながりが深く、またわたしが働いていた豊能障害者労働センターの機関紙に文章を書かせてもらうことになりました。豊能障害者労働センターの機関紙「積木」は影響力のある機関紙なのでとても助かります。
 今年のはじめから「ゆめ風基金20年特集記事」を連続企画されていて、元豊能障害者労働センターの代表で、ゆめ風基金副代表の河野秀忠さん、ゆめ風基金代表の牧口一二さん、元豊能障害者労働センターの専従員・元箕面市議会議員で現在ゆめ風基金理事として、東日本大震災直後から現在まで東北の被災障害者支援に奔走した八幡隆司さんの後を受け、またわたしの次にはイベント間近の機関紙でなんと小室等さんに文章を寄せていただくとのことですから、間に挟まれた形で責任重大でしたが今日なんとか完成しました。
 ゆめ風基金と豊能障害者労働センターとのかかわりや小室等さんとのかかわりから、今回のイベントの紹介までと欲張った関係で、以前に何度も書いてきたことと重複することになってしまいました。それでも、現在の「積木」読者の方に豊能障害者労働センターの救援活動の経緯を知っていただけたらと思い、あえて以前の文章を推敲加筆し、掲載してもらうことにしました。
 6月末の発行とのことですが、編集部にお許しをいただき先行してこのブログに掲載させていただきます。


豊能障害者労働センターへの寄稿文

ともに生きるすべてのひとの希望をたがやすために
           ゆめ風基金20年と豊能障害者労働センター


 被災障害者支援・ゆめ風基金が設立20年を迎えました。
阪神淡路大震災の時、困難な状態にありながら被災地の障害者市民グループが結集し、被災障害者の救援活動に立ち上がりました。届いた救援物資を活用して地域の人びとに豚汁を炊き出し、独居の高齢者に手づくりの弁当を配りました。障害があるひともないひとも、みんなで助け合おうとした被災地の障害者たちの行動は地域全体を元気づけ、またそれを支援した全国の障害者たちを勇気づけました。
「ゆめ風基金」はその成果を受け継ぎ、ふだんから非常事態に備え、必要なときにすぐに救援金を届け、長期的な支援をしていくために結成されたのでした。永六輔さんが呼びかけ人代表を引き受けてくださり、谷川俊太郎さん、山田太一さん、小室等さんなど、各界を代表する方々が呼びかけ人になってくださいました。
 1995年1月17日の朝、かろうじて被災を免れた豊能障害者労働センターの事務所にスタッフが集まりました、みんな青い顔で押し黙ったままの会議の中に、当時スタッフだったわたしもいました。「バザーやって、売り上げみんな被災地の障害者に持っていこ」と、誰かが言いました。こうして3月の救援バザーの日まで、わたしたちの格闘の日々が始まりました。同時に、全国の障害者グループのネットワークをもとに立ち上げられた「障害者救援本部」の物資供給のターミナルを引き受けました。
わたしたちの背丈を越える活動と切ない思いを機関紙「積木」で綴ると、家が半壊し避難所ですごす読者から「バザー用品を玄関に置いておくから、被災した障害者に役立てて」と電話をもらい、救援物資を届けた帰りに取りに行きました。そして日に日に明らかになる被害の大きさに心が折れそうになるわたしたちを毎日勇気づけ、はげましてくれたのは障害者スタッフのYさんの「だいじょうぶ」という口癖でした。バザーの売上は400万円にもなり、「積木」を通じて寄せてくださった読者の救援金600万円をあわせた1000万円を被災地に届けることができました。

「共に生きる勇気」こそが安全で平和な社会をつくる

阪神淡路大震災とオウム真理教事件は、日本の社会の安全神話を大きく傷つけました。次々と起こる大災害、無差別テロ、信じられない事件…。あの地震はその後のとてつもない悲しみと無数の死を予感していたのだと思います。
あの震災以後、日本社会は「安全で平和な社会」をつくるためにと防衛と監視をつよめてきました。その動きは今まさに平和憲法を逸脱する集団的自衛権など安保法制整備へとたどりつく危険な方向へと進んでいるとわたしは思います。
しかしながら、どんな強力な武力や監視よりも「共に生きる勇気」を育てること以外に「安全で平和な社会」をつくれないこともまた真実であることを、わたしたちはあの地震や世界の紛争地で活動する市民活動から教えてもらいました。
障害者救援本部からゆめ風基金へと、「だれもが安心して暮らせる平和な社会」をめざすわたしたちの願いは世紀を越えて日本の障害者のみならず世界のひとびとの希望となり、4年前の東日本大震災の障害者救援活動へとつながって行きました。その活動のどの時にもどの場所にも存在しつづけ、救援活動を担い、なけなしのお金を救援金にし、「共に生きる勇気」を呼びかけてきた豊能障害者労働センターは、退職して12年になる今もわたしの誇りです。
設立から10年後、永六輔さんからひきつぎ小室等さんがゆめ風基金の呼びかけ人代表になって下さいました。
小室等さんは豊能障害者労働センターとのかかわりが深く、箕面に3回も来て下さいました。最初は1986年12月20日、長谷川きよしさんとお二人で、豊能障害者労働センター5周年と事務所拡大移転基金の応援のためでした。コンサートが終わり、事務所でささやかな打ち上げをしましたが、当時の事務所は古い民家で木枯らしが部屋を舞い、冷蔵庫に入れなければビールが凍ってしまうような所でした。小室さんは寒い寒いと皮ジャンに身を包み、「いくら飲んでも酔わないなあ」と言いながら、深夜までつきあってくださいました。
 2度目は1993年3月12日、そして3度目は2007年3月18日、ゆめ風基金のイベントとして、わたしたちは小室さんの歌を聴く場を箕面で開くことができました。

音楽は風化しない希望の物語

「老人と海」、「雨が空から降れば」、「死んだ男の残したものは」など、小室さんの歌には世界のさまざまな地域の理不尽で悲しい現実を前に、それでも明日を信じて今を生き抜くひとびとへの深くて強い希望のメッセージがこめられています。そのメッセージは決して声高ではなく、とても静かで、それでいて決してゆるがない決意にささえられています。
今年、ゆめ風基金20年を記念し、小室等さん、サックス奏者の坂田明さん、太鼓奏者の林英哲さんのドリームコンサートが実現しました。わたしは実は小室さんがゆめ風基金の呼びかけ人代表を引き受けてくださった10年前から、このコンサートが実現することを夢みてきました。
日本を代表する3人の音楽はジャンルこそちがいますが、いくたの時代に生まれ去って行った星の数ほどのいのちたちを励まし勇気づけ、時には理不尽な暴力への激しい怒りをかくした祈りの音楽で、ゆめ風基金と豊能障害者労働センターが見つめてきた無数のいのちたちとつながるレクイエムだとわたしは思います。
映画監督の大林宣彦が「映画は風化しないジャーナリズム」と名言を言いましたが、「音楽もまた風化しない希望の物語であることを教えてくれる稀有のコンサートになることでしょう。ゆめ風基金20年をささえてくださったたくさんの方々に感謝し、新しい10年20年を共に歩んでくださることを願い、このコンサートにあなたの席を用意し、お待ちしています。

ゆめ風基金20年記念コンサート特設ページ
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