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2011.07.17 Sun 能勢に引っ越しました。

 7月15日、大阪府吹田市から大阪府豊能郡能勢町に引っ越してきました。14日からずっと引っ越しの準備と、こちらに来てからの片付けで、ばたばたしていました。
 けれども、妻の方は約1か月前から引っ越しの準備をしていて、この日を迎えるまでに相当大変な作業をつづけていました。妻にはとても申し訳なく思っています。
 さて、当日はいつもほんとうにお世話になっているOさんと、高校を中退して豊能障害者労働センターの仲間になり、いつのまにか30半ばのおとなになったけれどもわたしには若い友人Iさん、そしてOさんの仕事仲間のHさんが家具や荷物を運んでくれました。
 猛暑の中、吹田から能勢までの長い距離を2回車で運んでくれて、やっと解決しました。無理をお願いしましたOさん、Iさん、Hさん、ほんとうにありがとうございました。

 ふりかえってみると、今回で10回目の引っ越しになりました。高校卒業してすぐに大阪市の岸里のアパートに友だちと3人で暮らすことになりました。そこから出発したといっていいわたしの人生は、約50年の年月をへて、ここ能勢にたどりついたのでした。
 高校卒業から4年間、映画「マイ・バック・ページ」で描かれた時代の夜をくぐりぬけた、決して明るくはなかった青春の時、それから18年間の工場勤め、そして豊能障害者労働センターと出会い、第2の青春といえる心燃やす日々を過ごしてきた今に至る24年間と、わたしの人生は子ども時代をはぶくと大きくこの3つの転機で分けることができます。誰もがそうであるように、わたしの引っ越しは人生を変えることになった転機と重なっていました。

 一つ目はまさしく、家からの脱出でした。全てを拒否する若さから、自由をたよりにとにかく家を出たかった。ほんとうは世の中がこわくて他人がこわくて、とにかくここから逃げ出したかっただけだったのに、寺山修司の「家出のすすめ」とアンドレ・ブルトンの「ナジャ」とサルトルの「存在と無」をカバンに入れて、大阪南の心斎橋あたりをただ金もなくふらふらと歩きながら、学生運動の集団がアジ演説をしていると、「あんたの言う人民に俺は入っているのか」と議論をふっかけ、大阪キタの繁華街の路地裏の「ゴーゴー喫茶」や大阪で最初にできたらしいライブハウスやコルトレーンやマイルスをリクエストしたジャズ喫茶に入り浸っていました。
 そのたった4年ほどの間でも大阪市から吹田、豊中市と引っ越しました。このころは荷物もなく、吹田に引っ越した時は、(2年前に亡くなった)K君の働いていたお店のマスターが車の運転をしてくれて、深夜の2時に音と声を出さないように物を運び、まるで夜逃げみたいでした。

 二つ目は、そんな青春時代が終わり、よくも悪くも大人としてかろうじて世の中との折り合いを探しながら働きはじめ、結婚し、子どもを育てた年月でした。
 70年安保の後、多くの若者がそうであったように、政治的な運動とかかわらなかったわたしにとっても時代の空気の変化にとまどいながら、おそるおそる歩きはじめました。
 友だち6人でひっそりと暮し、将来は会社をつくろうという甘い夢はくずれ、一人去り二人去り、最後に残ったのがわたしと妻とK君でした。私と妻と結婚するために妻の父親の会社に入り、K君も同じ会社に入りました。
 わたしが入ったころはその会社は新卒で入ったひとはゼロで、福岡の炭鉱から一家ごと流れてきたひと、泉北の繊維工場からやってきた沖縄のひと、社長の親戚で、すなわちほたしの親戚でもあったのですが、和歌山で仕立屋をしていたけれど商売が上手く行かず、弟子ごとやってきたひと、親戚の不孝を言い訳に何回も仕事を休む元自衛官など、それまでわたしが出会ったことのない人たちがもくもくと仕事をしていました。
 わたしは不器用で、最初はなかなか工場勤めになじめず、入ったころ何回もK君にひきずられながら会社に行ったものでした。
 それでも、わたしはこの工場のひとたちに、「生きるとは何か」を学びました。若いころにカバンに入っていたマルクスもサルトルも教えてくれなかった(わたしが学びとろうとしなかった)世の中のこと、他人の気持ち、働くということ、そして愛するということ…。彼女たち彼たちは巷の教師のような存在で、世間知らずで対人恐怖症のわたしに「人生」そのものを教えてくれました。おそらく映画「マイ・バック・ページ」の主人公が、映画のラストシーンの焼鳥屋から「ほんとうの人生」を歩き始めたように、わたしも不器用ながらもそれからの18年を歩き始めたのでした。
 
 そして、三つ目は豊能障害者労働センターと出会い、小泉さんや梶さんと出会ったことでした。
 1982年春に活動を始めた豊能障害者労働センターの事務所は、前に書いたと思いますがその頃で築30年の横溝正史の小説に出てくるような空き家を片付け、クモの巣を取り、割れたガラス窓をガムテープでふさいでなんとか使えるようにした所で、路地裏の行き止まりの、これぞ袋小路とよぶにふさわしい家でした。
 台所の床はいまにも落ちそうでしたし、冬は冷蔵庫に入れないと飲み物が凍り、事務所の中では外よりも一枚ジャンパーを羽織らなければとても寒くておれない所でした。
 天井からたよりなく垂れ下がる曇った電球の光はぼんやりと広がるだけで、いっこうに明るさというものからはほど遠いものでした。
 それでも、不思議だったのは小泉さんも梶さんも、底抜けに明るいということでした。わたしはまず、その明るさに戸惑いました。障害者と接したことのないわたしは身構えていて、それでなくても対人恐怖症ですから心を固くしておそるおそる事務所に入ったのですが、小泉さんの「ど、ドーモ」と梶さんの笑顔に誘われ、冷静に考えればとんでもなく悲惨な空間なのに、なぜかとてもなごんでしまったのでした。
 今から思えばそれもそのはずで、今でこそ制度とかサービスとかいうけれど、そんなものがまったく存在しない中で、彼ら「脳性まひ」といわれる二人の少年は、ほんとうに信頼にたるかどうかもまだわからない友情だけをたよりに、自立に向かって一歩を踏み出したばかりだったのでした。
 ですから暗闇に等しいようなこの空間こそが、こぎれいで明るい他の福祉施設のどこを探してもみつからない明るい未来につながる砦だったのだと思います。だから、わたしのような生きることに不器用なひとたちもその空間に入ることができたのだと思います。
 それから5年後、40才になったわたしは会社をやめて豊能障害者労働センターのスタッフにならせてもらいました。それから16年は、夢のような年月でした。もっとも夢には悪夢というものもありましたが、その悪夢こそがまたわたしの人生を豊かにしてくれました。その間には制度的な保障も生まれ、また箕面独自の障害者雇用制度もできました。
 裏通りで、しゃれにもならないたこ焼き屋から始まり、今では7つのお店を障害者が運営し、事務所では通信販売事業とリサイクル事業で活気あふれる豊能障害者労働センターでの年月は、わたしの「もうひとつの青春」でした。
 そして今、豊能障害者労働センターのアルバイトスタッフとして活動に関わらせていただいていることは、わたしの誇りです。もちろん、いいことばかりではなく、豊能障害者労働センターの未来が決してたやすいものではないことはわかっています。とくに障害者事業制度が今後どうなっていくのが、とても心配です。
 けれども、30年前の小泉さんと梶さんの明るさは、そんな福祉制度の事情などでゆれることのない、たしかな覚悟に裏付けされていました。それはほとんど「かくめい」への意志というにふさわしいものです。これまでもこれからも、その明るさが照らす荒野を、わたしたちは歩きつづけることでしょう。

俺たちこそがチャンピオンだ、友よ
俺たちはたたかい続ける 最後まで
これは人類全体への挑戦なんだ。
だから、ぼくたちは負けられないのだ
                  クイーン・「We Are The Champions」

 能勢への引っ越しは、64歳のわたしにとってここが終の棲家になることでしょう。もちろん、人生はまだまだこれからどんなことが起こるかわからないから面白いのですが、それでも豊能障害者労働センターの活動から離れた人生を、最後に歩きはじめるきっかけになるのだとは思います。
 とにかく、豊かな自然にあふれています。毎朝、うぐいすのきれいな鳴き声にいやされながら目をさますよろこびをかみしめています。

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2011.08.04 Thu 新しい旅をはじめようと思います

朝の目覚まし時計は日暮らしと鶯の鳴き声
遠い夕焼けが能勢の森を照らします
長い旅をしてきました
友だちでいてくれたこと、感謝します
そして、この地・能勢でもう一度
新しい旅をはじめようと思います

という、引っ越しのお知らせのはがきを出してきました。
わたしと妻、妻の母の3人と、メイという名のひょうきんな猫と、能勢での新しい生活がはじまりました。
わたしはまだ被災障害者支援「ゆめ風基金」で働かせてもらっていまして、週に3回新大阪の事務所に通っています。一時間に一本しかないバスに乗り、能勢電車の山下駅から川西能勢口、阪急宝塚線で十三、十三から京都線でひと駅の南方に着くと、そこから歩いて10分で、やっと事務所にたどり着きます。また箕面の豊能障害者労働センターにも週一回行くことになったのですが、地理的には近いのですが、通勤時間はあまり変わりません。
通勤時間は1時間半ぐらいで、それほど不便ではないのかも知れませんが、この間まで吹田市江坂というとても便利な所に住んでいたので、とても遠く感じます。
なんといっても一時間に一本しかないバスが大変で、ひとつ乗り遅れるともうお手上げなのと、最終バスが10時20分で、これでは会議があればもう家には帰れません。

それでも、一時間に一本のバスしかない暮しもいいなとも思います。毎朝いつも乗り合わせるおばあちゃんたちのよもやま話も面白いし、バスの窓から見える緑いっぱいの山や田畑を見ていると、子どものころに見なれていた風景と似ていて、とても懐かしく思います。あれから半世紀を生きてきて、なんのことはない、またもとの場所に帰って来たのかなと思います。

能勢の家の前で


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2011.09.24 Sat 能勢の緑を満喫

能勢三草山山頂

 昨日は妻と能勢の山にハイキングに行きました。能勢に引っ越して2ヶ月ほどで、妻のお母さんも能勢のデイサービスになれて週に4日通うようになり、やっと少し2人の時間をつくれるようになりました。
 山歩きは二人とも久しぶりで、散歩がてらの軽い気持ちでいったのですが、とんでもない間違いで、事故はなかったものの、やはりどんな山でもあなどってはいけないと反省しました。
 上った山は三草山という564メートルの山で、関西では有名な「能勢の長谷棚田」のそばの山です。朝10時ぐらいから上りはじめ、山頂に着いたのがちょうど12時でした。
 雨があがった後の秋晴れで、どこを見ても緑、また緑の里山で、その間を稲刈りがすんだところの田んぼと畑が広がる道を歩いて行きました。
 二人とも歩くことは嫌いではないのですが、もう長い間山登りとは遠ざかっていましたので、山頂近くでは息があがってしまいました。
 一緒になったわたしたちよりも年上のご夫婦は奈良県の飛鳥のひとで、7時に出発してここに来られたそうですが、いろいろな所に行かれているようで慣れた足取りで澤を登って行かれ、わたしたちが山頂に着いたころには食事をされていました。
 帰りは長谷の棚田の方に降りる方が少しはゆるやかだと思い、下りの道を歩きはじめるとなんのその、けっこうな急坂で、とうとう膝が笑うようになり、二人ともあらためて運動不足を自覚しました。
 
能勢長谷棚田

 それでも、ほんとうにきれいな緑が幾重にも重なり、きれいな空気をひさしぶりに体と心いっぱいに吸い込みました。
 帰りに見た長谷の棚田は上から見下ろすと、緑のふちに稲刈りをすました後の田んぼが白く光りながらいくつもの段をつくっていて、とてもきれいでした。
 能勢に来て、ほんとうによかったとつくづく思いながら、家に帰りました。
 今度はどこに行こうかと、妻はさっそく能勢の地図を見ています。

 明日は妻のお母さんが好きなコスモスを見に、豊能町の「コスモスの里」に行く予定です。

能勢茅葺屋根



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2011.09.26 Mon コスモスと寅さんと福祉タクシー

コスモスの里3
コスモスの里

 今日は朝の10時に福祉タクシーに来てもらい、豊能町の「コスモスの里」に行ってきました。妻のお母さんはコスモスが大好きで、今までもいろいろな所にコスモスを見に行きましたが、昨年、コスモスの里を知り、はじめて行きました。
 あれから1年が過ぎ、能勢に引っ越したのですが、わたしたち夫婦は車の運転ができず、能勢に福祉タクシーは見当たらず、さてどうしたものかと思っていたところ、隣町の豊能町でみつかり、はじめて利用させていただきました。
 車に乗せてもらい、お話を聞くと豊能町でも希望ケ丘といって、わたしたちの住む西能勢からはうんと遠い所から来て下さっていて、とても親切な人でした。
 車は軽自動車のリフトカーで、能勢の峠を登り降りするのに少し無理があるように思いましたが、定年になるまで観光バスの運転手をしていた人で、運転技術でそこをカバーしている感じでした。
 妻が電話をした時は山口県まで行っていたそうで、4、5日前に予約すればほんとうにどこでも乗せてもらえるようで、このごろは一段と難しくなったお母さんの遠出もできそうです。

コスモスの里1

 さて、コスモスは満開でしたが、梅林もそうですが車いすでは移動しにくく、歩くのがきらいなお母さんは今回もふきげんでした。お母さんはほとんどが寝てしまっていて、月に一度ぐらい意識がはっきりする時があるという状態で、ほんとうはここ数年いろいろなところに行ってもいつも目をつぶってしまい、なんのために来たのかわからないという結果をくりかえしています。障害者の運動の基本である「本人の意志」や「自己選択」という言葉がむなしく思うことも多々あります。それでも、あまり確信は持てないのですがやっぱりずっと寝ているよりはきれいな花を見たり、車イスに乗って外の風にふれる方がいいんじゃないかと思い、今日も行ってみたというわけです。ぬかるみのようなコスモス畑で車いすを押し、迷惑そうなお母さんに少し歩いてもらったりしている光景はとてもこっけいで、ふうてんの寅さんではありませんが「奮闘努力のかいもなく」と何度も口ずさんでいます。
 ともあれ、今回は親切な福祉タクシーのおじさんも登場し、いつもの珍道中もよりゆかいなものになりました。
 次は、紅葉を見に行くのに、福祉タクシーのおじさんに来てもらおうと思います。

コスモスの里2


野間のけやき
帰りに有名な「野間のけやき」を見てきました。

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2011.10.23 Sun 猪名川町立「静思館」

猪名川町立静思館

 先週の金曜日・10月21日、久しぶりに時間ができたので、妻に連れられて猪名川町の「静思館」に行きました。
 車に乗れないわたしたちは、電車とバスとひたすら歩く能勢暮らしですが、この日も一時間に一本のバスに乗り、能勢電車の山下駅前に到着、そこから能勢電車でひと駅の日生中央駅、そこからまた一時間に一本のバスで猪名川町役場、そこからすぐのところにある静思館はほんとうに静かなたたずまいでした。
 自由に入れる感じで、吸い込まれるように赤門まで行くと、管理人の方が掃除をされていました。「見せていただいていいですか」と言うと、「どうぞ、案内します」と言って下さり、とてもくわしく説明して下さいました。
 今は「静思館」と呼ばれるこの建物は、明治五年この地に生まれ育った冨田熊作という人物が昭和七年に日本中の良材を取り寄せて京都から宮大工を呼び寄せ、数寄の粋を尽くして造り上げた建物です。今のお金で10億円の工費だそうです。

猪名川町立静思館
雨水をためるタンク              かまど

 まず目に入ったのがこれ、雨水をためるタンクです。外観をみると純和風建築なのにこのタンクがどんと目に入った段階で、当時の最新の技術を取り入れたモダンな建物でもあることが分かります。管理人さんの話では、このタンクにためた水を防火用水の他、庭の滝水にしていたそうです。
 わたしはそんなにたくさんの古民家を観てきたわけではありませんが、この建物は資産家が贅を尽くして立てたものには違いがないのですが、ヨーロッパ文化にも精通しているひとが造った建物で、装飾のようなものはほとんどなく構造や建具が和風建築のシンプルなデザインで作られています。洋式のテーブルやいすも自然に溶け込んでいて、ほんとうにセンスのいい建物だと思いました。

 この家は建てたのは古美術商だった富田熊作というひとで、富田熊作は古美術貿易商「池田合名会社」に十二歳で勤め、明治三十六年に東洋古美術貿易商の「山中商会」に入社しました。
 「山中商会」は顧客にイギリス王室やロックフェラー、さらに日本の美術に多大な影響を与えたモースやフェノロサという人物を顧客にしていました。
 富田熊作はその「山中商会」のロンドン支店長となり、スイスの大富豪であるアルフレッド・バウアーのために日本の浮世絵や中国の陶磁器などを集めたものは「バウアー・コレクション」として世に知られています。
大正十一年に五十歳で「山中商会」を退社して京都で個人的に古美術商を営みます。
 そしてこの建物を建てて晩年を過ごしていましたが昭和二十八年八十二歳で亡くなりました。

猪名川町立静思館
茶室横のテーブル席              手前テーブル 奥座敷

 外国人の来客、商談などもあり、茶室にテーブルとイスをもうけるなど、純和風の形式にとらわれない発想がおもしろいと感じました。
 裏にはそれぞれの用途別の蔵が4つあるのと、井戸水をくみ上げる給水塔があり、ここから水をめぐらして昭和初期では初めてかもしれない水洗トイレがあったり、書斎を床暖房にしていたりと、当時では画期的な快適空間をつくりながら江戸時代の和風様式を楽しんでいた家だと思いました。
 貸し館業務もしていて、ミニコンサートや寄席なども開かれています。このロケーションで音楽を楽しむのはまた格別でしょうね。
 親切な管理人さんの丁寧な案内で、ゆっくり楽しむことができました。

猪名川町立静思館
給水塔 親切な管理人さん

猪名川町のホームページより
四季折々の豊かな里山の風景に、すっぽりと抱かれたような茅葺の家「静思館」
この静思館は、猪名川町で最も大きい民家の一つとされている「旧冨田家住宅」を町に譲り受け、文化向上に役立てているものです。
「旧冨田家住宅」は資産家として知られた冨田熊作氏(故人)が約2,500㎡の敷地に昭和7年から3年の歳月をかけて建てた和風建築物です。
茅葺き、総檜造りの母屋と四つの土蔵など、建築面積535.1㎡の広壮な屋敷です。
冨田氏が全国各地から良材を集め、江戸時代の豪農の屋敷を模したもので、町が文化施設としてよみがえらせたものです。 
表門を入ると広い中庭の奥に土間の玄関があり、6~10畳の和室が7室と離れの内庭に面して茶室も設けられています。
内部には当時の面影を伝える家具類や道具類がそのまま残されており、訪れる人の郷愁を誘います。
静思館という名前は、来館者に憩いと静思の場としていただくにふさわしい、緑と清い空気に恵まれた自然環境にある建物であることから名付けられたものです。
猪名川町では、古きよき時代の民家を町内外の人に観覧していただくほか、グループ活動、社会教育の場としても広く開放しています。

猪名川町立 静思館 
〒666-0244 兵庫県川辺郡猪名川町上野字町廻り22
Tel/Fax: 072 - 766 - 0013
阪急バス、ふれあいバス:上野下車すぐ
開館時間: 午前9時30分~午後4時30分
休館日: 月曜日・祝日
施設の利用料
和室・茶室 1時間700円
観覧のみの場合は無料です。
町外居住者は、2倍の使用料となります。

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