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2016.11.10 Thu 死へと向かう性的欲望 神戸波止場町TEN×TEN イロタギル展

イロタギル展

イロタギル展map

 今日は、神戸波止場町のTEN×TENで開かれているグループ「エクスプラス」の「イロタギル展」を観に行きました。箕面でケーキ屋をしているSさんの友人の嘉山伸子さんがオブジェを出店されているということで、Sさんと妻と3人で見に行くことになったのでした。阪急神戸三宮駅から地下鉄海岸線でみなみ元町1番出口から南へ5分ほどで、会場に着きました。
 会場のTEN×TENは、たくさんのブースを個人やグループが常設のスタジオにしたりギャラリーにしたり、また個展やグループ展のためにブースの貸し出しもしていて、アートの盛んな神戸らしい建物でした。
 7人によるグループ「イロタギル展」のブースに行くとまず目に入るのが嘉山さんのオブジェでした。その作品はなんといっていいか写真を見ていただければわかりますが(いや、わからないままかも?)、結構高い祭壇に白い人形のようなものが仰向けに寝そべっています。素材は綿を詰めた白い布で、二人の女性が重なって寝ているように思いました。それはとてもエロチックなオブジェですが、同時にひとが生きている身体の中には薄い皮膚一枚で隠されている「死」が横たわり、死に恋い焦がれる性的な欲望が剥製となって「おいでおいで」と呼んでいるようなのです。まわりには、竜やカラスやクモや、何かわからない可憐な生き物や、顔や手が縫い込まれた小さな階段などが、死に向かう性的欲望を見守るように息をひそめています。
 わたしはこのオブジェのなまめかしい存在感に吸い込まれそうになりながら、昔テレビで見たカントゥールの「死の教室」を思い出していました。その演劇に出てくる小さな人形は、時代をいくつも越える間に何十万何百万の屍を食い散らし、制御ができない死への欲望と暴力を詰め込んだ巨大な剥製になってしまったのでしょうか。

 このグループ展に出品している他の6人の作家の作品はそれぞれひとつのこだわりのために世界の均衡が歪んでしまったような作品群でした。小さな四角い布に一見かわいいイラストやおしゃれな文字を手縫いで刺繍した作品がいっぱい並んでいる作品は、ひとつひとつのピースはかわいいのにたくさんあつまると不気味なものになっていきます。
 また、コミック漫画のような明るいイラストのような絵の中で、不思議な世界が刻一刻と風景を塗り替えている作品、遠くから見るとアルファベットだけしかわからないのに、近くで見るとそのフルファベットの1文字の中にひとつひとつ風景が細密に描かれていたり、トンボやゴキブリ(?)やカマキリや蝶の体の模様を執拗に描いた作品など、丁寧に描けば描くほど身近な生き物や風景がまるで異次元の世界から迷い込んできたような、不思議な物語を語り始めるのでした。

 音楽や演劇とちがい、アートの世界は静寂そのものです。わたしが高校生の時は、もっとも刺激的だったのは絵画でした。ポップアート、ネオダダ、シュールレアリスム、マルセル・デュシャン、ロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズ、アンディー・ウォーホール、高松次郎、荒川修作…。それらの芸術運動や作品群に触れることで、いわゆる理解などできないまま、それでも若い心をふるわせ、世界の未来が意味不明な期待感でいっぱいに思えた青春時代でした。
 それから半世紀が過ぎた今、美術館や今回のような小さなグループ展に行って感じることは、音が消え、静寂につつまれる解放感です。何をしていても聞こえてくる雑音と音楽にいつも追いかけられている日常から解き放たれる一瞬を味わえるのはアートなのかもしれません。
 妻の母親がデイサービスから戻って来る時間に家に帰るためには神戸からだと2時間では無理で、急いで会場を出ました。
 とんぼ返りのようなせわしさながら久しぶりに神戸まで行き、小旅行を楽しみました。

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2015.10.20 Tue 二口圭子と吉屋彗美子「ねこまちさんぽ二人展」

ねこまちさんぽ二人展
二口圭子「ごゆるりと」

 10月19日、「ねこまちさんぽ二人展」が開かれてる西天満の「現代クラフトギャラリー」に行きました。
 「ねこまちさんぽ二人展」は二口圭子さんの銅版画と吉屋彗美子さんの布・小物のコラボ展で、この日が初日で今週いっぱい24日の土曜日まで開かれています。

 二口圭子さんは高校生の頃からの友人で、わたしの妻と同じ学校で、もうひとり今は信州の山郷で暮らしているT・Kさんの3人が美術部だったことから、わたしの高校でやはり美術部員だった友人2人と、今でいう合コンでしょうか、当時大阪中之島にあった「グタイピナコティカ」という常設展示場で会ったのが最初です。
 ちなみにわたしの妻とはじめて会ったのもこの時で、捨てられた家電や機械の一部を組み立てて動く作品で有名なティンゲリーの作品で、何かの家電のモーター部分の軸先に紙を挟めるようになっていて、「自由にはさんでください」と書いてあり、妻はティッシュペーパーを細く短冊にしたものをはさみ、回転させると「きれい」と喜んだのですが、わたしは当時の500円札を4つに折ってはさみ、「こちらの方がきれい」とうそぶいて、その場の雰囲気を壊してしまったことを思い出します。いまもよく大人げないことをしてしまうことがありますが、その頃は何かにつけて反抗的でひねくれていたわたしという人間を象徴する出来事でした
 ともあれこの時以後、学校を卒業しても長い間友人だったのですが、23才ごろでしたか、あるきっかけで会わなくなり、わたしと妻は結婚し、わたしに島津亜矢を教えてくれた亡きK・K君とは人生を共にしてきました。
 ところが、わたしたち夫婦が豊能障害者労働センターとかかわるようになり、妻が1983年に専従スタッフとなって阪急箕面線の桜井駅の裏路地でおでん屋を始めた時、お客さんで来てくれた近所のケーキ屋「グロスオーフェン」さんのSさんと友人になり、二口さん、T・KさんがSさんの友人とわかり、15年ぶりに再会したのでした。
 二口さんはずっと美術をつづけていて、彼女の銅版画のファンの方がおられて、新作が一定の数になると開く個展やグループ展で確実に売れる作家になっていました。
 彼女の作品はずばり、猫をモチーフにしたもので、彼女の家で暮らす歴代の猫たちの日常から紡ぎだされる物語にはゆったりした時が流れ、眠りと覚醒、日常と夢、そしてなによりもキリキリピリピリせず、ひとびとが生きていくのにもっとも必要な「頑張らない知恵」を届け、観る者をほっとさせます。
 わたしの家にも2匹の猫がいますが、ほんとうに猫ほど何を考えているのか何も考えていないのかわからず、ああだったのかこうだったのかと、とんちんかなようで当たらずとも遠からずのような期待を抱かせ、愛玩動物のようで実は野性的な生き物もいないのではないでしょうか。
 先代の猫は晩年、わたしたちの暮らしを見守り、わたしの病気の時はそばに付き添いながら顔を覗き込んだりしたものですが、日常生活の空間に、わたしたちの気づかない猫の世界が隠れていて、わたしたちの非日常が猫たちの日常であるような不思議な共同生活をしているのではないかと思ったりします。
 ともあれ、二口さんの銅版画の小品は奥深く、その日常生活の空間に隠れている猫の世界の非日常ならぬ日常の絵巻物のようです。猫と暮らしているひとならだれもが「あるある」と思い当たるさまざまな猫のしぐさが繰り広げられるその不思議な世界を垣間見せるために用意された小さな窓のような作品群を見ていると、心が癒されるだけではなく、わたしのこころもからだもその世界に溶け込んでいきそうです。
 彼女の銅版画は一見芸術作品としての冒険があるようには見えませんし、家を建てたり引越したり結婚したりという何かの記念日に用意される「壁掛け絵画」のように見えますが、人間の正義とか歴史とか働くこととか「たたかうこと」とか、肩に力が入り、いつも緊張に心をちぢませる生き方をそろそろ終わりにして、社会も個人ももう少しゆっくりした時間が流れる非日常の日常の世界へと生き方を変えてみませんかと静かに呼びかける「生き方変える絵画」(?)なのです。それは彼女がわたしの知らない15年の間のどこかでたどり着いた人生訓であるとともに、彼女の芸術の証明なのだと思います。
 吉屋彗美子さんの布と小物の作品もまた、またちがうアプローチで日常と非日常の果てしない隘路から生まれる不思議なオブジェで、日用品を真似たオブジェなのかオブジェ化した雑貨の破片なのかよくわからないのですが、そのやわらかいフォルムが妙にエロチックでした。
 二口さんの銅版画が「壁掛け絵画」として受け入れられやすいのにくらべ、吉屋さんの作品群は画廊の壁に取り付けられていてもどこか落ち着かず、たとえばいつもは当たり前に道具として使用している文房具や工具や雑貨が、夜寝静まるとそれぞれが命じられている用途や意味を放棄し、体を震わし自分勝手にしゃべりだすのではないかという不安をかくしているように、彼女の布や小物たちもまたいつそれぞれが生まれた物語をしゃべりだすかわからない「不思議な日常」の語り部のように思えるのです。
 二人に共通しているものは日常の中で手なずけられた「そこにあってあたりまえの日常」がいつのまにか「そこにあるのが不思議な日常」へと変質してしまうことではないでしょうか。二口圭子さんの場合は猫というモチーフに、吉屋彗美子さんの場合は布という素材に憑りつかれていて、そう思うと二人の一見おしゃれな作品には不気味な「毒」が仕込まれている気がします。

ねこまちさんぽ二人展
二口圭子「花ばたけあめ」

ねこまちさんぽ二人展
吉屋彗美子「小物」

ねこまちさんぽ二人展
吉屋彗美子「布」



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2015.10.11 Sun マグリット展

 10月4日、京都市美術館で開かれている「マグリット展」を観に行きました。
 シュルレアリスムの画家、というよりは20世紀を代表する芸術家として数々の名作を残し、芸術のジャンルにとどまらず現代社会に今もなお強い影響力を与え続けるマグリット。空中に浮かぶ岩、鳥の形に切り抜かれた空、指の生えた靴、窓ガラスに付着したまま割れた風景、夜の街の上に広がる青空など、日常の風景や物体や人体が「あたりまえ」の状態から剥離され、「ありえない」不思議な状態や体験に変貌するマグリットの芸術は観る者の習慣や観念をこわし、重力や言葉までも不確かなものに変えてしまうのです。
 ルネ・マグリットは1898年、ベルギーレシーヌで生まれました。1912年、マグリットが13歳の時、母親がサンブル川に身を投げ、自殺してしまうというショッキングな事件が起きました。この事件はマグリットに少なからぬ影響を与えたと言われています。
 1916年、マグリットは18歳でブリュッセル美術学校に入学し、卒業後はキュビスム、未来派、ダダなどの影響を受けた絵を描いていましたが1925年(1923年という説もあります)、キリコの「愛の歌」という作品を見て、「涙を抑えることができない」ほどの感銘を受け、これがきっかけでシュルレアリスムの方向へ進むことになります。
1927年、ブリュッセルのル・サントール画廊で初個展を行いますが好評を得られなかったこともあり、パリに出てきます。以後3年間、フランスのシュルレアリストたちと交流します。しかし、マグリットはシュルレアリスム運動の理論的指導者であったアンドレ・ブルトンとはうまが合わなかったらしく、1930年ブリュッセルへ戻り、以降ベルギーを離れることはほとんどありませんでした。

 以前にもたびたび書いてきましたが、わたしがシュルレアリスムに出会ったのは1960年代前半、高校生の頃でした。工業高校の建築科に入学してまもなく、たまたま美術部に入り、現代美術や新人画家の動向を知らせる貴重な雑誌「美術手帖」を友だちと回し読みしていました。もっともわたしは一学期の2週間だけ石膏デッサンをするだけの絵を描かない美術部員でした。父親がいない「私生児」で、母親が早朝から深夜まで大衆食堂をしながらその日その日を暮らす貧乏生活の中で、母親が「高校だけは行かせたいと」と奨学金の助けも借りながら行かせてくれた高校でしたが、わたしは学校に行くのが苦痛で、子ども頃からの吃音で悩み、心を硬く閉ざしていました。
そんな時に知り合った数少ないともだちと美術手帳に載っているジャスパー・ジョーンズやアンディ・ウォーホールなどの作品について何時間も話をするのがわたしの切ない楽しみでした。そして、美術手帳でたびたび特集が組まれていたシュルレアリスムの画家たちの不思議な作品に圧倒され、ちょうど世の中の常識や規律に反発していた時ですから、彼らの作品の「非日常」と社会に対する強烈な批判精神にあこがれ、すっかりシュルレアリスムの信奉者になってしまったのでした。
暗くてあぶない高校時代に、わたしをわくわくさせたキリコ、デルボー、タンギー、マグリット…、彼らの作品はいままでの絵画や芸術の観念をこわし、まったく想像できない世界のとびらを開いてくれました。実際のところ彼らの作品に感動する感性を持ち合わせているのか今もよくわからないのですが、それらが放つ魔力にとりこになってしまったのでした。
シュルレアリスムへのあこがれは今でも消えることがなく、彼らの回顧展があれば必ず足を運び、50年から100年も前にもなる作品を前にして新しい発見をするのが最近の楽しみのひとつになっています。まさしく、わたしの決して明るくはなかった青春にかろうじてほのかな光とぬくもりを与えてくれた人生の宝物といっていいでしょう。
 その中でもわたしは海底のような場所に不定形の生命体がゆらゆらしているようなタンギーの絵や、駅や線路や石畳の街路にふくよかな裸の女性たちと黒い正装の学者が出会わないままぼんやりとたたずむデルボーの絵が好きでした。
 それはさておき、マグリットといえば、おなじく奇妙な絵を描いていても一般に難解だとかエロティックだとか言われる前に、デザインの力で納得させてしまうところがありました。ロートレアモンの「マルドロールの歌」の一節、「手術台の上のミシンとこうもり傘の偶然の出会いのように美しい」をリスペクトし、あるべきでない場所であるべきでないものが出会う「デペイズマン」というシュルレアリスムの理論はマグリットによって具現化されたといっても過言ではないでしょう。
 今回の展覧会は2009年にオープンしたマグリット美術館の協力のもと、世界10か国から集めた代表作130点がずらりとならび、さすがに来場者が多くて、あまりゆっくりと観る事ができなかったのが残念でしたが、それでもマグリットの謎と神秘につつまれた不思議な世界を満喫できました。
 今回の展覧会で数多くの作品を年代順に観る事でマグリット芸術の進化を知り、今まで一面的にしか観ないまま固定観念を持ち、ほとんど理解できてなかったこともわかりました。(といっても、今もまだわからないと言ってもいいのですが…。)
 わたしが大きな誤解をしていたのは、だまし絵のような趣とデペイズマンの手法に目を奪われていたことと、マグリットの作品もまた日常の事物や状態に隠れている謎や神秘を精神分析によって解明できるようにあるのだろうと思っていました。
 今回このようにまとまって作品を観て、マグリットはオブジェを日常の役割や用途から解放するだけでなく、また事物をありえない場所に置くことで背後の神秘的な謎を解釈することからも解放し、事物それ自体がすでに謎であって、むしろ事物は人間を介さないですでに記憶を持っていたり、別の新しい事物へと変化する能力を持っていることを発見し、そのことをいくつかのオブジェをアイコンとしてさまざまに展開しながら表現し続けたことを知りました。
「私は絵画においてひとつの重要な発見をしたようです。これまでわたしは複数の物を組み合わせてきました。もしくは、ある物をただ置くことがそれを神秘的にするには十分な場合がありました。しかし、ここで行ってきた探究の結果、わたしは新しい事物の可能性を見つけたのです。それは事物が次第に何か別のものになるという能力です。ある物が、別の物へと溶け込んでいくこと。(中略)事物は明白でありながら、いくつかの堅固な木の板が、いつの間にかある場所では透明になっていたり、また裸の女性のある部分が何か違うものへと変化していたりするのです。」(ルネ・マグリット)
 そこにはシュルレアリスムというよりは、ダダイスムに近く、たとえばマルセル・デュシャンのレディメードなどの反芸術、あるいは構造主義における反人間主義、反知性主義にも通じる絶望的な人間観と世界観が垣間見えるような気がしました。
 人間の目や理性や知性が世界を支配してきた人間中心の世界観が人間の間にも階級や能力や財力による格差を生み出し、他の生物に対する暴力や環境破壊の根源であることに、今を生きるわたしたちは気づきはじめたところです。
現代の哲学者や思想家がそれに代わる世界の在り方を探求し提示する途上と思える今、1920年代のデュシャンやマグリットが孤独な作業をつづけながらおぼろげながらもその世界を垣間見ていたことは驚くべきことだと思います。ちなみにミシェル・フーコーもマグリットの作品に多大な関心をもっていたことも、今回この記事を書くにあたってはじめて知りました。
 帰りに今回の展覧会の図集を買って読んでいたら、マグリットとデュシャンという小論が載っていて、その中でデュシャンがマグリットのくつの先が足になっている作品群を高く評価していたことが書かれていて、わたしがなんとなく感じたことがまちがいでなかったことを知り、とてもうれしく思いました。
 今回の展覧会は、わたしのマグリット観をひっくり返してくれた、とても楽しく意義のあった展覧会として、一生忘れられない出来事になりました。
 京都でマグリット展が開かれるのは44年ぶりのことと聞き、貴重な展覧会でした。


マグリット展 京都市美術館
 ご紹介が遅くなり、明日12日が最終日です。
マグリット展
マグリット展


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2015.08.29 Sat 健一自然農園代表の伊川健一さんのお話を聞いて

 8月26日、みのお市民活動センターに行き、豊能障害者労働センターの主催による健一自然農園代表の伊川健一さんのお話を聞きました。
伊川さんは1981年奈良県大和郡山市で生まれ、15才で自然農法を軸に生きることを決意し、19才で健一自然農園を開きました。現在、奈良の大和高原で愉快な仲間と5ヘクタールの自然農園を営み、自然茶を全国に届けています。
農業から観光・教育・福祉・環境問題・ものづくりを織り込んでいくことで、永続的な未来をつくるべく生き生きと活動されています。

 伊川健一さんのお話を聞いてまず驚いたのが、1981年生まれの彼が15才の時、自然とひととのあり方を考え、自然農法による農業で生きることを決意したことです。時代は高度経済成長からバブル崩壊、その後の失われた20年の途上で就職氷河期といわれた頃でしたが、日本社会はまだかつての成長神話にとらわれていました。実はいまも過去の栄光と夢を追いかけているのかもしれませんが…。そんな時代に伊川青年は成長神話の呪縛からはなれ、自然農法による起業へと歩き始めました。高校生活の3年間を自然農法の学習にあてた後、19才にして就農し、健一農園を開園するという行動力は若さだけでは説明できないものだと思います。
 茶畑だった耕作放棄地を借りた時、放置されていたお茶の木は3メートルにもなり葉を茂らせ、落ち葉が土に還り、その土は驚く程にフカフカで生き生きしているのを目の当たりにします。最初の計画では無農薬野菜の栽培を考えていた彼は、自然の生命力を破壊しないで茶畑として再生させようと考えます。そこが彼のすばらしいところで、その「気づき」がなければきっと健一農園は今のすがたになっていなかったことでしょう。

 「できる限り草が生えるに任せて、茶を覆ってしまうようなら刈り取って、その場に敷いてゆきます。朝露のおりた茶畑に行くと、白くて薄い絹のようなものが茶を覆っています。これはクモの巣です。茶畑には無数のクモがいてせっせと獲物を捕まえています。茶の葉を食べる虫もいますが、大量に発生することはなく、自然にバランスをとっていきます。そのためには、多様な草や生き物の生き生きとした茶畑の状態を保つことが大切です。」

 先日、わたしも豊能障害者労働センターのスタッフも実行委員会にかかわり、アフガニスタンで医療と農業を中心に支援活動を続ける中村哲さんの講演会を開きましたが、伊川青年の茶畑再生は、中村哲医師が医療支援だけでなくいのちを救う水が必要だと井戸掘りと用水路の建設に乗り出し、農作地をよみがえらせたこととつながっています。世代も活動場所も目的もかけ離れているかに思える2人の活動はきびしい自然と折り合いをつけ、その土地の生活文化に学んだ理念や思想に裏付けられていて、言葉のひとつひとつに格別の説得力がありました。
 一切の農薬・肥料を用いず、自然に逆らわず寄り添うお茶作りは全国のたくさんのひとびとの圧倒的な賛同と応援にささえられて、現在の健一農園は東京ドーム2個分にも広がり、地域の障害者団体や高齢者のグループなどに管理を委託している他、お茶の栽培から収穫、製品工場などで多くの雇用を生み出しています。
 当日、豊能障害者労働センターで販売しているお茶を試飲させてもらいましたが、スーパーやコンビニで販売されているお茶とはまったくちがう味で、傷ついた心や緊張した体をゆっくりとほぐしてくれ、100年のいのちたちの歌が聴こえてくるようでした。
障害者が運営を担い、障害者を雇用するためだけに事業を進める豊能障害者労働センターは障害者団体の枠を超えた社会的事業所として数々の試みをしてきました。その試みは世界的に見てももっと評価されていいと思いますが、健一自然農園との共同プロジェクトは豊能障害者労働センターの独自事業と合わせて、成長神話の呪縛から解放されたGDPでは測れない豊かさをめざす「新しい自立経済」へのチャレンジとして、これからの豊能障害者労働センターの活動の方向性を示唆するものだとわたしは思います。

 伊川健一さんのお話を聞いていて、わたしは河瀬直美監督の映画「殯(もがり)の森」(2007年)を思い出しました。カンヌ映画祭新人監督賞にかがやいた河瀬直美監督の「萌の朱雀」(1997年)は、豊能障害者労働センターでも上映会を開きました。
 映画「殯(もがり)の森」は山間のグループホームを舞台に、33年前に亡くした妻を想う認知症の老人と、幼い子どもなくした介護福祉士の女性のふれあいを中心に人間の生と死を見つめる映画で、カンヌ国際映画祭の審査員特別大賞を受賞しました。奈良県出身の河瀬直美がふたたび故郷の奈良でつくったこの映画の中で、広大な茶畑でかくれんぼをするシーンがとても印象的だったことを思いだしたのでした。
 この2人に交流があるのかどうかはわからないのですが、河瀬直美もまた故郷奈良への深い思いから映像作家になったひとで、どこかでつながっているか、これからつながっていく予感がします。
 わたしが豊能障害者労働センターの在職時、「萌の朱雀」の上映会を開きましたが、その時、わたし自身をふくむ障害者の運動が都市型で、高度経済成長の中で取り残されてきたことへの異議申し立てが中心だったことを痛感しました。
 映画「萌の朱雀」が描く滅びゆく山村の現実を突き付けられた時、障害者の運動もまた都市集中型の政治経済システムから脱し、いままで埒外にされてきた農村や山村をふくむローカルなネツトワークによる自然との調和のとれた持続可能な政治経済システムの構築へと、新しい出発をしなければならないのではないかと思いました。
 今はまだその模索の途中ではありますが、豊能障害者労働センターが1997年の「萌の朱雀」上映会から18年の時を経て、くしくもその足掛かりを奈良のお茶農園との協働でつかもうとしていることに深い感慨を持つとともに、その活動の持続からきっと障害者問題から提起する新しい社会像が姿を見せてくれることを信じてやみません。

健一自然農園

豊能障害者労働センター・積木屋は健一農園のお茶を独自ブランドで販売しています。

映画「殯(もがり)の森」 


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2015.07.25 Sat  「高松次郎 制作の軌跡」

 少し前になりますが8月5日、「高松次郎 制作の軌跡」を観に行きました。大阪中之島の国立国際美術館で開催されたこの展覧会はひとりの芸術家の回顧展には違いないのですが、1960年代から晩年の1990年代後半まで、わたしにとって刺激的な芸術家でありつづけた高松次郎の残した作品をあらためて見るととても回顧展とは思えず、あくなき好奇心と探究心を駆り立て、次々と実験と冒険をしつづけた彼の息づかいが今も建物全体にあふれるようでした。
 1949年から1963年まで、読売アンデパンダン展という、無審査出品制の美術展覧会は今では考えられない画期的なもので、芸術表現の発露を無条件に保障する最大級の自由さから数多くの若い作家が結集し、次々と刺激的な作品が生まれました。
 高松次郎はまさしく、その時代の風潮から制作活動を始めた時代の寵児のひとりで、赤瀬川源平、中西夏之との3人グループ・「ハイ・レッド・センター」(それぞれの名前の頭文字をもじったグループ名)の一員としてもアバンギャルドの先頭を走っていました。
 
 高校時代、「絵を描かない」美術部員だったわたしは、当時は60,000部を発行していた「美術手帳」に掲載されていたシュールレアリスムやポップアート、ネオダダイスムなどにかぶれていきました。1960年代はわたしにとってだけでなく美術がもっともキラキラしていた頃だったと思います。
 心を硬くしながら何も楽しいことのない工業高校に通っていたわたしでしたが、美術部に入ったことで数少ない友人もできました。そして、当時のわたしにとって青春のバイブルともいうべき「美術手帳」の毎月の発行を心待ちにし、心急いで手に入れた真新しい美術手帳を回し見ながら、一人前の画家や評論家になった気分で掲載されている現代美術について激論を交わしたものでした。
 その頃のわたしがもっとも気になっていた作家のひとりが高松次郎で、「点」、「紐」シリーズにつづく「影」シリーズが彼の作品との最初の出会いでした。
 壁やドアに人の影がリアルに描かれている、いやたしかに影がそこにあるのに、その影をつくる人間や物はいないのです。ひとや物はいつその場から消え去ったのか、影だけがずっとそこにいたのか、光が無ければ存在しない影は、光が当たっていたはずのひとや物がほんの一瞬前には生き生きとそこに在り、時間のねじれが影を残す一瞬を永遠に定着させているのでしょうか。
 若い頃は「だまし絵」のようでなんとなく面白いと思っていただけですが、いま改めてこれらの作品群を見ると、単に影だけが残された不在の空間というだけでなく、たった今まで存在していた不在の匂いとともに時間が無数の粒子に粉砕され、その粒子の一粒一粒にアリバイとしての影が付着し、不在そのものを記憶しているようなのです。そこにあるのは世界の廃墟ではなく、むしろ近代が構築してきた世界のすがたに対する強烈な異議申し立てというべきか、圧倒的な「不在」で満ち溢れているのでした。寺山修司の「奴婢訓」という芝居のテーマだった「世界はたったひとりの男の不在で満ち溢れている」という言葉を思い出します。
 「点」シリーズは、文字や図形としての意味そのものであるはずの点が、さまざまな形と素材によって描かれ造形されることによってそれぞれ固有の実在になってしまう時、皮肉にも「点」という概念は剥奪され、不在としての「点」のみが表出されるのでした。
 彼のこの頃の作品はおおむねその逆説によって成立していて、たとえば瓶にぎっしりおしつめられた紐は瓶の外形の中でもつれるように絡みながら実在してしまい、瓶としての用途や在り様を剥奪されてしまいます。
 そして、「陰」シリーズの後の「遠近法」では、わたしたちが見る世界が遠近法によって支配されていることを暴くように、テーブルやいすが遠近法で見えるままにつくられています。遠近法的に自然に見える方向から見ると誇張されていることもわからないほどなのですが、横から見たり反対方向から見ると遠近法の法則を実物でつくるととんでもないものになり、テーブルも椅子もベンチも到底利用不可能な役に立たない物になってしまうのでした。
 このシリーズあたりから、高松次郎は「不在」によって世界の「常識」を告発することから、世界の「常識」を成立させるためには不要とされる「もうひとつの実在」を必要とすることを告発しているように思います。遠近法を成立させている一方向だけの視線は大きくいえば近代の権力構造であり、その権力構造は遠近法的な世界観から排除され、抑圧された無数で多様な物や事やにんげんたちによって支えられているのだと思います。
 高松次郎のあくなき実験は「波」、「弛み」のような視覚的な錯覚と時間のねじれが生み出す多様な視点から、さらに「単体」、「複合体」、「平面上の空間」、そして「形」へと、権力としての「視ること」自体からも解放され、実在の中にあるいくつもの実在そのものによって世界を再構築しようと試みます。
 街路樹の中に家の柱がかくれていると感じて、上端だけに四角く柱上に切り抜いた材木を何十本も並べた作品や、煉瓦や大理石の中だけを細かく粉砕し、外見をとどめた元の煉瓦や大理石にもどす「単体」は、すでに用途からは取り返しのつかない場所に来てしまっても木やレンガや大理石でありつづける物たちの「不幸」に満ち溢れているようです。そこには「近代主義」、「啓蒙主義」に対する一貫した異議申し立てがその根底にあったとわたしは思います。
 今回の展覧会を観て、日本も世界も「変革」への幻想に明け暮れた1960年代から高度経済成長と幸福幻想におぼれた1980年代まで、近代の延長もしくは近代の民主主義化としての現代に早くに絶望した一人の作家が「大きな物語」が終わった世界の在り様を一生懸命探し続けた足跡は、今をいきるわたしたちを挑発し続けているのだと思いました。
 高校時代、高松次郎や荒川周作などの野心的な作家と、それを磁場に繰り広げられた東野芳明、中原裕介、針生一郎、宮川淳などの美術評論家たちの論戦、その中でも東野芳明と宮川淳の「反芸術」に関する大激論など、わたしには今でもちんぷんかんぷんで理解できるというには程遠いですが、すくなくともその議論には美術や芸術といったジャンルでの「専門的」な議論にとどまらず、「世界はどうあり、どうあるべなのか」という現代社会そのものに対する議論でした。
 あの時代、美術は今流行の「アート」とはかけ離れ、時代の変革の野望が入り乱れた、とても刺激的でおしゃべりなものでした。その中心にいつもいたのが高松次郎だったのだと、いま改めて思います。
 最近また美術館へ足を運ぶようになったわたしは、街の喧騒から切り離された静かな空間にほっとする反面、展示されている作品とはまったく関係なく、美術館そのものが墓場に思えることがあります。こんなに静かでいいのか、係員に見張られながら少し薄明るい空間でまどろんでしまいそうになり、最初からぎらぎらした野心や好奇心などは街の喧騒に捨ててきて、手垢のついた解説に自己満足するだけにここに来ているのだろうか…と。
 「高松次郎 制作の軌跡」は、そんなわたしのまどろみをたたき起こしてくれたのでした。

高松次郎
1970年の万博の時に、インフォーメーションフロアーのトイレの壁に「影」が描かれました。

高松次郎
「点」シリーズ。描かれたものやオブジェまで、たくさんの作品が残っています。

高松次郎
「遠近法」シリーズのひとつ。「テーブルといす」

高松次郎
「単体」シリーズ。煉瓦のほか、大理石や木をくりぬいたものがあります。

8月のイベントを控えて忙しく、最終日に行くことになり、ご案内ができませんでした。
この日は友人と2人で行きました。いつもなら絵を描いている人と行くことにしていましたが、高松次郎となるとかなり拒否反応を持たれるかもしれず、妻からは「ひとりでいったほうがいい」といわれながら、最近林英哲やカルメンマキ、中川敬などつづけさまにライブに一緒に出かけているKさんを誘いました。Kさんはおそらくあまり絵にとくに関心がないのでしょうが、とびぬけた読書家で社会思想関係の本をよく読んでおられるので、案外高松次郎にぴったりかもしれないと思ったのです。
案の定、わたし以上にひとつひとつの作品を熱心に鑑賞するだけではなく、3500円もする図録まで買い、作品の本質に迫るコメントを話してくれました。

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