争う経済から夢見る経済へ。誰もが助け合って暮らせるゆたかな社会をめざすソーシャルビジネスを紹介しながら、演歌からポップスまで、好きな音楽への雑感や生活をつづる日記。

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【島津亜矢出演番組】
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ブログ「能勢町 学校統廃合を考える」

2016.08.30 Tue 島津亜矢「夫婦春秋」 NHK「思い出のメロディー」

島津亜矢2016年

 少し前になりますが8月27日、NHK「思い出のメロディー」に島津亜矢が出演し、「夫婦春秋」を歌いました。
 この歌は村田英雄が1967年、歌手生活10周年を記念して発表した曲で、関沢新一が作詞し、市川昭介が作曲しました。その後1979年頃に再ブレイクし、同年に日本作詩大賞特別賞受賞、それに続いて「夫婦酒」がヒットするきっかけになりました。「無法松の一生」でデビューし、「人生劇場」などいわゆる男歌のイメージが強かった村田英雄ですが、1961年の最大のヒット曲「王将」をはじめとして夫婦愛を歌う歌は数少ないものの、彼のまたちがった魅力を引き出した一曲です。 
 島津亜矢は昨年、島倉千代子の「東京だよおっ母さん」を歌い、生まれ故郷に帰れず戦死した兄の魂の弔いを心に秘めた母親のために、東京を案内する妹の心情を見事に歌ったのが記憶に残っています。1957年に発表されたこの歌には戦後の復興から高度経済成長へと走りはじめ、「もはや戦後ではない」と経済白書が宣言した時代に、帰るべき故郷をなくしたまま他国の地に塁を築く無数のたましいと、額縁の中の写真を磨くことでしか帰らぬひとのたましいを迎えることができない家族の「戦後はまだ終わっていない」という心の叫びが聞こえるようでした。
  「思い出のメロディー」という番組はいわゆる懐メロの番組ではなく、いまもまだ戦後71年を生きたひとびとの人生という記述されない歴史と、決して忘れてはならない「あの時」を歌で思い出す役割を持っているのでしょう。
 そう考えると、今年島津亜矢が歌った「夫婦春秋」にもその時代の記憶がぎっしりつまっていて、彼女はそのひとつひとつの記憶をおそるおそるほどくように歌い、リクエストされた方はもちろんのこと、会場におられたひともテレビでみていたひとも歌詞の一句一句をかみしめるように聴かれたことと思います。
 島津亜矢のファンの方々の中には美空ひばりの名曲などを彼女に歌ってほしいという願いがあるのを承知していますが、わたしは島津亜矢に「夫婦春秋」を歌わせたこの番組のプロデューサーの慧眼に拍手を送りたいと思うのです。先ほども書きましたが、「思い出のメロディー」という番組にもっともふさわしいこの歌を歌える人は島津亜矢の他にいないと、わたしもまた思うからです。
 この歌が発表された1967年、第二次佐藤内閣が発足した一方で美濃部東京都知事が誕生し、わたしの個人的な記憶ではタイガースなどグループサウンズが席巻し、ビートルズが衛星中継で「愛こそすべて」をライブ演奏した年でもあります。
 世の中は俗に「いざなぎ景気」という戦後最長の好景気で、「夫婦春秋」は戦後の混乱から復興をへて高度経済成長へと日本全体が大きく変貌するただ中にいて、つつましくもささやかな夢と希望につつまれながら、つらく苦しかった人生をふりかえる夫婦の心情を歌った歌です。「東京だよおっ母さん」から10年がたち、戦争中の記憶どころか、戦後そのものが遠く追いやられそうになる世相に、またしても歌謡曲によって記憶をよびもどされた名曲の一つだとわたしは思います。
 わたしは若いころにはすでに歌謡曲を聴かなくなっていたので村田英雄が歌うこの歌を知りませんでしたが、島津亜矢のアルバム「BS日本のうた7」に収録されていたことからこの歌をはじめてきちんと聴くことができました。
 この歌を聴きながらわたしは、この歌の歌詞というか語りを夫が妻にほんとうに声を出して言っているのか、それとも心の中でつぶやいているか、ずっと考えていました。そして、少なくとも島津亜矢の「夫婦春秋」は1967年という、「男が仕事で女が家庭を守る」というのが当たり前と思われていた時代に、直接声に出せない頑迷で不器用な夫が心の中で妻に感謝する歌なのだと思うのです。
 実際、島津亜矢の歌を聴くと見事な歌唱に圧倒されるだけではなく、彼女がこの歌をどのように受け止め、どのように理解し、それをどのように伝えようとしているのかと思ってしまうのです。
 わたしが聴くことのできる島津亜矢の「夫婦春秋」の音源は3つあります。一つ目は1998年に彼女が20代後半に歌った時のユーチューブの映像、二つ目はアルバム「BS日本のうた7」の収録、三つめが今回の番組です。もちろん、古くからファンの方はコンサートや古い歌番組で聴いておられるかもしれませんし、わたしも2011年からはコンサートに必ず一度は行ってますので、聴いているかもしれません。
 それぞれ少し違いはありますがどの時も稀代の歌手・島津亜矢の歌唱は素晴らしいものがあります。その上で20代の時はのびのあるナチュラルな歌声と、演歌の王道の小節とうなりが無理なく入ったみずみずしい歌唱です。アルバム「BS日本のうた7」は2012年の発売ですが、ここ数年の島津亜矢の進化はファンであるわたしの想像と願望をはるかに超えていて、このアルバムのスタジオ録音とミキシングによる音源と、今回の一発勝負のライブとその時のPA(音響)に左右される音源では単純に比較できないのですが、あきらかな違いを感じるのです。
 たしかに聴きようによっては若い時の方がよいと言われる方々もたくさんおられることでしょう。実際、若い時の島津亜矢の圧倒的な歌唱力は聴いていて痛快で、それまでむしゃくしゃしていた気持ちも吹っ飛んでしまう清涼剤の役目を果たしています。
 しかしながら、最近の島津亜矢の歌はもしかすると歌に対して思い悩んでいるのかなと勘違いするぐらい丁寧な歌唱と若い時のようなブレスがはいらないこと、声量が衰えたのかなと思うぐらいマックスを抑えることでむしろより遠くまで聴こえる歌唱法、そして聴いていてぞくっとするほどセクシーで肉厚がある低音とさまざまあります。
 しかしながら最大の違いは単に歌のうまい演歌歌手の歌ではなく、自分が感じたその歌の心を誰に伝えたいのか、「歌を語る」のではなく「歌を詠み」、「聴く人に歌を歌う」のではなく「聴くひとの歌を聴く」、その真摯な姿勢にあり、歌を歌っているときの彼女の美しさにあると思います。
 この歌に限らず、古くから歌っている歌の時々の映像と今の島津亜矢を聴き比べる楽しみは、他の歌い手さんでは味わえないものがあります。
 ともあれ今回の歌唱も期待以上で、「思い出のメロディー」という番組にふさわしいものになり、それまでにぎやかだったステージを引き締める役割を果たしました。
 きっとこの番組のプロデューサーの信頼もより厚くなったのではないでしょうか。

島津亜矢「夫婦春秋」

村田英雄「夫婦春秋」

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2016.08.23 Tue 島津亜矢「糸」と、親友K君の思い出 

島津亜矢「syinger3}

 今年のお盆はプライベートに小さな事件があったり、8日に大腸検査をした後あまり体調もよくない日が続いたりと、何かと落ち着きませんでした。
 もっとも、昨年は働いていた基金団体の大きなイベントでお盆どころでなかったものの、いままでは働いていましたので世間と同じ「盆休み」がありました。
 仕事をやめて一年がたち、今年はじめて「盆休み」ではないお盆だったこともとまどった一因だったかもしれません。その意味では今年はじめて、今は亡き人たちを迎え、また送るという「お盆」の儀式がわたし自身のものになったのかもしれません。

 夢を見ました。親友だったK君の夢でした。2009年になくなったK君はわたしに島津亜矢を教えてくれたひとでした。
 暗い3年間をくぐり抜けた高校時代、数少ない友人の支えで何とか卒業したわたしでしたが、一人で暮らしていく勇気がなく、卒業と同時に友人2人と共同生活を始めました。そのうちの一人がK君でした。
 わたしは「隠れ家」を探していたのだと思います。その後一度は一人暮らしをしますがすぐにK君をふくむ6人で共同生活をはじめました。6人の暮らしは今でいうシェアハウスをみすぼらしくしたもので、生活費を削りながら、いつかは自分たちで共同事業を始めたいという甘い夢をみていたのでした。そして、世間に吹き荒れた70年安保闘争の終焉と時を同じくして共同生活は終わり6人はばらばらになりましたが、K君との友情は途切れませんでした。
 1970年、わたしとK君は妻の父親の会社に就職しました。彼は後年ベトナム難民の受け入れを会社に働きかけた関係で、ベトナムの合弁会社の経営に力を尽くしました。
 2008年暮れ、ベトナムでの健康診断で肺がんが見つかり翌2009年1月に帰国、大阪の病院に入院したと聞き、妻と見舞いに行きました。すでに末期で最先端の治療を受けましたが、甲斐なくその年の秋に逝ってしまいました。
 彼が入院しているときにCDを届けようと思い、何がいいか尋ねると、島津亜矢のCDを持ってきてくれと言いました。わたしは妻の母親と同居していて歌謡曲の音楽番組を見ていましたのでかろうじて島津亜矢を知ってはいましたが、なぜ演歌の中でもそれほど知られていない島津亜矢なのか不思議に思いました。
 彼が言うには、日本から遠く離れたベトナムでNHKの「歌謡コンサート」を見ていて、時々出演する島津亜矢の歌に心が震えたそうです。彼女の歌がどれだけ遠く深く異国で生きる日本人に届いているかを証明する話で、彼に導かれるようにわたしは島津亜矢のファンになったのでした。
 夢の中に現れたK君はとてもはっきりしていたので、びっくりしたわたしは「K君、どうしたんや、死んだんとちゃうんか」と訊くと、「いろいろあってな、別のところで生きてたんや」というのでした。そうか、よかったよかったと喜んだのもつかの間、夢から追い出され、身体を縮ませて号泣していました。やはり、盆なのでしょう。彼が逝って7年もたってこんなにはっきり言葉を交わしたのははじめてでした。
 2009年の紅白で「いきものがかり」は、「さよならは悲しいものじゃない、それぞれの夢へと僕らをつなぐYELL」と歌いました。わたしはこの歌が大好きですが、卒業していく中学生の背中を押す言葉ではあっても、死んでいったK君のことを思うと悲しくて到底歌えないと思っていました。
 しかしながら、死んでしまった友との友情もまた「僕らをつなぐYELL」であり、今もわたしに生きる勇気を届けてくれることを、夢の中のK君が教えてくれたのでした。 わたしが島津亜矢の魅力にとらわれてしまい、友人たちから「いつ飽きるかな」と言われながらますます深みにのめりこんでいくのも、K君との友情のおかげなのかもしれません。

 「SINGER3」について書くつもりが、前置きとは言えない長い前置きになってしまいました。このアルバムから何曲か取り上げ、感じたことや思い出を書くつもりでしたが、全15曲を順番に聴いてみて、中にはそこは個人的には違うかなと思う歌唱もありますがどの曲も素晴らしいので、長い短いはあるものの順番に書いていこうと思います。
 一曲目は「Saving All My Love For You」。ホイットニー・ヒーストンがカバーした曲で、妻子のいる男を愛してしまった女性の哀しさを歌った曲です。美しいメロディとホイットニーのとびぬけた歌唱力で大ヒットしました。
 島津亜矢はホイットニーの「I Will Always Love You」をカバーして大きな反響を呼びましたが、「Saving All My Love For You」も見事に歌っていて、島津亜矢のファンの方々に叱られますが、実人生で経験があるのかなと思わせるほどの説得力です。
 島津亜矢はホイットニー・ヒーストンがとても好きなのだと思います。ホイットニーが出た時、その圧倒的な歌唱力に世界中のひとびとが驚きと賛辞を贈りましたが、島津亜矢の場合は洋楽のバラードを歌うお手本の役目もしていたのかもしれません。
 ホイットニーの歌人生も実人生も華やかな頂点から不幸が重なり、悲しい死を遂げました。島津亜矢はホイットニーの歌だけでなく、その悲劇までも受け止める歌唱で、派手さはないもののじんわりと心にしみわたっていくような歌になっています。
 2曲目は前回書いた「ダンシング・オールナイト」、3曲目は中島みゆきの「糸」です。
 この曲は1992年、結婚のお祝いにつくられた曲で、その後数多くの歌手がカバーしています。
 この歌に限らず日常風景の小さな場面で、特に女性の心のひだや切ない心情を深い比喩で表現した詩と、どこか昔のはやり歌のような懐かしい曲調が響きあう中島みゆきの歌を聴くと、同時代の誰もたどりつけない新しい歌謡曲の鉱脈を掘り当てたような複雑な感情がわいてきます。
 振り返ると、阿久悠がその作詞を通して時代を表現するだけでなく、3分間の歌で時代を変え、時代をつくるために悪戦苦闘していた1970年代から出発した中島みゆきは、まさに時代の申し子として、阿久悠の野心を実現させたと言えるでしょう。
 個人的にはわたしはデビュー当時から1979年の「親愛なる友へ」、1980年の「生きていてもいいですか」の2つのアルバムの頃が大好きです。この頃はその才能は高く評価されたものの、暗い歌が多いと敬遠されるところもありました。それ以後シンガー・ソングライターとして、また数多くの歌手に楽曲を提供する作詞・作曲者として大ブレークした中島みゆきですが、わたしは華やかで明るい歌の歌詞や曲の中に70年代にあった暗さというか、時代をつらぬく傷のようなものが含まれていて、そこが彼女の楽曲の魅力でもあり、本人以外がカバー曲として歌いこなすのが難しいところでもあります。
 島津亜矢もまた知る人ぞ知る時代の申し子でもあり稀代のボーカリストとして、中島みゆきのカバーソングを好んで歌ってきました。「糸」は数多くの歌手が競って歌っていますが、わたしはほとんどの歌手が「絆」ソングとされる歌詞を表面的にとらえ、メロディの美しさに騙されて歌唱力だけを披露するのにとどまり、この歌の深さと暗さにまでは届いていないと感じています。
 さて、島津亜矢ですが「絆」ソング、癒しのバラードとしてだけではなく、中島みゆきの「怖さ」や「鬼気」までも受け止めて、この歌のもっとも深い所から歌っています。ただそれが少し行き過ぎて、2番の歌唱では出自である演歌のうなりを入れてしまいましたが、わたしはそこもふつうに歌ったほうが良かったと思います。もっとも、この歌は2番の歌詞がもっとも深く、そのことを知っているからこそ思わずうなってしまったのかもしれません。
 ともあれ、中島みゆき本人が「オールナイトニッポン」で、Jポップの並みいるボーカリストのカバーを差し置き、わざわざ島津亜矢の「糸」をかけ、「このひとは景気がいいですよね。いいです。あの方の雰囲気好きですわ。」とコメントしたことで、島津亜矢の歌唱の素晴らしさが証明されたのではないでしょうか。やはり中島みゆきはこの歌を単なるバラードの名曲として歌われることに少し違和感を感じているのかもしれません。
 阿久悠が晩年に島津亜矢の歌唱力を認めていたことや、阿久悠にオリジナルを提供してもらうチャンスを逸したことを思い返し、島津亜矢のチームには中島みゆきに楽曲提供の依頼をしてもらいたいと強く思います。
 名実ともなうボーカリスト・島津亜矢の誕生がすぐそこまで来ている今、中島みゆきや宇多田ヒカル、桑田佳祐、小椋桂など、Jポップとは一線を画す歌の作り手による野心作を島津亜矢が歌えば、ほんとうのメガヒットが生まれる予感がします。

島津亜矢「糸」(中島みゆき オールナイトニッポンより 中島みゆきのコメントあり)

中島みゆき「糸」

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2016.08.22 Mon 映画「不思議なクニの憲法」上映会を終えて

不思議なクニの憲法

 8月21日の映画「不思議なクニの憲法」上映会の来場者は10人という残念な結果となりました。能勢地域の新聞折り込みチラシとフェイスブックのみの情報宣伝では、こういう結果になることはわかりきったことでもありました。
能勢町民の方々の心に触れるような催しとはならず、また他地域からの参加は交通の便があまりにも悪い上に、この映画は今まで近隣の市町村で何回も上映されていて、私たち自身も参議院選挙前日に無料上映会をしていること、さらには盆明けの行楽はいざしらず、暑い最中の催しというのも響いたのでしょう。
 それを承知で開催しましたので散々な結果と嘆くこともなく、むしろ10人もよく来てくれたと思う気持ちもまた正直なところです。
 それはそれとして、ご来場の方のお1人がおっしゃったご意見が少し気になりました。その方は10月にこの映画の上映会を計画されていて、それまでにどんな映画なのか見ておこうと、遠方から来てくださったのでした。
 来場者が少ないのは主催者の力量だけではなく、この映画そのものに疑問があるというご意見でした。短い時間のやりとりなので行き違いもあると思いますが、いままで憲法のことなど考えたこともない人には難しく、市民活動や政治的活動をしている人間にはいまさらという感じで、対象が限られているのではないか。この映画を見て、何か一歩を踏み出すような動きというか、三宅洋平のようなエンターテインメント性に欠けるのではないか。ただのドキュメンタリーで終わっていて、夢を見させてくれるようなフィクション・物語がない。参議院選挙前に作られた映画で、その後の続編を撮ってもらいたい、正直この映画を上映する意味があるのか…。
 ここまではっきりと話されていないかもしれないのですが、先の参議院選挙で「兵庫ミナセン」という野党共闘と市民活動をすすめ、一定の成果があったことなども話され、ご自身やその政党の政治活動をアピールするためにこの映画の上映を計画しているというお話でした。
 わたしはこの映画にまったく違う感想を持っています。そもそもこの映画を政治的な活動への参加を促したり次の選挙への起爆剤にしようと考えておられるなら、やめたほうがいいと思います。もちろん、この映画の感想はそれぞれのひとによってちがって当たり前なのですが、三宅洋平などのアーティストのライブやトークイベントとはちがい(ほんとうはそれらもふくめて)、映画や演劇や美術などの表現行為を、とくにある一定の政治的な方向性を示したり政治的な活動の方法としてしまってはいけないと思うのです。といって、何も芸術や音楽やロックに政治を持ち込むなという意味ではありません。
 反対に、わたしはこの映画は映画だけで十分政治的で、それを目前の政治活動や選挙運動の道具や方法と考えてしまうのはこの映画に失礼なだけでなく、映画を見たひとたちにも失礼だと思います。何も誰かやどこかの団体の活動に勧誘されるためにこの映画を観にきたわけでもなく、その役割をこの映画が果たさなければならない義務もないのですから。
 芸術を国家権力によって統制する歴史は古く、表現の自由はいつの世も危機に瀕してきたといっても過言ではありません。その中でも一番やっかいなものは国家による統制を恐れて自主規制することや、ひとつの表現行為を政治的な力の行使の道具としてしまうことで、それはそれらの行為がもっとも否定してきたはずの国家の統制となんら変わりのないものだと思います。かつてのソビエト国家による「国家にもひとびとにもわかりやすく、ひとつの目的に準ずる」社会主義リアリズム、スターリニズムは終わったのかもしれませんが、ひとびとの社会主義リアリズムは高度資本主義を生きるわたしたちの心の底辺で今も増殖しているのだと、彼の話を聞きながらあらためて実感しました。

 そのうえで、この映画をその内容ではなく映画そのものとしてわたしがどう感じたかをお話ししたいと思います。
 監督の松井久子さんは「ユキエ」や「折梅」でアルツハイマーを抱える女性とその家族の心情をドキュメンタリータッチで描き、どちらも大きな反響を起こした監督で、わたしはかつて大阪府箕面市で「折梅」を上映する実行委員会に参加したことがあります。
 松井久子さんが「不思議なクニの憲法」という映画を参議院選挙までに完成させ、たくさんのひとに見てもらいたいという強い想いは、先ほどの方のようにこの映画を政治的な活動に利用しようとするひとたちに反応されやすいものではあります。
 しかしながら、この映画は松井久子さん自身の心情や考え方を表現するための映画ではなく、むしろそれらを横に置き、さまざまなひとに憲法と民主主義とそれにまつわるその人自身の人生や願いを加重なく真摯に聞き取って見せた、最近少なくなったドキュメンタリーの王道を行く映画だと思います
 出来事をライブに伝えたり過去を振り返るのではなく、できるだけ多くの人間にただひたすらインタビューするこの映画は、登場する世代も思想信条も違うひとびとの個々の言葉とその表情の向うに、いまこの時の時代の全体像が浮かび上がってくる興奮に包まれます。おそらく監督もカメラもマイクも、もっと踏み込むことをじっと我慢しているのだと思います。それよりも先は、相手の心の揺らぎを土足で踏みにじることになることを知っているから…。そしてその我慢がこの映画全体を時代の深層へとわたしたちを案内してくれるのでした。例えば辺野古や高江のたたかいを描くのならば映像になりやすいでしょうが、憲法という、動きも具体的な形象もなく映像的に何も期待できないものを題材に、ただひたすら話を聞き、表情を正面から映し続けることで不在の主人公である憲法と民主主義、そして時代そのものを浮かび上がらせたこの映画はエンターテインメイトを必要としない冒険にあふれていると思うのです。
 さきほどの彼の言葉を引用すれば、この映画はわたしたちをかき立てるのではなく、わたしたちに立ち止まる勇気をくれる映画だと思います。
 そう考えると、この映画はなかなか映画そのものとしては見てもらえない不幸を持ち続けることでしょう。そしていつも目先の政治性を求められ、失望させることになるのかもしれません。

 今回の上映会をふくめて、わたしは7回もこの映画を観ました。ひとつの映画をこれだけ何回も見たことはありません。しかしながらいつ観ても新しい発見がある不思議な映画です。たしかに「憲法」というだけで間口は狭くなるのはやむを得ないと思いますが、憲法のことをよく知っているひとこそ、もう一度真っ白な心でこの映画を観てもらいたいと思います。また、憲法というと少し身構えるけれどちょっとした勇気を出してこの映画を観たひとは、この監督の意図通り、憲法が自分の人生を支えてくれたり励ましてくれていたことに気づくと思います。
 そして、他ならぬ観客のわたしたちひとりひとりにマイクとカメラが向けられたところで、映画は終わります。現実に戻ると、この映画の終わりと参議院選挙とはつながっていて、その結果を知っているわたしたちはこの映画の続編のインタビュアーに何を語り、どんな表情を見せることになるのでしょう。

映画「不思議なクニの憲法」公式サイト

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2016.08.17 Wed 8月21日 映画「不思議なクニの憲法」上映会にご来場をお待ちしています。

不思議のクニの憲法

 8月21日、能勢町淨るりシアターの隣にある能勢町生涯学習センター(図書室2階)で、映画「不思議なクニの憲法上映会」を開きます。 
映画「不思議なクニの憲法」はデビュー作「ユキエ」や第二作「折り梅」など、福祉や高齢者、介護、家族といった現代的な問題に関心をもつ松井久子監督作品です。

 この映画は、憲法論議が政治によって進められるのでなく、主権者である私たち国民の間に広がることを願ってつくられたものです。
 国のかたちをきめる憲法に、誰もが当たり前に関心を持ち、正しい知識を得、そして理解を深めるために、歴史的事実を重んじながら「意見」よりも日常に根ざした「人びとの声」に耳を傾けます。
 怒りや憎しみから出発する議論は広がっていきません。対立よりも冷静な選択を…。
 私たち一人ひとりが個として大切にされる自由な社会を守りたい。
 映画にメッセージがあるとすれば、その一点の「希い」のみです。(監督・松井久子)

この映画は憲法論議が主権者であるわたしたち国民の間に広がることを願い、日常に根差したたくさんの人々の声に耳を傾けたドキュンメンタリー作品で、映画館での上映だけでなく、全国各地の人々による自主上映がつづけられています。
わたしたちはこの映画の上映会を通して、国の形を決める憲法に誰もが当たり前に関心を持ち、わたしたちと次の世代の未来を考えるきっかけになることを願っています。
近隣の方へのご案内ですが、皆さんのご来場を心よりお待ちしています。

くわしいご案内と交通アクセス

映画「不思議なクニの憲法」公式サイト
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2016.08.15 Mon 戦争の傷跡と傷痍軍人と民主主義 戦後生まれの8月15日

戦争廃墟

 今日は戦後71年目の8月15日、終戦記念日です。今年も戦没者を慰霊する全国戦没者追悼式が東京の日本武道館で行われ、全国から遺族の代表などおよそ6000人が参列しました。日本のみならず、アジアをはじめ世界中におびただしい戦禍を残した第二次世界大戦の戦没者の方々のたましいを慰霊するとともに、二度と戦争を起こさず、テロを防ぐために国や地域のグループのみならず、わたしたちひとりひとりが不断の努力をしなければならないことを強く感じます。

 わたしは戦後生まれで、戦争の生々しい体験もなく、また空襲にさらされた経験もありませんが、町のいたるところに戦争の傷跡が残っていました。やけ崩れ、廃墟となった建物は立ち入り禁止になってなくて、ひしゃげたヤカンや割れた茶碗、焼け焦げた服、いろいろな家財道具や生活用具が散乱していました。理不尽で悲惨な時が無数のしかばねと悲しみと怒りと絶望を足早に連れ去った後の廃墟は、わたしたち子どもの遊び場でもあり、隠れ家でした。
 母は女手ひとつで兄とわたしを育てるために、大衆食堂を切り盛りしていました。夏の夜、バラックのお店で近所のおじさんたちはちりめんシャツとステテコ姿で縁台にすわり、うちわを仰ぎながら将棋をさしていました。するとシミーズ姿のおばさんが「もうそろそろ帰ってきて」と呼びに来るのでした。
 黒い土と牛フンと鉄条網と280円のラジオと添加物いっぱいのみかん水。進駐軍のジープとアメリカ兵とキャデラックとドッジボールとチューインガム。青空と自由と缶けりとべったんとかくれんぼ…。貧乏ながらも明日へのおぼろげな希望と夢をふりかけた戦後民主主義の幻想と、まだ戦争の傷跡が残る風景とが入り混じっていました。
わたしは大阪環状線で高校に通っていたのですが、大阪城の近くにあった大阪砲兵工廠跡の廃墟を毎日みていました。学校帰りの電車の中で、白装束と義足、義手で松葉づえをつき、首から募金箱をぶらさげた男たち数人が突如現れました。ハーモニカやアコーディオンで「戦友」を演奏し、先の戦争での悲惨な体験を演説し、生活の困窮を訴えるのでした。彼らが現れ、演奏と演説がはじまったとたん、電車の中はとつぜん芝居の空間になり、怖さ半分がまじったわくわくした高揚感につつまれたものでした。
 戦争で障害を持った彼らは傷痍軍人とよばれましたが、戦後の街のいたるところで募金活動をしていました。彼らの訴えは、「戦争で障害者になり、働くこともできないこんな体にしたのは誰だ。国ではないか」という怒りと、「あんたらがいま平和に暮らせるのはだれのおかげだ、お国のために戦って腕を無くし、足をなくしたわれらのおかげではないのか」という心情的脅迫とが共存していました。
 わたしが高校生の頃まで、とくに大阪環状線沿線の大阪城付近では彼らの存在はあたりまえの日常でした。にせものがいたというのも本当なのでしょうが、軍人や兵隊でなくても戦争のために障害を持ってしまったひともいたでしょうし、そうでないひともいたとしても、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めているはずの日本国憲法をもってしても「障害者」としての彼らの生存権を保障できなかった以上、彼らの行動がまちがっていたとだれが言えるでしょうか。
 彼らは彼らなりの障害者運動をしていたのだとわたしは思います。
 わたしは傷痍軍人の存在によって明治以来、お国のために死んでいったひとたちや傷ついた人たちのことを学びました。しかしながら、それと同時に明治以来の国家の戦争でアジアの各地で死んでいったひとたちや傷ついたひとたちが無数にいたことも、終戦間近の空襲と原爆投下によって死んでいったひとたちや傷ついたひとたちのことも知りました。

 そして時が過ぎ、傷痍軍人たちはいつのまにかいなくなりました。わたしたちの前から姿を消した彼らはその後どんな人生をおくったのでしょうか。そして大阪砲兵工廠跡もすっかりなくなり、今はオフィスビル、ショッピングビル、大阪城ホールが立ち並び、おしゃれなスポットになってしまいました。
 傷痍軍人が闊歩?していた街の景色は、今はたとえば唐十郎の芝居の中にしかないのでしょう。そういえば唐十郎はよく傷痍軍人を登場させていたように思います。
 彼らがいなくなることで街はこぎれいにおしゃれになりましたが、わたしは障害者の問題としても戦争と平和を考える上でも、彼らが訴えたことは今でも大切なことだと思っています。むしろ、わたしたちの社会はそれらのことを避けることで多くのものを得たかもしれないのですが、とても大切なものをなくしてしまったのかもしれません。

カルメン・マキ「戦争は知らない」
寺山修司作詞、作曲はリンド&リーダーズの加藤ひろしです。わたしは坂本スミ子バージョンが好きでした。今では、寺山修司の秘蔵子だったカルメンマキが歌い継いでいます。

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