争う経済から夢見る経済へ。誰もが助け合って暮らせるゆたかな社会をめざすソーシャルビジネスを紹介しながら、演歌からポップスまで、好きな音楽への雑感や生活をつづる日記。

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2018.06.20 Wed 無事です。ありがとうございます。1995年1月17日、ブロック塀とおばあさんの死

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 6月18日の朝、ほんとうに大きな揺れでした。お気遣いくださった方には個別に報告させていただきましたが、わたしの住む能勢では思いのほか被害はなく、わたしたち夫婦も近隣に住む子供たちも無事でした。一安心しつつも、他の地域の被害に心が痛みます。また、余震が頻繁に起こり、不安な心持で過ごしています。
 妻の母親が亡くなってちょうど2か月になりました。最近、彼女をはじめとして身近な人が次々と亡くなり、いつのまにか自分の前に同時代を生きる人々が少なくなり、心を分かち合う友や先人がいなくなってしまった寂しさや孤独と、人間関係や仕事のわずらわしさから自由になったような不思議な感覚にとらわれます。
 それはほんとうの「老い」がいよいよ始まったことでもあり、生き急ぐことも死に急ぐこともできず、若い時には想像もできなかった「自由」を持て余すことでもあり、若い時に読んだサルトルの「人は自由の刑に処せられている」という言葉が心にしみる毎日です。

 わたしの年齢では阪神淡路大震災の体験が心にしみついていて、あの時以来、自分が大地にしっかりと根を下ろしている感覚がなく、浮遊している感覚に囚われたままなのですが、今回の地震はその感覚をあらためて鮮明に塗り重ねることになりました。
特に、高槻の小学校のプールのブロック塀が倒れて小学生の女の子が亡くなった痛ましいニュースを知り、阪神淡路大震災の時の記憶がよみがえりました。
 1995年1月17日の朝、激しい揺れの後の余震におびえながら、その頃住んでいた家が豊能障害者労働センターの事務所に近かったこともあり、当時は事務所で仮住まいをしていた脳性まひのKさんの様子を見に行きました。
 事務所の玄関を開けるとKさんは上り口のところで身を乗り出していました。その間にも頻繁に襲う余震でプレハブの事務所はガタガタ、バリバリとけたたましい音を出しながら小刻みに揺れ、そのたびにKさんとわたしは「アアッ、ヤアッ、オオッ」と意味の解らない叫び声を発しながら強く抱き合うのでした。
 しばらくして、朝ご飯を食べに行こうと外に出ると、隣の家のブロック塀が道の方に倒れていました。今回のニュースで見たのと同じで、崩れるのではなくそっくり倒れていて、ブロック塀がとてももろいものだと知りました。簡単につくれるものだからどこの家でも、 また今回のような学校のプールの目隠しのために多用されていますが、時には控え壁もなく、また鉄筋がとてもたよりなかったり、中には鉄筋を入れない違法な建築になってしまうのだと思います。
 倒れた塀のそばで、隣の家のおばあさんが立っていて、「こわかったね。大丈夫?」と、車いすに乗ったKさんに声をかけてくれました。わたしたちは「ありがとう」と言いながら道路に出て、朝ご飯を食べにいきました。
それから一週間後、そのおばあさんが亡くなりました。
 その年、豊能障害者労働センターは被災障害者の救援活動に明け暮れる毎日を過ごしましたが、その中にいたわたしは今でもそのおばあさんとの何気ない会話を忘れることができません。
 関連死もふくめて6434人の死者の中に、彼女の死はおそらく入っていないことでしょうし、関連死にさえ入らない彼女のたましいは、数えきれない多くのたましいとともに、生き残ったわたしたちの記憶の底に眠っているのだと思います。

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2018.06.06 Wed まっちゃんのこと わたしの「極私的路地裏風聞譚・河野秀忠さんがいた箕面の街」 NO.6

 以前にも書きましたが、豊能障害者労働センターが最初の箕面市桜井の事務所を拠点に活動した5年は、ほんとうに貧乏ではありましたが豊かな年月でもありました。
 わたしたちみんながそうであったように箕面での河野秀忠さんにとっても、その年月は宝物であったことでしょう。それまで全国展開ですすめてきた障害者運動を、もっとも身近な地域で最初の一歩からつくりあげるプロセスには、運動もまた国家の暴力に対置するために暴力的になってしまうことが許されませんでしたし、理念だけでは障害者に対する差別と偏見を打ち破ることはできませんでした。
 誰が敵で誰が味方かもわからず、そもそも敵味方などという整然とした「たたかい」などは地域では無縁で、若い障害当事者もその親も、そのころにわかに現れたボランテイアのひとたちも、市役所にはためく「国際障害者年・完全参加と平等」の垂れ幕とはもっとも遠い地平で次々と起こる事件や問題に右往左往していました。
 木枯らしが遊んでは通り抜ける築30年の民家の破れ畳に座を構え、ビールを飲みながら古くは1950年代の三池炭鉱闘争から1970年代の青い芝や全障連などの障害者運動まで独特の語り口による河野さんの話はどれも新鮮で衝撃的で、真綿にしみ込むようにわたしたちの心に追記憶されていきました。
 その中でも、広島の「まっちゃん」こと松本孝信さんは埼玉の八木下浩一さんとともに、よく話に出る人でした。関西青い芝が論争の末に分裂し、松本さんは全国青い芝運動の一員で、組織的には河野さんとは袂を分かれたことになっていたのですが、心底では深くつながっている親友だったと思います。わたしたちも河野さんから「まっちゃん」の数々の武勇伝を聞いていましたので、まだあったことのないひとなのに松本さんをとても親しく感じていました、
 松本孝信さんにはじめて会ったのは1984年ぐらいだったでしょうか、そのころ河野さんが続けさまに障害児教育創作教材を執筆し、わたしたちはそれらの本を車に一杯積んで、全国の小・中学校などで自主教材として利用してもらうように障害者運動体からの働きかけをお願いしにまわっていました。
 その時も地域の教職員組合への働きかけを目的に広島に行き、厚かましくも松本さん宅に泊まらせてもらったのでした。
 わたしと豊能障害者労働センターの障害者スタッフの梶敏之さんと、今は被災障害者支援「ゆめ風基金」事務局長の八幡隆司さんの3人で松本さんの自宅にうかがいました。
 「よう来たな」といいながら、松本さんが介護者の青年に「おい、タンスを倒せ」と言ったので、私たちも介護者の青年も声をそろえて「タンスを倒すんですか?」と聞きなおしました。松本さんは「あたりまえやろ、はるばる大阪から客人がお見えなんや、おもてなしのテーブルにするんや」と言いました。
 そして、「タンスにゴン!これが俺の障害者運動や」といいました。河野さんから松本さんの人柄もなんとなく理解していたつもりでしたが、ウィットに富んだこの言葉を聞き、河野さんから聞いていた以上の松本さんのすごさに、河野さんがあんなに「まっちゃん」のことをいうはずや」と納得しました。1970年代、世間のすべてを敵に回しても「殺されてたまるか」と障害者運動の熾烈な闘いを通り過ぎ、今なお障害者の生きる権利を獲得する運動を繰り広げる松本孝信さんが放つ「タンスにゴン!」という言葉から、彼がその真っただ中にいた障害者運動の歴史と深い思いがあふれていました。
 そして、「大阪のやつはすぐに本やら何やらを持ってきよる。そらな、俺らは売るよ、売ったるけどな、いい加減にせえよ」と言った後、わたしたちがしばらく介護者の青年と話をしている間に電話をかけ、「今な、大阪からな、来てくれてんねん」と猫なで声で話す電話の相手は河野保子さんで、ほんとうにうれしそうで懐かしそうで、しばらく話した後に「河野はんおらんのか、よろしゅうな」と電話を切りました。
 そして、黙っている梶敏之さんに「裸の付き合いをしょうや」と上半身裸になり、梶さんも笑いながら裸になり、「名前何て言うの」と松本さんが聴くと、梶さんは「クックック」と笑いながら「カジ トシユキ」と言いました。「やっとしゃべってくれた」と松本さんも上機嫌でした。
 明くる日の朝、まだ寝床にいる私たちに「今日は神奈川青い芝の結成(?)年で、呼ばれてるから今から行くわ」と玄関からの逆光でシルエットから湯気のようなものが出ていました。というのも、その日は冬の寒い日で、八幡さんが「松本さん、昨日裸になって寒くなかったんですか?」と聞くと「何いうてんねん、寒くないはずないやろ、おかげで風邪ひいてしもたわ」…・。

 「松本さんが危篤やそうで、今から広島に行く」と、ゆめ風基金の橘高さんから電話をもらったとき、すぐにこのエピソードを思い出していました。
 去年、河野さんの通夜の時に、「喧嘩する相手がおらんようになって寂しい」と話された松本さんは、4月19日の「河野さんをしのぶ会」で牧口一二さんと対談する予定でした。急なことで、当日二人の写真の前で、似た者どおしの二人のエピソードで盛り上がったようでした。

 松本孝信さんが亡くなった同じ4月18日に妻の母親が亡くなり、わたしは河野さんをしのぶ会に参加はかないませんでした。

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いつだったかはっきり覚えていませんが1990年代はじめ、Fさんの結婚お祝いパーティーの時のキャベツ畑の厨房にて。
30年前ですから、みなさん若いです。
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2018.05.28 Mon 「演歌のちあきなおみ」のくびきから解き放たれて。島津亜矢の「喝采」、5月8日の「うたコン」

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 ずいぶん前になってしまいましたが、5月8日のNHK「うたコン」で、島津亜矢が「喝采」を歌いました。
 この歌はご存知のようにちあきなおみが1972年に発売した楽曲で、この年のレコード大賞を獲得し、紅白歌合戦でもこの歌が歌われました。
 この歌に限らず、また島津亜矢に限らず、ちあきなおみの歌を歌うことは人知れずプレッシャーがかかるのではないかとわたしは思います。それはいまだにかなりの数の「ちあきなおみ命」という熱烈なファンがカバー曲を寄せ付けないことだけが理由ではありません。
 むしろ大衆音楽全体がちあきなおみの立ち位置を「演歌・歌謡曲」としていることに根本的な行き違い、誤解があり、そのために彼女の楽曲を歌うのがどちらかといえば演歌・歌謡曲の歌い手さんが多いという事情があります。この歌が発売された1972年は、今のJポップとはちがう「ポップス」というジャンルがあり、ちあきなおみはデビューからずっとポップス歌手で、そこから考えればもっとJポップのジャンルからちあきなおみをカバーする歌手が生まれていいはずです。
 この不幸な現実はちあきなおみという不世出の歌手の不幸だけではなく、日本の大衆音楽の不幸でもあるとわたしは思います。
 ちあきなおみほど、自分が歌うべき歌、歌いたい歌を探し続けた歌手はいないのではないかと思います。米軍キャンプ、ジャズ喫茶やキャバレーで歌ったりと下積みの時代を経て1969年に「雨に濡れた慕情」でデビューし、その後の華々しい活躍の中でも、彼女のビジュアルから「魅惑のハスキーボイン」というキャッチフレーズをつけられたりして、芸能界になじめず自分らしい歌手像を求めつづけたといいます。
 あきなおみはポップス歌手としての印象が強くありましたが、その後は「さだめ川」、「酒場川」、「紅とんぼ」、「矢切の渡し」などの船村演歌の名曲もたくさん歌いました。
 また、ニューミュージックのアーティストから楽曲提供を受け、中島みゆきの「ルージュ」や友川カズキの「夜を急ぐ女」などをレコーディングしました。さらにはシャンソン、ジャズ、ポルトガル民謡のファドなど、その探求心は彼女の歌を至高の芸術にまで高めました。

 「喝采」は、そんな彼女の変貌のターニングポイントとなった曲で、彼女のそれ以後の圧倒的な歌唱力による独特の世界への第一歩だったように思います。
 その真骨頂は「演劇的」ということに尽きると思います。1977年の紅白歌合戦での友川カズキの「夜を急ぐ女」の鬼気迫るパフォーマンスは、今でも語り草になっています。
「喝采」はそこまでの演劇性を歌唱としては求めていないのですが、ヒットチャートにすんなり納まるポップスであるだけでなく、私小説的なプロデュースが彼女の歌によって実現できた第一作だと思います。作詞者の吉田旺とはデビューからの深い親交があり、シャンソンやファドなど、ちあきなおみの音楽的冒険を理解し、共に彼女の世界を広げていったひとで、「喝采」においてもその演劇性の一端を歌詞にしていると思います。
 さて、島津亜矢の「喝采」ですが、依然に歌唱した時と比べて段違いで、なんといってもセクシーな低音が物語るこの歌の私小説な物語と、歌の中のヒロインの歌手を演じ歌うという難しい二重構造を、オリジナルのちあきなおみとは少し違う切り口で物語にしました。ちあきなおみは作中人物に寄り添う巫女のように、ライトに照らされていないヒロインの孤独を歌い上げましたが、島津亜矢の場合は語り手としてのもう一人のヒロインが一幕物の浄瑠璃の芝居を物語るように、やや力強く歌ったのが印象的でした。
 この歌に限らず、島津亜矢でさえも「演歌としてのちあきなおみ」に囚われていたように思います。演歌の歌い手さんがちなきなおみを演歌ととらえて歌う数々の音源は、彼女のたどりついた世界からはかなり稚拙ものが多いと思います。歌が下手で歌唱力がないのではありません。歌が持っている闇の魔力にたどり着かないというべきか、歌の物語の読みがちがうというべきか、つまりは歌の解釈がちがうということなのだと思います。
美空ひばりの場合はまだ演歌としての到達点にたどり着くためのエチュードとして歌ってもそれほどの破綻はないでしょう。しかしながらちあきなおみの場合は、言い方を変えれば現代演歌が「きらい」だった彼女がスバ抜けた演歌としての歌唱力を持ち合わせていたために、安易に彼女の演歌の歌い方だけを真似てしまうか、彼女よりも巧みな演歌の歌唱を目指してしまうのだと思います。
 島津亜矢の今までのちあきなおみのカバー曲もまた、その現代演歌というくびきに囚われていたと思います。それがゆえに、「かもめの街」も「紅とんぼ」も現代演歌でしかなく、ちあきなおみの音楽的冒険にたどりつけなかったのではないでしょうか。
ちあきなおみの頑強なファンが圧倒され、あきらめてしまうほどのカバーは、実は島津亜矢の現在の立ち位置、演歌も歌謡曲もJポップもジャズも、最近あまり歌わないシャンソンも同じ立ち位置で歌えるオールラウンドのボーカリストに進化した今こそ歌えるということを、今回の歌唱が証明してくれたとわたしは思うのです。
 実際、今回の歌唱で一番印象的だったのは「いさぎよさ」とか「歌う覚悟」がにじみ出ていて、それは、「演歌としてのちあきなおみ」との決別であり、ちあきなおみがたどり着いた高みと同じところに立ち、ちあきなおみの音楽的冒険を率直にリスペクトすることでもあるのでしょう。
 わたしの独断と偏見をお許し願えれば、戦後の歌謡史の中で燦然と輝くちあきなおみがたどり着けなかった地平があるとすれば、わたしは浅川マキだと思っています。戦後の女性ボーカリストの系譜の一つに、浅川マキからちあきなおみがあり、ちあきなおみは演歌の歌姫としての役割を負わされましたが、浅川マキはジャズやブルース、ゴスペル、フォークソング等を歌い、独特の世界を確立したブルースの歌姫でした。
 ちあきなおみの「朝日のあたる家(朝日楼)」は浅川マキの訳詩によるもので、ちあきなおみは浅川マキにリスペクトしながらも浅川マキとはちがう入り口から、この歌を彼女色に染めようと意識的に歌っていると思います。
 島津亜矢にとって、この系譜はなかなかてごわいものがあるのではないかと思われました。古くは「かもめの街」でのネガティブな評判に心痛めたこともあったかもしれません。
 しかしながら、今回の吹っ切れた歌唱を聴くと、ちあきなおみの冒険をきちんと受け止める歌手として、島津亜矢の役割がまたひとつ増えたとわたしは思います。
 ですから、もう一度、「かもめの街」や「紅とんぼ」を、そして新しく「冬隣」を、そして最大の難曲である浅川マキの「朝日楼」を、今の島津亜矢に歌ってもらいたいと思います。

島津亜矢 喝 采 2002 × 2
この頃の島津亜矢はあふれる声量と声質で聴くものを圧倒していました。本人は決して歌のうまさや声量を誇る人柄ではありませが、とにかく若くて一生懸命だったのでしょう。この頃はまだぞくっとする低音はなく、どうしても高音が響き渡り、上手いというしかないのですが、一方で「そんなに元気に歌う歌ではない」とコメントされる理由になっています。「かもめの街」でも似たような批判があったように思います。しかしながら、一番の問題は彼女のせいではありませんが、「演歌のちあきなおみ」に疑いを持たないところにあると思います。時が経ち、年齢を重ねることで今の島津亜矢はこの歌を新しい解釈で歌ってくれました。その映像も音源もありませんが、聴かれた方にははっきりとその違いがお分かりになったと思います。
ちあきなおみ/喝采 1972年

ちあきなおみ「朝日楼(朝日のあたる家)」 

浅川マキ 「 朝日楼 (歌詞付) 」
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2018.05.22 Tue ひとりひとり小さな力を足し算してつくりあげたお祭り。「ピースマーケット・のせ」

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 5月20日、能勢町淨るりシアターで3回目となる「ピースマーケット・のせ」が開催されました。実行委員会のメンバー数人だけでは力量を越える催しですが、当日のボランティアスタッフの方々やこの催しへの熱いシンパシーをくださるステージの出演者、少し趣の違うフリーマーケットに出店してくださる方々、ステージの合間での短い時間を利用していただき、日常の活動や思いを語ってくださるみなさん、わたしたちの企画が実現できるように可能な限りのサポートをしてくださる淨瑠璃シアターのスタッフ、そしてなによりもわたしたちの願いをくみ取っていただき、この催しに参加してくださるみなさんによって実現できた、稀有の一日でした。
 お祭りにかぎらず、なにか集団で行動する場合、よくも悪くもリーダーが必要で、一つのコンセプトのもとで統一的に行われる場合が多いのですが、このお祭りは戦争体験者で95歳の清洲辰也さんの「戦争のない、平和な世界」を望む切実な願いからはじまり、ひとりひとり小さな力を足し算してつくりあげたお祭りです。
 それまで生きてきた人生も年齢もちがうひとりひとりがそれぞれの夢を持ち寄り、語り、時にはまとまり、時にはまとまらなくても自らの責任でやろうと思うことを実現できる、そんな体験をさせてもらえる催しです。
 今年は直前まで雨予報で、特に野外で食べ物を提供する出店者の場合、保健所や消防署の指導でホール内では出店が許可されないため、そのまま野外で出店していただくことになってしまいます。
 しかしながら、直前になって奇跡のように晴れの予報に変わり、実際、朝方は風が強かったものの雨上がりの五月晴れで、能勢の里山の新緑がひときわ輝き、お祭り日和の天候に恵まれました。
 このお祭りは大きくわけて野外と調理室を中止とする食べ物ブースと、心を込めた手作り雑貨やフェアトレード商品などのフリーマーケットブース、そして野外ステージとロビーステージでの音楽と舞踊、出店参加者によるアピールで成り立っていて、それらが同時並行で行っているため、特にロビーと野外ステージで聴きたい音楽が重なるケースもあり、それは仕方がないことでした。出演者の数を抑えようと計画するのですが、出演したいというグループが現れて、結局は今年も13グループが出演してくれました。
 少ない礼金で、しかも交通アクセスがよくないのに、遠くは京都からかけつけてくれた出演者も多く、申し訳ないきもちです。彼女彼たちの演奏や舞踊は、テレビには出ないひとたちですが、世の中の風潮を憂うひとたち、自分やまわりの人たちの切ない心情を歌う曲を自らつくり、歌うひとひとたちが集い、そんなに多いとは言えない来場者の心に届けとひたむきに歌う姿に胸を打たれます。
  わたしはあまり政治的な行動をとることに臆病な人間ですが、政治集会にとどまらず、こういうライブや路上ライブにまで国家が規制するようになるとすれば、それには断固たたかわなければと思います。
 戦前、政治的行動をしたわけではないシュールレアリストの滝口修三が国家を転覆する危険思想だという理由で投獄されたように、いつの時代も国家の想像力はわたしたちの想像力をはるかに超越して、現代においても憲法改正の国民投票の情報宣伝によって数多くのアーティストや歌手が色分けされたり、自分で自分を色分けしてしまう危険があります。
 自由であるために自由であることを表現し、自分の歌いたい歌を歌い、自分の聴きたい歌を聴く、グラスルーツな音楽の場をつくり広げることもまたもうひとつの政治活動であることを、ピースマーケットのステージは教えてくれるのでした。
 それは、買い物かごの中にも平和と自由があることをフリーマーケットという、心と物と夢が行きかう市場(いちば)が教えてくれることとつながっているとわたしは思うのです。
 お祭りの最後に、昨年は走り書くように清洲辰也さんが作詞し、加納ひろみさんが作曲し、豊能障害者労働センターの田岡ひろみさんが踊りの振り付けをした「ピースマーケット音頭」を、今年は長野たかしさんのベースとスカピンのギターリスト・大音智史さんがリードギターとコーラスで参加してくださり、踊ってくれる人々も昨年よりはるかに多く、何度も演奏し、踊ってくれて大変盛り上がりました。お願いするわたしが踊りはまったくダメなのと恥ずかしくて参加しなかったので申し訳なかったです。

 大ホールで上映された映画「ごはん」にも160人以上の人が来てくださり、全体としてもまずまずの賑わいで、ほんとうによかったと思います。
 また、能勢高校の生徒さんたちが映画を観たり、手伝いをしてくれたことや、出演者にこのお祭りに参加することになったきっかけや感想などをインタビューしてくれました。
 実はまだ、出演者たちが何を語ったのか知らないのですが、時代や世代を越えたつながりをねがうわたしたちにとって、どんなことが語られ、それを若い人たちがどう受け止め感じたのか、とても関心があります。
 運営費の問題でより厳しくなってきていることや、数人の実行委員のメンバーが増えないことなど、ほんとうに問題が山積みで、来年も開催できるかわからないのが正直なところですが、このお祭りが市井の人々によって開かれ市井の人々が参加できる稀有の祭りとして、能勢の地に定着できればと思います。

ピースマーケット音頭 2018

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2018.05.18 Fri 再度、ロックンロールは死なず ピンクさんが教えてくれた「もうひとつのピースマーケット」

ピンクさん

 今年で3回目となる「ピースマーケット・のせ」を間近にして、どうしてもあるひとのことを思い出してしまいます。そのひとは2000年にこの世を去ったピンクさんです。
 35歳の時に、わたしの人生をかえる2つの出来事がありました。ひとつはその5年後から16年間在職した豊能障害者労働センターの運動、もう一つはわたしがはじめて企画に参加した「自由の風穴」コンサートをきっかけに、音楽業界とはちがう自分の歌いたい歌を歌い、自分の聴きたい音楽を聴くライブやイベントの主催者になったことでした。
 くしくも今年の7月11日にクラシックのチャリティコンサートを開くことになった会場でもある箕面文化交流センターの8階のホールで、「自由の風穴」コンサートを開いたのは1982年のことで、豊能障害者労働センターが活動を始めた年でもありました。
 その頃、わたしは大阪府豊中市の北部に住んでいて、犬の散歩によく河原に行ったものでした。そこにはよくバイクを止めた5、6人の若者がたむろしていました。
 近所の住民たちに怖がられていた彼らとちょっとしたきっかけで話すようになり、彼らが近所の学生で、それなりに一生懸命生きていることがわかりました。彼らに教えてもらったアイアンメーデンは、ビートルズ以後ほとんど音楽を聴かなかったわたしにはとても新鮮な音楽でした。
 そして、夜に星を観ながら他愛のない話をする若者たちを「怖い」と思ってしまう地域のありように疑問を持ち、ロックコンサートを開きたいと思ったのでした。
 その時に助けてくれたひとがSさんで、彼は「ベ平連」とつながる「今こそ世直しを!市民連合」のひとりで、政治的な活動と音楽の活動とが別のものではなく、ともに自由でありたいと願うかけがえのない表現であることを教えてくれました。
 そして、Yさんの友人のピンクさんと出会ったのでした。
そのころ、ピンクさんは中之島公園で「グラスルーツコンサート」という手づくりコンサートを開いていました。関西のフォークシンガーの友人に声をかけ出演してもらい、自分の演奏もするという、総合プロデーサー兼アーティストとしてフル活動していました。とても気さくで面倒見がよく、やさしいひとでした。と同時に、とことん音楽が好きなんやな、ということが伝わってきました。アーティストとしての野心がなかったはずはないのですが、それよりも「歌いたい、演奏したい」と渇望する若いひとたちに表現の場を用意したいという情熱にあふれていました。
 やがてグラスルーツコンサートは、能勢の「青天井」に引き継がれていきました。ピンクさんにはウッドストックの影響があったのかもしれません。夏だったと思うのですが、ある企業の能勢のキャンプ場を借り切って夜通しライブをし、疲れたひとは各々のバンガローに雑魚寝したりその場で寝たりして、彼のもっとも好きな言葉どおり、自由でアナーキーなライブでした。
 その頃は豊中に住んでいて世間知らずのわたしは、能勢がとんでもなく遠い異国の地のように思ったものでした。それが今、能勢に住んでいて、能勢も能勢の人も大好きになり、PEACE MARKETという不思議な催しに参加することになるとは思いもしませんでした。
 もうひとつ、ピンクさんにずいぶんお世話になったことがあります。それは1990年代のはじめに箕面で3年開いた「ハッピークリスマス」で、日ごろ人権問題にかかわる人々と障害当事者の交流を深めるため、ロックを中心に韓国舞踊やダンスを楽しんでもらう企画でしたが、ほんとうの手弁当でPA機材一式をピンクさんが持ってきてくれて自らオペレートもして、歌も歌ってくれました。会場にジョン・レノンの布看板をつるし、ピンクさんが訳詩した「イマジン」を歌ってくれました。ピンクさんに頼らなければ費用の方でもまたこのイベントのコンセプトの面でも実現しなかったイベントでした。
 この時、わたしは彼を悲しませる申し入れをしてしまいました。その頃彼は「伊達屋酔狂」というアーティスト名を使っていました。わたしは障害者問題にかかわる一人として、その名前の「酔狂」の「狂」を、チラシに印刷することをどうしても受け入れることができませんでした。その頃蔓延していた言葉狩りだと、彼は激怒しました。周りからもわたしの申し入れを理不尽ととらえる人も少なからずいました。わたしはさまざまな障害を持つ友人との出会いから、いままで何も考えずに、いわゆる差別的な言葉を使っていたことに次々と気づかされていた頃でした。相手を罵倒する時や、反対に親しみを伝えるために、時として「あほ」や「狂う」という言葉を使ってしまうとき、それらの言葉で差別を受けてきたひとたちのひとりひとりの顔を思い浮かべることはないでしょう。もし彼女彼らの顔を思い浮かべたら、やはり使えない言葉なのだと今でも私は思うのです。
 しかしながら「そんなこと言うんだったら、この話は無しや」と電話で怒る彼には、いくら話してもそれは理不尽で教条的な理屈でしかなかったのだと思います。
 イベントの話はすでに進めているにどうしようかとおろおろするわたしに、共通の友人から「直接会いに行って気持ちを伝えたら」と言われ、おそるおそる電話をし、彼も渋々それに応えてくれました。
 ところが、彼の家に行った時には機嫌を直してくれていて、「よく来た」と歓迎してくれました。わたしが話をするまでもなく、障害者団体が主催するイベントに「狂」はまずいなと言い、「酔夢」という別の名前にするといってくれたのでした。その時、彼の音楽への思いや生き方について、随分長い間話してくれました。また、言いたいことはいっぱいあっただろうけれど、わたしの頑固で偏狭な思いについても一定の理解をしてくれたのだと思います。
 「ハッピークリスマス」は3年とも盛況でした。障害者がダンスが好きで、またとても才能のあるひとたちがたくさんいることにびっくりしました。この催しは豊中に受け継がれ、そのあとずいぶん長い間続いたと思います。
 それからずいぶん年月が過ぎたある日、友人から、ピンクさんが亡くなったと聞きました。犬の散歩中に転倒し、頭を強く打ち、そのまま逝ってしまったということでした。
 くしくも2000年の秋深い時、彼がけん引した20世紀の谷間舎に誘い込まれるように49歳の若さで逝った彼は、「青春」を精いっぱい生きたのだと思います。何にもとらわれない柔らかい心と人なつっこい笑顔がお別れの会に行ったわたしに語っていたように思います。
ロックンロールは死なずと…。

さあ、輝く陽の光 たえまない水の流れに
生命の力が今よみがえるように 
ああ、限りない風の力
あかあか燃える木の炎
だけど原子力の炎とはさよならさ
    訳:PINK「POWER」

TOM西村&Mino king『POWER』(cover)訳/モモタローPINK
ピンクさんのグラスルーツコンサートをけん引したひとりのTOM西村さんは遠く三重の地でこの歌を歌い続けておられます。
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