争う経済から夢見る経済へ。誰もが助け合って暮らせるゆたかな社会をめざすソーシャルビジネスを紹介しながら、演歌からポップスまで、好きな音楽への雑感や生活をつづる日記。

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2017.11.15 Wed 映画「あゝ、荒野」の原作・寺山修司の小説「あゝ、荒野」とその時代 NO.1

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 映画「あゝ、荒野」を見ました。
 この映画の原作は1966年に出版された寺山修司の小説「あゝ、荒野」です。
 1960年代はベトナム戦争、アメリカ公民権運動、中国文化大革命、チェコのプラハの春とソビエト侵攻など世界の激動と重なるように、社会党の浅沼委員長暗殺や三里塚闘争、70年安保闘争、学生運動など日本社会もまた激動の10年でした。
 わたしはリアルにその時代を生きたのですが、同世代の若者たちがデモに明け暮れ、政治的な活動に情熱を燃やしている姿にあこがれとともに違和感を感じながら、眠れない夜を過ごす毎日でした。
学生運動に没入していた大学生の友人たちと徹夜で議論することもしばしばありました。みんな妙に元気で純情で情熱的でしたが、彼女彼らの口癖だった「帝国主義打倒」、「人民解放」、「革命勝利」といった言葉はよどんだ夜の空気にゆらゆらするだけで、わたしの心には届きませんでした。
 わたしもまた社会の理不尽さに異議申し立てする機会と場を切実に求めていたのですが、デモとアジ演説とゲバ棒と石礫と火炎瓶で国家権力とたたかう勇気も覇気もありませんでした。彼女彼らが熱く語る「革命」が勝利に終わったとしても、勝利した「人民」にわたしが入っていないだけでなく、その「人民」たちに排除されるべき人間とされる確信がありました。
 社会性のかけらもなく、隠れ家を探し続けるどもりで対人恐怖症のわたしは、いままでもこれからもこの町もよその町でも、いいことなどなにひとつない青春のただ中にいました。学生でもなく労働者でもなく人民でもなく、市民にもなれそうにないこのわたしはいったい何者なのか、何者になれるのか…。
 
 そんな悶々とした日々を送っていたわたしに生きる勇気を与えてくれたのが寺山修司でした。俳句、短歌、詩、エッセイやテレビ・ラジオを通して、当時は寺山教といわれるほどのカリスマ性で若者の心をわしづかみにしていた彼は、世の大人たちから危険人物と思われていました。事実、彼の著作「家出のススメ」を読んで東京に家出してくる若者が相次ぎ、彼女彼らの暮らしを成り立たせるために劇団「天井桟敷」をつくったところなど、どこか障害者の雇用のためにだけ事業をする豊能障害者労働センターと相通じるところがありました。
 どもるコンプレックスに押しつぶされていたわたしに、寺山修司だけが「どもってもいい」と言ってくれました。それどころか、畠山みどりの「出世街道」の「やるぞみておれ、口には出さず」を例にあげ、「口には出せず」から「口には出さず」と言い直したとき、そこには「どもることは言葉や思想をより深く理解し、政治を通さない人間の革命をめざす「どもりの思想」があると言いました。わたしは彼の唱える「吃音宣言」に励まされたのでした。
 この言説だけでなく、寺山修司は世の中の常識や道徳や秩序を守るルールや、それらを押し付ける権力を否定する一方、障害や貧困などマイナスと言われるものや社会的マイノリティこそが時代を変革できるとしました。それを思想化し、組織化することで政治革命とはちがう回路から人間の革命をめざしたいと、生涯にわたって演劇集団「天井桟敷」の活動にいのちを削りました。
 小説「あゝ、荒野」はさまざまなジャンルで多作した彼のたったひとつの小説で、当時誰が言ったのか忘れましたが「偉大な失敗作」ともいわれました。当時流行ったヌーヴォー・ロマンのアラン・ロブ=グリエやル・クレジオなどの影響もあったのか、1960年代の若者の街・新宿を舞台にして、怒りと憎しみと暴力が炸裂する過酷な時代を生きる二人の若者がボクシングを通じて孤独な青春を共にし、心を通わせつつも体をぶつけあうという大まかなストーリーをたどりながら、寺山本人があとがきに書いているようにモダンジャズのアドリブの手法で、いわば行き当たりばったりに登場人物の生きざまを追いかけるように書きなぐったのだと思います。 それはまた、シュールレアリスムの芸術家マックス・エルンストのコラージュにも似た手法でした。
 寺山修司はあとがきでこうも書いています。
 「わたしはこれを書きながら『ふだん私たちの使っている、手あかにまみれた言葉を用いて形而上的な世界を作り出すことは不可能だろうか』ということを思いつづけていた。歌謡曲の一節、スポーツ用語、方言、小説や詩のフレーズ。そうしたものをコラージュし、きわめて日常的な出来事を積み重ねたことへのデペイズマンから、垣間見ることのできた『もうひとつの世界』、そこにこそ、同時代人のコミュニケーションの手がかりになる共通地帯への回路が隠されているように思えたからである。」

 「手あかにまみれた言葉で形而上的な世界を作り出す」ことは寺山修司のすべての表現に貫かれたもので、いわば庶民の芸術、肉声で語られる路地裏の芸術ともいうべきものでした。それは国家に対して従順に生きることも反逆して生きることもできない若者、当時はまだ地方からの集団就職をはじめ、中卒で就職する若者も数多く、そんな若者にとって少なからずビートルズに代表されるロックや巷に流れる歌謡曲、アングラと言われた演劇や映画といったサブカルチュアがより政治的に思えたたくさんの若者たちに「公園の公衆便所の落書きや電話帳の無機的な数字の並びもまた政治的である」と教えてくれたのでした。
 わたしは小説「あゝ、荒野」をリアルタイムで読んでいたのですが、あらためてもう一度読み直すと、よくも悪くもわたしの感じ方や考え方から行動や趣向まで、寺山修司の影響を強く受けていたことをあらためて思いました。
 直接ではないですが彼と出会っていなかったらまったくちがった人生になっていたでしょうし、ずっと後に障害者の友と出会うことも、豊能障害者労働センターで活動することもなかったでしょう。わたしは自分から死を選ぶことはなかったのですが、もしかするとそちらの方に心が引っ張られたかもしれません。
 実際、わたしにとって豊能障害者労働センターと出会うことで、はじめて働く意味を知り、生きがいを仕事で発揮することができました。
 国家や社会や会社が決めるスタンダードルールを押しつけるのではなく、その集団を構成するすべてのひとそれぞれに夢があり、それぞれの違った個性をそのまま受け入れ、競争することよりも助け合える労働センターだったからこそ、対人恐怖症で社会になじめなかったわたしでも働くことができました。
 そして、労働センターと出会うずっと前の青春時代に、普通とされる社会から離脱し、自分らしく自由に生きる道もあることを寺山修司は教えてくれたのでした。
 寺山修司が言った「政治を通さない革命」は幻想かもしれないですが、政治が日常の暮らしからあふれる肉声をなくし、国会の中や選挙運動のパワーゲームでわたしたちの未来だけでなく、孫やその先の世代の未来までも奪うことになるかもしれない危機を迎えた今だからこそ、歌謡曲や演劇や映画などサブカルチャーが社会を変革できるとする彼の提案は、豊能障害者労働センターのような社会的事業体の活動もふくめ、わたしたちにとって切実なものになっていくのかもしれません。
 もっとも、寺山修司は民主主義も平和も人権も福祉も信じていませんでした。その頃も今も、それらは国家が国民をだまし、囲い込むための罠でしかないとし、何よりもその囲い込みからの解放こそが自由への第一歩と考えていたのだろうと思います。
 ですからいわゆる左翼からも右翼からも危険な人物とみなされていました。
 次回は小説「あゝ、荒野」が書かれた1960年代の社会情勢と、2021年という、東京オリンピックの翌年に時代設定された今回の映画「あゝ、荒野」が予想する社会情勢を比較し、わたしたちの未来に希望があるのかないのかを考えたいと思います。

映画「あゝ、荒野」

寺山修司〜私と彼のただならぬ関係 第2回 熱く麗しきあの時代・美輪明宏

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2017.11.07 Tue わたしの「極私的路地裏風聞譚・河野秀忠さんがいた箕面の街」 NO.4

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エライひとやったなあ 梶尚子さん
河野秀忠

 人の評価は、棺をおおいて後定まるといわれる。僕ごときに評価を受けることは、梶さんにとって迷惑至極のことかも知れない。
 そこのところは、あの世の梶さんに許してもらって、書かせてもらおう。
 僕にとって、(梶さんが亡くなった)今年の8月31日は、いつのことなのか定かに見すえることができない日となってしまった。とても遠い日のことのようにも思えるし、昨日のことのようにも思えるのだ。それほど、梶さんの死は、突然に僕の胸の扉をたたいた。
 ぼくと梶さんがはじめて出会ったのは、1980年、つまり、国際障害者年がスタートする前年であった。いつの会合でも、普段の言葉使いで、パキパキとものをいう親やなあと思わせる、もの言いと態度だった。決していろんな活動の先頭には出ることがなかったが、必ず最後にはとりまとめ役を買ってでる気っぷの人だった。
 子どもの就学についても、普通校への入学を、ひとりの力で実現してしまうような人であった。
 国際障害者年箕面市民会議を作り、子どもの卒業と市役所への就労運動をへて、豊能障害者労働センターを作るすべての過程で僕たちはいっしょだった。今もはっきりおぼえているのは、労働センターで開いた手話講座「積木フーテナニー」のいちばん最初の講座当日の梶さんである。人が集まるだろうかとオロオロ心配し、家から扇風機わ運んでくれた。
 「オバちゃんのつくる料理は、安くてオイシイでえ」と、労働センターの昼ごはんをパツパと作っていた梶さん。
 僕は思う。障害児の親というより、ひとりの女性として、労働センターの仲間のオバサンとして、エライひとやったなあ。梶さんは。
 僕は、梶さんの棺なんかおおいたくなかった。
 ほんとうに今は、言葉がない。残念や。
 ほんとうに残念や。
 合掌。

 この梶尚子さんへの追悼文は、河野さんが1984年10月27日発行の豊能障害者労働センターの機関紙「積木」17号に寄稿したものです。
 河野さんが箕面で障害者運動を始めたころは、「青い芝」や「全障連」とかかわる過激派といわれ、当時の市民、とくに障害児者の親や行政にとても怖がられていました。
 「障害者の問題は障害者自身とその親の問題であり、社会の問題ではない」とし、今より以上に行政施策の貧困を障害者自身と親に覆いかぶせ、福祉施策そのものが障害者の人権を侵害していたともいえる時代でした。
 健全者社会の差別を体現し、障害者の自立をはばむもっとも近い健全者として「障害者の親は敵だ」とする青い芝の運動は、親にとっては許せないことだったのでしょう。
 しかしながら、親子心中や親による障害児殺しが社会的問題となる中で、子供のころから「いつ親に殺されてもおかしくない」とジャックナイフをしのばせていたという障害者の証言がたくさんあった時代でした。親の背後で障害者を排除してきた健全者社会に立ち向かい、「親は敵だ」と叫ぶことは、自分のいのちを守るぎりぎりの行動だったのだと思います。
 河野さんの口癖だった「差別まむし」(差別まみれ)の中にあって、当初はとことん嫌われていた河野さんでしたが、国際障害者の始まりとともに「施設から在宅、街へ」と行政施策の転換がすすめられたことや、障害のある子もない子も共に地域の学校で学ぶ教育運動の中から、障害者の親の中でも障害者差別とたたかう親も現れ、ひとりふたりと河野さんと豊能障害者労働センターの活動に参加してくれる仲間が増えていきました。
 当初のことがうそのように、「箕面市障害者事業団」の設立をはじめ行政施策においても頼りにされ、障害者関係の行政施策に関する組織や、市民の組織の役職や委員をたくさん引き受けるようになりました。その中でもずいぶん以前から箕面市人権啓発推進協議会の活動に積極的にかかわり、亡くなるまで会長をつとめた他、被災障害者支援「ゆめ風基金」の副代表でもありました。

 梶尚子さんは河野さんと共に障害者運動を担った数少ない親のひとりでした。
 尚子さんは、幼い時から敏之さんの将来はこの街に解き放つことで見えてくる、そう確信し、行動しました。それはまず、地域の  保育所入所をへて地域校区の小学校への入学でした。彼女は市役所にかけあい、教育委員会につめよってそれを実現しました。箕面ではまだめずらしかった障害児の地域校区の小学校への入学は、あとにつづく障害児とその親たちをどんなに勇気づけたことでしょう。
 1981年、地域校区の中学校卒業を来年に控えて、敏之さんの進路を見つめる尚子さんの目には、この街で生きる敏之さんの姿しか映りませんでした。普通高校への就学運動も考えないわけではなかったでしょう。しかしながら、高校の門が障害者に対して固く閉じられていた現実以上に尚子さんは心臓病と言う爆弾をかかえていて、敏之さんが少しでも早くこの街で暮らしていけるようにと考えたのでした。
 「この子を市役所でやとってくれへんやろか」。他人に言われるまでもなく無理なことだと思いました。けれども、市役所に障害者がいてもいいじゃないか、いや、いなければならないのではないか。彼女の確信は、現実がそれをこばもうとすればするほど、たしかなものとなっていきました。
 彼女の決意は河野さんをはじめ国際障害者年箕面市民会議のひとたちとの出会いを呼び寄せ、梶敏之さんの市役所への就労運動が始まりました。その運動は箕面市の障害者別枠採用制度へとつながり、市役所への障害者雇用の道が開くことになりました。
 しかしながら、敏之さんの市役所への就職は実現しませんでした。しかしながら尚子さんはそのことの残念さよりもっと大きなものを手に入れたことに満足していました。
 ひとつは、この運動の中でひとりの障害者を市役所に送りこめたし、なによりもその中でたしかなものとなった市民会議のひとたちとの人間関係を敏之さんに手わたせたことでした。
 敏之さんの進路が新たに模索される中で、敏之さんは設立準備中の豊能障害者労働センターをのぞきにきました。当時は失礼ながら言えなかったけれど、ほぼ廃屋といっていい労働センターの事務所を、敏之さんはたいそう気に入りました。
 「ぼく、ここで働く」。敏之さんの希望を聞いた尚子さんは、まだ形もできていないというよりは、これからも形になるかどうかもわからない豊能障害者労働センターに、子どもの将来をたくすことを決めたのでした。
 こうして1982年の春、豊能障害者労働センターは養護学校を卒業した小泉祥一さんと、地域の学校で共に学ぶ運動の先頭にいた梶敏之さんを迎え入れ、活動をはじめたのでした。

 1984年の夏、梶尚子さんは心臓発作で突然この世を去りました。くしくも市民会議主催の「第一回子ども縁日まつり」(通称唐池まつり)が唐池公園で行われる前日の朝のことでした。
 お祭り当日、尚子さんの葬儀が終わるとわたしたちは大急ぎでTシャツとジーパンに着替え、出ない力をふりしぼり、祭りの準備をしました。
 夏の終わりとは言え残暑はきびしい中、去っていく夏を惜しむように蝉が合唱していました。数少ない売店を用意し、「お客さん来てくれるかな」と空を見上げました。
 お祭りが始まる時間になると、なんと公園にいっぱい子どもたちも大人たちも来てくれました。焼きそば、綿菓子、たこ焼きの前は長い列ができました。
 豊能障害者労働センターが活動を始めて3年になっていましたが、こんなにお客さんが来てくれた催しはありませんでした。
祭りが終わり、後片付けをしながら、誰かがポツンといいました。「梶君のお母さんがたくさんの子どもたちをよんできてくれたんやな」。
 時がたち、梶敏之さんは自立しました。そして、梶尚子さんの追悼を込めた唐池まつりは2014年、第30回をもって終了したのでした。

夏、ぼくたちはとてつもなく大きい
大切ななにかをなくすことで
あたらしい夢をつくるのかもしれない
それを知っているから蝉たちは
今朝もあんなにさけんでいる

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2017.11.02 Thu 水野良樹は平成の阿久悠。島津亜矢「SINGER4」・「YELL」

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 10月29日のNHK-BS放送「新BS日本のうた」に、島津亜矢が出演しました。この日は久しぶりに出演した北島三郎特集で、島津亜矢は山内恵介と共に司会も担当しました。81歳の北島三郎は音楽番組に出演することが少なくなりましたが、生涯現役の気構えは衰えず、この日もその歌魂を存分に発揮しただけでなく、若い歌手たちひとりひとりを温かく見守る姿に会場のお客さんはもちろん、テレビ画面を通して観ていたわたしも思わず涙がこぼれました。
 島津亜矢はおそらく言葉にならない思いで心の中をいっぱいにして、涙を流しながらも番組から与えられた役割を越えた自分自身に課した使命感で司会をつとめました。
 歌の方もソロで「なみだ船」、「川」を熱唱しました。それに加えて私が感動したのは北島三郎と大江裕と「北の漁場」を歌った時でした。北島三郎を師と仰ぎ、苦難の道のりを歩んできた彼女は、若い頃はあこがれの北島三郎の胸を借りて思い切り絶唱していたのですが、今回の放送では恩師星野哲郎とともに見守ってくれた北島三郎に恩返しをするように、こみ上げる涙を胸で押さえながらの熱唱でした。

 本題に入り、「SINGER4」に収録された15曲の中から、まずはわたしが島津亜矢にいちばん歌ってほしいと思っていた「YELL」について書こうと思います。
 わたしはジャンルを問わず星の数よりも多い有史以来の歌をつなぎ、今生きているわたしに届けられる壮大な叙事詩・「にんげんのものがたり」の歌があるとすれば、島津亜矢はその歌を歌える数少ない歌手の一人だと思っています。
 今は死語と化したかもしれない「純なる無垢のたましい」から発する稀有の声質と歌唱力、心のひだの底からかすかに聞こえる叫び、「もし明日世界が滅びるかもしれない」夜の闇でそれでも歌い続ける希望の歌、有史以来歌い継がれてきた切なくも心震える民衆のための民衆の歌…。
 歌うことの宿命を背負い、数々の苦難を乗り越えて彼女が歌うべき、歌い残すべき歌を待ち続ける歌手・島津亜矢は貪欲に歌と出会い、音楽的野心を燃やしながらいろいろな人と出会うことを求めてやめない歌手人生をまっとうすることでしょう。
  「YELL」は「いきものがかり」の水野良樹が2009年のNHK全国学校音楽コンクール中学生の部の課題曲として依頼され、作詞・作曲したものです。当初は元気なアップテンポの曲を依頼されたのですが、水野良樹は15歳の頃の深く思い悩んでいた自分を思い返し、アップテンポの曲とは別にもう1曲を制作しました。それが「YELL」で、最終的にこの曲が課題曲に採用されたということです。
 「いきものがかり」は2006年に「SAKURA」でメジャー・デビューした時からずっと好きなグループでした。その頃も今も、Jポップが若者たちの電脳空間の中かライブ会場の高揚した空間の中でのみ共振し、音楽や歌がその閉鎖された空間の外にある街中に広がることのないまま次々とヒット曲が入れ替わっていくのに絶望していた時でした。
 「いきものがかり」の歌は若者らしいエッジの利いた歌でもなく、Jポップのクールなシーンとは縁遠く、若者たちの「音楽のための音楽」ではなく、その外にある街中に溶け込む歌を歌い続けてきました。
 狭い意味のJポップではなく、歌謡曲といった方がいいその歌は同世代の若者には受け入れられないのではないかと思いましたが、なんと若者たちから圧倒的な支持を得ただけでなく、その後のNHKの朝のドラマ「ゲゲゲの女房」の主題歌「ありがとう」のヒットで幅広い年齢層の支持を獲得しました。
 水野良樹は、音楽好きなひとにだけ通じる歌ではなく、昔の歌謡曲のように街の中で誰がつくったのか気にもされないのに多くの人が口ずさむ曲をつくりたいと話しています。
 路上ライブで通りすがりの人の足を止めさせるために、歌い始めの一節にその歌のすべてを表現する彼は、平成の「阿久悠」といってもいいかもしれません。
 事実、先日NHK-ETV特集「いきものがかり水野良樹の阿久悠をめぐる対話」で、「混沌とした時代に、いろんな人がいろんな正義を言って戦いあっていて、歌に自分の思いを込めるとか自分の考えをこめるとか、そんな単純な考え方だけで分かり合えないひとと分かり合うことができるのか、もっと別の違ったやり方があるのではないか…」と自分の歌づくりの在り方を模索しているといいます。
 そして、いしわたり淳治、糸井重里、小西良太郎、飯田久彦、秋元康にインタビューし、1970年代に時代の飢餓感を受け止め、歌によって時代を変えることができると信じ、数々の名曲を生み出した阿久悠の駆け抜けた道をたどりました。
 水野良樹はJポップ世代ながら、歌は巷にながれてこそ時代を変える力を持つことを阿久悠に学び、新しい時代の「歌謡曲ルネッサンス」をけん引するソングライターへと大きく進化することでしょう。
 わたしは島津亜矢のオリジナルが今までのセオリーにとらわれず、Jポップの分野で歌謡曲をめざす水野良樹に曲作りを依頼できたらと思ってきました。たとえば小椋佳が美空ひばりと出会うことで「函館山から」というワールドミュージックをつくったように、水野良樹もまた島津亜矢との出会いから新しい歌づくりの道を探してもらいたいと思います。
 さて、「YELL」ですが、わたしは水野良樹がつくった歌の中で一番好きな歌です。

「“わたしは”今 どこに在るの」と 踏みしめた足跡を何度も見つめ返す
枯葉を抱き 秋めく窓辺に かじかんだ指先で 夢を描いた

 15歳の少年少女にとって秋から冬の季節は、新しい出発への夢と別れの切なさが交錯する季節で、卒業ソングとして数々の歌がつくられました。
 わたしの15歳のころはなんといっても舟木一夫の「高校三年生」でした。中学と高校のちがいはありますが、この歌は別れの寂しさよりも新しい未来を讃えあう応援歌でした。というのも、この歌は高度経済成長のただ中で成長と豊かさの神話に包まれ、いろいろな問題をすべて経済成長で吹き飛ばす時代の夢と希望にあふれた歌でした。
 時代は変わり、「YELL」では彼女たち彼たちを待つ未来が明るいとは言い難く、「高校三年生」のような青春群像ではあり得ない孤独な夢へと歩く、ひとりひとりの過酷な未来に戸惑う心を歌っています。その時、共に過ごした日々の友情は未来に向かうための後押しになりつつも、「いつかまた巡り合う」その日が来るかどうかはわからず、ありのままの弱さと向き合う強さを持って生きることに誇りを持つ、切ない別れの決意が歌われています。

サヨナラは悲しい言葉じゃない それぞれの夢へと僕らを繋ぐ YELL

 こんな厳しい別れしか少年少女たちに用意できない時代をわたしたちは生きているのだと胸が痛みます。
 島津亜矢と水野良樹は出自も歩んできた音楽的冒険も違いますが、孤独を抱きしめ、悲しみを歌えるアーティストとして今、二人の道が交錯しようとしているのではないでしょうか。実際、島津亜矢の「YELL」はオリジナルの吉岡聖恵よりもさらに歌の気配を隠し、孤独を抱え立ち止まる15歳の青春を見事に再現していると思います。
 わたしは「いきものがかり」と島津亜矢には特別な思いを持っています。
 というのも、わたしがブログを書くきっかけになった高校時代からの親友だった加門君が肺がんを患い、入院した時に何かCDを持って来ようと思い、「いきものがかり」はどうかと聞くと、「細谷、島津亜矢を持ってきてくれ」と言われたのでした。
 わたしが島津亜矢のファンになったきっかけをつくってくれた加門君は、一年後に亡くなりました。わたしは15歳の別れには未来があるけれど、死に別れてしまった友におくる「YELL」はないとその時思っていました。
 しかしながら、それからずいぶん時がたち70歳になったわたしは、この歌は生き残ったわたし自身におくってくれた「YELL」なのだとわかったのでした。
 まだ30代の水野良樹が40年も長く生きているわたしにこの歌をおくってくれたのだとしたら、彼が稀有の才能を持ったソングライターであるだけでなく、歌そのものが力をもっているのだとあらためて思うのです。
 1970年代の阿久悠が時代と格闘したように、水野良樹が電脳空間の外側のちまたに届ける心の物語を、時代を耕す島津亜矢のためにつくってくれることを願ってやみません。

いきものがかり「Yell」 Live Yokohama 2015

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2017.10.27 Fri 「政治を通さない日常の現実原則の革命」としての大衆音楽の可能性。島津亜矢「SINGER4」

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 島津亜矢のポップスカバーアルバム「SINGER4」には、これまでの3作以上に刺激的な楽曲が収録され、島津亜矢は超多忙な日程の間を縫って20曲以上をレコーディングし、そこから15曲を厳選したようです。
 出来上がったアルバムを聴くと島津亜矢がギアを入れ直し、時にはトップギアで歌いきり、ただひたすら疾走するその音楽的冒険に心が震えます。今回のアルバムはこれまでの3枚のアルバムに比べて島津亜矢チームも島津亜矢本人も力の入れ方が尋常でなく、ライブとは違い自分自身との闘いという孤独なレコーディングでありながら、その場にいないリスナーのひとりひとりの心に届けたいという祈りさえ感じられるせつなさがありました。
 ポップスのジャンルへの本格的なデビューを果たし、演歌とポップスの両ジャンルをクロスオーバーしながらその歌唱力、声量・声質に加えて、歌を詠む力を身に着けたボーカリスト・島津亜矢がステージや音楽番組で充分に歌えない歌、彼女が今いちばん歌いたい歌を収録するこのアルバムには、進化し続ける歌姫の「現在」がぎっしり詰まっています。
 それだけに9月30日に開かれた東京オペラシティコンサートホールでの後援会主催の「シンガーコンサート」を一般の公演スタイルにして、わたしの住む大阪や名古屋、福岡などでも開いてくれないものかと思っています。特に、今年のようにポップスのジャンルでのブレイクに応えるためにも、全国のファンが望んでいるのではないでしょうか。
 わたしはジャンルにかかわらず島津亜矢のいくつかの歌唱のタイプの中で、「大利根無情」、「風雪ながれ旅」、「度胸船」、「瞼の母」、「兄弟仁義」、「旅愁」、「山河」、「想い出よありがとう」、「さくら」(森山直太朗)、「恋」(松山千春)、「恋人よ」、「歌路はるかに」などを歌うときの島津亜矢がもっとも好きで、コンサートでこれらの歌を聴くと決して順風満帆ではなかった自分の人生をふりかえり、かなわぬ恋や取り返せない失敗、だれかを裏切ってしまった後悔、それでもこれでよかったのだと自分の人生を抱きしめてあげたいと思う不思議な感情に襲われ、涙があふれてきます。
 というのも、女性の演歌歌手が歌う、耐え忍ぶ女や、待ち続ける女、失恋の旅に出る女など男の身勝手に翻弄される女性像に、実はうんざりしてしまっていました。もちろん、どんなジャンルにしても恋の歌はたくさんありますが、それを演歌の定番にすることで、歌詞にも曲にも歌唱法にも全く新鮮さや音楽的冒険というものを感じることができないのです。
 オリジナルも含め、島津亜矢にはほとんどそういう歌がありません。少し前まではそれに抗するものとして「男歌」の達人と称され、本人も「男歌」を好んでいました。
 わたしは特にフェミニストではありませんが、シングルマザーの母のもとで育てられたこともあり、男らしさや女らしさとか主人とか奥さんとか、特に「異性愛」を絶対化する日本の家族像にはなじめず、演歌に多い「男歌」に違和感を持っています。
 そんな事情で、島津亜矢の「男歌」にも抵抗があり、どこかで彼女が歌わなくてもいいのではないかと思っています。手あかのついた「男らしさ」という既成概念を頼りにした楽曲は他の演歌歌手にまかせ、島津亜矢には欧米のジェンダーフリーとは一線を画した大衆音楽のジャンヌ・ダルクとして新しい時代を切り開いてほしいと思います。
 寺山修司の言葉を借りれば、政治的革命は人間の革命の一部に過ぎず、「政治を通さない日常の現実原則の革命」としての大衆音楽の可能性は、ポピュリズムの危険をはらみながらも政治よりもダイレクトにサイレントマジョリティの心に届くのではないかと思うのです。
 横道にそれてしまいましたが、わたしにとって島津亜矢は純情でひたむきで切なくて悲しくて、世の中のさまざまな差別や偏見や不条理や理不尽のただなかで、「わたしはここにいる。わたしはひとりではない。あなたもひとりではない」と、静かに手を差しのべる友情こそが人生のすばらしさと教えてくれた「時代の歌姫」なのです。
 例えば「瞼の母」、過酷な世間の冷たい風を時には暴力によってしか切り裂くことができなかった男が自分を捨てた母親の叶わぬ愛を乞い焦がれるという物語は戦後の混乱期はもちろんのこと、日本の社会が子どもを捨てたり売り買いしてきた暗黒の民衆の歴史を背景にしています。
 わたしは島津亜矢が「おっかさん」と叫ぶテロリスト・忠太郎のとてつもない悲しみを歌うとき、彼女が立つ場所はすでにステージの上でもコンサート会場でもなく、時と場所を離れ、切ない夢を持ち、その夢をかなえることができずに死んでいった無数の屍で埋め尽くされた日本列島に遍在する海岸や半島に立ち尽くし、それらの無数のいのちとともに、それでも見果てぬ夢を見ながら「わたしはここにいる」と心で叫び、振り袖を翻す彼女の姿がにじんで見えるのでした。
 ともあれ、アルバム「SINGER4」の世界は、島津亜矢がまたひとつ新しい荒野の入り口で、この時代に想いまどうわたしたちに「大丈夫」と手招きして共にその荒野に足を踏み入れる勇気をくれるものでした。
  カバーアルバムの中でも突出した情熱が込められたこれらの歌の群れがどこにいくのか、わたしにわかるはずもないのですが、音楽がグリコのおまけや商店街のタイムセールスの応援歌になった感がある危機的状況の中で、ある意味時代に逆行した島津亜矢の切羽詰まった歌唱は、人気とか評判とかブームとは縁がないかもしれませんが、時代の金太郎あめをめくりめくったその先にある時代の真実、わたしが生きてきた意味を教えてくれているように思えてならないのです。
 時期的に年末の話題が増えていますが、わたしは今年こそ、波及力はなくなったもののレコード大賞でこのアルバムや、ガンダムのテーマ曲が受賞することを願っています。阿久悠のアルバムを見逃したレコード大賞の審査員チームのリベンジに期待します。
 そして、島津亜矢と島津亜矢のチームに望むのは、カバーのアルバムで島津亜矢のオリジナリティを発揮するにはこのアルバムが限界のように思います。
 やはり、オリジナル曲によるシングル、もしくはアルバムで島津亜矢のポップスを世の中に届ける時がきたのではないでしょうか。製作・宣伝・販売コストと兼ねあうヒットに恵まれるか難しい選択でしょうが、歌の作り手はこのアルバムのアーテイストを中心に依頼し、思い切った製作をぜひチャレンジしてほしいと思います。
 それは、時代が追いつくことができずにいる稀有のボーカリスト・島津亜矢が人生をかけて待ち続けている恩に報いる最初の一歩であると確信します。
 この文章を書き始める時は収録されている楽曲から、まず「YELL」から書こうと思っていたのですが、またまた前段で終わってしまいました。
 次回は「YELL」について書きます。

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2017.10.25 Wed 国の未来をどちらに託すべきなのか、わたしたち国民ひとりひとりに鋭く問いかけた選挙

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 衆議院選挙は自公与党の圧勝でした。
 今回の選挙は、安倍首相の突然の解散ではじまり、希望の党が安倍一強体制を覆す受け皿の政党として発足し、マスコミ情宣など小池さんの狙い通りの大きな風が吹いていたのが、民進党からの合流の候補者に対する「踏み絵」と「排除」から枝野さんが立憲民主党を立ち上げ、終わってみれば野党の分裂による自民党の圧勝と立憲民主党の「大躍進」という、予想もしなかった結果になりました。
 またもつづく安倍政権への権力集中が憲法の改正(改悪)をはじめ、国の未来にとって取り返しのつかない悪い結果を用意するのではないかと、不安に思う人々も少なからずいるのではないでしょうか。
「森友・加計」問題は旧来の自民党なら長期政権がもたらす疲弊として、事の真意は検察にゆだね、自らの自浄作用で政権交代していたはずです。それでも安倍政権が揺るがないのは、小選挙区という選挙制度の下では内閣の力が強く、自民党が政党としての自浄作用を発揮するどころか圧倒的な人数の議員もまた「寄らば大樹の影」と依存するだけで、自立軸を持ち、執行部と内閣にものを言えなくなっているのではないでしょうか。
思えば日本社会の悪しき慣習で、国会議員から隣人同士まで自分の意見を言ったり自分らしく生きることがますます難しくなっているように思います。

 そんな閉塞した状況の中から突如として吹いた立憲民主党の風は、今回の選挙の思わぬサプライズとなりました。枝野さんたちが逆襲に出た、まるでドラマのようなどんでん返しは痛快で、自民党の中でも「えっ」と思った人たちがいたことでしょう。
 追い詰められたひとびとへの判官びいきというひとたちもいますが、わたしはちがうと思います。強大な自民党に対抗するための政権選択と言うよりも、風が吹いているところに合流して当選しようという旧民進党の候補者の姑息さが小池さんの「排除」の論理以上に目立ち、当時は有利とされる希望の党からの出馬を拒否し、筋を通すことを決意した立憲民主党の候補者たちに正義を感じた人々が次々と結集した結果だと思うのです。
 そして、立憲民主党が立ち上がるとすぐに、共産党が自党の候補者をとりさげても立憲民主党にラブコールを送り、市民と立憲民主党と社民党の共闘をすすめたことが立憲民主党への追い風になりました。
 現実主義者と自認するひとたちにいつも軽蔑されるけれど、政治のジャンルにも純情と情熱と救国の志をもって愚直に未来を切り開こうとする政治的結集が残されていることを、立憲民主党と共産党と社民党が証明してくれました。
 選挙が終わり、またぞろ野党の結集を進める動きがありますが、立憲民主党の枝野さんは「権力ゲームとは距離を置き、国民目線という軸をしっかりと守りながら進めていく」と述べ、早急な野党の結集には否定的な考えを示しました。
そして、民進党参院議員らを念頭に「永田町の内側の数合わせにコミット(関与)しているという誤解を(有権者に)与えれば、期待はあっという間にどこかに行ってしまう」と指摘。安易な党勢拡大に走らず、衆院の無所属当選者や民進党参院議員との連携にとどめるとしました。
 まったくもって、正しい選択だと思います。民進党のあいまいさが希望の党と立憲民主党に別れ、政治理念がわたしたちにわかりやすくなりました。これまでは不本意ながら民進党に投票してきた人もまた、自分自身の考えをはっきりと表明できる政党として、希望の党と立憲民主党に投票できたと思います。
 わたしは立憲民主党、共産党、社民党と市民との協働を支持しますが、これから立憲民主党が永田町の数の論理に野心を持ち、矜持を捨てることのないように願っています。わたしは共産党の支持者ではありませんが、共産党が議席を減らすことを覚悟して立憲民主党との共闘を猛烈に進めたことは忘れてはいけないと思います。もちろん、政治的なテクニックや戦略をあわせもちながらであることは当たり前のことですが…。
 わたしの住む大阪9区では共産党の立候補予定者が候補を取り下げ、各市町村の共産党の地方議員と市民派議員と市民の協働で社民党の統一候補者を立て、実にさわやかな選挙戦を戦いました。残念ながら届きませんでしたが、市民と各党との信頼関係が深まり、政治的現実を変える力もまた政治的経験やテクニックだけでなく、純情な政治的理念であることを教えてくれたのだと思います。
 だからこそ、政治家の安易な連携で自民党に抗するのではなく、国民との直接民主主義、街頭民主主義による国民運動によって、国会の外で自民党と対置することに期待します。
 60年安保を待つまでもなく、かつて「自民党をぶっつぶせ」と叫び、街頭で投票権を持たない国民に直接訴えることで社会的ムーブメントを掻き立て、自民党総裁になった小泉元総裁・首相の教訓を痛いほど学んだ自民党には、国会での数合わせよりも路地裏の運動に脅威を感じるはずです。

 そして、わたしにはまったく理解ができないのは、旧民主党政権時代の政策への極端な悪評のトラウマが蔓延していることです。わたしはそれ以前の自民党政権と安倍政権の間に挟まれた民主党政権は、わたしたち窮民にとっては決して自民党政権と比較して「大失敗」と言われるほどのひどい政権だったと思いません。
 確かに民主党がマニフェストに示した政策が実現しなかったことはたくさんありますが、そのどれもに猛烈に反対したのは自民党でしたし、公立高校無償化をはじめたくさんの政策がそのまま安倍内閣の手柄になっているところもあります。
 麻生内閣末期のリーマンショックによる世界的な金融市場の混乱と景気後退で最安値となった株価も、民主党時代には持ち直していました。アメリカが今日本が実施している超金融緩和政策をとり、民主党の金融政策は財政の健全さを保ったことから急激な円高・ドル安を招いたことで輸出産業が窮地に追い込まれたとされますが、東日本大震災の時には円高で助かった面もあったのではないでしょうか。その東日本大震災の対応がひどかったと言いますが、今になって明るみになった東電のひどさや、安倍政権の歴代の復興大臣の傲慢さをみれば、果たして自民党政権ならうまくいったのか大いに疑問です。
 激動の時代に膨れ上がる国の借金にしても、民主党のせいとは到底言えませんし、反対に「埋蔵金」を引き出すための事業仕分けが非難されるほどでした。
 そもそも安倍政権が大胆な金融政策で急激な円安誘導ができたのも、民主党時代の日銀の金融政策が欧米に追随しなかったことで可能になったともいえますし、「何もしなかった」とされる民主党政権は大企業に対してで、「コンクリートからひとへ」という政策理念は、もしかすると今もっとも必要なものなのかもしれません。
 ともあれ、長い間障害者の所得をつくりだす活動をしてきたわたしには、「国民の生活が第一」とする民主党の政策はとても身近に感じていました。
 立憲民主党の政治理念には、旧民主党の政治理念が受け継がれていると思います。自民党や内部留保をため込み、グローバルに利益追求する大企業の極端なバッシングに左右されず、それを信じる若い人たちの誤解を解き「まっとうな政治」、「うそをつかない政治」を提案する国民的議論の場をつくりだしてほしいと思います。

 圧倒的な勝利を勝ち取った自民党の選挙戦で、街頭演説の日程を知らせることにおびえ、親衛隊にガードされながら強弁する安倍さんと、かけつけた人々のすぐそばで政治家としての矜持を持ち、「立憲民主党はあなたのことです」と呼びかけた枝野さん…。
 二人の選挙戦のありようは、議席獲得数だけでは決して説明できず、一体わたしたちの未来、わたしたちの子どもの未来、国の未来をどちらに託すべきなのか、わたしたち国民ひとりひとりに鋭く問いかけた選挙でした。

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