争う経済から夢見る経済へ。誰もが助け合って暮らせるゆたかな社会をめざすソーシャルビジネスを紹介しながら、演歌からポップスまで、好きな音楽への雑感や生活をつづる日記。

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2017.02.17 Fri 島津亜矢と鳥羽一郎「BSにっぽんの歌」

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  2月12日、NHKプレミアム放送の「BS・新日本のうた」に島津亜矢が出演し、スペシャルステージで鳥羽一郎と共演しました。
 最近になってこの番組への出演がつづく彼女ですが、今回の放送ではスペシャルステージだけではなく、番組トップで他の歌手に囲まれて「ヒーロー(Holding Out for a Hero)」を歌いました。
 「ヒーロー」は島津亜矢のポップスのカバーアルバム「SINGER2」に収められた一曲です。すでに3枚になる「SINGER」シリーズにはこの曲に限らずポップスの名曲が数多く収録されていて、島津亜矢の歌唱力を知らしめた「I Will Always Love You」ファーストアルバムに収められ、「うたコン」の前身である「歌謡コンサート」で一気にブレイクしましたが、実は「BS日本のうた」で歌ったのが最初でした。
 歌番組でもコンサートでも歌う機会が少ないのが残念ですが、演歌・歌謡曲を出自とする島津亜矢のもうひとつの魅力がいかんなく発揮された素晴らしいアルバムです。
 その中の一曲をあたりまえのように、それも番組のトップで歌わせるこの番組の制作チームは、おそらく島津亜矢が「BSの女王」という異名をとったほど、BS放送がまだ普及していなかったころに培われた絶大なる信頼を彼女と育ててきたのだろうと思います。
 もちろんそのころは演歌・歌謡曲に特化したと言っていい番組で、若くて底なしの声量と歌唱力で他を圧倒してしまう彼女にある種の脅威を感じるベテラン歌手もいたことでしょうが、その物言わぬ圧力を跳ね返してこの番組の制作チームは、まだ普及途上のBS放送だから可能だった大胆な企画とともに、島津亜矢を押し上げてきたのだと思います。
 その後押しに励まされ、島津亜矢は演歌・歌謡曲のジャンルを越えたポップス、シャンソン、リズム&ブルース、ソウルなど洋楽にもチャレンジの幅を広げ、「マイ・ウェイ」や「I WILL ALWAYS LOVE YOU」、「ローズ」など数多くの洋楽の名曲を見事に歌いこなし、少なくとも演歌歌手の領域ではその実力が求められるようになりました。
 今回歌った「ヒーロー」ではオープニングに選ばれ、音楽番組がバラエティ化する流れもあるものの、出場者全員のバックパフォーマンスに囲まれて歌うという演出が実現したのも、長年の彼女のオールラウンドな歌手としての活動が身を結んだのだと思います。
 この流れが「うたコン」など地上波にもおよび、Jポップのジャンルで認められるようになればいいのですが、Jポップと演歌・歌謡曲が錯綜融合し、新しい大衆音楽の誕生をめざすとされた「うたコン」の現状はそれに程遠いと言えるでしょう。
 そして、返す返すも残念だったのはずいぶん前になりますが、島津亜矢と秦基博とのコラボの選曲が「蘇州夜曲」だったことです。この時は秦基博がとても緊張していて気の毒でした。島津亜矢もまた、いつもは共演者への気遣いから楽器でいえばベースのようにボーカルやギターを盛り立てる人で、現に今回の鳥羽一郎との共演ではその役目を見事に果たしていましたが、その時は彼女をもってしてもどうすることもできず、秦基博を引き立てるどころか、より緊張させてしまったようです。
わたしは秦基博が気の毒だっただけでなく、島津亜矢が若手の才能あるJポップのソングライターと幸せな出会いができなかったことがとても残念です。明らかな選曲ミスで、どちらの魅力も発揮されないままになってしまったあの時、たとえば秦基博のヒット曲「ひまわりの約束」や、もう少し冒険すれば秦基博がカバーしている井上陽水の「氷の世界」であったなら、秦基博は緊張することなく自分のパートを歌いこなしただけでなく、演歌歌手・島津亜矢のボーカリストとしての実力にびっくりしたはずです。島津亜矢の場合は、共演者の土俵に上がってこそその実力が発揮されるだけでなく、共演者との本当の出会いが実現するのです。

 「ヒーロー」は1980年代の大映テレビ制作のテレビドラマで、伏見工業高校ラグビー部をモデルにした「スクール☆ウォーズ」の主題歌でした。ボニー・タイラーの「Holding Out for a Hero」を麻倉未稀がカバーし、その圧倒的な歌唱力が熱血ドラマと呼応し、彼女の代表曲のひとつになりました。あまりにも麻倉未稀の歌唱イメージが強烈で、この曲をカバーするのは少し勇気がいるのではないかと思いましたが、時代はめぐりドラマと切り離せないものとなっている麻倉未稀バージョンからは自由になり、本来のボニー・タイラーの「Holding Out for a Hero」のカバーとして、ロックテイストの早いテンポのこの曲をドラマチックに歌っています。今回音楽番組での初披露になりますが、すでに自分の歌にしていますのでリラックスしたノリのよい歌唱で、番組のオープニングにふさわしいものになりました。しかしながら、

 スペシャルステージの鳥羽一郎との共演は、島津亜矢のまたちがった魅力を見せてくれました。鳥羽一郎が歌手である自分を棚にあげても彼女の歌唱力、歌と真摯に向き合う謙虚さ、歌を詠む力とその人柄すべてをこよなく愛し、島津亜矢もまた恩師・星野哲郎の愛弟子として先輩の鳥羽一郎を尊敬していることが、小さなテレビ画面からも熱く伝わってきます。2013年4月14日のこの番組のスペシャルステージでは、鳥羽一郎が島津亜矢のキーに落とし、自分の歌唱は二の次にして「無法松の一生」を島津亜矢に歌わせ、その歌唱力をほめたたえた様子は、今も記憶に残っています。
 今回は新しい試みで、場所が漁業の町・浜田市であったことから、地元の漁師さんたちが登場し、参加型のステージになりました。この番組のスペシャルステージでは以前は2人の歌手がガチンコで競演し、ぎりぎり緊張感の中で普段よりも素晴らしい歌唱を披露することが多かったのですが、最近はそんな緊張感あふれる歌唱を競うだけではなく、コントを入れたり出演者を2人に絞らず数人にしたりと、その時々でバラエティの様相が増えてきました。たしかに島津亜矢か出演する場合は歌をじっくりと聴きたいという要望が多く、今回のような試みには物足りないという評価もあります。
 しかしながら、わたしはただのバラエティではなく地元の住民や郷土芸能など、その地域のお客さんが参加するバラエティはこの番組では珍しく、とても良質の企画だったと思っています。
 島津亜矢はプロとしてのクオリティーを落さないまま、その企画に沿ったきめ細かい立ち振る舞いをしていて、とても好感を持ちました。また、鳥羽一郎はほんとうに海が好きで、漁師であった自分を誇りにしていて、地元の人たちを尊敬する純粋な心の持ち主であることも伝わり、涙が出そうになりました。
 そして、なによりも島津亜矢も鳥羽一郎もいつもよりも心がこもっていたというと誤解を受けますが、自分たちの歌がステージや劇場だけでなく、浜田の厳しい海や魚の匂いが立ち込める生活の中に届くような歌を歌いました。 今回のスペシャルステージでは2人の歌は少なかったけれど、歌がステージの上でもスタジオでも、ましてやコンピュータやAIが活躍する電脳空間でもなく、大地と海と山と川とひとびとの生活のただ中から、生まれることを感動と共に教えてくれたのでした。
 この企画の素晴らしいところは、ただ単に観客参加型のバラティだったのではなく、鳥羽一郎というかつて漁師だった歌手がいなければ成り立たない企画であると同時に、島津亜矢がそんな鳥羽一郎の思いを形にするためのステージ上のプロデューサー役を見事に果たしたところにあります。
 歌われたのは「兄弟船」、「愛染かつらをもう一度」、「おやじの海」、「演歌船」、「海ぶし」、「龍神」、「海の匂いのお母さん」、「帰らんちゃよか」、「北海夫婦唄」、「いのちのバトン」、「海の祈り」と、すべて二人のオリジナルでしたし、今回は「海の祈り」を一緒に歌う時、島津亜矢の方がキーをあわせていたように感じました。

 
 船村徹氏がお亡くなりになりました。親友だった高野公男の思い出を一生抱き続けて、、愛を必要とする心に届く歌を生み育てて来られたことに弔意と共に敬意を表したいと思います。星野哲郎をはじめとする作詞家との二人三脚、時には美空ひばりとの三人四脚で作曲家としてもまた歌手としても素晴らしい足跡を残されましたが、わたしはあえて原点であった高野公男の茨城弁による作詞と、船村徹の栃木弁による作曲で生まれた名曲「別れの一本杉」を代表曲としたいと思います。

島津亜矢・鳥羽一郎「海の祈り」 

春日八郎「別れの一本杉」

北島三郎「風雪ながれ旅」

島津亜矢「いのちのバトン」
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2017.02.11 Sat 島津亜矢「恋人よ」・彼女はをこの歌の持つ奥深い物語を特別な覚悟をもって歌った。

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 もうずいぶん過ぎてしまいましたが、1月29日のBSプレミアム「新・BS日本のうた」に島津亜矢が出演し、「恋人よ」を歌いました。
 今わたしは5月14日の「ピースマーケット・のせ」、その中でもわたしが発案した友部正人のコンサートの情報宣伝に忙しく、なかなかブログを書けないでいました。その間に妻の母親の緊急入院し、その後の経過がよく6日に退院しましたが、18日は仕切り直しで宝塚の専門病院で7センチもある腹部の動膜瘤のカテーテル手術が可能か診察を受けに行く予定です。
 お母さんは退院できたとはいえ、やはり体力と気力が落ちていて、90歳という年齢を考えると手術自体に体力が持つかどうか、また手術をして1か月ほど入院すれば、ほぼ寝たきり状態になってしまうのではないかと心配です。といって、そのまま手術しないでいたらいつ動脈瘤が破裂するかわからず、そうなるとほぼ命がないと言われています。
 そんな落ち着かない状態で島津亜矢が出演する番組のチェックも怠り、この番組を見逃してしまいました。もっともその週の土曜日と翌週の金曜日に再放送があり、わたしは土曜日も所用で外出しましたので、録画とユーチューブで聴くことができました。

  「恋人よ」は1980年の五輪真弓の名曲です。島津亜矢の場合、さまざまな演歌・歌謡曲・ポップスをカバーし、その歌唱力はオリジナルを越えたと評されますが、わたしはかねがねそういう風に思ったことはなく、その評価はオリジナルの歌手に失礼なだけでなく、なによりも島津亜矢自身に失礼だと思うのです。それほど、島津亜矢にとってカバー曲を歌うことはある意味、自分のオリジナル曲を歌うよりもその曲が生まれた秘密の泉を探るために、オリジナルの歌手と同じ場所に立たなければならない試練でもあるです。
 オリジナル歌手が導かれた歌の泉へとつづく道をたどることで、その歌は奇跡的に一瞬彼女にその美しい姿をさらし、歌の泉の底に沈むもっとも大切なもの、およそさまざまな芸術の根源といえるエロスを垣間見せます。その時、歌はすでに彼女の歌となり、より豊かな表現力でわたしたちを魅了します。
 それはちょうど宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」でジョバンニがカムパネムラに「どこまでも一緒に行こう」と言ったあと、いつの間にかカムパネルラは消えてしまうその一瞬とよく似ていると思います。カムパネルラはすでに死んでいて、ジョバンニのカムパネルラに寄せるあこがれや少年の恋と呼んでもいい切ない想いに引き寄せられ、銀河鉄道の旅へとジョバンニをいざないます。その旅はカムパネルラの死の旅路であると同時に、カムパネルラに恋するジョバンニの孤独なたましいがカムパネルラの死を受け入れ、生きることへの怖れを受け止める生の旅路でもあるのでした。
 そしてその一瞬にこそ、歌は生まれます。いろいろな歌がこの世に生まれ消えていきますが、歌が歌であることの奇跡の一つが死者への挽歌、鎮魂歌であると思います。究極の別れがもたらす大きな悲しみはやがて孤独に生きる人々の勇気となってよみがえる、それが歌なのだと思います。
 五輪真弓の「恋人よ」は、そんな挽歌の極北に生まれた名曲です。島津亜矢はそのことを知り尽くしているのでしょう、いつになく緊張しているようでしたが、長い前奏の間にすでにこの曲の物語のすべてを読みつくした表情が印象的でした。
 
 「恋人よ」は、五輪真弓がデビューした当時のプロデューサーで、この年の春に交通事故死した木田高介の事を思ってつくった曲です。木田高介といえば伝説のロックバンド「ジャックス」のドラマーでした。わたしが最初にファンになった日本のロックバンド「ジャックス」のアルバムは今も持っていて、その中の「マリアンヌ」や「われた鏡の中から」、「裏切りの季節」、「 ラブ・ジェネレーション 」は1960年代後半のわたしの愛唱歌でした。
 葬儀での木田高介の妻の姿は五輪真弓にはあまりにも過酷で悲痛なものでした。どこかヨーロッパの古い街の公園のありふれた風景をつづることで、突然の恋人の死を受け入れられない女性(男性?)の、やり場のない絶望や寂しさや背丈を越える悲しさを歌うこの曲は、どこかシャンソンやニューミュージックのようでありながら、1950年代から60年代にそのルーツを求める日本の歌謡曲にもっとも近いと感じます。
 五輪真弓は、1972年にアルバム「少女」でデビューしました。当時としては珍しい海外録音で、キャロル・キングもレコーディングに参加したことから和製キャロル・キングと称され、女性シンガー&ソングライターとして松任谷由実や中島みゆきに先駆ける存在となりました。
 圧倒的な歌唱力は海外でも高く評価され、フランスからアルバム制作の申し出があり、全フランス語による「MAYUMI」が1977年に発売されるなど洋楽風の楽曲が多かった五輪真弓でしたが、フランスで活動中に「母国の音楽にこそオリジナリティがある」と気付き、生まれ育った日本の情緒をもっと音楽に取り入れたいと考えるようになったと言います。
 1978年、そうして生まれた歌謡曲風の「さよならだけは言わないで」がヒットし、「夜のヒットスタジオ」や「ザ・ベストテン」など多くの歌番組に出演するようになりました。彼女の歌謡曲への挑戦が結実した曲が「恋人よ」で、「この一曲を歌いきることで、他に何も歌わずとも満足するくらいに完成された歌で、多くの人が共感するだろうと確信していた」と語っています。
 1980年代は、作詞家と作曲者が歌手の肉体をメデイアにして歌をつくる時代から、「自分の歌は自分でつくる」というシンガー&ソングライターが日本の大衆音楽をけん引する時代へと大きく変化した時代でした。
 1970年代に阿久悠が「美空ひばりで完成した日本の歌謡曲」を壊し、新しい歌謡曲をつくろうと格闘してきた足跡は、シンガー&ソングライターによるニューミュージックから現在のJポップのアーティストたちによって乗り越えられてしまったといっていいでしょう。いずれまた書くつもりですが、80年代から席巻してきたJポップがしゃれたイージーリスニングやCMやドラマの添え物程度になり、少年少女のアイドルたちが口パクを交えて歌い踊るのがもてはやされるようになった今、阿久悠が志半ばであきらめてしまった新しい歌謡曲への見果てぬ夢は、たとえば歌い手では島津亜矢に引き継がれる可能性を秘めています。しかしながら一方で島津亜矢をメディアにできる作詞家や作曲家はなかなか見つからないのではないかとも思ってしまうのです。
 「恋人よ」は、五輪真弓が作詞作曲し、歌わなければ、愛する人を失う喪失感が歌に込められなかっただろうし、そもそも五輪真弓のシンガー&ソングライターとしての特別な才能と特別な悲劇が重ならなければつくられることも歌われることもなかったはずです。
 その意味では、今の日本の音楽シーンの閉塞感を突き破れるのもまたシンガー&ソングライターであると思われ、島津亜矢をメディアにした新しい歌謡曲を生み出すことができるとすれば彼女たち彼たちであると思います。

 枯れ葉散る夕暮れは 来る日の寒さを物語り
 雨に壊れたベンチには 愛を囁く歌もない

 島津亜矢は、この歌の持つ奥深い物語を特別な覚悟をもって歌ったのだと思います。彼女が獲得してまだ何年もたたない低音の歌唱力がこれほど身を結んだ歌も少ないのではないかと思われる導入部から、「恋人よそばにいて こごえるわたしのそばにいてよ」という心の底から絞り出した激しい感情表現へとつづく特別な歌唱力で臨んだ「恋人よ」は、まさしく後々に語り継がれる一曲になったのではないかと思います。そしてまた、島津亜矢の歌唱を通して久しぶりに五輪真弓の「恋人よ」を聴きなおし、五輪真弓の歌唱力とこの歌に込める深い想いをあらためて実感しました。

 明日はNHKBSプレミアムで放送される「BS・新日本のうた」のスペシャルステージに、島津亜矢が鳥羽一郎と共演します。2014年4月14日に放送された「BS日本のうた」の島津亜矢と鳥羽一郎の共演はまだ記憶に新しく、今回の共演はどんなステージになるのかとても楽しみです。

島津亜矢「恋人よ」
最近はコンサートでもあまり歌ってくれないのですが、島津亜矢はシャンソンを歌わせても絶品で、「恋人よ」ではそれが活かされていると思います。
五輪真弓「恋人よ」 
五輪真弓の歌づくりは昔も今もとても深いものがあり、商業的な野心からでもなく、またシンプルな自分の感情をぶつけるためだけではない、どこか人間の崇高さを生み出す歌をつくる人だとおもいます。
「恋人よ」はその意味でも最高傑作のひとつで、歌をつくることと歌を歌うことが幸せな蜜月にあり、彼女が歌ってこそはじめて歌になる歌なので、この歌のカバーは至難の業だと思います。島津亜矢はそのことをとてもよくわかっていると思います。
美空ひばり「恋人よ」
この歌唱には賛否両論ですが、わたしは美空ひばりのルーツがブルースにあり、その意味ではミスマッチだともいえるのですが、五輪真弓が歌謡曲としてこの歌を世に送り出したことを率直に受け止めた歌唱だと思います。少なくともこの歌のカバーでもっともちがいがわかるところは、あたかも失恋の歌になってしまうのか、死んだ恋人への挽歌になっているのかだと思うのですが、その意味では美空ひばりは自分の懐にこの歌を取り入れ、見事に挽歌として歌っていると思います。
島津亜矢はもちろん挽歌としてとても真摯に歌っているのですが、彼女の場合は五輪真弓の歌謡曲テイストにさかのぼるように、シャンソンに近い領域にのぼり詰めていて、そのハードな歌声は五輪真弓に近いと思いました。

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2017.02.02 Thu 「いのちのバトン」は新しい歌謡曲のバトン。重く暗く悲しく孤独なバトン。

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 ブログの更新が大幅に遅れてしまいました。
 前回の記事に書きましたが、1月17日に妻の母親が緊急入院しました。実はこの日に、宝塚の専門病院で7センチの腹部動膜瘤を切除する少し難しい手術をするために入院する予定でした。90歳の高齢では開腹手術は難しく、そのままにしておいて破裂したら仕方がないと言われていたところ、カテーテル手術で可能ではないかということで、検査入院する日でした。
 ところが当日の朝、風邪なのかインフルエンザなのかわからないのですが熱があり、床に座り込んだまま動けなくなり、救急車で隣町の川西病院に運び込まれました。川西市立川西病院は川西市の北部にあり、救急病院なので隣接する能勢町や豊能町、猪名川町の住民にとってはとてもありがたい病院です。とくに私の住む能勢町には町立の小さな診療センターが一つしかなく、医院の数もとても少ないため、緊急の場合は川西病院が命綱になっています。妻の母親も3年前にインフルエンザにかかり、一ヶ月以上入院しました。
 いま、川西市が老朽化した川西病院をもっと南の中心部に移転し、コストがかかる救急医療と小児医療の見直しを検討しているということで、隣町の住民としては強くは言えないのですが、妻の母親のように命拾いをしている高齢者も多く、なんとか違う形で存続してもらえないものかとパブリックコメントに応募したところです。
 過疎化が進む能勢町をはじめとする大阪府北部の医療はお金がかかるということで、今後ますます問題になると思うのですが、行政区分をまたがり、いくつかの町や市が相応の負担をしながら広域の医療体制を組んでいただけないかと思います。
 そんなわけで、今も妻は病院で寝泊まりする窮屈な生活をしていて、私のほうも自分の食事や家事全般で忙しく、前回の入院の時も思ったのですがもっと日ごろから相応の分担をしなければと痛感します。私の友人たちは家事をすべて自分でしたり役割を担っていて、ほんとうにえらいなと思います。「甘えたらあかんで」という彼らの糾弾に身が縮む思いですが、これを機会にもっと生活術を磨かなければと思います。

 そしてまた、昨年に仲間たちと開いた「ピースマーケット・のせ」を今年もすることになったのですが、今年はイベントの終わりに友部正人さんのコンサートをすることになり、昨年以上の準備をしなければなりません。
 友部さんはテレビにまったく出ない方ですが、日本のボブ・ディランと言われるフォークシンガー&ソングライターで、70年代初めからずっとギターとハーモニカの弾き語りで熱烈なファンを持っています。
 わたしもまたそのひとりで、70年代からずっと聴いてきました。最近では5月に大阪府の服部緑地で開かれる「春一番」に多くのアーティストが出演する中で、友部さんを目当てで毎年参加しています。
そのチラシづくりにも相当の時間がかかりましたが、ようやくめどがたったところです。
「ピースマーケット・のせ」のことと、とりわけ友部正人さんのコンサートに関する記事はこれからたびたびご案内させていただきます。

 さて、ここ2週間ほどの間にもっとも気になっていたのは、島津亜矢の新曲「いのちのバトン」がどれだけ世の中に受け入れられるのかということと、書き始めて頓挫している美空ひばりのこと、そして、すでに過去のものになっていますが昨年の紅白全般の感想で、島津亜矢以外はポップス系の出演者のことも近々書いてみようと思っています。
 そして、忙しさにかまけてこの間の「BS新日本のうた」を見逃してしまい、島津亜矢の歌唱については、土曜日の再放送を楽しみにしています。
 Jポップのジャンルではカバーを歌うことにオリジナルの歌手への遠慮はないように思います。というより、日本のポップスの源流のひとつは洋楽のカバーにあり、わたしも幼心に中尾ミエ、伊藤ゆかり、ザ・ピーナッツ、森山加代子、弘田三枝子など、オリジナル曲もさることながら「悲しき16才」、「可愛いいベビー」、「ボーイ・ハント」、「太陽はひとりぼっち」、「ヴァケイション」などに胸キュンし心を奪われていました。
 これらの数々のヒットソングは昼でも電灯をつけなければ真っ暗な6畳2部屋を親戚の家族と分け合って暮らしていた子ども時代のわたしに、永六輔作詞・中村八大作曲による日本製のポップスとともになんの根拠もなく「明日はきっといいことがある」と思わせ、歌のようにわたしも素敵な初恋が待っていると信じさせてくれたものです。
 最近出来NHKBSで放送されている「カバーズ」ではJポップの旗手たちが出演し、影響を受けた歌手の歌をカバーすることで自分の音楽に新しい可能性を発見すると証言しています。
 演歌・歌謡曲のジャンルでもカバーソングを歌うことは常識のように見えますが、実はどんな事情かは別にして島津亜矢が歌えなくなったカバーソングがありますし、今でも暗にオリジナル歌手が自分の歌を手放さない傾向が強いと思います。
またなぜか演歌・歌謡曲のジャンルではカバーソングを歌うとオリジナルを越えられないとか越えたとかいう論議が起こったりしますので、余計にオリジナル歌手は持ち歌を手放させず、そのために懐メロばかりがカバーされることになります。
有志以来いままでに誕生した歌はそれぞれの時代の写し鏡で、歌い継がれることで風景や匂いなど時代の記憶がよみがえります。
ポップス、ジャズやブルース、クラシックのようにオリジナル歌手にこだわらず、人間がパンのみでは生きられない証として誕生した音楽や歌が、かけがえのない共有財産になればいいなと思います。
 さて、島津亜矢の新曲ですがランキングのことは別にして、この曲は狭い意味のJポップ(広い意味ではJポップを歌謡曲というそうです)と最初思いましたが、聴きこんでいくと、あえてこれこそ「島津演歌」という新しいジャンルの歌だと思います。彼女が既成のジャンルを越えた歌姫であることはすでに数多くの方が認めるところですが、その評価はまさしく彼女がジャンルを越えたカバーソングを歌うことで彼女の音楽的冒険を広げてきた証で、その財産をその時々のオリジナル曲に注入してきたといえます。
 その成果は数々のオリジナル曲に反映されてはきましたが、わたしはもうひとつ、演歌でもなくJポップでもなく、その両方を持ち合わせたジャンル、かつて阿久悠が「美空ひばりによって完成したと思える流行歌の本道と、違う道はないものであろうか。」と悪戦苦闘の末、「自分の歌は自分でつくる」というシンガー&ソングライターによるJポップに道を明け渡してしまった時点で引き裂かれてしまった「新しい歌謡曲」が生まれるとすれば、島津亜矢がそれを背負う運命にあると思っていました。
 歌のバトンが美空ひばりから島津亜矢に渡される予感は、幸か不幸か昨年の紅白で美空ひばりを歌うという、半ばフライングの形で実現したかのように思います。しかしながら、そのバトンは「美空ひばりで完成した既成の歌謡曲」のバトンであり、それを受け止める歌い手さんはたくさんいると思います。
 島津亜矢が美空ひばりから受け取るバトンは、もっと重く暗く悲しく孤独なバトンだとわたしは思います。それは「美空ひばりで完成してしまった歌謡曲」ではなく、美空ひばり自身が「完成した歌謡曲」からいつも脱出することを求め続けた新しい歌謡曲というバトンなのです。いつの時代も激動の嵐に巻き込まれ、いのちをつなぐことに精一杯だったひとびとのそばにあった歌をいとおしく歌いつづけた美空ひばりのたましいこそが彼女の歌のバトンだとしたら、そんな重いバトンを受け止めることができる歌手が、島津亜矢以外にいるはずはないとわたしは思うのです。
 新しい歌謡曲の入り口に何年も立ち続け、時代が自分に追いつくのを待ち続けたその人、未完の大器・島津亜矢は美空ひばりの悲しさも阿久悠の絶望もみんな受け止めて、その新しいバトンを次の世代に渡すために走り続けることでしょう。
 「いのちのバトン」とは、そのことを歌った歌でもあると思います。演歌でもまだまだ音楽的冒険にチャレンジできることを教えてもらいました。

 妻の母親はお医者さんいわく驚異の回復力で、6日に退院することになりました。
 お腹の動脈瘤という爆弾はいつ破裂するかわからないので、少し様子を見て再度専門の病院に問い合わせすることにしました。仕切り直しで手術してもらえるかはわからないのですが…。

島津亜矢「いのちのバトン」
テイチクの試聴盤です。曲の一番が入っています。
島津亜矢「いのちのバトン」
NHK「うたコン」での歌唱です。曲の二番から歌っています。

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2017.01.19 Thu 島津亜矢の新曲「いのちのバトン」

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島津亜矢がNHKの「うたコン」に出演し、新曲「いのちのバトン」と「皆の衆」を熱唱しました。
 わたしの個人的な感想ですが、紅白の時の緊張しきった表情から一変し、とてもリラックスした明るい表情で、はれやかな赤の着物と相まってキラキラしていました。
 番組の最初に島津亜矢が村田英雄の「皆の衆」を歌ったのですが、島津亜矢は村田英雄の歌が得意と言っていいのではないでしょうか。得意という意味は単にカバー曲としてうまいという意味ではありません。「人生劇場」、「夫婦春秋」、「無法松の一生(度胸千両入り)」、そして「皆の衆」、「王将」と、どの曲を歌っても歌のうまさ以上に、半世紀以上の時を経た今、この時代の空気感をとらえられる稀有の才能だと思います。
 その意味では今回の番組では三橋美智也を特集しましたが、もちろん、三橋美智也も春日八郎も田端義夫も東海林太郎の歌も格段の歌唱力で歌っています。
 1950年代から60年代、若者たちが政治的な行動や労働争議に身を投じた時代の空気は、大衆芸能、特に歌謡曲や大衆演劇に大きな影響力を与えたことでしょう。歌声喫茶がうたごえ運動を通して若者たちの政治的社会的な活動を支えただけでなく、集団就職で都会に出てきた青年の孤独をいやす大切な場所でした。山本周五郎の時代小説は戦後を経て強いものや権力を持つ者たちが復権し、高度経済成長へと足を踏み入れ始めた頃、長屋で助け合う庶民の人情話を通して自分が他者に何ができるのかと問いかけました。
 また、新国劇が好んで上演した長谷川伸の任侠物「瞼の母」や「一本刀土俵入り」は社会のはぐれ者の人情、義理という「もうひとつの正義」によって社会の矛盾や悪をただす物語として、芝居だけにとどまらず映画や歌謡曲の題材となりました。
 わたしは1947年の生まれで戦後民主主義の誕生とともに人生の一歩があったわけですが、歌謡曲や芝居や映画や小説などで描かれた風景は、実は戦前からずっとつながっていたことを知りませんでした。それを教えてくれたのが島津亜矢で、わたしの娘と同年代の彼女によって戦前戦中戦後の時代の流れを学べたのは、まさしく島津亜矢の歌謡曲の力なのだと思います。
 わたしが彼女を特別な歌手と思う理由は本人が体験していないことでも、これらの歌謡曲に通底している時代の空気、薄白色の暗闇に浮かんでは消える戦争でなくなった人々のはかない夢の隠れ場所を探し出し、今の時代にそっと置きに来ることができる稀有の歌手だからで、彼女のこの時代の歌謡曲のカバーはほかの歌い手さんが歌うような「懐メロ」ではなく、今の時代につながる歌として戦前戦中戦後をくぐり抜けた彼女たち彼たちの生きた意味を問いかけるからなのです。それはちょうど、山本周五郎や長谷川伸が時代小説の形を借りてその時代の社会に問いかけたことと通じると思います。
 
 そして、新曲の「いのちのバトン」ですが、「歌路遥かに」とアルバム「悠々~阿久悠さんに褒められたくて」以来の意欲作で、しかも今回はオリジナルとしては初めてだと思うのですが、ドラムスの音が響くロック調の楽曲で、音楽的冒険に打って出たと言えるでしょう。
 作詞・森坂とも、作曲・金田一郎による「いのちのバトン」はロック風の歌謡曲・演歌というところでしょうか。作曲の金田一郎は柳ジョージや頭脳警察、平井賢などのロック・ポップスの歌手に楽曲提供する一方、森進一、前川清、天童よしみなどの演歌歌手にも数多く楽曲提供をしているオールラウンドの作曲家であり、歌手としても活動しています。島津亜矢とはアルバム「悠々」で「三日の宿」を作曲した縁があります。また森坂ともは石原詢子、伍代夏子、氷川きよしなど演歌歌手の楽曲を数多く作詞しています。
 この歌は出自の演歌と共に長い間、ポップスやロックのカバーを歌いつづけてきた島津亜矢だからこそ歌える一曲と言えます。  本来的には演歌のうなりやこぶしはロックやリズム&ブルースとつながっているはずですが、いわゆる演歌歌手がロック調の歌を演歌の歌唱法で絶唱するのとはちがい、ロックそのものの骨太な歌唱法でシャウトし、この歌の大きなメッセージである親から子へと何代もつなぐ「いのちのバトン」のいとおしさが伝わってきます。「瞼の母」で母への想いを叫んだ壮絶なモノローグは、ここでは芝居で獲得したダイアローグによる母の願いとなり、金田一郎の曲をより一層ドラマチックな抒情詩にしています。
 島津亜矢がここ数年、地道に挑戦してきた芝居や、他ジャンルのミュージシャンとのコラボレーション、もっとオリジナルをと言われながらもポップス、ジャズ、リズム&ブルースの膨大な楽曲のカバーを歌いつづけてきたすべての努力は、この一曲のためにあったのかもしれません。

すべてを捨てても 我が子を守りたい
母とは せつないものですね
泣いて泣いて生まれ 泣いて泣いて死別(わか)れる
なみだでつなぐ いのちのバトン

 私事ですが、つい先日妻の母が入院し、重い症状で回復するにしても時間がかかることと、治療が間に合わず腹部にある7センチの動脈瘤が破裂すれば命がないと言われたところです。
 思えば私の母は1997年、脳こうそくでたおれ、2度目の発作の後86歳でこの世を去りました。世間から奇異に見られたシングルマザーとして、大衆食堂を一人で切り盛りしながら貧乏ながらも兄と私を高校に行かせ、片手に小山ができるぐらいの薬を飲みながら必死に毅然と生きた母。その母に充分に報いることができなかったわたし。
 せめて妻の母にはできるだけのことをしたいと思いながらも、90歳になる彼女のいのちがどれだけあるのか心もとなく、島津亜矢の歌そのままに「いのちのバトン」をまだ手渡されたくないという気持ちが正直なところです。
 正直なところヒット曲に恵まれなかった島津亜矢ですから、「いのちのバトン」がヒットしてくれたらうれしいです。しかしながら一方でヒットするとかにかかわりなく、昨年亡くなったレオン・ラッセルの名曲「A Song for You」のように、だれかひとりのために歌われる歌が歌い継がれてたくさんの人の心に届く、そんなもうひとつのヒット曲として「いのちのバトン」がイヤホーンやヘッドホーンではなく、巷に流れていったらと願っています。

島津亜矢「いのちのバトン」



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2017.01.15 Sun 大雪の日に、吉野弘「雪の日」に心洗われる

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 今日は一日中雪が降り続いています。わたしの住む能勢は大阪の北の端で、峠を越えれば京都府亀岡に通じる山里で、天気予報も大阪か京都南部か見るのに迷う地域です。
 寒さもひとしおですが、なぜか雪はそれほど降らず、年に一度、たいがいは一月に大雪がふる程度ですが、今日の雪は格別な雪で能勢に来て6年目で初めての大雪となりました。
 さて、わたしは雪が降るといつも思い出す詩があります。吉野弘の「雪の日に」です。
 この詩は吉野弘作詞・高田三郎作曲の有名な合唱組曲「心の四季」の中の詩で、わたしは息子が参加していた同志社大学混声合唱団「こまくさ」の定期演奏会と、豊中混声合唱団の定期演奏会で聴きました。
 わたしには娘と息子二人の子どもがいますが、父親として子どものために何もしてやらなかった、というよりはできなかった人間で、子どもたちが幼稚園に行くようになった時、母親に連れられて幼稚園の見学に行ったものの20分も泣きわめき、結局幼稚園に行けなかったわたしをのりこえてくれたと思ったものでした。
 実は、娘の方はごく軽い「てんかん」で、幼稚園でも多少問題になったようですし、息子の方は一度専門家に相談したらと幼稚園から言われたりしていたのですが、わたしにくらべたらはるかにしっかりと「社会進出」を果たしているのですから、それ以上望むものはなかったのです。
 息子は小学校から中学校はテレビゲーム、高校の時はハードロックにはまり、大学で合唱サークルに入りました。それまで一人遊びが上手だった彼が、はじめて仲間とひとつのことをする喜びと苦しみを学んだのが合唱サークルだったようです。
 やがて合唱サークルの定期演奏会に足を運ぶようになり、いままで歌謡曲かほんの少しロックを聴くぐらいしかなかったわたしは、合唱の素晴らしさを知ることになりました。
 彼はその後に豊中混声合唱団に参加していたこともあり、その定期演奏会も何度か行きましたが、わたしはきっとそんなにレベルが高いわけではない大学時代の合唱サークルの演奏のほうをよく思い出すのです。
 というのも、大学を卒業すれば別れ別れになる若者たちが人生の中でほんのひととき、今を共に学び生きる仲間と言葉と声と音楽を響き合わせ、心を細い糸でつむぎ合わせる歌声は時にはたよりなく時には力強く会場を共振させ、いつのまにか意志を持ったひとつの声になり、聴く者の心に広がっていくのを感じ、合唱は歌いながら聴きながら、天使が降りてきて至福の声を聴く一瞬のためにあるのだと思ったのでした。それを神の声と呼んでもいいのかも知れません。
 そんな一瞬を共有するために、膨大な時間をボイストレーニングと自分のパートの練習に費やし、それから多い時には100人の若者が歌っている姿を見ていると、とてもいとおしく思ったものでした。合唱の魅力に憑りつかれたわたしは、息子の出演する演奏会には必ず行くようになりました。
 
 合唱を聴いてもうひとつ大きな発見をしたことは、若い頃に親しんだ現代詩が合唱曲になっていたり、合唱曲のために詩人が書き下ろした詩を楽しめることでした。
 谷川俊太郎の「地球へのバラード」の中の「鳥」や「地球へのピクニック」など、わたしは彼の詩集で読んだ記憶があります。

鳥は空を名づけない
鳥は空を飛ぶだけだ
(谷川俊太郎「鳥」)

 また、長谷川きよしが歌った中山千夏作詞の「黒い牡牛」を合唱曲で聴けたのも大学の合唱サークルの演奏会でした。

 吉野弘と高田三郎による「雪の日に」は素晴らしい合唱組曲で、若い頃あまり親しみがなかった吉野弘の詩の世界にも触れることができました。
 合唱団や合唱サークルの中でも定番の合唱曲ですが、高田三郎の繊細で抒情的な曲にしみ込む吉野弘の詩は日本の春夏秋冬をなぞる心の風景画とも言えます。
 その中でも「雪の日に」はドラマチックな曲で、神々しく荘厳な雪の風景が浮かんできます。「心の四季」というタイトル通り、人生の春夏秋冬を通り過ぎてきて、雪の白さ、雪の重さ、純白の雪の嘘と、その嘘を隠す純白の雪…、自分の人生を振り返りながら降り続ける雪のようにただひたすら今の自分をかみしめる悲しさ、切なさに胸が締め付けられる思いです。

どこに 純白な心など あろう
どこに 汚れぬ雪など あろう
雪がはげしく ふりつづける
うわべの白さで 輝きながら
うわべの白さを こらえながら
(吉野弘「雪の日に」)

 これからどれだけの時間が私に与えられているのかわかるはずもありませんが、降り続ける雪と真っ白な景色を窓から眺め、「雪の日に」を聴きながら、自分の人生を圧倒的に情熱的に肯定しよう、そして自分らしく、そして少しだけ勇気を出して生きていこうと思いました。

「心の四季」より「4.山が」「5.愛そして風」「6.雪の日に」「7.真昼の星」
豊中混声合唱団第53回定期演奏会 2013年7月6日 ザ・シンフォニーホール
わたしもこの演奏会に行きました。この映像で私の息子も見つけられました。
この演奏会は感慨深いものがあります。というのもこの時、珍しく私の娘と、2015年に亡くなったM.Kさんと一緒でした。M.Kさんとは長い付き合いで、何回かクラシックのコンサートに連れて行ってくれた人で、箕面の障害者の活動でとても大切な役割を果たしてくれた方でした。とくに私の娘はこの人といっょに仕事をすることで多くのことを学んだと思います。
とてもすてきな人でした。

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