争う経済から夢見る経済へ。誰もが助け合って暮らせるゆたかな社会をめざすソーシャルビジネスを紹介しながら、演歌からポップスまで、好きな音楽への雑感や生活をつづる日記。

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2017.09.19 Tue 島津亜矢と堂珍嘉邦の「美女と野獣」のコラボは大事件でした。

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 「ガンダム」の主題歌につづいて島津亜矢の直近のトピックはTBSの音楽フェス番組「UTAGE」に出演したことでしょう。
 しかも、ケミストリーの堂珍嘉邦とのコラボを、誰が想像できたでしょうか!
 「金スマ」出演以後、TBSの国民的音楽フェス「音楽の日」出演を経て、島津亜矢のポップス歌唱の評価が日に日にすそ野を広げる昨今ですが、さすがに堂珍嘉邦とのコラボは思いもしないことでした。
 5年ぶりに活動を再開したばかりのケミストリーは2月から復活ツアーを開始、テレビの音楽番組にも出演しています。島津亜矢も出演した7月18日のNHK「うたコン」ではヒット曲「Point of No Return」を熱唱し、奇跡といわれるデュオのハーモニーの復活に数多くのファンが酔い知れたのではないでしょうか。ちなみにこの日の放送は「エレファントカシマシ」も初登場し、ケミストリーとはまたちがい、エモーショナルで、どこかなつかしい50年代の歌謡曲のようなロックを聞かせてくれました。
 CHEMISTRY(ケミストリー)は1999年、テレビ東京のオーディション番組「ASAYAN」の男性ボーカリストオーディションで選ばれた川端要と堂珍嘉邦の2人により結成。デュオを選ぶという見地にたって選考された結果、個々の表現力と潜在能力の高さは勿論のこと、2人が一緒になったときの化学反応の素晴らしさから、デビュー当時のプロデューサーの松尾潔から「CHEMISTRY」と名づけられました。
 松尾潔といえば自身がパーソナリテイを務めるラジオ番組で島津亜矢の「I Will Always Love You」を絶賛し、ポップスやリズム&ブルースのファンに島津亜矢を紹介してくれた人ですが、一見冒険と思われる今回のコラボも直接はかかわりがないかもしれませんが松尾潔つながりで納得できました。
 それどころか、この番組のプロデューサーが島津亜矢を出演させ、なおかつ堂珍嘉邦と「美女と野獣」でコラボさせたことは快挙と言ってよく、どれだけの賛辞を寄せてもまだ足らないくらいの大成功の企画だったと思います。
 実際、二人のデュオはとてもすばらしいものでした。宴がコンセプトのこの番組らしく3組の舞踏会風のダンスの方が目立ちましたが、聴く人ぞ聴くというべきか、番組終了後の反響は半端なものではなかったようです。
 わたしもほんとうにびっくりしました。「音楽の日」の時は「I Will Always Love You」でしたので、わたしとしては一定の評価を得ている選曲で少し物足りないと感じたのですが、今回はミュージカルの名曲「美女と野獣」で、いきなり堂珍嘉邦とのコラボを堂々と歌い上げてしまったのですから。
 5年ぶりにケミストリーの活動を再開させた川端要と堂珍嘉邦は、「歌うことがうれしくてしかたない」という感情がにじみ出て、ふくらみのある包容力と奥行きと陰影と説得力があり、以前から定評のある歌唱力によりセクシーさが増していると思います。
 以前のケミストリーは、たしかに歌唱力は群を抜いていましたが、わたしはどこか薄っぺらいものを感じていて、いかにもオーディションで選ばれ、最高のレベルにつくりあげられた、ややテクニック先行のお仕着せのデュオが歌わされているという印象をもっていました。
 事実、彼らもそこのところに引っ掛かりをもっていたようで、デュオとしての活動をいったん休止することになったのでした。2人は日本でもトップクラスのボーカリストですから、それぞれソロで活動しながら音楽以外にもさまざまな自己表現をしてきた5年間でした。
 そして今、2人は自らデュオとしての活動再開を熱望し、その名のごとく二人の声が反応し、「もうひとつの声」が立ち現れてくる奇跡のハーモニーを二人自身でつくりなおしたのでした。その意気込みと切実な音楽への渇望が彼らをよみがえらせ、テクニックだけでない新鮮な才能に満ち溢れた彼らの音楽の再出発はJポップ、そして日本の音楽シーンにとっても新鮮な風となることでしょう。
 そんな堂珍嘉邦は、島津亜矢の歌をどう受け止めたのでしょうか。ポップスのアーテイストとのコラボはいままでもなじみ深いものでしたが、ポップスを歌える演歌歌手という程度の前知識で臨んだリハーサルの段階で、彼は島津亜矢という振り袖姿のディーバの降臨に驚いたことでしょう。
 その驚きを隠した彼が、本番ではさらに一歩、島津亜矢と音楽の荒野に踏み込んでいく姿がありました。この歌はミュージカルの中で歌われる主題歌として物語の中に組み込まれているため、それなりのずば抜けた歌唱力のある歌手が歌えばミュージカルの中の名曲はなりえます。
 しかしながら、島津亜矢という異色のボーカリストを得た堂珍嘉邦は、この歌の誕生の場所をミュージカルの中にもとめず、あくまでもボーカリストとしての矜持のもと、島津亜矢とのサプライズの磁場に求めたのだと思います。
 それは人間が武器を発明するよりも早く、また言葉を発明するよりも早く、コミュニケーションと和解の道具として音楽を発明したように、稀代のボーカリストである彼は島津亜矢との交信・協働の音楽によって、「ケミストリー」の名のごとく、たぐいまれな化学反応を起こしたのでした。
 彼自身よみがえったばかりの堂珍嘉邦が、川端要以外のコラボで化学反応を起こすぐらいの衝撃と癒しと圧倒的な歌唱力と歌を詠む才能を持ち合わせた島津亜矢と歌い上げた「美女と野獣」は、誤解を恐れずに言えばセクシーで肉感的、そして実は音楽のもっとも大切なモーメントである「死」を内包した素晴らしい祝祭歌にまでたかめられたのでした。
 それにしても、島津亜矢にはほんとうにびっくりさせられます。彼女はこの番組もふくめてポップスの場では新人と言っていいでしょう。しかるに気負うことなく、バンドでいうベースのような役割で堂珍嘉邦の才能をいかんなく発揮させるだけでなく、堂珍嘉邦の誘いに応じて自らも化学反応してしまえるのですから。
 以前の「SONGS」では大竹しのぶとクミコに圧倒されたのか、中島みゆきへの過度な思い入れなのか、力の入りすぎた「地上の星」に少しがっかりさせられましたが、前言を撤回し、島津亜矢はポップスでも演歌歌手のエチュードを超えるパフォーマンスをすでに持っていることを示してくれました。とりわけ、今回はソロではなく、デュオで証明したのが大きかったと思います。
 この上は、ケミストリーのもうひとりのボーカリスト・川端要とリズム&ブルースやソウルミュージックで、もっと贅沢を言えば「島津亜矢AND CHEMISTRY」でオリジナル楽曲をどちらともかかわりの深い松尾潔・プロデュースでつくってくれたらと、途方もない夢を見てしまいます。
 これからの島津亜矢は、美空ひばりや石川さゆりがたどってきたように、ジャンルを超えてその稀有の才能を楽曲に昇華させる音楽の作り手を貪欲に探すことがますます必要になってきているのではないでしょうか。
 時代が島津亜矢に追いつこうとしているのに楽曲はなかなか追いつけない状態で、これまで通りの予定調和的な歌作りでは一気に増えたファンをがっかりさせるのではないかと心配です。

堂珍嘉邦&島津亜矢「美女と野獣」・島津亜矢「イミテーションゴールド」(UTAGE)

CHEMISTRY「ユメノツヅキ」(松尾潔プロデュース・作詞)

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2017.09.14 Thu わたしの「極私的路地裏風聞譚・河野秀忠さんがいた箕面の街」 NO.1

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 2017年9月8日、河野秀忠さんが亡くなりました。
 1942年生まれの河野さんは、酒屋の店員やトレーラーの運転手などさまざま仕事をしながら、反戦・部落・沖縄問題に取り組み、1971年、障害者の友人を得て障害者解放運動にたどり着き、その後は亡くなるまで生涯現役の闘士でした。
 脳性マヒ者協会・青い芝と映画「さよならCP」上映運動、関西青い芝運動、全障連の設立、障害者問題資料センターりぼん社と障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」の発行、自主映画「カニは横に歩く」、映画「何色の世界」、映画「ふたつの地平線」、養護学校義務化反対闘争、医療的ケアを必要とする障害児者の問題など、全国の障害者運動の現場に立ち会い、1995年の被災障害者支援「ゆめ風基金」の設立者の一人として自然災害による被災障害者の支援に尽力しました。
 一方で障害児教育創作シリーズや人権啓発絵本シリーズなど、教育や人権啓発図書の執筆と講演などで、全国の自治体の教育・人権啓発施策にも影響を与えました。
 そんな河野さんの死を驚きと悲しみの中で受け止めた方は数えきれないでしょうし、河野さんの講演を聴いたり著書を読んだ人もふくめて、河野さんによって人生が変わったと告白する人は100人や200人どころではないと思います。
 わたしもまた出会って30数年、河野さんによって人生が変わった人間のひとりでした。
 ひとりの人間が生涯に出会う人の数はそれぞれでしょうが、河野さんほど多くの人々と出会い、時には激しく時にはやさしく障害者の問題を語り、行動し、共に酒を酌み交わし、人生の宝物を分け合ったひとは数少ないと思います。
 そんな河野さんの数々の出会いや交流やたたかいをそれほど知るわけではなく、また彼にとってわたしがいい友人であったかどうかも心もとなく、そんなわたしが彼との思い出を語ることにどんな意味があるのかわかりません。
 しかしながら、きっと数多くの人々がそうであるように、わたしの心の中にぽっかり空いてしまった寂しい空洞を埋めるためには、河野さんとの思い出を涙が枯れ果てるまで語り、書かずにはおられないのです。
 障害者運動の本流は別の方々にお任せするとして、豊能障害者労働センター在職時、機関紙「積木」の編集者のひとりとして河野さんに依頼し、長期の連載となった「私的障害者解放運動放浪史」(のちに「障害者市民ものがたり―もうひとつの現代史」という本になりました)になぞって、わたしの「極私的路地裏風聞譚・河野秀忠さんがいた箕面の街」を書き残しておこう思います。

 河野秀忠さん、河野保子さんが箕面の街に来なかったら、箕面の障害者運動はなかったと思います。共に学ぶ教育運動は隣町の豊中の教育運動と呼応して、障害者の人権・生活運動は1981年の「国際障害者年」を機に設立された「国際障害者年箕面市民会議」から、河野さんの箕面の運動が始まりました。
その中でも「国際障害者年箕面市民会議」が果たしたものはとても大きなものでした。
 この頃、全国各地で同じような組織ができましたが、ほとんどが時の労働組合のナショナルセンター(全国中央組織)だった総評傘下の労働組合のみで構成されていました。
 けれども箕面だけは、障害者個人、その家族や福祉関係のボランティアに加えて、それまで障害者と出会ったこともない一般の市民が個人で参加できました。
 このことが福祉関係者や活動家だけでなく、その街に暮らすべき障害者とその街に暮らす人々との対話と協働による箕面の障害者運動の方向性を決めることになりました。
 「国際障害者年箕面市民会議」の設立に向けて河野さんの刎頸(ふんけい)の友であった浜辺勲さんと出会い、障害者と障害者の家族、そして地域の市民たちと出会った彼は、その強烈な個性でまわりの人々を扇動、鼓舞し、勇気をまき散らしました。
 河野さんのライフワークとなった1979年発刊の障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」を魂の拠点にして、全国各地の 障害者の肉声を丁寧に拾い集め、ふつふつと立ち上る障害者解放運動の炎に身を焦がしながら、河野さんは自分の住む箕面の街にもその炎を発見したのだと思います。
 人間の解放へとつながるすべての道を先導して歩くのは学者でも役人でも政治家でもなく、市井の人々であることを知った彼がもっとも頼りにしたのは障害者であり生活者としての市民でした。

 60年安保、70年安保や反戦運動、沖縄問題、部落問題などの運動の果てに障害者と出会ったとき、それまで長きに渡り「人民の解放闘争」と声高に叫んできたけれど、その「人民」の中に障害者が入っていなかったことを教えられ、がくぜんとしたと言います。
 そして、中学卒業後、酒屋店員をしながら社会党員となり、大阪十三の中小企業の工場労働者をオルグ(組織)し、組合をつくり、待遇改善や「首切り」反対闘争をしながら傾倒していたマルクス主義もまた、結局のところ健全者の論理でしかないことに気づかされたのです。
 そのことを教えてくれた横塚晃一さんとの出会いを、河野さんは酒を飲みながら何度も話してくれました。それは「さよならCP」上映会で、上映会の後に横塚さんに話をしてもらうことになり、新大阪駅にお迎えに行った時のことでした。
 姿を現した横塚晃一さんは、駆け寄った河野さんに軽く挨拶をして、ひょこたん、ひょこたんと歩き出した。階段にさしかかると、手にした風呂敷包みでバランスを取りながら歩く。途中で、河野さんがその風呂敷包みを持ちましょうと手を出すと、横塚さんはぐらりとバランスを崩し、危うく、階段から転げ落ちそうになった。
 その夜、横塚さんは、「河野さん!ぼくは、誰かの支えが必要な時はぼくがそのことを伝える。ぼくの意思を無視して、ぼくのことに手を出さないで欲しい。小さなことだけど、障害者の人権にとっては、大切なことなんだよ。」と。河野さんは心底から恥じた。本当に、事の本質を理解していない自分を恥じた。

 このエピソードは河野さんと知り合った人で知らないひとがないぐらい、いつも自分を戒める言葉として、河野さんが大切にしてきたものでした。
 箕面に限らずまだ障害者が街で見ることもほとんどなく、親元から独立して暮らす障害者も少なく、大人になれば山奥の施設で過ごし、さらにもっと親亡き後の施設を障害者の親たちが要求し、親が障害児を殺す事件がたびたび起きていたあの時代に、障害者の意志を無視する健全者のおごりを鋭く指摘した横塚さんは素晴らしい人でしたが、そのことにすぐに気づき、その後の人生の戒めとした河野さんの、見た目と大違いの繊細な心が、その後に出会ったわたしをふくめた数多くの人々に静かな勇気を与えてくれることになります。
(つづく)
Janis Joplin - Summertime (Live -1969)
河野さんが大好きだったジャニスのサマータイムです。
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2017.09.11 Mon 映画「機動戦士ガンダム THE ORIGIN 激突ルウム会戦』の主題歌は、島津亜矢の今年の代表曲

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 島津亜矢の「異業種格闘技」(?)のブレイクは続き、今度はアニメソングを歌うことになりました。それも映画『機動戦士ガンダム THE ORIGIN 激突ルウム会戦』の主題歌「I CAN'T DO ANYTHING -宇宙よ-」を歌唱します。
 1979年以来、ロボットアニメの先駆者としてアニメファンを魅了してきた「機動戦士ガンダム」の初期作品の作画監督で、今回のシリーズの原作者でもあり、映画の総監督でもある安彦良和氏が数年前に聴いた島津亜矢の「I Will Always Love You」に衝撃を受け、異例の抜擢となりました。
 島津亜矢の歌声が心に残っていた安彦氏は、シリーズを手がけるに当たり起用を決意し、しぶるスタッフも説き伏せ「ここまでゴリ押ししたのは初めて」という強引さで話を決めたそうです。
 今春に行われたレコーディングには安彦氏も同席し、島津亜矢に「ガンダム」への思いを説くなど“機動戦士スピリット”を伝授し、演歌歌手という先入観をさけるため、「AYA」という名前で歌いあげました。
 アニメソングは国内にとどまらず最近の音楽シーンに欠かせないもので、アニメ映画の声優が歌も歌い、武道館やドームを満席にできるほど大きな市場になっています。
 わたしはアニメソングには疎く、好きな歌手は水樹奈々ぐらいでなんともいえないのですが、最近のアニメソングはアニメ映画の大ブームと呼応するようにエンターテインメント性が高く、大時代的で壮大なロマンを歌い上げるものが多いようです。
 わたしはその意味で、島津亜矢はアニメソングに向いていると思っていました。安彦監督が島津亜矢を抜擢したのはポップスにおける稀有な歌唱力によるものとは思いますが、それだけでなく、彼女の歌に大きな世界観を感じたのだと思います。
 事実、「山河」や「熱き心に」、「北の蛍」や「函館山から」など、彼女のようにこれらの歌に隠れている時代の風景をよみがえらせ、時代まるごと血肉で一枚のタブロー画を描いてしまえる歌い手さんは数少ないと思うのです。
 その意味ではカバー曲の場合はすでに一定の評価がある楽曲ですし、オリジナル曲の場合はあくまでも島津亜矢のためだけにつくられる楽曲ですが、今回の彼女の冒険は壮大な疑似世界観のもとでつくられたアニメを基盤にして、音楽的にも興行的にもしっかりしたコンセプトでつくられる音楽に、彼女がどうこたえるかということでした。
 映画が上映されている新宿ピカデリーの舞台挨拶での歌唱をユーチューブで聴きましたが、想像した通りの壮大な曲でした。
 実際のところ、わたしはアニメ映画にかかわらず戦争ものが苦手です。その理由は世界中でただひとつ、法律の下で合法的に人を殺すことのできる「国家」という存在が掲げる「正義」と「もうひとつの正義」が利権をうばいあい、時の権力者が陣地とりゲームのように兵士たちを動かし、殺し合いによっておびただしい血が流れ、果てしなく死体が積み上げる「戦争」が怖いのです。
 世界や地球を守るための正義の戦士たちの活躍は、物語が終わればその空想も終わるはずなのに、空想に入りこんだまま出て来られない人々が現実の中で戦争ゲームを繰り返す恐怖がわたしたちの社会を覆いつくしています。
 そのことを痛いほど知っているからこそ、戦記アニメではしばしば「戦争」の愚かさと失われたいのちへの哀悼と共に、ひととひとが愛し合い、助け合える平和な世界を願う祈りの歌が流れます。
 映画を見終えた人々がそれまでの荒ぶれる心をいやし、明日への希望を抱いて映画館の外の日常に戻っていくためのラストソングは、この一作では終わらない「ガンダム オリジン」シリーズの次作を熱望させるための仕掛けの曲でもあります。
 安彦監督は服部隆之氏に、「ホイットニー・ヒューストンに書くつもりで曲を書いて下さい。ホイットニーが歌える曲なら、島津さんは歌えます」と依頼したということでした。
 レコーディングの時、服部隆之氏は「いきなりメジャー級のパワーでやられちゃったね」と言ったそうです。
 実際、わたしははじめて島津亜矢にふさわしいオリジナル楽曲が誕生したと思いました。
 演歌・歌謡曲であろうとポップスであろうとジャンルにかかわらず、稀有の才能がようやく広く認知されるようになった島津亜矢の課題の一つは、オリジナル曲の貧困さがあるとわたしは思っています。
 1960年代までなら歌謡曲全般がジャズから民謡、ポップスから浪花節まで、大衆音楽すべてを網羅した大きなジャンルでした。あの時代なら島津亜矢に楽曲を提供する作家諸氏も今のようなせせこましい観念にとらわれることなく、島津亜矢の才能に刺激されてさまざまな冒険と実験をしたと思います。
 多くの人々が「日本人の心の歌」と信じている「演歌」というジャンルは、実はせいぜい60年代後半から70年代にかけて歌謡曲から派生した比較的新しいジャンルです。
 島津亜矢が歌手として出発した80年代には70年代をピークに演歌は日本の大衆音楽の中のごく小さなジャンルになっていました。そこに世代論も交錯し、90年代から歌謡曲のほとんどがJポップに移行する中で演歌はますます偏狭な自己撞着におちいり、 音楽的な冒険のないまま独りよがりの日本人像に縛られてきたのではないでしょうか。
 音楽の作り手も歌い手も聴き手も冒険を望まず、次の歌詞も曲の一節もわかってしまうような音楽を漫然と作り続けている間に、「日本の音楽じゃない」とうそぶいていたポップスのジャンルでは若い人たちをターゲットにいつも新鮮で刺激的な楽曲をつくるソングライターが続々と出現しました。
 永六輔が作詞をやめた理由のひとつに、自分が聴きたい歌を歌い、自分が歌いたい歌を作る小室等や井上陽水の歌を聴き、これからはシンガー・ソングライターの時代だと思ったと証言しています。実際、80年代以降、時代を語る音楽のほとんどはポップスのジャンルから生まれているとわたしは思います。
 島津亜矢の受難はそんな時代に演歌歌手になり、その出自を生真面目に守りながら彼女自身も持てあます無尽蔵の才能が「歌とは何か」と彼女を追い詰め、歌の誕生の地へと導かれる宿命を背負ったことだとわたしは思います。
 彼女の歌手としての「大器」と、彼女に提供される楽曲の偏狭な世界との間で悶々とした長い年月は、恩師・星野哲郎を以てしても致し方なかったと思われます。それでも、稀代の詩人であった彼は、彼なりの演歌として「大器晩成」や「海鳴りの詩」などの作詞を通じて島津亜矢の未来を夢見てきたのだと思います。
 島津亜矢のファンの方々のバッシングを承知で言えば、わたしはいま彼女が歌っている「演歌」には、星野哲郎の詩に隠された思想や情熱が感じられません。たとえば星野哲郎の傑作「出世街道」では高度経済成長から突き飛ばされた若者が、滅びゆく美学を胸にドロップアウトする根拠のない覚悟が歌われています。
 最近はあいも変わらずの男女の結ばれぬ愛や、上から目線で道徳観を披瀝し、結局は今の社会を後追い的に肯定するだけの歌が目立ちます。星野哲郎の「兄弟仁義」、「風雪ながれ旅」や、「瞼の母」、「大利根無情」など、時代のアウトローでしかなかった人々の言葉にならない心情を、かつての演歌は代弁してくれていたはずです。
 そんな絶望的と言える島津亜矢の周辺が一変したのが今年でした。それはちょうど長い年月を地下活動で鍛えた歌姫が地上に現れたようなのです。松尾潔、松山千春、マキタスポーツ、そして多分中居正広、安彦良和と、島津亜矢を発見した各界のプロ中のプロが彼女の才能を広げたい、彼女の才能の行く末を見てみたいと彼女を応援し、プロデュースしたいと思う人々が現れたのです。
 ジャンルを超えて、これこそが星野哲郎が夢見てきたことなのだとわたしは思います。
 もちろん島津亜矢自身も長年のファンの方々も、これまで律義に守ってきた「演歌」を捨てることなどできないでしょう。「演歌」もまた、ようやく激動する時代を変え、丘みどりなど島津亜矢に次ぐ大器が育ちつつあります。
 わたしは、島津亜矢が演歌であろうとポップスであろうと、先に書いたアウトローの心情やかなわぬ夢を歌う、時代の歌姫になってほしいと願っています。
 そんな時に訪れた大きなチャンスが、ガンダムのアニメソングだと思います。安彦監督が映画のラストソングにふさわしい歌手として島津亜矢を抜擢したことは、偶然の出会いもさることながら、その深い洞察力に拍手を送りたいと思います。そうなんですよ、  島津亜矢はいま時代を歌い、時代を変えるほんとうに数少ない歌手なんです。
 それが証拠に、この難しい曲を難なく歌い、作・編曲の服部隆之などこれまでの楽曲提供とはちがう新鮮な曲想で綴る「ガンダム」の世界の奥深くに届く歌唱になっていると思います。
 これもまた、長年の島津亜矢ファンにバッシングされるでしょうが、わたしがもし紅白歌合戦のプロデューサーなら、迷うことなくこの歌を島津亜矢に歌ってもらうでしょう。
 それはこの歌が、島津亜矢にしか歌えないという切実な思いでプロデュースされた楽曲で、彼女が出会った数少ないほんとうのオリジナル曲だからです。
 最近のNHKの音楽番組のコンセプトにもっともぴったりしたもので、話題性、音楽的冒険、音楽の質、ともに今年の島津亜矢を象徴する楽曲だとわたしは信じます。

映画『機動戦士ガンダム THE ORIGIN 激突ルウム会戦』の主題歌「I CAN'T DO ANYTHING -宇宙よ-」

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2017.09.04 Mon 「POWER」とPINKさんと加納ひろみさんとおーまきちまきさんと…。喫茶「どるめん」でライブ。

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さあ、輝く陽の光 たえまない水の流れに
生命の力が今よみがえるように 
ああ、限りない風の力
あかあか燃える木の炎
だけど原子力の炎とはさよならさ
    「POWER」ジョン・ホール 訳:PINK

 尼崎市・阪急園田駅近くの喫茶店「どるめん」に集まった20人ほどの観客を前に、加納ひろみさんは静かに歌い始めました。
 ギターの田中潤さんのギターは川の流れのように瑞々しく、ひろみさんのやや硬質で透き通る声はその川にこぼれ落ちた星のかけらのように、キラキラ輝くのでした。
 彼女が歌い続けている「POWER」は、1979年に発表されたジョン・ホールの名曲です。
 スリーマイル原発事故を機にアメリカで反核反原子力の運動が広がりました。そのきっかけのひとつといわれるニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンにて行われた「ノー・ニュークス・コンサート/NO NUKES」で、ドゥービー・ブラザーズ、ジェームス・テーラーと共にジョン・ホールが歌った彼自身の曲、「パワー/Power」は静かながら力強いメッセージソングとして存在感を示しました。
 この曲を訳詞して歌ったのがPINKさんでした。PINKさんは1970年代初頭、坂本洋さんがマスターをしていたロック喫茶「フリーク」を拠点に、ロックバンド「貧苦巣」を結成しました。
 1970年代初頭は、べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)など社会や国家に異議申し立てをする政治的な行動と、自分たちが聴きたい音楽を自分たちでつくり、自分たちで歌い演奏する音楽的活動が矛盾なく両立した蜜月時代でもありました。
 時代の風に吹かれながら、PINKさんはバンド解散後も「自分らしくあること、自由であること」をロックで表現してきました。
 2000年の秋深い時、彼がけん引した「20世紀の谷間舎」に誘い込まれるように49歳の若さで逝った彼は、「青春」そのものの輝きを最後まで心の奥にしまい込んだ人生を精いっぱい生きたのだと思います。
 PINKさんはオリジナル曲の作曲もさることながら訳詞に稀有の才能を発揮し、数多くの訳詞でロックの名曲を歌い、残してくれました。
 その中の一曲が「POWER」で、加納ひろみさんが2曲目に歌ったボブ・ディランの「時代は変わる」とともに、わたしも彼の演奏で何度も聴いた曲でした。
 スリーマイルから約40年、東日本大震災における福島原発事故から6年、世界がその教訓から原発の廃止を進める中で、唯一の核被爆国である日本は原発を再稼働し、原発依存の社会を捨てることをやめません。
 ジョン・ホ-ルさんからPINKさん、そして加納ひろみさんへと歌い継がれるこの歌が役割を終えるまで、原発のない時代を未来に届ける応援歌として、まだしばらくは歌い続けないといけないのでしょう。

 この日はジョイントライブで、加納ひろみさんの後、おーまきちまきさんのライブが始まりました。
 おーまきちまきさんの歌と演奏を聴くのは久しぶりで、それも今回のライブに参加した理由でした。
 加納ひろみさんもおーまきちまきさんもいろいろな市民運動のイベントに協力する機会が多く、わたしもまた主催者の一員としてや他の主催者が開いたイベントなどで、これまで何度も彼女たちの歌と演奏を聴いてきました。
 しかしながら、そういう場ではじっくりと彼女たちの音楽を聴くことになりにくく、とりわけ主催者の一員の場合は他のことに気を取られて、聴こえているのに聴いていないことが多いのです。
 今回たまたま情報が入り、久しぶりにお二人の歌をじっくりと聴こうと思い、友人も誘って参加したのでした。
 おーまきちまきさんは以前と同じアコーディオンの演奏と歌で、最近はピアニストHALMA GENとのユニット「はるまきちまき」で活動されることがおおいのですが、今回は久しぶりのソロで出演しました。
 この日は「東京キッド」、「アカシヤの雨に打たれて」、「死んだ男の残したものは」、「アメイジンググレイス」など、カバー曲を歌いました。
 彼女が選ぶカバー曲は懐メロではなく、がれきの上の青空だけをたよりに走り抜けてきた戦後という時代の記憶、町の記憶を隠していて、彼女が歌うと時代の路地を通りすぎていったそれらの歌がアコーディオンのメロデイーとともに、行きどころのない悲しみと儚い夢をよみがえらせます。やがてなつかしも物悲しい歌声は祈りとなり願いとなり、大きな希望となって、聴く者の心を癒してくれるのでした。
 ここでもまた、わたしは「歌は何時どこで生まれるのだろう」と思いました。そして二人の歌は決して華やかな舞台で生まれるのではなく、ちまたの喫茶店「どるめん」の貴重な本たちに囲まれた狭い床や、路上で生まれる叙事詩なのだと思いました。
 彼女たちの歌が生まれる時と場所に立ち会えた20人の人々と共に、わたしはその幸運に感謝しました。


 この日は被災障害者支援「ゆめ風基金」のスタッフのMさん夫婦と一緒に行った関係で、加納ひろみさんもおーまきちまきさんもゆめ風基金の呼びかけ人ということもあり、ゆめ風基金の紹介をしてくれということになり、無茶ぶりされて何かと関係者の思われるわたしが話す羽目になりました。苦手中の苦手でうまく話せず、ひや汗をかいてしまいました。

加納ひろみ「ラブ・パラシュート」(ボレロコンサート2015)
「POWER」の音源はなく、彼女のオリジナルでこの日も歌ってくれました。

おーまきちまき 2015年1月3日釜ヶ崎越冬闘争はるまきちまきステージ1
おーまきさんの音源はたくさんあるのですが、この日に歌った歌はなく、別の音源ですが彼女の圧倒的な説得力を持った希望の歌でつつづられたライブの音源です。

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2017.09.01 Fri 市民と野党の共同実現のつどいと北朝鮮のミサイル発射

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 8月27日、能勢町淨るりシアター小ホールで開催しました「第三回市民と野党の共同実現のつどい」は50名の参加をいただきました。
 この会は来年には必ず実施される衆議院選挙で、大阪9区(茨木、箕面、池田、豊能町、能勢町)の市民が主導し、安倍一強体制をやぶるために野党共闘で候補者を一本化し、統一行動を実現しようという集まりです。
 第一部は「森友学園と市民運動」というテーマで、私立とはいえ民主教育とはかけ離れた教育理念を持つ学校に国が8憶円も値引きして売却したことが明るみになったきっかけをつくった豊中市会議員の木村真さんにお話しをしていただきました。
 自治体議員として「地元地域の気になる問題について調べ、市民と情報を共有し、市民と共に動く」という地道な活動が国行政をチェックするという、本来の民主主義の可能性を再発見することになりました。しかしながらそれは同時に、議会制民主主義が危機的状況で、市民自らが民主主義のプレイヤーとして行動することが求められているとも言えます。
 そこで、第二部では自由党の渡辺義彦さん、新社会党の山下慶喜さん、社民党の長崎由美子さん、緑の党の野々上愛さん、共産党の山元たけしさんから市民と野党の共同の実現に向けて、想いを語っていただきました。民進党の辻元清美さんは参加出来なかったけれど、メッセージをいただきました。
 それから各地域の市民からは、市民と野党の共同の実現に向けた取り組みの現状を報告していただきました。今後は各地域の市民が集まって意見交換し、ネットワークを強化しながら、各地域の独自の活動に他の地域の市民が積極的に参加する他、共通のチラシなどによる働きかけや、共通の集会の企画なども考えていくことになりました。
 わたしは今回のような集会に参加するのは初めてで、できることが限られているのですが、今後はもう少し政治にコミットした活動もしていこうと思い、参加しました。

 話が変わるようで恐縮ですが、わたしにとって安倍一強体制からの脱却をめざす活動と深くつながっている、北挑戦の問題について書きます。
北朝鮮のミサイル発射は、わたしたちを恐怖におとしいれています。それでなくとも最近頻繁に発生する地震や風水害に、落ち着いて眠れない日々が続いています。
 ましてや自然災害ではなく、北朝鮮による人為的作為的脅威に誰しも憤りを持つことでしょう。
 現実感が乏しい中で危機はすぐそばまで来てしまいました。日本を「戦争のできる国」へと転換させた安倍政権は日米同盟を基にした軍事的圧力と経済的圧力だけをたのみにし、平和的な解決を探る対話を放棄しています。(水面下で努力されているのかもしれませんが…。)
 もし、軍事的な抑止力と経済的圧力しか国家の安全保障の道がないとするならば、万一のことを考えて、国民の安全のためにただちに原発を止めなければならないはずです。もし北朝鮮がほんとうに日本を紛争(戦争)の相手とするならば、短距離ミサイルで確実に日本全土を標的にできます。安倍政権もまた現実感の乏しい中での安全保障を夢想しているとしか思えません。
 朝鮮半島と日本列島に住むわたしたちは、北朝鮮の暴発を誘導しかねない日米同盟一辺倒の政策によっていのちの危険にさらされているのです。
 「核保有国」と国際社会が認めるまで暴走を止めない北朝鮮に対して、現核保有国が自らの核を捨てないで北朝鮮を制裁する段階はもう過ぎてしまったといえます。安倍政権がアメリカよりも率先して主張する「対話よりは圧力を」という政策は、北朝鮮にとって日本が戦争相手であることを確認させるだけです。今回のミサイル発射にはそのメッセージが込められたものだと思います。
 日本と韓国が北朝鮮の軍事力の標的にさらされている現実を直視すれば、北朝鮮の人々のいのちもふくめて東アジアに住むわたしたちが武力衝突によって二度と命を落とすことのないように、北朝鮮との対話の道を模索してほしいと思います。
 広島・長崎の被爆者が国境を越えて「核のない国際社会」を願う世界のひとびとのよりどころとなったように、北朝鮮との核放棄をふくむ対話外交と共にアメリカをはじめとする現核保有国の核の縮小から廃止への道すじをつけることが、日本国民のいのちを守り、世界のひとびとのいのちを守ることではないでしょうか。
 それはまた、唯一の被爆国の責任として「核兵器禁止条約」が有効に機能するように努力することでもあります。
 拉致問題などさまざまな問題をかかえつつも日朝の直接的な対話があった時代がありました。それが様変わりになってしまったのはすべて北朝鮮のせいともいえないと思うのです。日本が日米同盟にどっぷりとつかり、自立したアジア外交をしなくなった結果、米軍基地だけでなく日本列島全体が北朝鮮の攻撃対象になってしまいました。
 いつわたしたちの頭上に爆弾が落ち、いのちまでも危険にさらされる恐怖におののけばおののくほど、安倍政権の強い態度がたのもしく思えるかもしれません。
 現に、最近の世論調査では安倍政権の支持率が高まり、武力による抑止力を評価する意見もあります。しかしながら、日米同盟を絶対とする安倍政権のもとで確実に日本と東アジア各国との緊張がたかまっています。
 「目には目を」と対決姿勢を強め、のっぴきならないところまでわたしたちのいのちを追い詰めてしまうのではなく、北朝鮮との緊急かつ粘り強い対話の外交を強く望みます。
  2012年12月に発足した安倍内閣は「アベノミクス」という超異例の金融緩和と派生する円安で景気を立て直すことを期待されて高い支持率を維持してきましたが、ここに来て森友学園や加計学園問題で国の行政の私物化とゆがみが指摘されています。
 そしてまた、今回の北朝鮮との緊張を招いた一端の責任は数の力で秘密保護法から安保法制、共謀罪を強引に成立させ、最後の仕上げに憲法を変えることをめざす安倍一強内閣にもあると思うのです。
 戦後72年が新たな戦前元年にならないように、大阪9区に限らず市民が主導する野党の共同の実現が求められていると思います。

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