争う経済から夢見る経済へ。誰もが助け合って暮らせるゆたかな社会をめざすソーシャルビジネスを紹介しながら、演歌からポップスまで、好きな音楽への雑感や生活をつづる日記。

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2017.01.19 Thu 島津亜矢の新曲「いのちのバトン」

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島津亜矢がNHKの「うたコン」に出演し、新曲「いのちのバトン」と「皆の衆」を熱唱しました。
 わたしの個人的な感想ですが、紅白の時の緊張しきった表情から一変し、とてもリラックスした明るい表情で、はれやかな赤の着物と相まってキラキラしていました。
 番組の最初に島津亜矢が村田英雄の「皆の衆」を歌ったのですが、島津亜矢は村田英雄の歌が得意と言っていいのではないでしょうか。得意という意味は単にカバー曲としてうまいという意味ではありません。「人生劇場」、「夫婦春秋」、「無法松の一生(度胸千両入り)」、そして「皆の衆」、「王将」と、どの曲を歌っても歌のうまさ以上に、半世紀以上の時を経た今、この時代の空気感をとらえられる稀有の才能だと思います。
 その意味では今回の番組では三橋美智也を特集しましたが、もちろん、三橋美智也も春日八郎も田端義夫も東海林太郎の歌も格段の歌唱力で歌っています。
 1950年代から60年代、若者たちが政治的な行動や労働争議に身を投じた時代の空気は、大衆芸能、特に歌謡曲や大衆演劇に大きな影響力を与えたことでしょう。歌声喫茶がうたごえ運動を通して若者たちの政治的社会的な活動を支えただけでなく、集団就職で都会に出てきた青年の孤独をいやす大切な場所でした。山本周五郎の時代小説は戦後を経て強いものや権力を持つ者たちが復権し、高度経済成長へと足を踏み入れ始めた頃、長屋で助け合う庶民の人情話を通して自分が他者に何ができるのかと問いかけました。
 また、新国劇が好んで上演した長谷川伸の任侠物「瞼の母」や「一本刀土俵入り」は社会のはぐれ者の人情、義理という「もうひとつの正義」によって社会の矛盾や悪をただす物語として、芝居だけにとどまらず映画や歌謡曲の題材となりました。
 わたしは1947年の生まれで戦後民主主義の誕生とともに人生の一歩があったわけですが、歌謡曲や芝居や映画や小説などで描かれた風景は、実は戦前からずっとつながっていたことを知りませんでした。それを教えてくれたのが島津亜矢で、わたしの娘と同年代の彼女によって戦前戦中戦後の時代の流れを学べたのは、まさしく島津亜矢の歌謡曲の力なのだと思います。
 わたしが彼女を特別な歌手と思う理由は本人が体験していないことでも、これらの歌謡曲に通底している時代の空気、薄白色の暗闇に浮かんでは消える戦争でなくなった人々のはかない夢の隠れ場所を探し出し、今の時代にそっと置きに来ることができる稀有の歌手だからで、彼女のこの時代の歌謡曲のカバーはほかの歌い手さんが歌うような「懐メロ」ではなく、今の時代につながる歌として戦前戦中戦後をくぐり抜けた彼女たち彼たちの生きた意味を問いかけるからなのです。それはちょうど、山本周五郎や長谷川伸が時代小説の形を借りてその時代の社会に問いかけたことと通じると思います。
 
 そして、新曲の「いのちのバトン」ですが、「歌路遥かに」とアルバム「悠々~阿久悠さんに褒められたくて」以来の意欲作で、しかも今回はオリジナルとしては初めてだと思うのですが、ドラムスの音が響くロック調の楽曲で、音楽的冒険に打って出たと言えるでしょう。
 作詞・森坂とも、作曲・金田一郎による「いのちのバトン」はロック風の歌謡曲・演歌というところでしょうか。作曲の金田一郎は柳ジョージや頭脳警察、平井賢などのロック・ポップスの歌手に楽曲提供する一方、森進一、前川清、天童よしみなどの演歌歌手にも数多く楽曲提供をしているオールラウンドの作曲家であり、歌手としても活動しています。島津亜矢とはアルバム「悠々」で「三日の宿」を作曲した縁があります。また森坂ともは石原詢子、伍代夏子、氷川きよしなど演歌歌手の楽曲を数多く作詞しています。
 この歌は出自の演歌と共に長い間、ポップスやロックのカバーを歌いつづけてきた島津亜矢だからこそ歌える一曲と言えます。  本来的には演歌のうなりやこぶしはロックやリズム&ブルースとつながっているはずですが、いわゆる演歌歌手がロック調の歌を演歌の歌唱法で絶唱するのとはちがい、ロックそのものの骨太な歌唱法でシャウトし、この歌の大きなメッセージである親から子へと何代もつなぐ「いのちのバトン」のいとおしさが伝わってきます。「瞼の母」で母への想いを叫んだ壮絶なモノローグは、ここでは芝居で獲得したダイアローグによる母の願いとなり、金田一郎の曲をより一層ドラマチックな抒情詩にしています。
 島津亜矢がここ数年、地道に挑戦してきた芝居や、他ジャンルのミュージシャンとのコラボレーション、もっとオリジナルをと言われながらもポップス、ジャズ、リズム&ブルースの膨大な楽曲のカバーを歌いつづけてきたすべての努力は、この一曲のためにあったのかもしれません。

すべてを捨てても 我が子を守りたい
母とは せつないものですね
泣いて泣いて生まれ 泣いて泣いて死別(わか)れる
なみだでつなぐ いのちのバトン

 私事ですが、つい先日妻の母が入院し、重い症状で回復するにしても時間がかかることと、治療が間に合わず腹部にある7センチの動脈瘤が破裂すれば命がないと言われたところです。
 思えば私の母は1997年、脳こうそくでたおれ、2度目の発作の後86歳でこの世を去りました。世間から奇異に見られたシングルマザーとして、大衆食堂を一人で切り盛りしながら貧乏ながらも兄と私を高校に行かせ、片手に小山ができるぐらいの薬を飲みながら必死に毅然と生きた母。その母に充分に報いることができなかったわたし。
 せめて妻の母にはできるだけのことをしたいと思いながらも、90歳になる彼女のいのちがどれだけあるのか心もとなく、島津亜矢の歌そのままに「いのちのバトン」をまだ手渡されたくないという気持ちが正直なところです。
 正直なところヒット曲に恵まれなかった島津亜矢ですから、「いのちのバトン」がヒットしてくれたらうれしいです。しかしながら一方でヒットするとかにかかわりなく、昨年亡くなったレオン・ラッセルの名曲「A Song for You」のように、だれかひとりのために歌われる歌が歌い継がれてたくさんの人の心に届く、そんなもうひとつのヒット曲として「いのちのバトン」がイヤホーンやヘッドホーンではなく、巷に流れていったらと願っています。

島津亜矢「いのちのバトン」



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2017.01.15 Sun 大雪の日に、吉野弘「雪の日」に心洗われる

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 今日は一日中雪が降り続いています。わたしの住む能勢は大阪の北の端で、峠を越えれば京都府亀岡に通じる山里で、天気予報も大阪か京都南部か見るのに迷う地域です。
 寒さもひとしおですが、なぜか雪はそれほど降らず、年に一度、たいがいは一月に大雪がふる程度ですが、今日の雪は格別な雪で能勢に来て6年目で初めての大雪となりました。
 さて、わたしは雪が降るといつも思い出す詩があります。吉野弘の「雪の日に」です。
 この詩は吉野弘作詞・高田三郎作曲の有名な合唱組曲「心の四季」の中の詩で、わたしは息子が参加していた同志社大学混声合唱団「こまくさ」の定期演奏会と、豊中混声合唱団の定期演奏会で聴きました。
 わたしには娘と息子二人の子どもがいますが、父親として子どものために何もしてやらなかった、というよりはできなかった人間で、子どもたちが幼稚園に行くようになった時、母親に連れられて幼稚園の見学に行ったものの20分も泣きわめき、結局幼稚園に行けなかったわたしをのりこえてくれたと思ったものでした。
 実は、娘の方はごく軽い「てんかん」で、幼稚園でも多少問題になったようですし、息子の方は一度専門家に相談したらと幼稚園から言われたりしていたのですが、わたしにくらべたらはるかにしっかりと「社会進出」を果たしているのですから、それ以上望むものはなかったのです。
 息子は小学校から中学校はテレビゲーム、高校の時はハードロックにはまり、大学で合唱サークルに入りました。それまで一人遊びが上手だった彼が、はじめて仲間とひとつのことをする喜びと苦しみを学んだのが合唱サークルだったようです。
 やがて合唱サークルの定期演奏会に足を運ぶようになり、いままで歌謡曲かほんの少しロックを聴くぐらいしかなかったわたしは、合唱の素晴らしさを知ることになりました。
 彼はその後に豊中混声合唱団に参加していたこともあり、その定期演奏会も何度か行きましたが、わたしはきっとそんなにレベルが高いわけではない大学時代の合唱サークルの演奏のほうをよく思い出すのです。
 というのも、大学を卒業すれば別れ別れになる若者たちが人生の中でほんのひととき、今を共に学び生きる仲間と言葉と声と音楽を響き合わせ、心を細い糸でつむぎ合わせる歌声は時にはたよりなく時には力強く会場を共振させ、いつのまにか意志を持ったひとつの声になり、聴く者の心に広がっていくのを感じ、合唱は歌いながら聴きながら、天使が降りてきて至福の声を聴く一瞬のためにあるのだと思ったのでした。それを神の声と呼んでもいいのかも知れません。
 そんな一瞬を共有するために、膨大な時間をボイストレーニングと自分のパートの練習に費やし、それから多い時には100人の若者が歌っている姿を見ていると、とてもいとおしく思ったものでした。合唱の魅力に憑りつかれたわたしは、息子の出演する演奏会には必ず行くようになりました。
 
 合唱を聴いてもうひとつ大きな発見をしたことは、若い頃に親しんだ現代詩が合唱曲になっていたり、合唱曲のために詩人が書き下ろした詩を楽しめることでした。
 谷川俊太郎の「地球へのバラード」の中の「鳥」や「地球へのピクニック」など、わたしは彼の詩集で読んだ記憶があります。

鳥は空を名づけない
鳥は空を飛ぶだけだ
(谷川俊太郎「鳥」)

 また、長谷川きよしが歌った中山千夏作詞の「黒い牡牛」を合唱曲で聴けたのも大学の合唱サークルの演奏会でした。

 吉野弘と高田三郎による「雪の日に」は素晴らしい合唱組曲で、若い頃あまり親しみがなかった吉野弘の詩の世界にも触れることができました。
 合唱団や合唱サークルの中でも定番の合唱曲ですが、高田三郎の繊細で抒情的な曲にしみ込む吉野弘の詩は日本の春夏秋冬をなぞる心の風景画とも言えます。
 その中でも「雪の日に」はドラマチックな曲で、神々しく荘厳な雪の風景が浮かんできます。「心の四季」というタイトル通り、人生の春夏秋冬を通り過ぎてきて、雪の白さ、雪の重さ、純白の雪の嘘と、その嘘を隠す純白の雪…、自分の人生を振り返りながら降り続ける雪のようにただひたすら今の自分をかみしめる悲しさ、切なさに胸が締め付けられる思いです。

どこに 純白な心など あろう
どこに 汚れぬ雪など あろう
雪がはげしく ふりつづける
うわべの白さで 輝きながら
うわべの白さを こらえながら
(吉野弘「雪の日に」)

 これからどれだけの時間が私に与えられているのかわかるはずもありませんが、降り続ける雪と真っ白な景色を窓から眺め、「雪の日に」を聴きながら、自分の人生を圧倒的に情熱的に肯定しよう、そして自分らしく、そして少しだけ勇気を出して生きていこうと思いました。

「心の四季」より「4.山が」「5.愛そして風」「6.雪の日に」「7.真昼の星」
豊中混声合唱団第53回定期演奏会 2013年7月6日 ザ・シンフォニーホール
わたしもこの演奏会に行きました。この映像で私の息子も見つけられました。
この演奏会は感慨深いものがあります。というのもこの時、珍しく私の娘と、2015年に亡くなったM.Kさんと一緒でした。M.Kさんとは長い付き合いで、何回かクラシックのコンサートに連れて行ってくれた人で、箕面の障害者の活動でとても大切な役割を果たしてくれた方でした。とくに私の娘はこの人といっょに仕事をすることで多くのことを学んだと思います。
とてもすてきな人でした。

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2017.01.07 Sat 美空ひばりから受け取るバトンは人類が心から心へと伝えてきたたましいのリレーそのもののバトン

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 2006年に亡くなった久世光彦が演出・プロデュースした1976年のドラマで、「さくらの唄」があります。
「時間ですよ」、「寺内貫太郎一家」などの時間帯に放送されたドラマで、彼のドラマでは珍しく山田太一の脚本でした。
 舞台となるのは、東京の下町・蔵前の小さな整骨医院。男気があり、すぐに怒鳴る主人の伝六(若山富三郎)。心臓を患い、平穏な毎日を送りたいと願う妻の泉(加藤治子)。この夫婦をいつも悩ませているのは、2人の娘の行く末のことでした。長女(悠木千帆・樹木希林)は会社員の中西(美輪明宏)の子供を身ごもるが籍を入れる気配がない。また次女(桃井かおり)は妻のある牧師の朝倉(田村正和)を密かに愛し、実らぬ恋に身を焦がしていました。ほかに篠ひろ子や岸辺修、由利徹など異色のキャストが評判を呼びました。
 山田太一のドラマは「岸辺のアルバム」に代表されるように、30年の住宅ローンでマイホームを手に入れたものの高度経済成長のスピードについていけない家族の孤独と不安のありようを鋭く描いたドラマが多く、「さくらの唄」のような下町を舞台にしたドラマはめずらしかったと記憶しています。
 昭和の時代、頑固親父がいて優しい母がいて、あけすけに物を言い合う家族と、家族同然に言いたいことを言うご近所と励まし合うという下町人情を描くホームドラマが盛んでした。その意味ではテレビドラマの創成期を山田太一と二分した倉本聰の方がぴったりするドラマではありました。事実、山田太一は下町生まれにも関わらず、べっとりした下町人情が好きではなく、このドラマにおいても下町の予定調和的な人情でめでたしめでたしとはならない山田太一らしいやさしい毒が仕組まれていた記憶があります。
 それはともかく、わたしにとって衝撃的だったのはこのドラマで流れた美空ひばりの「さくらの唄」でした。以前にも書きましたように、わたしは長い間美空ひばりが苦手でした。
 というより、「演歌・歌謡曲」が嫌いだったのです。そんなわたしに、競馬も歌謡曲も3分間の死への疾走だと教えてくれたのは寺山修司でした。70年安保にも積極的にかかわれず、といってどもりの対人恐怖症で、今でいう引きこもりだったわたしは一般の会社勤めができるはずもなく、実務能力も才能もなくてもよく、しゃべらなくてもいいビルの清掃員をしながら、「老後の資金」をこつこつと貯めるという、若者にそぐわない暮らしをしていました。そんなわたしのバイブルが、なぜかサルトルの「存在と無」と寺山修司の「家出のすすめ」だったのでした。
 地方から出てきたどもりの青年が、畠山みどりの「出世街道」に自分を重ねて「口に出せない」から「口には出さず」と歌う時、どもりを逆手に取った変革へと自らを生きなおすのであり、それは革命への道の第一歩なのだ…。というようなことを言ってくれた寺山修司は、彼の虚言の常とう手段だったかもしれないけれど、その頃のわたしにとっては自殺を思いとどまらせたといっても過言ではない「神の声」だったのです。そこからわたしの歌謡曲人生が始まったのですが、森進一、青江三奈、都はるみなどは簡単に受け入れられたのですが、美空ひばりだけは長い間受け付けませんでした。
 そのわけを考えてみると、粘着質で通俗的で、どこか暗い闇をかくしたカリスマ性、いま思うと美空ひばりの最大の魅力であり、かつ島津亜矢であってもまだ近づけないと思える魔性に憑りつかれてしまうような恐怖に近い感情が湧き上がるからでした。
 そんな毛嫌いを一新させたのが「さくらの唄」でした。くしくも寺山修司によって歌謡曲開眼したわたしは、寺山の友人だった山田太一のドラマによって美空ひばりとはじめて向き合ったのでした。
 わたしはこの歌のどうしようもない暗さと同時に、この短い歌が終わったところから立ち上がり、ふたたび生きていこうとする静かな意志を限りない細やかで繊細に丁寧に歌いあげる美空ひばりに感動し、彼女の数々のヒット曲を差し置きこの歌が大好きになりました。
 この歌を作詞したなかにし礼は1970年代に入ってまもなく、実の兄の莫大な借金をまるごと抱え込んで、失意の底に沈んでいました。現実のあわれな自分の身代わりに、もう一人の自分をあの世に送り出すため、いわば遺言歌として書いたのが「さくらの唄」だといいます。作曲した三木たかしはこの歌に惚れこんで、自らが歌ってレコードにしましたが、まったく売れなかったようです。
 最近になって久世光彦の著作「マイ・ラスト・ソング」を読み、この唄を美空ひばりが歌うことになったいきさつをはじめて知りました。

 どんなきっかけでこの歌を知ったのかも、またこの歌が生まれたいきさつも知らないけれど、何度聞いても泣けてくる。こんないい歌が誰にも知られずに眠っている。どうにかしてこの歌をよみがえらせたい。ドラマで流してみよう。
 どう考えてもこの歌を歌えるのは美空ひばりしかいない。芝居や歌がその人の人生経験だけとは言えないが、この歌だけは泥水を飲んだことのない人には歌えない。生きてきた日々の中で重ね重ねた恥の数がとっくに年齢の数を越え、それでも懲りないで厄介な奴が伏し目がちに歌ってくれて、はじめて「さくらの唄」はほんのりと匂うのだ。
 この歌は地獄を覗いて、そこから命からがら、這うように逃げかえった卑怯未練の歌なのである。それなら、美空ひばりしかいない。

 歌謡界の女王が他の歌手の曲なんか歌うわけがないとコロンビアレコードから断られてもあきらめない久世にコロンビアも根負けし、「では、ご自分でお嬢に交渉してみたら…」と譲歩、そこで大きなテープレコーダーを抱えてひばりが公演中だった名古屋の御園座まで出向き、楽屋で三木の「さくらの唄」を流したのでした。

 「もう一度聴かせてください」。美空ひばりの声はすっかりつぶれていた。老婆のようにかすれた声だった。私はテープを頭に戻してボタンを押した。

何もかも僕はなくしたの
生きてることがつらくてならぬ

ひばりは目をつぶって歌っていた。ひばりはポロポロと涙をこぼして歌っていたのである。そしてテープが終わると、私に向かって座り直し、「歌わせていただきます」としゃがれた声で言って、それから天女のようにきれいに笑った。
「本当は、こういう歌を私の最後の歌にすればいいのでしょうが、まだ死ぬわけにはいかないので…」

 今はドラマやCMや映画とタイアップする歌しか売れない時代ですが、「さくらの唄」がなかにし礼と三木たかしの青い蹉跌から生まれ、それを聴いた久世光彦がほれ込み、この歌を流すドラマをつくるために美空ひばりに歌ってもらったというエピソードはまるで逆の道筋です。この歌は結局ヒットしなかったものの、わたしは美空ひばりという昭和のスーパースターがとても繊細な感受性といじらしいほどの純情な心と、そしてなによりも心の奥深くこの歌を受け止め、歌うことに魂を使い果たしてもいいという矜持に圧倒されます。
 わたしは島津亜矢が美空ひばりから受け取ったバトンは、大げさに言えば人間が歌うことを発明して以来、口から口へ、心から心へと伝えてきたたましいのリレーそのもののバトンであり、決して歌唱力とか天賦の才能とかで語られるようなものではないと思っています。島津亜矢の他に彼女よりはるかに才能に恵まれた歌い手さんはたくさんいるかも知れないし、これからも現れるかもしれません。
 しかしながら、数々のエピソードで語られる美空ひばりの歌への情熱、歌うことへの執念、歌に呪われ、歌に囚われ、歌に翻弄され、そして歌に愛された彼女の人生は、わたしの個人的な主張であることを承知の上で、島津亜矢にこそ引き継がれるものであると信じているのです。
 わたしはどこかに歌の墓場があり、わたしたちが歌ったり聴いたりする歌はそのごく一部で、その墓場ではそれぞれの歌が生まれ育った記憶を持ち、誰かがその歌をまた歌い継ぐ時を待っているのではないかと思うのです。そして、島津亜矢はその歌が自分のために作られた歌であろうとそうでなかろうと、わたしたちみんなの共有の歌として再びよみがえられることのできる数少ない歌い手さんなのです。
 美空ひばりもまた、持ち歌はもちろんのことですが、たくさんのカバー曲を歌っています。あらためてそれらを聴くと、彼女を「演歌の女王」にしたてあげたことで、彼女の歌の世界をどれだけせばめてしまったことかと実感します。
 それはちあきなおみにも藤圭子にも当てはまるものですが、それはまたの機会にして、島津亜矢がジャンルにとらわれず真摯に歌いつづける姿勢は美空ひばりとつながっています。美空ひばりに到達し乗り越えるのではなく、美空ひばりが夢見た歌の世界を広げ、志半ばでこの世を去った美空ひばりと共に歩き始めることが島津亜矢に求められているのです。

美空ひばり「さくらの唄」

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2017.01.03 Tue 島津亜矢の「川の流れのように」は歌を必要とし、愛を求める世界の人々の心に届けられたのでした。

島津亜矢 SINGER3

 新しい年が始まりました。若い時は「あけましておめでとう」と言われても何がめでたいんだとか、大みそかと元旦の違いは一日違いというだけだと、ひねくれた感じ方をよしとして来ました。しかしながら、今年70歳になろうとする今、ただただ一年をなんとか生きて新しい年を迎えられたというだけで「おめでたい」と思うようになりました。
 青い時ははるか彼方に去り、若さという熱病の波打ち際に取り残された小さな石の記憶のように、いろいろあった出来事を思い返しながら時の荒野に立ち向かいたいと思う新年です。

 昨年の紅白歌合戦に島津亜矢が出演し、美空ひばりの「川の流れのように」を歌いました。先の記事にも書きましたが、紅白全般のバラエティー化やJポップ隆盛に紛れ込んでほとんど話題になりませんでしたが、この選曲にはNHKの紅白チームの深い想いが隠されていたとわたしは思います。そして島津亜矢にとっても歌の巨人でありつづける美空ひばりを紅白で歌うことはデビューの時からの大きすぎる夢であったにちがいなく、押し寄せるプレッシャーとともに、彼女の歌手としてのいい意味での音楽的野心をかりたてたことでしょう。
 そんな興奮と緊張のるつぼに包まれて、島津亜矢は紅白ではじめて採用された2階のステージに立ちました。ドームや野外ライブでは当たり前になっている前ステージでの歌唱は島津亜矢にとってははじめての経験ではなかったでしょうか。しかもこの時だけ司会の2人も2階ステージに上がり、そばに立って歌の前紹介と島津亜矢の意気込みを聴くという演出もありました。嫌が応にも緊張と期待がテレビ画面を越えて視聴者にも伝わってくる中、彼女は歌い始めました。
 ここ数年で獲得したぞくっとする色気と肉感あふれる低音の導入部はすばらしいものでしたが、彼女がもっとも得意とする高音部のサビに入るとここ何年も見たことがない彼女の表情から、極度の緊張とたたかっていることがわかりました。
 紅白の場合伴奏は別室で演奏されていて(場合によっては事前録音もあるようです)、それとステージ上のマイクとミックスしながらもっともパフォーマンスの高い音響を会場に流すPA(音響)技術を必要とします。
 通常のコンサートのようにバックバンドが演奏する中で歌う場合は足元にモニタースピーカーを置き、伴奏と自分の歌を合わせた全体の聴こえ方がわかるようにしているのですが、ドームなどの大きな会場の場合は演奏者用のインイヤーモニター(イヤホーンのようなもの)を装着することが増えてきました。というのも、大きな会場では固定されたモニタースピーカーだと大きなステージを動き回れないことや、大音響の中でバックバンドの演奏と自分の声がミックスされた全体の聴こえ方やテンポの取り方など、細かな音響調節を直歌手の耳元でできることなどから最高のパフォーマンスをお客さんに届けられるため、今後はますます必須の道具となっていくことでしょう。
 しかしながら歌手としては致命傷の難聴になる危険があること、両耳装着でなく片耳装着だと両耳のバランスがとれなくなる危険があること、インイヤーモニターを常用すると、生音で音を聴けなくなってしまうなどデメリットもあり、歌い手さんによっては使用しない人もいます。ちなみに島津亜矢は使用していませんでした。
 今回、2階ステージにモニタースピーカーが設置されていたとは思うのですが(素人のわたしにはあまりよくわかりませんでした)、一階ステージよりも聴きづらくインイヤーモニターが欠かせなかったのかもしれません。わたしの勘違いかも知れませんが、どこか伴奏と歌とが微妙にちぐはぐに聴こえるところがあったのはそのせいなのかもしれません。
 これからのライブの音響システムの流れからも、また島津亜矢がより大きな会場でライブをする場合など、インイヤーモニターを使用するかどうかを考えなければならなくなるでしょう。
 島津亜矢が確信的にインイヤーモニターを使用しないのであれば、私の個人的な意見ですがそれは正しい選択のように思います。思えば人間は武器をもって戦うことを覚えただけでなく、歌を歌うことで分かり合い分かり合おうとし、平和に共存することを学んだのだとわたしは信じていて、歌はまず肉声で生音で歌われ、より遠くより多くのひとに届けるためにPA(音響)システムが発達したはずです。しかしながらハイテクといえるPAシステムの進化によって人間が本来持っている肉声や生音を壊してしまっては本末転倒だと思うからです。
 その意味において、もし今回の歌唱が伴奏のないアカペラで歌ったなら、既成の「美空ひばり権威筋」からは猛烈な批判が殺到したでしょうが、それ以上の絶賛の声が寄せられたことでしょう。
 実際、極度の緊張とPAシステムとの折り合いへの焦りがあったかもしれないのに、彼女の歌は会場を突き抜けダイレクトにわたしの心に突き刺さりました。今やたかだか音楽番組のひとつとなった紅白ではありますが、世界中に散在する超大型のテレビ画面や掌にすっぽり入る携帯ラジオから、島津亜矢の何物かに憑りつかれたように張り詰めた声が、それでいて時折入る木枯らしにかき消されるか細くいじらしい声が、どれだけの人々の心に歌のやさしさを届けたことでしょう。
 わたしに島津亜矢を教えてくれたKさん、2009年の秋にあまりにも早く逝ってしまった親友のKさん、あなたも遠く離れたベトナムの地で衛星放送を通して島津亜矢の歌を聴いていたんですね…。目の前のいくつもの苦しい出来事を通り過ぎ、やらなければならない仕事を背負い、今はそれぞれ別々の道を歩いているけれどいつか一緒に事業しようと話してくれたKさん…。
 「ああ川の流れのようにゆるやかに、いくつも時代が過ぎて」。
 かつて美空ひばりの歌が戦後の日本から世界へと歌い継がれたように、今また時代の大きな変化によってわたしたち日本人が戸惑い、うろたえ、後悔し、切ない夢に身をこがし、共に生きるすべてのひとの希望を耕す勇気を持ち、青春の砂浜に忘れてきた友情を取り戻そうとする時、島津亜矢の「川の流れのように」は紅白という未来から見れば小さなステージの片隅から、歌を必要とし、愛を求める世界の人々の心に届けられたことを確信します。
 それこそが美空ひばりの歌のバトン、命のバトンであったことを、わたしたちは何年か後に知ることになるでしょう。そして美空ひばりの歌を紅白で歌うことの意味を知りすぎてしまった島津亜矢の極度の緊張の意味も…。
 そしてまた、はじめてつくった2階ステージという特別なステージで歌ってもらおうという企画も、相羽雅紀と有村架純の口から島津亜矢が美空ひばりを歌う意味を語らせた演出も、NHKの音楽番組制作担当者の中に島津亜矢を理解し、高く評価するひとたちの「粋なはからい」がもたらした心震わせるミスマッチとして、忘れられない出来事になることでしょう。
 わたしは前回の島津亜矢の記事のタイトルを「後に島津亜矢が『川の流れのように』を歌った今年の紅白が時代を変えたと語り継がれることでしょう。」としました。
 その考えを変える気持ちはまったくありません。それどころか、結果として今回、さまざまな事情が重なって島津亜矢のパフォーマンスが本来の高みにはなかったかもしれませんが、それでもなおたくさんの視聴者から絶賛の声が届けられた彼女の「川の流れのように」は、島津亜矢のオリジナリティが美空ひばりを再評価し、この歌の巨人を本来の姿にもどすきっかけになったとわたしは思うのです。

島津亜矢「川の流れのように」
若い時の歌唱で、今の島津亜矢は大きく進化しています。彼女は美空ひばりの歌唱を真似ようとしないのですが、どこかで美空火ひばりとデュエットしているのではないかと思うぐらい、美空ひばりの歌空間とリンクしているように感じます。

美空ひばり/川の流れのように【最後の映像】
美空ひばりの歌唱の最後の映像ということですが、このひとの歌唱はぴりぴりした心のひだまでなめらかにする魔法のようです。

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2017.01.02 Mon 今年もよろしくお願いします。2017年の年賀状です。

心よ、心 ここから
いちばん遠いところ
心よ、心 世界で
いちばん小さなわたしの森
心よ、心、 世界で
いちばん小さなわたしの海
心よ、心 たとえば
あなたと手をつなぐこと
心よ、心 たとえば
あなたに手紙を書くこと

今年もよろしくお願いします。

2017年賀

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